第二章24 『崩月』
「――」
そんな言葉など誰も予想はしていなかった。だからこそ、誰もがその言葉に反応を遅らせた。
イツキも自分が何を言っているかなどわかっている。
「王選は諦めろ」
二度目の言葉にしてようやくシルが反応する。彼女でさえイツキの言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「イツキさん。それは何か考えがあってと見ていいんですよね?」
「――」
当然、イツキも考えを巡らせ、導き出された最善の案を提起したつもりだ。それが間違っていることはなく、実際、その案自体はとるべき絶対的な案である。それはつまり、イツキの中では案という生温い表現では収まらない、命令だ。
イツキは無言で頷き、その考えを説明――
「――嫌です」
口を開き、息を吸い込む。しかし、それを吐くこともできなかった。セレネのその反応が唐突なものだったから。否、実際はその反応は予想されていた。何故なら彼女がイツキの言葉を聞いて動揺しなかった、唯一の存在だからだ。
しかし、シルがイツキの考えを聞いたことにより、セレネのその否定が発生するのを抑制させていたと、そう思っていたのだ。
「嫌って……。とにかく聞いてくれ。俺がそう――」
「嫌です」
「……っ! だから一回――」
「嫌です! 聞きたくありません!」
「お、おい! 待てよ」
「セレネ様!」
三度、同じ否定を繰り返すセレネ。彼女は憂いの瞳を揺るがせながら俯く。そして再び振り返り、逃げるように退室する。その常ならぬ行動にルシールが慌ててついて行き、イツキもまた、話を聞かせるために追いかける。
「なんで逃げんだよ」
再び二人が顔を合わせたのはセレネの執務室。まだ明かりの灯されていないその部屋ではうっすらとしかその中身が見えなかった。月明かりが差し込み、ベッドに突っ伏すセレネが照らされる。その横ではルシールが膝を折って心配そうな視線を送っている。
開いたままの扉を通り、伏したセレネにそう呼びかける。
「とりあえず聞け。ちゃんと理由はあるんだ」
シル、ガイル、カイン、パルムが部屋に入ってくるが、誰も言葉を発さずに二人を見ることしかできないでいる。
それを気にも止めず、イツキはセレネのみを見る。
「今のルクス領を見てみたらすぐにわかることだ。いや、むしろ見るべきなのはここだけだ。それ以外は見捨てろ」
そうだ。現在のルクス領はセレネの目指す未来を実現したものだ。この先、セレネがその未来を実現していきたいのなら、ルクス領の存続は必須条件である。だが、その存続を確約する方法は一つしかない。
それが王選を諦めることだ。
王選に参加すること、それが何を意味するのか。それを考えれば、その方法が当然のものとなる。
「今度ある演説。そこでセレネは何を言うつもりだ? どんな国を作ると言うつもりだ? それは誰が聞いてくれる? この国ではお前の理想は誰も拾ってはくれない。それなら……」
王選に参加すればセレネが掲げる目標は世間に露見し、注目を浴びる。そうなれば他貴族からの敵視はより強くなり、最悪の場合は結託された圧力で潰される。その結果はわかりきったもので、影響は全ての領民に届く。
それなら王選には参加せず、これまで通りの生活を繰り返す方が多くを救い、多くを守れる。
「この国を変えようなんて土台無理な話なんだ。だったら――」
「それでも……」
セレネがゆっくり顔を上げ、背を向けたまま呟く。その頬には涙が伝っていた。
「それでもセレネは王様を目指します……」
「いや、だからそれは無理なんだって」
先程も述べた通り、セレネが国王を目指すことによって背負うリスクは半端なものではない。その影響範囲も大きさも同様だ。
それはセレネ一人でなく、たとえ領民全ての望みが一致していたとしても、決して背負っていいものではない。それを背負ってしまえば、避けられなくなる。避けられなければ、それはつまり、希望が絶望へ転換されることに繋がる。
「みんなを守りたいなら、他の貴族の前には出ない方がいい。自分の考えを外に知られちゃいけない。だから王選は駄目なんだ」
「――」
イツキの訴えを、セレネは断固として聞き入れようとしない。
何故、そこまで王になることに拘るのか。何故、今の状態を危険に晒すようなことをするのか。イツキには理解ができない。
セレネが王選に挑むことを諦めず、自分の考えを世間に知らしめ、他貴族の在り方に文句を言おうものなら、その結果はわかりきっているというのに。
「絶対に王様になります。そして今の国の状態を変えるんです。諦めるつもりは、ありません」
「できないこともあるんだ。ちゃんとそれを見極めろよ。無駄にみんなを危険に晒すな。お前は領主でも全員の安全を保証はできないだろ」
「できないと決まったわけではありません」
「できないに決まってる。実現させる力がないだろ」
そう、それが誰であれ、実現は不可能だ。圧倒的な力で強制させればそれは今の国と変わらない。かと言って生温いやり方ではその思想を夢見ているとしても、誰もついてこれない。安全性という最大の条件が欠けているからだ。
「それでも……っ!」
「――っ! だから! やめろって言ってんだよ!」
決して意見を曲げない、セレネのその態度にイツキが声を荒らげる。
「たった一回、たった一回でも成功する未来が見えたかよ! 今ない可能性が未来で少しでも見えてんのか! 見えてんならそんな顔するんじゃねぇ!」
「それは……」
強く前に出たイツキに押されセレネが退る。
「いいか? これだけはよく聞け。実力がなけりゃ何も成功できねぇ。俺たちにはその実力がないんだ」
少しずつ声の調子を戻しながら、イツキは諭すように話し続ける。かつての自分を見ているような気分のまま。
「だから、王選は諦めなきゃいけない。それでこの場所だけを守ればいいんだ……」
どの世界でも、何をするにも才能というものが必要になる。勉学にも運動にも、まして国王となり政治を進めるというのであればその才能は必須だ。しかも、たとえ今のセレネにその才能があったとしても、その才能でさえ敵わない状況なのがこの国だ。
そしてこれだけは確証を持って言える。
少なくともセレネは、失敗した時の収拾をつける力を持っていない。
失敗の可能性が大きく、その影響もまた大きく、そして収拾がつかない。それなのに自らその道を進むなど、そんなことを許すことはできない。
才能がないのであれば、実力がないのであれば、それ以上を望まず、現状を保つことだけを、たったそれだけを考えればいいのだ。
「――それでも」
「っ! まだわから――」
「この国に殺された妹のために!」
イツキには足りないことが多い。特に頭に血が上った時は人の話を聞かないでいることがある。だが、セレネの言葉は激昂したイツキの耳を突き刺した。
「妹……が、いる?」
これまでに一度も聞いたことがないことだった。村の誰も、ましてやルシールやエリシアさえもそんな話をしなかった。
だが、今のイツキにとってそんなことはどうでもいい。問題はセレネがその話を持ち出したことにある。
イツキはすぐに我に返る。
「その、殺された妹のため……」
「二度とあの子と同じことが起きないように、犠牲になったルナのためにも……」
「……復讐かよ」
皮肉な言い方であることは自覚している。いや、むしろ自らその言葉を選んだ。
「今お前がやろうとしてることは、死んだ妹を盾にして復讐する言い訳を作ってるだけだ」
「違います! そんなことはありません。当然、領民の安全も――」
「だったら!」
何度でも、イツキは何度でもこう言うだろう。
「だったら諦めろよ!」
目の前の無理という壁に馬鹿の一つ覚えのように突進するセレネには、何かを捨てるという考えがない。
誰の人生でも取捨選択は行われる。自分のやりたいこと全てをやるのは不可能だから、だから何かを捨てなければならない時がある。
セレネには領民を守ることと死んだ妹のために国に復讐することの二つを成し遂げるのは不可能だ。――正確には、国王を目指すというのなら、どちらも不可能だ。
ならば、諦めるしかないだろう。
それが今のセレネに必要な取捨選択だ。
「王様になることはできないんだ! だったらそんなことは諦めて今生きてるみんなを守ることだけを考えろよ! 死んだ奴のことなんか忘れてしまえよ!」
「――」
領民の安全、などという言葉が出てくるのなら、それは何より優先することなのではないか。そのための必須条件は国王になることではなく、現状を保つことではないか。それならば、死んだ人間のためなど考える必要はないではないか。
そんなこと、当たり前じゃないか。
「――出ていってください」
「――!」
はっと息を飲み込むと目に見えるものがあった。
小さく呟いたセレネの目は既にイツキには向けられておらず、細い指先が扉を指していた。
「もう二度と、ここには来ないでください」
小さかった言葉が強みを帯びる。そこにあるのはただただ遠い距離だった。二人がわかり合うことはない、決して手の届かぬ場所にある、そんな距離だった。
「――そうかよ」
それがセレネの答えだというのなら、それを変えようとはしないのなら、いいだろう。
「俺は降りる」
視線をセレネから逸らし、背を向ける。部屋の外へ足を向け、躊躇なく進む。
「元々俺の役割なんかあってないようなもんだ。別にいいだろ?」
シルの横を過ぎる。
「できることもないし」
パルムの横を過ぎる。
「ついていけねぇわ」
カインの横を過ぎる。
「どうせ無理なことなんだ。だったら俺はこんなとこにいたくない」
ガイルの横を過ぎる。
「勝手に背負ってろよ」
敷居を跨ぎ、部屋の外の空気に触れる。もう二度とこの部屋に、この邸に戻ってくることはない――。
「――イツキさんは……」
ずっと口を閉じていたシルが、イツキの背中に声をかける。その続きの言葉が少し遅れて聞こえた。
イツキはこれまで、この世界に来てからだけでも、あらゆる経験をしてきた。困惑の毎日というわけではなかった。楽しい生活とも言い切れはしないが、それでも幸せは感じられていた。
だが同時に、焦燥も感じていた。
「イツキさんは何を怖がっているんですか?」
「――は?」
何かを、怖がっている。そんなことがあるはずがない。
イツキは死ぬことさえも恐怖しないのだから。たとえ今、悪漢に襲われたとしても、相討ちにさえ持ち込めばイツキの勝利となる。イツキは死なないのだから。目の前で何人が死んでいこうが、イツキは死なない。だから、死ぬことも怖くない。
なのに、
「俺が、怖がってる……?」
唐突なシルの問いは、イツキが怖がっているかどうかではなく、怖がっていることが前提に置かれた質問だ。だが、それはおかしい。だってイツキが何かに恐怖することなどありえないから。
今この場で、シルの口からそんなことが問われたのだ。今のイツキがまるで何かを恐れているかのような質問をされたのだ。
「そ、そんなことあるわけ……」
振り向き、シルを見遣る。当然、彼女の表情からは冗談というニュアンスは感じられない。
「俺は何も怖がってなんか……」
「戦いが怖いですか」
違う。怖くない。
「死ぬことが怖いですか」
違う。怖くない。
「失敗が怖いですか」
違う。怖くない。
「自分の中の――」
「――違う! 俺の中にそんな奴はいねぇ! 俺は……!」
誰がいるのか。イツキの中に何かが巣食っている、自然、そう感じた。
それは恐怖ではない。だがきっと、それになることが恐怖なのかもしれない。
こんな世界にいれば、いつかその日が来るかもしれない。
「もう……いい」
イツキは再びその場の皆に背を向け、歩みを進める。
「イツキ……、見えてる?」
「……何も見たくねぇよ」
いつの間にかイツキの裾を強く掴んでいたパルムの手を振り解いた。
何も恐れていないはずなのに、何かに恐れている感覚が、蜘蛛の巣のようにずっとへばりついている。気分の悪い感覚を払うために、イツキは走った。
足では長い道を走り抜け、カムスラフスへ辿り着く。暗い道の中、見つけた鳥車に乗り、鞭を鳴らす。
こんな世界にいるから、頭がおかしくなった。理解不能なことばかり。狂気の沙汰で生きていけるわけがない。
イツキはヒナタの待つ集落へビルドを走らせた。
月明かりが妙に照らしてくる。まるでこの世界の一員を見つめるように。
さっさとこんな世界から抜け出そう。イツキはそれだけを考える。
元の世界で、何も起きなかったただの世界の、その片隅で、いつもと変わらない生活を送り、歳をとって死んでゆく。その方がよっぽど楽だ。
馬鹿げた力の亜人なんていないし、魔法を使う魔導士もいない。戦争もないし奴隷制度もない。当然、存在しないそれらに巻き込まれもしない。王選だってないし圧力をかける政治家は民衆に負ける。
自由な世界とは言えないが、それでもこんな世界よりは、ずっと楽だ。
こんな世界世界から、早く――
「――ッ!」
「――!?」
高速で走っていたビルドが鳴き声を上げるとともに不意に足を止め、慣性がイツキを御者台から突き落とした。
一点思考からの解放は思いの外、頭の回転を鈍くさせる。
何が起きたのかを理解するのに時間がかかった。それは単に頭が回らないからだけではない。少しすればビルドが急停止してイツキが投げたされたことは把握できた。だが、何故ビルドが止まったのか、それだけはいくら考えてもわからないのだ。
この国の気温はかなり低い。地図上、大して北側にあるわけではないが、星の大きさと恒星との距離故に、星自体の気温が低いからだ。
その低温の中、微かに感じる違う意味での寒気が、イツキの脳に刻まれる。
「――」
あるいは想起される。ビルドの足を止めたその存在が。
「死神……!」
血の返った黒いマントに身を包み、蒼の単眼を月光に照らす。その背には双剣、そして湾曲した大鎌。頭部に着けられた禍々しい鬼骨面。そこから伸びる荒んだ銀髪。
――なるほど、死神か。
正面少し離れた位置に立つ死に対し、イツキは何もできない。細くなる呼吸を辛うじて続けるだけ。
「……邪魔、黒髪」
「――!?」
それまで無関心であった死の目がイツキを見る。呟きは殺気に変わり、気付けば殺気はイツキの首に触れていた。
何も見えなかった。十数メートル。その距離を瞬時に縮め、同時に大鎌を片手に持っている。
刹那、死神と目が合う。抵抗もなく受け入れたその視線には、やはり関心はなかった。
「は」
思わず零れた笑い声。
イツキの視線は宙を舞い、月は二つに離れゆく。




