第二章26 『宣誓』
腹部に重みと熱を感じた。以前、この世界に来た時だったか、似たような感覚があった。あれはヒナタの優しさそのものの現れであったと、今なら思える。傷付き、眠り続けたイツキの傍にいてくれたのはヒナタだった。彼女がいなければ、イツキは既に体も心も廃れていたかもしれない。
イツキはまたしても同じような介抱を受けていた。
「ホント、まじ天使や……。天使!」
「――!?」
「ぅお!」
すっと目を開き、目の前にある金色の頭髪に天使を見る。金髪の幼女、パルムは、イツキが目覚めてすぐに大声をあげたせいで体を大きく跳ねさせた。
その反動あって、イツキは自分の状態を確認することができた。
「えっと……。俺は全力で走ってたはず……じゃないな」
あれは、一時の夢であったのだろう。走り出してからの記憶がまったくない。
だが、夢であろうが妄想空想の類であろうが、イツキはイツキである。大切なことはちゃんと覚えている。
「目が、覚めましたか」
「シル……」
イツキが横たわりパルムを掛け布団代わりにしているベッドの横、そこに配備された椅子で片手に本を持つシルがイツキの覚醒に気付く。彼女は本を閉じ、こちらを向く。
「……夜か」
「人の髪で時刻を確認するのは失礼ではないでしょうか」
「す、すまん……」
身体を起こし、離れようとするパルムを抱きとめながら周りの様子を確認する。
見ればガイルとカインもシルやパルムと同様に室内の少し離れた場所にいた。彼らもまたイツキの目覚めに気付いてはいたが、特にどう反応するわけでもない。いや、カインに関しては安堵の感情が若干隠せてはいなかったか。ガイルはいつも通り、あるようにあれ、といった感じだ。
「――」
「早速ですみませんがまずは何があったのかを教えてください」
「早速で悪いがちょっとセレネのとこに行かせてくれ」
即答するイツキにシルは珍しく溜息を零す。
「そう言うとは思ってました。ですがこの異常を放置するのは些か危険です。最悪イツキさんの体にもさらなる異常が重なりかねません」
確かに、何かしらあって今の状況であることは理解している。だか、
「俺の場合体より心の方が脆いんだ。こうしてパルムを抱いてなきゃ今頃魂が彷徨ってるよ」
そう冗談めかしてより強くパルムを抱きしめる。柔らかい感触と温かい体温が心地よい。いつも通りのイツキだ。
茶化すつもりで言ったが、内心、心の脆さは否定できない。だが、それを克服するための戦いをしなければ。
きっとシルはイツキの心中を理解しているのだろう。自分でもわかるくらい顔や態度に出ていた。抜け出したイツキがここにいるのもシルの判断あってのことだろう。
そのシルが無言で頷き、イツキの行動を許可する。
「イツキ……みえて、る……?」
「――」
そう問いかけるのはシルにイツキの体から引き剥がされたパルムだ。
イツキが出ていく直前、彼女は同じ問いを投げかけた。
何が見えているのか、何が見えていないのか。何を見ているのか、何を見たいのか。それら一切、何も考えたくなかった。だから、何も見たくないと、そう答えた。
その問いへの答えのその考え方は、パルムにとって不正解だ。
以前、イツキが不信に落ちた時、その視界に入ったのはパルムの手だった。パルムは何も見えていないからこそ、自分を見ろと、そう言っていたのだ。
「――ああ、俺は独りじゃなかったな。パルムがいてくれる。シルも、ガイルもカインも。向こうに残ったみんなも。今じゃこの邸のみんなもいてくれる。――見えてるよ。これからもずっと」
「――んむ」
そうイツキが答えるとパルムは大きく頷き、満足気な笑顔を咲かす。一体何度この幼子に心を救われるのだろうか。情けなさより自らへの哀れみが強い。だが、一つ言えることがある。
「それで、よし、ね?」
頼れる仲間がいることを誇りに思う。
伸びたパルムの掌に掌を合わせ、腰は低いが気分が高いハイタッチ。小さな頭を撫で、イツキも立ち上がった。
場所はセレネの執務室の、その扉の前。イツキは一つ、深呼吸した。
本当に申し訳ないことをしてしまった。その罪悪感は生涯消えることなく付き纏ってくるだろう。でも、それでもなおここにいるのは、どうしても叶えたい目標があるから。同じように目標を持つセレネの誰かのための努力が報われる世界を創るため。
イツキは今一度、彼女と自分を遮る扉を叩いた。
扉の先にいたセレネは筆を進めながら、こう言う。
「少し待ってください。もうちょっとで終わりますから」
ルシールか誰かと勘違いしているのだろう。顔も上げないで必死になっている。イツキの言葉を受け、国を変えるための努力をより一層増したように見える。
彼女だってわからないわけではないのだ。イツキが言ったようにこのままでは王選への挑戦のリスクは非常に高い。そして失敗すれば確実に周りの人間を巻き込むこととなる。それでも諦められないから、今以上の努力をしようとしているのだ。
「あ、それとまだお茶菓子も残ってて――ぁ」
進む筆を止め、申し訳なさげな笑みを浮かべて、ようやくこちらを見る。対面する存在がイツキだと気付いて漏れる声。
セレネの目の下には隈があり、筆を持つ左手はインクの黒が着く。机の上には山のような書類と湯気の立たない紅茶の入ったカップ。砕けた魔石灯の欠片がその使用時間を語る。辛苦を隠すための笑みも意味を為さない。
「――」
沈黙するセレネにイツキは一歩、二歩と歩み寄る。
「そんな笑い方、するなよ……」
どうしてと、セレネは心で問う。
欠片が飛び散り、ボロボロになった彼女の心は見るだけで痛々しい。
「この国を変えるんだろ?」
その破片を全て掻き集めて元に戻すことも、これからできる新たな傷を防ぐことも、イツキにはできないかもしれないけれど、一緒に傷付くことくらいはできる。
「でも……」
「無理だ、って俺は言った。けど止められない。止めたくない。そうだろ?」
セレネは小さく頷く。
「俺だってそうなんだ。誰かが不幸のままの世界なんて嫌だ。そんな世界を変えてしまいたいって、そう思う」
だけど、自分にはそんなことできない。そうイツキは思っていた。今もできるとは言いきれない。しかし、やらねばならない。やり遂げ、世界に報われない努力に、イツキが報いなければ。
「俺にこんなことを言う資格がないことは充分わかってる。でも言わせて欲しい」
イツキは自然、手を強く固めていた。
自分の弱さに再び踏み入ることに恐怖する。――否、これはその恐怖を乗り越えるための小さな勇気と、大きな覚悟の証だ。
「俺に、セレネの目標を達成するために全力で手伝わせてくれ」
何ができるとは言わない。不確かな可能性しかないけれど、できることは何でもしよう。セレネの目標が達成されるまで、彼女の苦難に共に立ち向かうと、そう誓おう。
「でも、どうすればいいのか……」
「それは俺にもわかんねぇ。けど、どうにかしてやろう。そのために俺はここにいる」
力はなく、知識もない。何ができるとは言わない。だが、
「一緒にこの世界をなんとかしてやろうぜ」
イツキはセレネの願いを叶えたい。それは誰かのための努力を惜しむことなく尽くすセレネの姿があるから。世界は全ての努力が報われるようには作られていない。だけど、誰かのための優しい努力は、報われなければならない。いつかどこかで、なんて不確定な言葉ではなく、今そこで、報われなければならない。だから、イツキはセレネの努力が報われるように、この腐った異世界を変えてやろうと決心した。
正直、ここに来てセレネの姿を見ても、イツキは彼女の無茶な努力を止めさせようとは思わなかった。それは彼女の行動は目指す目標には必須だからだ。だからこそ、イツキは思う。セレネ一人が苦しまないようにしなければいけない、と。
暫しの沈黙の中、目の前の少女がほろ、と涙を零す。その雫が机上の紙に染み、綴られた文字を暈した。
彼女の心は様々な感情が混沌とし、今にも破裂しそうだ。
「セレネだけ……、セレネだけが、ルナを置いて……、こんなに幸せでいて、いいんでしょうか……?」
危ない橋だとわかっているからこそ、その道へ他者を連れ込むことに申し訳なさを覚えてしまう。それでもついて来てくれると言うこの少年に、感謝こそすれ、八つ当たりなどできるはずない。
内心、少年の言うことに納得はしていた。実力はなく、元々の目的も復讐に近しいもので、我儘な願望を他者に押し付けていることは否定できない。だが、それを忘れて、誰かのためだけに頑張ることなどできなかった。
二人一組と言える双子の妹、ルナを失って以来、自分だけ助かってしまったという罪悪感からセレネは自分に対する親切や幸福を避けるようになっていた。ルナを置いて自分だけ助かり、ルナを置いて自分だけ支えられ、ルナを置いて自分だけ幸せになって、それで、置いて行ってしまった自分を、ルナは許してくれるだろうか――――。
その答えを少年は簡潔に述べた。
「――当たり前だろ」
「……っ」
彼の言葉には鋭さはなく、セレネの心の靄を払うことはない。しかし、彼の言葉はまるで大きく育った樹木の幹のようで、彼の表情は穏やかだった。彼はこう言うのだ。『考えるまでのことじゃねぇ』と。
「でも、セレネはそこまでしてもらえるような人間じゃ、ありません……」
「ほんとに、優しいな――」
セレネという少女は幼い頃から優しい心の持ち主であった。その優しさはルシールに、エリシアに、フュテュールに、アルベルトに、フラットに、村民に、領民に、シルに、ガイルに、パルムに、カインに、苦しむ奴隷に、敵対する貴族に、花に、草に、木に、虫に、動物に、――妹を含むこの世の全てに広く伝う優しさで、それを受けた者の殆どが彼女を慕い敬う。
だが、彼女自身の妹を守れなかったという罪悪感一つで、彼女は自分の優しさへの対価を受け取らなくなった。
しかし、周りの者はその姿を見てより一層彼女の優しさを知る。彼女の与えることだけを考える姿は誰の心にも影響した。
少年、イツキもまた、その影響を受けた一人である。
セレネの苦悩を知った彼は同時にその苦悩の解消を望む。
イツキの言うセレネの優しさとはすなわち、自己犠牲を以てする優しさなのだ。それは王になる者には重荷になり、王である者には求められるものである。
それならば、求められることを身を削り、可能性を削ってでも叶えようとするセレネを、誰が守ってあげなければならないのか。
イツキは手を伸ばした。
「俺の手をとれ」
セレネは幸せになってはいけないなど、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。むしろ彼女は幸せになる権利がある。否、彼女は幸せになるという義務すらあると言ってしまってもいい。それほどの努力と意識はとうに越えている。
その義務の全うを完全サポートすることは、彼女の努力と意識を享受する者達の義務である。そして、それはその努力と意識に関わる者の全てが極めて自然的に持つ希望なのだ。
すなわち、セレネが幸せにしようとしている者は、セレネを幸せにしたいと願っている、ということだ。
イツキもまたその一人であり、セレネの苦しみを知った今、その理解が遅れたことに対しての憤りが溢れて止まない。
だから、
「意地でもお前を幸せにしてやる」
――彼の手をとってはいけない。
そうすればきっと、彼は必要以上の責任を感じるだろう。
だが、そんな必要はない。どれだけ重く伸しかかろうとも、その責任を背負うのは自分だけでいい。
どれだけ辛く苦しい道のりだろうと、その辛酸を嘗めるのは、自分だけでいい。
そうでもしなければ、皆を幸せにはできない。
彼の手をとっては、いけない。
完全に光を失った魔石灯。雲間から月明かりが二人を差した。
「――!?」
刹那、腕を引かれ、身体が引き寄せられた。
身体を、頭をイツキの両腕に抱えられ、抱きしめられた。
――どうして。
イツキは答える。
「返事が遅せぇから」
駄目だ。彼に責任を負わせてはいけない。
自分だけ、自分だけが苦しんで、他の皆を幸せにしなければ。なのに、なんで――。
「意地だよ。たとえお前が幸せになりたくないっつっても、俺が幸せにするんだ」
「でもセレネは……幸せになっては……」
「お前はどうなんだよ。幸せになりたいのか?」
「セレネは……」
幸せになりたい。そう考えたことはなかった。だが、幸せだとは感じることがある。その度に罪悪感を思い出し、自分に言い聞かせてきた。
幸せになってはいけない。
妹だけを不幸にし、自分だけが幸福を得た。そんなことを繰り返したくない。
だから皆を幸せにしたかった。そうすれば誰も傷つかない。そうすればもう、誰も失わない。
ならば、たとえ自分が幸せになってもいいとしても、それを差し置いてもまず先に皆を幸せにしたい。だって、皆が辛ければ自分は幸せになれないから。
「――お前が幸せじゃなきゃ、周りのやつも幸せになれねぇぜ?」
「――!」
つん、と鋭い痛みが脳に走る。
「お前は優しすぎるから、みんなお前が大好きで、お前が思っているのと同じくらいお前に幸せになって欲しいって願ってる。それがみんなの幸せになるってこと、わかってるか?」
でも、自分にはそのように思われる資格などない。
自分は既に、ルナを不幸にしてしまったのだから。一番大切な人物を不幸にしてしまって、それだけで、自分が幸せになる権利は失われた。――否、自分は幸せになりたくない。
「ルナを置いて、幸せになりたくない……」
それだけ、だった。
母を亡くし、父が死んで、居場所のない二人は、なんの予兆もなく離別させられた。ある種、それは死であった。
妹をなくしたことにより自分の魂さえなくしてしまった。
もう、セレネは生きていけなかった。
「――お前の妹は、そんなことは望んでねぇだろ?」
どうだろうか。あの子は自分の幸せを願ってくれていただろうか。
どうだろうか。あの子は自分を慕ってくれていただろうか。
どうだろうか。あの子は自分を愛してくれていただろうか。
どうだろうか。
――どうだろうか。幸せを願われ、慕われ、愛されたにも関わらず、あの時、助けなかった自分を、自分の幸せを、あの子は許してくれるだろうか――――。
どうせ生きるのなら、あの子に呪われ続ければ良かったのに。
「どうせ生きるなら、妹の分まで、幸せになってやんねぇとな」
――。
「そのために、みんなを幸せにするんだろ?」
――――。
「だから、だ」
――――――――。
「一人で悩んで苦しそうなセレネを、俺が幸せにしてやる」
「そんな……駄目です……」
「気にすんな。お前はみんなのために頑張って、いつの間にかみんなと一緒に幸せになってた、っていうシナリオが勝手に作られただけだ。でもってそれに最後に気付け」
「でも……」
少年の声が耳に入る。
「大丈夫だ」
「――」
ずっと苦しんできた。ずっと悩んできた。ずっと後悔していた。
それを話して、間違っていると、全て否定されると思っていた。
「お前の想いは、みんなで抱える」
それがどうして、こう受け入れようとするのか。
「どうもお前みたいに優しい人間に厳しいからな、この世界は。まったく……」
どうして自分ではなく、この世界に対して怒りを表すのか。
「でもこのまま無抵抗でなんていてられねぇし、そのつもりはない」
どうして、自分の手を引いてくれるのか。
それは――
「どうして、セレネを……」
「誰かのためにっていう努力を認めねぇ奴なんて、一人もいねーんだよ。少なくともお前の周りにはな」
彼が優しいから――。
優しいのは自分ではなく、彼だ。
「だからさ、――笑えよ。セレネ」
「――っ」
そう言って笑顔を見せる。
溢れ出した涙を止めることができず、必死に拭おうとも、頬は乾かない。
濡れた頬を暖かい手で優しく包み込むイツキの笑顔が、セレネの心を照らした。
「シルはな、俺より年下のくせに異常に頭いいんだわ。回転はぇーし知識多いし。んでもって察しもいいと来たもんだ。ま、毒舌なのが痛いけど……。でも本当のことと嘘のこと、そんくらい簡単に見極められる」
イツキは唐突にそんなことを話し始めた。
「ここに来てガイルもいつもとちょっと違う雰囲気になってるけど、実はあいつめっちゃ心配性なんだぜ? シルに何かあればすぐ駆けつける。ありゃ絶対できてんな。――だから、あいつはあいつが守ろうとするシルと、シルが守ろうとするみんなのためにいつも以上に気を張ってる」
協力関係に当たるシルと、その条件として更なる協力者であるガイル。どんな人物であるか。それは見た目だけでは判断できない、イツキの視点と経験による人物像である。
「カインもバカみたいにバカやってるけど、ちゃんと意地はある。前に蔵に襲撃があったろ? あん時にちょっと怪我してな、それが力不足だって思ったらしいけど……正直あそこまで強くて力不足はパねぇ。バカかと思った。――けどあいつの意地は立派なもんだ。『オレがみんなを守ってやるっ!』って」
――ああ、そうか。
「パルムは最高に可愛いよな。大人になったら結婚しようと思ってるんだけど、とにかくパルムは可愛いんだわ。うん。やべぇパねぇ。可愛い。――そんで優しい。実際のところ俺は何回もあの子に救われてる。俺がなんもわかんなくなった時も傍にいてくれたし。だから俺はパルムの前では精一杯笑ってやる。そうするとパルムも笑ってくれるのよ。あぁ、可愛い」
今こうして彼が見せる楽しそうな笑顔は、周囲の人間がどれだけ彼に関わってきたか、どれだけ彼を想ってきたか、その結果なのだろう。
「俺はここに来てまだ日も浅いからはっきりとわからんのだけど、多分、いや絶対に、ルシールさんやエリシア、フュテュールも村のみんなも、まだ全部行ったことないけどこの領内のみんな。誰もが、セレネが王様になってみんなを守ることより、セレネが楽しそうに、幸せに生きてくれることを願ってる。だから――」
だから彼はこれほどまでに彼を想う周囲の人間を愛しているのだろう。
或いは自分も、誰かに対する愛はある。誰かから受ける愛もある。
どれだけ拒もうと、あらゆる方向から支えられてしまう。
幸せになってはいけないのに、誰もその意志を認めてはくれない。周囲にとって、自分は幸せでなくてはいけないらしい。
妹はどうか。もし、本当に自分の幸せを願ってくれているのだとしたら、自分はこんな所で止まっていてはいけない。誰よりも貪欲に幸福を求めなければいけない。
例え、あの子が自分を恨んでいたとしたら、この世界でそれ以外の後悔を一切なくし、死んで、それから罰を受けよう。
――ただ、今だけは、あなたの苦しみを繰り返さない努力をさせてちょうだい。
そう強く願って、今を生きなければ。
「――笑え。精一杯笑え。そうすれば誰も迷わない。お前が心から笑ってるだけで、みんなはお前についていける。お前が心から笑ってるだけで、みんな幸せだ。――こんなクソったれな世界でも、どんな絶望的な状況でも、お前がいる所は最高に幸せな場所にしよう。そうやって、広げてこうぜ。幸せの輪を」
少年、カヤ・イツキは、凡才凡人最弱であり、無難を求めるモットー『目立たず楽に』を掲げた、どうしようもなく臆病な人間だった。
しかし、彼は出会い、彼は悩み、彼は決めた。
――誰かのための努力が報われる世界を作りたい。
我儘と自称した彼の願望は、決してその通りではない。ただ一言で表すのならば「優しさ」と言うものなのだ。
その「優しさ」を持って彼は高らかに宣誓する。
「――さぁ、革命を起こそうぜ」
旧姓、プルプラリオ。セレネ・プルプラリオ。母の姓で守られた少女、セレネは幼くして苦難と直面し、今も尚、その苦難に立ち向かおうとしている。
だが決して、彼女は独りではない。
彼女を支える多くの協力者がいる。
その全てを守るため、セレネは更なる奮闘を試みる。
失ったものを取り戻すことはできない。そこにあるのはただ嘆きだけだ。だが、そうしていつまでも伏していることはここにいない者への冒涜、裏切りだ。
だからこそ、強く生きると、己の魂と支えとなる皆に誓う。
「――セレネはまだ子供で、知識も浅く、経験も少ないです……。でも、それでも……みんなを幸せにしたい」
ただ、強く生きるために。
「そのために、今一度この微力なセレネに、お力添え頂けますでしょうか」
先刻と転じ、手を差し伸べるセレネ。彼女の手を固く握り、イツキは笑顔のままこう言った。
「シルの連れとしてじゃなく、カヤ・イツキとして、全力でフォローさせてもらうぜ」
セレネは自然、頬を緩ませた。
後日、領地の至る所に統一された旗が掲げられた。
イツキの提案により、風をイメージさせる紋様のルクス家家紋が刺繍された旗が作られたのだ。
世界に幸福と自由をもたらす、その象徴として。
―――――――――――――――――――――――
カヤ・イツキの去った亜人の集落。シル・ガーネットの部屋。
イツキを見送ったヒナタは紫紺の瞳を光らすエルフと対面していた。
「まさか、君が残しているとはな……。意外、否、それこそが運命であるか……」
「運命じゃないです。私の意思で、彼を残しました」
ヒナタの否定を受け、小さく笑うエルフ、フィリセ・セル・フォルシアはシルの書物に指を馳せ、頷いた。
「そうだったな。君は運命はないと、そう言ったのだったな。いや、否定はしないとも。時間の流れとは一定でなければならず、一定の流れの先頭は今現在という瞬間以外ありえない。未来を語ることができるのは今を知る過去の者、すなわち、時の法則を破った者だ」
暫く沈黙し、フィリセはその紫紺の瞳でヒナタを見据える。
「……何故、たった一度目に関わらず、私を信じられた。全ての私の中で、生を保ちながら君を知る者はたった一人。君は一度目のはず。それなのに何故、カヤ・イツキの成功を信じ、支えることができる。未来を知らないのに何故、彼に全てを託せる」
そう問い詰めるフィリセにヒナタは悩むことなく答える。
「だって、イツキくんは誰かのための我儘を言える、すごく優しい人だから。どんなに絶望的な状況でも、絶対に奇跡を起こす人だから」
「奇跡、か……。時の先頭、今現在に起きる事象を、否、その積み重ねにより起きる事象。それを奇跡と呼ぶか。成程……。その先々に何があるかわからないからこそ、人は奇跡を望み、失望を重ねる度、運命に没頭する。哀れなものだ」
「それでも前に進めば、希望は見えます」
「ふ……。そうだな。そこに確証など必要ない。必要なのは存在しないものをその先に創ろうとする意思。まるで君が知っているカヤ・イツキを彷彿とさせる」
「はい」
「だからこそ、君達に、同じ時の中で奇跡を求める愚か者を、解放して欲しい」
「もちろん、それがイツキくんの望むことなら」
カヤ・イツキが望むことはヒナタにとっても望みである。
彼がセレネという少女の望みを自分の望みとしたように。彼がシルという少女の望みを自分の望みとしたように。
カヤ・イツキが望むことはヒナタにとっても望みである。
「やはり、君と彼はよく似ている。あまりに珍妙だ」
「ふふ。そうですかね」
「ふ……。そこは笑うところではないだろう?」
不思議なことに、皮肉を言われたヒナタは満面の笑みでそれを受け取った。




