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イセカイカクメイ  作者: 凪と玄
第二章 双月
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第二章25 『在り処』


 小さい頃、自分が何かをしようとした時、それに成功した時、他者から褒められ、達成感を経て、そうやって成長してきた。

 次第に周囲の人間との能力の優劣に気付く。

 自分は勉学や部活動に積極的に励んだことは少なかった。しかし、成績も悪くなく、部活での自分の立ち位置も低くはなかった。

 それなのに、自分より多くの努力をしてきた人間でも、成長が小さかったり、自分より下の位置にいる者は大勢いた。

 また、逆に自分がどれだけ努力をしても上回れない追い越せない者も大勢いた。

 まさに、才能というものの存在を知らされた瞬間だった。

 格差ある才能は努力では埋められない。ならば努力は、無駄な体力消耗に過ぎないではないか。

 なのに何故、人は無駄と知ってそれでも努力をするのだろうか。

 努力は期待を裏切らない。じゃあいつ期待に応えてくれるのだ。その時に最も求めている成果を、いつ発揮させてくれるのだ。

 欲しいのは今なのに。



 誰だって、その希望が間違っているとは思わない。思わせない。誰かのための努力が、間違っているなど。

 それでも否定するのは、そこにどんな努力をしても埋まることはない才能の格差が存在しているから。





「……元の世界に帰ろう」


 丁寧に毛布の敷かれた石の寝台の上に着座し、対面する椅子に腰を置く少女にそう零した。


 魔石灯に照らされた室内には、岩壁を削って作られた本棚と、そこにあるのは読み解くことができない文字が書かれた多彩な書物。その丁寧な並びようから部屋の持ち主の性格がよくわかる。


「もう、いいんだ。俺たちがここにいる理由はもうなくなった」


 窓という名の穴から外を見る。他の部屋は静まり返り、冷たい空気だけが外を走る。


「さっさとこんな世界とはおさらばして、元の世界で元の生活を送ろう」


 岩山の向こうには王都があり、その道中には見知った顔の老人が営む蔵がある。その老人の主はさらに進んだルクス領に。


「きっとみんななら上手くやっていける。俺たちとは違ってこの世界の奴らだから」


 これからルクス領は王選へ挑む。人間の代表と亜人の代表。今の国とは全く違った国を作る。そしてそれは恐らく失敗に終わる。


「たとえ失敗しても俺たちに何かできることはないし、邪魔になるだけだ。……それに元々俺たちには」


 関係ない。


「何もできないんだ。無駄なことなんだ」


 それは当然。見えた未来は最初から見えていた。何も変わらない、変えられない。奇跡など起きない。そういう運命なのだ。


「どう考えたって無理だってわかる。わかるはずなのになんで」


 どうしてそんなに、無理の壁に立ち向かおうとする。その壁は越えられない貫けない壊せない避けられない。それならいっそその壁に背を向けてしまえばいい。

 それなのに何故――。


「――不思議だよね」


 目の前の少女がくすと笑ってそう言った。


「ちょっと前まで奇跡は起きないとか、運命なんて存在しないだなんて言ってたのに、今は奇跡が起きて欲しいって願ってて、こんな運命は嫌だなって言ってるみたい」


「……っ」


 はっと息を飲む。それこそ疑問だ。

 何故そんなことを望むのか。奇跡など、運命など、自分が自分であることを自覚できず、他者に自分を形成させているような人間が喋る他愛のない幻想の、音という形での物理化に過ぎない。

 定義も何もないそれらに希望を持つなど、自分では考えられなかった。


「……俺は、誰だ?」


 それなのに、むしろ自分がそれに当てはまる。自分が自分であることなど自覚したことはなかった。いつも誰かの後ろをつけ、同じ道を進んでいた。そこに自分である意味がないことに気付けず。


「あなたは、誰なの?」


 目の前の少女に問われる。


 自分に問う。


 確かにここにあるもの。確かに自分の体の中にある人格。それは自分であって、自分ではない。


「俺は、誰で……俺は、どうして……」


 自分がどんな存在だったのかを、何度も自分に問う。

 その度に失われそうになる何かが少しずつ頭の中で熱を帯びていく。


「あなたは何を怖がっているの?」


「俺は……」


 ずっと、何かが怖かった。


「あなたは何を怖がっているの?」


「俺は……」


 焦燥や不安が――否、そんなものではなく、もっと、自分のこと。


「あなたは何を怖がっているの?」


「俺は……」


 狂ったこの世界のように、自分の何かが狂い始めている。


「あなたは何を怖がっているの?」


「俺は……」


 狂気が自我を侵食し始める。その感覚が極自然的に自分の心に受け入れられ、自然的故の無意識な言動をしていた。


「あなたは何を怖がっているの?」


 どうして血を見て平気でいられた。


「あなたは何を怖がっているの?」


 どうして自分が怪我をすることを平気で受け入れられた。


「あなたは何を怖がっているの?」


 どうして他人の死をそこまで軽く見ていられた。


「あなたは何を怖がっているの?」


 それが普通のことなのだと、そう認識していたから。


「あなたは何を怖がっているの?」


 ――心の中の、化け物。


 意識していなかったわけではない。

 それは最初の日、この世界に来た最初の、あの夜。初めて人を殺した。

 自分の目では確認できていなかったが、あの爆発が少なくとも人が一人死ぬ威力を持っていることは知っていた。

 目覚めた時、そんなこと、人を殺したことなんて、忘れてしまっていた。いや、忘れていたのではなく、気にしていなかった、と表現した方が正確だ。

 その時は自分の怪我のことやこの世界に来たことによる混乱で気が散っていたのもあるが、そんなものは言い訳にもならない。


 死なのだ。与えたものは死だったのだ。それを忘れていたで済ませられるわけがない。なのに、何事もなかったかのように生活していられた。

 蔵でも同様に、目の前の死を普通に受け入れた。それどころか、自分の死すらも恐れなかった。

 既に死んだ人に対しても心を痛ませることはなかった。

 それが心に何かが住み着いている以外に理由を考えられるものか。


 決して見当がつかないということではない。

 どれもこれも、この世界に来たことが原因だ。


 自分が死に対して無関心になったのも、ありもしない淡い幻想を抱くようになったのも、この狂った世界に来たせいだ。


「そうだ……。だからとっととこんな世界から……っ」


 どうして、こんな世界に来てしまったのか。自分とこの世界にはなんの因果もないはずだ。そもそも何故自分なのか。

 何もかもがわからない。ここまで帰っては来たがそれからどうやって元の世界に戻ればいいのか。戻れるのか。その方法は、場所は、時間は、全くわからない。


「だって……普通ありえないだろ!」


 異世界なんて存在するはずがない。魔法なんて、亜人なんて、魔石なんて、マナなんて、元の世界には存在しなかった。実際にそんなものを聞いて、目にして、そうですか、と受け入れられるわけがない。ましてそんなものに出会う運命を楽しむことなどできない。

 だから最初から、この世界に来た最初の時点から、不安しかなかった。

 シルが助けてくれたおかげで、ガイルが受け入れてくれたおかげで、パルムが信じさせてくれたおかげで、カインがじゃれてくれたおかげで、クロトが、ルボンが、ネルが、ハープが、ランドが、ガームが、エイドが、ホルンが、フィリセが。それだけじゃない。蔵の従業員も、アルベルトも、ルシールも、エリシアも、フラットも、フュテュールも、村のみんなも。

 みんながいてくれたおかげでその不安は解され、微睡みの中へ落ちていった。


 しかし、それがために、この世界という非常識が、自分にとって常識になっていく。その感覚を無意識に受け入れ、自分がいなくなってしまった。

 考え方が変わって、価値観が変わって、失っていいものと失いたくないものの演算法を作り直した結果、


「俺は俺じゃなくなった……」


 最も失いたくなかったものを失って、特に期待をしていなかったものに期待して、それが自分であるものか。

 だってそうだろう。

 いくら自我を保っていても、その自我がころころと変化する。アイデンティティの確立がなされない自我を自分である証拠にはできない。


「いや、違う」


 そんなことは、この世界の影響を受ける以前から、若干ではあったが感じられていた。

 ある意味、自分は自我を決定しきれないという個性を持っているのだ。

 自分の意思では自分のことさえも決めない。全て他人本位だ。

 そのせいで異世界に影響され、醜悪な体質を持ち、残酷な進路をやむなくされる。

 もし、本当に運命があるのなら、これほどの悪運はないだろう。それも自分の人任せが導いたものであるが。


「――もし、ね」


 もし。


「もし、運命があるとしたらね」


 少女が両手を合わせる。


「それはきっと、私たちとは関係のないものだと思う」


 一瞬だけ、思考が止まる。

 自分がどうにかなってしまいそうな時に、何を言っているのかと。

 だが少女は言の葉を途絶えさせない。


「例えば本の中のお話だったり、映画やドラマとか、言葉にするのは難しいけど運命ってそういうものなんじゃないかな」


 だとしたら、何なのだ。今、こうして自分たちが歩んでいる道は、何というものなのだ。


「だからね、私たちは運命の上にはいないの。だって、物語が終わってから運命って名前がつけられるでしょ。でも、まだ終わりじゃないもん」


 終わりじゃない。


「そりゃそうだろ……。まだ俺はなんもしてねぇんだから」


「奇跡はね、あまり気付かないことが多いの。けどね、私は気付いたよ。私はその奇跡に助けられたから」


 いや、そんなものあるはずがない。本当の奇跡とは、何でもかんでも一発逆転し、確実に益を得るものだ。

 あるはずがないからこそ、誰もが望む。


「――ねぇ、あなたは何を望んでいるの?」


 そんなもの、自分にわかるわけがない。

 何のために何をするのか。大きな目標も何もない。

 奇跡を、幸運を望んでいるのか。そんなものを望んだところで何が変わるというのか。

 ならば、そんなに不確定なものならば、何も望まない。そもそも望んだところで。


 ――――でも。


 何でも、どんなものでも、時の力には逆らえない。時が流れるとともに変化は起きる。

 生物は成長し、物質は反応し、風潮文化は変遷し、現実とは変化の連続、連携によるものだ。

 そんな絶対の変化の中、人もまた、変化を繰り返し生きてゆく。それは身体に関わるもののみならず、心にも同様に言えることだ。

 新しいものを発見した時、成功した時、失敗した時、人と話した時、喧嘩した時、仲直りした時、大切な人を失った時、愛する人と出会った時、友人ができた時、――あらゆる場面で心は刺激を受け、徐々に、時には大きく変化する。

 その変化は恐らく誰にも望まれない。しかし、人はそれを平然と受け入れ、個人の心とする。

 心の変化はそのように、自然かつ当然に起きている。


 ただし、その変化に気付いた時、人は自己の認識を疑うこととなる。「自分はこんな人間だったのか」と。


「俺は、誰で……、何を、望む……?」


 自分がどんな人間であるのか、その記憶を失ったわけではない。ただ、今の自分がその記憶の線とは異なった線を描いている。

 その異なった線上で何を望むのか。その真意は、自分が――。


「俺は……もし、望んでもいいなら……」


 変わり続ける心を持って尚、誰もが望まずとも叶えているもの。それが今の自分にはできていない。

 変化に気付いてしまった故の自己否定を肯定する自分が望むのは、それは自分が今の自分をどうすることなのか。どう捉えることなのか。

 一体何をして、どれだけの時間をかけて、その努力の結果にどんな成果があるのか。何もわからないが、その行動に意味があるのなら、望む。

 自分がありのままでいることを。

 もし、望んでもいいのなら、そして叶うのなら、変わりゆく心の常で、それを認識し、かつそれを個人の心として受け入れることではなく、絶えず意識する自分らしさを確立し、そこに迷いを感じないことを。


「俺は、俺でいたいよ……!」


 ――まるで、自分が自分ではないような感覚が、ずっと心の中に住み着いていた。その姿形、性質は醜く、卑劣なもので、化け物と呼称するに過言はない。その化け物に侵食された心は、それでもなお、自分でありたいと望んでいる。

 自分が自分でありたいというのは、得体のない不可解な望みである。最終的に自分が今までの自分であるのか、あるいは変わりゆく都度の自分であるのか、それすらもわからない。けれど望む。結果の自分が自分であることを。

 憐れなその願望が叶うのならば、それがどんな自分であれ、きっとその自分を認められるだろう。


 その状態を確保するためにも、この世界から抜け出したい。

 自分が自分でいるためには、自分が自分でいられる場所にいなければならない。そうすれば、自分は周りと同じ、普通でいられる。


「――私の知ってるあなたはとても優しくて、人が傷付くのを見過ごせない人。明るく振舞ってその場をいい雰囲気にしてくれる、本当に優しい人なの」


「……違う」


 それは違う。

 自分はなるべく面倒を避けて、目立たず、楽に、何事も無難に過ごす。そんなどうしようもなく堕落した人間だ。

 否、それも違う。自分でそう感じたことは一度もない。無難に生きることが堕落なのではない。問題となるのは、その無難以上の好結果を作れる可能性があるのにその努力をしなかったことだ。

 だが、仕方がないだろう。


「だって……失敗したら、何もかも無駄になるだろ」


 挑戦の結果はたった二通り、成功か失敗のみだ。どれだけ努力を重ねても、結果が失敗であればそれは失敗であり、どれだけ手を抜いた備えでも、結果が成功であればそれは成功である。

 全くもって理不尽だ。

 そこに思いを込めた努力があったのなら、その結果は成功でなければならない。そうあるべきだ。

 だが当然、そんなことが実現するはずはない。

 誰しも失敗を重ね、それでも極わずかな可能性を持つ成功を求める。世界には失敗が充満し、苦しみは生まれ続ける。それでも破裂しないのは、それが当たり前だからだ。

 失敗を繰り返した者も、その存在が当たり前であるが故に、当たり前のように受け入れる。


「でも俺は違う。俺は嫌だ。頑張ったならそれ相応の結果がちゃんと欲しい。けどそれでも失敗する。それが当然、そういうシステムなんだ。そのシステムには抗えない。そういう運命なんだ。だから――」


 努力を辞めた。

 無難に過ごし、失敗の苦しみから避けて、後悔のない生き方を目指した。

 その楽な生き方を守るために、変わることを恐れた。

 変われば、そこは未知で、いわば挑戦の連続だ。自分にとって、変化の可能性が高確率なものの連続ほど恐ろしいものはない。

 それを避けることを、この世界はさせてくれない。


「一緒に帰ろう」


「だめだよ」


「……っ! どうしてだ! 俺がここにいても何もできない。ここにいる意味は何もないのに! どうして……」


「だってまだ終わってないでしょ?」


 自分はまだ何もしていない。だが、自分はもう何もできない。ならここにいる意味はない。それなのに――それなのに彼女は何故、


「なんでそんなに俺を信じられる……?」


 どうして彼女は諦めることを許さない。彼女が自分を知っているのなら、これから先で自分が何もできないことをよく知っているはずだ。

 それでも、目の前の少女はまだ自分に何かを期待している。


「――小さい頃、覚えてる?」


「――」


 唐突に少女が問いを投げる。それは漠然としていてとらえどころのない。だが、


「あなたが私を助けてくれたの」


 記憶の有無に関わらず、彼女は話を続ける。


「私の髪の毛って色が薄いから他の子からいじめられてたの。でもあなただけは違った。なんの差別もなく話しかけてくれた。それでいじめられてるって気付いた時に他の子と言い合ったり喧嘩したりした」


 かつての、小学生頃の話だろうか。彼女にとって暗い過去の話のはずだが、何故か、彼女は喜悦の笑みを浮かべる。


「きっと他の子がいじめられてても同じことをしたかもしれないけど、それで私はあなたに救われたの。たった一人だけ私の味方になってくれた、あなたに」


 確かに、差別は嫌いだ。そんなものはなくしてしまいたい。そう思う。――否、思っていた。だが、今は違う。そんなことは不可能だと知った。関われば被害者になる。その繰り返しだ。


「今の俺は昔の俺とは違う。誰も救えない。何にも挑めない。だって俺は……」


 自分は、


「……ただの加陽夷月、だから」


 生まれ持った才能は、それだけだった。加陽夷月であること、それに見合った行動をすることだけが才能だった。なんとも役に立たないことか。

 所詮は一人の人であり、それはつまり、限りがあるということだ。

 今の加陽夷月には、かつての加陽夷月のように人の前には立てない。


「そうだ……。それが、加陽夷月だよ」


 己の限界を知り、それ以上の領域に足を踏み入れず、現状を維持するだけの存在。それが今の加陽夷月。

 他の者ならば、違う結果をもたらす。だが、自分は加陽夷月なのだ。たった、それだけ、なのだ――――。


「――――だから、私は助けられた」


「俺じゃなかったらもっといい結果になった」


「でも私は助かった」


「俺じゃなくてもそんなことはできた」


「それでも私を助けてくれたのはあなた、イツキくんだった」


「……違う」


 そうじゃない。あれは差別のシステムが嫌いな自分が、自分のためにしたことだった。そこで偶然対象となったのが彼女なだけで。


「俺は偶然そこにいただけで……」


「それが――奇跡なんだよ?」


「――」


 目の前の少女、望月陽向は、加陽夷月にそう語った。

 それを耳にした瞬間。理解と感嘆が混在した。


「もしかしたらイツキくんじゃなかったかもしれない。でもイツキくんだった。他の人から見たら偶然かもしれない。でも、私にとっては奇跡だったの。イツキくんがいてくれただけで、たったそれだけだったけど、私は救われた」


 どうして彼女は過去の話を笑いながらするのか。――それは既に、彼女が救われたから。

 そして一つ、奇跡を理解した。

 奇跡は、そこにあること、だと。そしてそれが、自分にとって奇跡だと思えること、だと。


「私たちは奇跡の中にいる。それで最後に後ろを振り返って、こんな人生を歩んできたんだって、これが自分の選んだ人生なんだって思うの」


 それは、その自分の選んだ人生は、きっと運命とは異なる。まるで今までなかった道を自分で作りながら進んだ、そんなものだ。


「イツキくん。まだ、終わりじゃないよ。これからなんだよ。これからどう生きるのかが大切なんだよ」


 これから、どう生きるのか。――選べるのだろうか。定められた運命が立ちはだかるのではないか。


「たとえ、運命があったとしても、まだ変えられる。きっと変えられる。だってまだ、終わりじゃないから」


 変えられるだろうか。


「大丈夫」


 加陽夷月にできるのだろうか。


「イツキくんにならできる」


「どうして、そう思う? 俺はそんな人間じゃない。そんな人間にはなれない。なのに、どうして」


 どう考えても、加陽夷月にはできそうもない。だってこれまでもなるようになってきたから。それに抗うことなど考えたこともなく。摩擦を知らない柔らかな肌は、少しの棘で容易に裂かれる。今までの無難を求め続けた生き方が、いつの間にか自らを退化させ。


「怖いんだ」


 知らない未来に手を加えることが。その先に失敗があると思うだけで足が止まる。どうして皆は平気でその一歩を戸惑うことなく踏み出せるのだろうか。


「私は、イツキくんが好き」


「……どうして」


 一瞬、身体が熱くなるのを感じた。その熱が自分の感情の揺れが理由だとすぐにわかった。


「どんなイツキくんも好き」


 また、熱くなる。何故、こんなにも感情が揺れ動くのか。そして何故、この感情の揺れが、心地良いのか。


「好きだよ」


 それは単純に、嬉しいからだ。

 彼女に想いを伝えられることが嬉しい。自分も彼女に同じ想いを持っている分、他に感じる喜びの何倍も嬉しい。

 心動を感じる。――変化を感じる。


「――っ」


 望月陽向は伝えた。変わることが恐れられることではないと。そして、望月陽向は変えた。加陽夷月が変化を喜びに感じるよう。

 だが、加陽夷月はまだ恐れる。言葉が出せない。

 今、ここで何かを言ってしまえば、状況は一転するかもしれない。

 加陽夷月はまだ恐れる。


「私はイツキくんを知っていて、イツキくんを信じてる。だから、イツキくんもイツキくんを知って、信じて」


「俺は……」


 息を吸い、止める。

 考えよう。否、感じよう。加陽夷月を感じ、加陽夷月を知ろう。加陽夷月を感じ、加陽夷月を信じよう。


 自分が自分であるために、自分が自分でいられる場所で、加陽夷月でいよう。


「あなたは誰?」


 ――。


「あなたはどこにいるの?」


 ――。


「俺は、カヤ・イツキは、ここにいる」


 ――。


 す、と抵抗もなく何かが解ける。解けて、多大な不安に垣間見えた安心。焦燥に駆られる心の中の黒い靄が晴れた。


「なんか、なんだろうな……。変な感じがする」


 改めて少女、ヒナタの顔を見る。彼女は笑顔で、イツキの顔を見る。


 ずっと呼んでくれていた。ずっと見てくれていた。


 どう行動したとしても、その評価は自身で決められることではない。自分がどんな人間であるかは、自分よりも他人の方がよく知っている。

 幼い頃からイツキを見ていたヒナタにとって、イツキは「好き」の対象であったり、優しい人であったり、様々な高評価兼好評価を与えるべき人間であった。


 ふとイツキは思い返したのだ。かつて、自分が他人の評価を気にして行動したことがあるのだろうか、と。

 もちろん、気にするべきところは多々あった。これからもあるだろう。しかし、事が己においては、誰の目も気にせず、自由にやってきたではないか。ただ自分がそれをどう思うかだけを気にしていただけで。

 だが、それももう意味のないことだと証明、否、これが正解かはわからない。それでも、ヒナタがイツキを、自由にやってきたイツキを認めてくれていた。それだけで、自分の評価を気にする理由はなくなった。


「――ヒナタ」


「はい」


「俺ってそんないい奴だったかな?」


「うん。すごくいい人」


 どうやらヒナタにとってイツキはすごくいい人らしい。


「今まで自分の好きなようにやってきたのに?」


「きっとそのおかげ。そのままのイツキくんが一番」


「これからも、やりたいようにしてもいいものなのかね」


「大丈夫。うまくいくよ。だってイツキくんだもん」


 何故だろう。抽象的な問に抽象的な答え。しかし、大丈夫だと思える。うまくいく気がする。自分がイツキだからなのか、彼女がヒナタだからなのか。それもわからないことだが、その直感を信じてみようか。


「――」


 自分の手を見る。まだ恐れを感じているのだろう。力が入らない。だが、たとえ変わってしまったとしても、加陽夷月はカヤ・イツキであると、ヒナタが教えてくれた。その恐怖を自分の体に巻き付けてでも、自分はカヤ・イツキであればいい。


「ヒナタ、ちょっとだけ、相談に乗ってくれないか?」


 イツキは少し視界を狭くした。何をすべきか、何がしたいか。まず、イツキが望むことを考える。

 きっと今話してもヒナタにはほとんど理解できないだろう。しかし何故か、何の戸惑いもなく彼女へ相談を持ちかけた。

 無言で頷くヒナタに感謝しながら、考えながら言葉を口にしていく。


「……ぶっちゃけ今はまじでどん詰まり。俺だけじゃなくて、向こうの色んなやつが問題を抱えてる。もちろんこっちにいるみんなも色々とあると思う」


 イツキがイツキでいられる場所。そこを守りたい。


「俺はみんなが楽しそうにしてるのがすげぇ好きなんだ。そこなら俺も、俺でいられると思う。だから、みんなが抱えてる問題を少しでも多く解決してあげたい。俺にできることは少ないかもだけど、俺にしかできないことも少ないかもだけど、俺もできることをやりたい」


 その一番の鍵となるのが、今一番の問題となるセレネの王選だ。


「王様を選ぶって言葉だけじゃわからないと思うけど、今のままじゃ失敗する。ルクス領を守ることだけを考えればいいと思ってた。でも俺はそれも成功させたい。できればとかじゃなくて、絶対に」


 少しだけ、恐らく何もわからないだろうヒナタに、わかりやすく現状を説明する。誰もがそれを聞いて不可能だと思うだろう。ヒナタもまた難しそうな顔をする。しかし、その奥にはきちんと可能性を見出している。

 その可能性こそがイツキなのだ。


「俺にできること――いや、シルやガイル、パルムもいるしカインもいる。何かできることはあるはずなんだ」


 直近の候補者による演説。ここで一つ、この国の狂った形に疑問を持つ国民を増やし、セレネの敵を減らさなければならない。だが、それに見合った言葉が非常に少ない。それら全てを集めてもうまくいくとは限らない。

 何が足りないのか。


「でも絶対に、セレネちゃんの創りたい国を他の誰かも望んでいるはず。その気持ちをみんなが表に出せば、少しだけ有利になる」


 少しなんてものじゃない。たとえ有力者でなくとも同志がいれば――


「そうか……。要は裏で協力者を……、でもどこでそんな人を探す? それに演説まで時間がない……」


 そんな状況の中準備できることはあるのか。


「そのためのシルちゃんでしょ?」


「シル……?」


 確かにシルはセレネに協力する一人ではある。しかし、それも含めて、ある意味シルはセレネにとっては重荷となっているはず。

 セレネは奴隷制度の廃止、シルは亜人差別の排除を。それぞれが国に反する思想である。その上、ガイルとの協力関係が他貴族露見した今、その協力関係を表明することを強制されるだろう。

 そうなればだ。そうなってしまえば、たとえ密かに奴隷制度に反対する者がいたとしてもその勢いを付けられない。


 現在、亜人差別の状況は悪化の一途を辿るものだ。シルからの話ではあるが、シルは王都へ出た時に身分が知られたことがあったらしい。それはふとした瞬間に出てしまった魔導士の特性故で、制御が適わなかったようだ。その結果、周囲の人間は一定の距離で彼女を囲み、蔑む視線を刺した。


 それほど一般的な市民も亜人に対する接し方は異常なのだ。それさえも、セレネの演説によって覆さなければならない。


「考えられるか……。いや」


 考えなければ。

 たった十三の少女が、イツキよりも歳の低い少女が、この国の大きな欠点を改善しようとしているのだ。力を添えなければ。


 それだけじゃない。


 セレネが口にした妹との死別。ルシールから聞いた奴隷としての過去。父と慕った前領主の喪失。救えなかった命。

 セレネは十分苦しんだ。辛かっただろう。忘れられないだろう。だが、それでも、彼女は進もうとしている。苦労の中で絶えず努力をしている。周囲の人間の、かつて奴隷であった領民の、迫害され続けてきた協力者の、今はもういない、妹のために。


「そんな誰かのための優しい努力が報われないなんて、あってたまるか……!」


 才能がない。


 手段がない。


 資格がない。


 時間がない。


「――は……。知ったことかよ」


 才能がなくとも、手段がなくとも、資格がなくとも、時間がなくとも、絶対に報われなければならない。だが当然、必ずしも努力が報われるわけではない。それはどの世界でも、どの時代でも、変わることはない。

 でも、セレネのような誰かのために為された努力は決して無為にされてはいけない。

 我儘かもしれないけれど、イツキはそう望む。


「――俺はこんな世界を変えてやる」




 世界一の努力家がいるとして。

 その人物は努力の果てに成功した。

 だが、不思議な話だ。何故、それほど努力をしてきたのに途中で成功を得られないのか。

 一般に答えは明確。それは失敗したからである。それでも努力を続けたからこそ、最後には成功を得られたのだ。


 世界一の努力家がいるとして。

 その人物は努力を続けるも、成功なくして息を引き取った。

 だが、不思議な話だ。何故、それほど努力を続けても成功を得られないのか。

 一般に答えは明確。それは努力が足りなかったからである。どれだけ努力を続けても、それは成功に至るものではなかったのだ。


 歴史に残るのは、讃えられるのは、成功者ばかり。


 理不尽ではないだろうか。


 両者とも同等同質の努力をしてきた。しかし、前者は成功を得、後者は成功を得なかった。


 努力は報われると言うが、そうではない。

 努力はいつか報われるかもしれない。

 絶対ではないのだ。誰が決めたか、世界とはそういうものだ。




「――」


 不意に足が疼く。


「何か思いついたの?」


 ヒナタが立ち上がるイツキにそう問いかけた。


「いや……、何も……。ただ――」


 いても立ってもいられなくなった。抱える問題は何も解決できていないのに、絶対に成功させるという思いがイツキの腰を上げた。


「俺、行かなきゃ。みんなんとこに」


「そう。きっと大丈夫。うまくいく」


「ああ。まじでなんもわかってねぇけど、――なんとかしてくる」


 立ち上がったイツキは太腿を平手で刺激し、己を鼓舞する。

 張り切ったイツキを見てヒナタはただ頷いた。そして立ち上がり、同様の仕草をする。


「行ってらっしゃいは言わないよ?」


「まだただいまって言ってないしな」


 ふふ、と笑みを零しながら向き合う二人。


「イツキくんは何もわからないって言ったけど、歴史は授業でやったでしょ?」


「え、まぁ、そうだな……。苦手だけど」


 イツキは文系。歴史の授業を受けてきた。世界史や日本史。現代史もある程度頭の中に入っている。しかしそれが何の力になるのか。


「今ってなんか昔の時代みたいに思わない? だとしたら、未来がわかるのかもって」


「歴史……」


 確かに、義務教育としてではなく、単に歴史の授業を受ける意味として、その傾向を知り、これからの時代に役立てるという考え方がある。ヒナタが言いたいのはそういうことか。

 今がどんな状況か。かつて同じ状況だった国はないか。その国の未来は――未来は。


「未来がわかる?」


 いや、歴史ではない。未来がわかればいい。


「ちょっと可能性見えたか……」


「……?」


 少し考え込むイツキに首を傾げるヒナタ。彼女に今、何を言ったらどう反応するのか。それと同じことを考えればいい。


「いや、なんでもない。行ってきますに代わる挨拶を考えてたけど浮かばんかった」


「そう。……気をつけてね」


 不安からか、顔を俯かせる。誰だって心はある。ヒナタもまた、不安を感じているのだ。

 イツキはまた考える。彼女に今、何を言ったらどう反応するのか。


「――ちょっと実験」


「――?」


 イツキはヒナタへの返事をスキップし、


「俺もヒナタが好きだよ」


 今までスキップしてきた返事を。


「――。――――。―――――――!!!?」


「じゃあ行ってくる!」


 ヒナタの顔が真っ赤になるのを見届け、イツキは部屋の外へ走り出した。


 言葉にできなかったことが言えるようになった。

 変化を恐れる自分にとってはそれが変化であったのか。最早そんなことはどうでもいい。


「――俺は、ここにいる」


 カヤ・イツキは眩い光へ走り出した――。




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