第二章5 『あい すてい ばい ゆー』
――ぺたぺたと、だだっ広い浴場に嬉しそうな足音が響く。
足音の持ち主、パルムは、マントとローブを脱ぎ捨て、イツキの世界では「温泉」と呼ばれるそれを、物珍しそうに見つめていた。
セレネは無防備な裸体ではしゃぐパルムを見て、ほっとしたような息を吐く。イツキのアドバイスどおり、シルとパルムを入浴へ誘った甲斐があった、と。
未だ緊張気味のセレネだが、後ろに続く二人が、すでに打ち解けているように見え、自分も頑張らねば、と心に喝を入れる。
後ろに続く二人、シルとルシールは、セレネが見たように打ち解けているわけではなく、ただ似ているだけだ。だが、彼女らの性格だと、普通に話しているだけでも、意気投合しているように見えてしまうのだ。
わかりにくい二人も二人だが、感化されやすいセレネもセレネだ。今回は前向きなものでよかったが、いつもこうとは限らない。
「もっと積極的にならないとです!」
と、勝手に盛り上がるセレネに、再びチャンス。
ここは入浴場だ。ならば、相手の体を洗ってあげる、という行為は、きっとお互いの仲を深めることだろう。
というのも、セレネとルシールの間柄は、ともに入浴することによって深まってきたからである。
だが、セレネがそれを実行するには難点がある。パルムの守護神がいるのだ。守護神、シルが。
彼女はまず先にパルムの世話をしようとする。そんなシルの存在が、そこに入り込んでその関係を一瞬でも壊してしまうことを躊躇わせる。
それに、イツキに言われたとおり、まず信用してみようと考えるのだが、やはりシルが少し怖い。もしも、セレネがとる行動によって、シルの機嫌を損ねてしまう、なんてことがあっては、これまでの努力を水の泡にしかねない。
故に、二人を見つめることしかできないでいるのだ。――ルシールに体を洗われながら。
「むむむぅ……ん? はっ!? ルシールさん! 今日はいいです! 恥ずかしいです!」
どうしようかと、悩むセレネの体を、ルシールがいやらしい手つきで撫で回す。これもセレネとルシールが出会ってからの、ある意味伝統的なことだ。
だが、今年で十三になるセレネは、立派な女性への成長により、徐々に体のあちこちが敏感になってきている。それによって激しくなる反応はさすがに恥ずかしい。
とはいっても、セレネはそういった知識を全く持っていないため、その反応が何故なのかはわからないでいる。
ただ淫らな声を出してしまったり、急に体が跳ねてしまったりするのを他人に見られることが、不思議と羞恥心をかき立たせるのだ。
「それに……セレネはパルムちゃんの体を洗ってみたいんです」
でもシルがいるからなかなか言い出せない。そんな雰囲気を見せたセレネに、
「では私が聞いてきます」
しっかりとセレネの考えを理解し、そのためにできることを惜しまない。そんなルシールに心から感謝する。
冷たい石の床を動じることなく歩き、シルとパルムがいるところへ向かうルシール。それに気付いたシルが、その理由を視線で問う。
ルシールはそれを察して一礼し、
「セレネ様が『体洗いっこ』をご提案されました。どうかご賛同のほど、よろしくお願いします」
さりげなく、「セレネ様が」と付いているのが、シルにはセレネによるお互いの距離を近くするための配慮だと感じられた。――実際には、ルシールの本性が出ただけなのだが。
ルシールは大人しく、優しそうに見えて、かなりの悪戯好きである。セレネや、今は邸に残っているエリシアへの悪戯は、かれこれ八年と三年ほど前からずっと続いている。
だが、セレネにとって、ルシール、もちろんエリシアも家族同然の人物だ。絶対的な信頼を置くルシールの存在はかけがえのないものなのだ。
ルシール、セレネの提案に、シルが首を縦に振る。それを少し離れた場所で見ていたセレネは、心の中で万歳三唱。楽しみな気持ちを見せないように目を逸らすが、かえってわかりやすい。
「で、では、せれっ……わたしにパルムちゃんのお体を洗わせてください」
声を上ずらせながら、予め決めていたことを今考えたかのように言うセレネ。それを知っているルシールは微笑を浮かべる。
指名されたパルムは、その場でビクつき、一瞬シルの目を映す。シルがすっと目を閉じたのを許可と見て、セレネにそっと近づいた。
内心、ちょっと残念なところだが、それを表に出さないのがシルだ。
「ではシル様のお体は私が」
「――。――――。私たちはよくないですか?」
微笑むルシールに沈黙の後そう傾げるシル。にも関わらず、ルシールは「親睦のためですので」と言って聞かない。
本能、というやつだろうか、シルはルシールから、何やら異様なものを感じ取ったのだ。ただの微笑が不気味に感じるのもそのせい。
実際ルシールは、セレネやエリシアと入浴する際に、大抵卑猥な行為や、とんでもない悪戯を仕掛ける。怪我したり、生涯ものの心の傷などはできないが、その場で死にたくなるような羞恥心を得る。――その手の知識がある人にとっては特に。
知識豊富なシルは、本能的に感じた身の危険をどうにかして避けたい。だが、何故かそれをすることができないでいる。
自然と浮き出る危機感の中に、実は何もされないのではないか、という感覚があるからだ。
それはルシールの心の内にある悪戯心のみならず、優しさをも一緒に感じているせいだ。
これに気付けないシルは不安を感じながらも、それ以上の否定を口にも行動にもしなかった。
仲間を疑うなど笑止千万。と自分に言い聞かせ、ルシールに従ってセレネ、パルムペアとは違う洗い場へ行く。
一方、パルムの愛撫権を勝ち取ったセレネは、丸く小さなお尻を冷たい床に、背中を見せてちょこんと座るパルムを案じていた。
「パルムちゃん。これに座っていいですよっ」
見ていられなくなったセレネは、自分が座っていた風呂椅子を差し出し、自らが直接床に座ろうとする。が、パルムは、
「いい。セレ、ネは、えらい、ひと……。だからい、い」
差し出された椅子を押し返し、再びセレネを座らせる。
親切心とは違う言葉で伝えるが、これもパルムなりの配慮である。さらに言えば、パルムは光の魔法により、冷たさを軽減しているため、大して必要ないのだが、そういう考えは頭の隅で小さくなっている。
表では見えにくい親切心を受け、ありがたみを感じれど、自分より年下の、しかも女の子に心配されたとあれば、なかなかに恥ずかしい。だから、
「な、ならっ……セレネの膝に座ってください!」
「……?」
自分の膝をぽんぽんと叩き、迎える準備をするセレネを見つめ、パルムは思考する。
今さっき、自分は大丈夫な旨を伝えたはず。それにセレネの立場も考えた。でもセレネはその上を超えて、自らの膝に座らせようとするのだ。
確かにパルムは小さく軽い。膝に乗せても苦に感じることはないかもしれない。セレネがいいと言うのなら、とは考えられる。
けれども、先に断った内容よりも、セレネにかかる負担が大きのは変わりない。なのに何故、こんなにも迎え入れようとするのか。
いや、実際はわかっている。どうしてセレネがここまでこちら側に尽くそうとするのか。
セレネがパルムにしたいことはなんとなく伝わっている。だが、それ以上に強く感じる想いがある。
十秒程度、じっとセレネの顔を見つめて、ようやく頷いたパルム。その時間の長さに、断られる覚悟をしかけていたセレネはほっと安心。
さぁ、と迎えるセレネの前でパルムは立ち上がり、彼女の膝にそっと腰掛ける。――何故か対面で。
「――っ!? パルムちゃん!?」
少女の柔肌が太腿を滑り、セレネの体と密着する。パルムの身長がセレネよりもいくつか低いため、パルムが上に乗る形となっても、お互いの顔の距離が近い。
慌てるセレネとは対照的に、落ち着いた表情のパルムは、この状況に動じることなく、密着させたまま左右に揺れる。
二人とも先にシルとルシールによってある程度体に泡が付けられているため、擦れ合うことでその泡が増幅する。
そう、これはお互いの体でお互いの体を洗っているのだ。
「パルムちゃんはいつもシルさんとこうして洗い合ってるんですか?」
状況を理解し、だが何故かわからないセレネは、体を擦り続けるパルムに質問を投げかける。
それに首を横に振って否定するパルムは、
「ハープと、だけ」
「……? ハープ?」
とある集落でともに生活していた少女の名前を出す。セレネは当然この少女を知らないから困惑フェイスになる。
ぽつり呟いてその名を繰り返すと、
「ハープは、たった一人の、大切な友だち」
「……友達」
「うん」
シルが出かけている期間、入浴は必ずハープと一緒だ。天真爛漫、遊び心でできているような彼女は、自分の体を洗おうとせずに浴場を走り回っている。
普段、シルがいるときは、パルムはシルに体を洗ってもらっているのだが、いないときは暴れるハープを捕まえて、まさしく『体洗いっこ』をしているのだ。――今のように。
ナイーブなハープに困らされることは多いが、それでも彼女のおかげで、辛いことも悲しいことも、全て洗い流せた。
だから、いつも一緒にいる。寝るときも遊ぶときも食事をとる時も。
彼女といれば何をしていても楽しい。嬉しい。
パルムにとってハープは、大切な親友なのだ。
そして、
「――セレネも」
「――っ!」
思わぬ一言に、はっと息を呑む。
聞き入っていたパルムの言葉に、自分の名前が続いたのは、どういうことなのか。
続く言葉の意味から、セレネも友達、で間違ってはいないのだろう。だが、どういうことだ。
もちろんパルムも社交辞令的に言ったわけではない。
まだ出会って数時間の仲だ。本当の友達とは言えない。でも、パルムは言う。
「これからずっと一緒」
多くは語らず、ぎゅっとセレネを、その矮躯をフル活用して抱きしめる。
パルムは口数が少なく、人見知り、少し臆病。だが、ときに鋭いその観察眼はシルをも凌ぐ。
誰もが気付かなかったイツキの不安を察知し、今回は――セレネだ。
イツキはセレネに、信用が欲しければ信用しろと、そう言った。なるほど間違いではない。
「――」
――足りなかった。
信じてみようと、そう決心していた。でも、やはり怖さは消えてくれない。表向きだけでは信じることが怖い。足りなかったのだ。
心から信頼を寄せるための条件が、足りなかったのだ。
それをパルムが与えてくれた。セレネの不安を感じ取り、行動から何をしようとしているのかを察し、その最適解を導き出してくれた。
パルムが「友達になる」と言ってくれたから、それが信じるきっかけとなり、大きく一歩、踏み出す準備をさせてくれた。
「パルムちゃん……っ」
緊張が解け、溢れ出しそうになった涙を堪える。それでも溢れる涙をパルムの柔らかい指が拭う。
「泣いてる?」
「ううん……。目に泡が入っちゃって」
子供騙しの言い訳を使うが、パルムはきっとそれも見抜いているのだろう。
だから、それを見られまいと、パルムの華奢な体を優しく包み込んだ。――彼女の心音を心地よく感じながら。
滞っていた恐怖は弾け飛び、突き刺さった信頼は厚く、熱い。
――ようやく一歩、進み出せた。
「お優しい子ですね」
二人の様子を離れて見守っていたルシールが、同じくするシルにそう言う。
ルシールは当然、セレネの不安を知っていた。だが、ルシール自身にできることはなく、ただセレネの心の変化を待つことしかできなかった。
パルムがこういった行動を起こすとは予想もしていなかったが、そんな思わぬ展開に、多大なる感謝の念を禁じ得ない。
「此度のご協力、主に代わり、深く感謝申し上げます」
その感謝の気持ちを、この言葉に乗せて。
亜人の代表としてこの場に来ているシルは、丁寧に頭を下げるルシールに、同等以上のありがたみを感じる。
もしも、彼女らが他と同じ貴族なら、シルはこの計画を実行することはできないでいた。
彼女らが「他と違う」貴族でよかったと。
ルシールの「では」という合図とともに、彼女の手がシルに向けて求めるように伸びる。
セレネと同じように椅子に座ってシルを迎えようとしているのだ。だが、当然シルはそれを否定――できなかった。
「とても綺麗なお肌ですね」
「なんか恥ずかしいです」
シルにしては珍しく、いつもは落ち着いたその表情に薄い朱が差す。
何故かルシールの褒め言葉を突っ返せないシルは、迎えられるがままに、ルシールの膝の上に対面で座らされる。ここでも身長差があるため、パルムとセレネ同様に顔が近い。シルには羞恥心しかなかった。
だが――、
「ぁ――」
「――!?」
シルの肌に触れた瞬間、ルシールの意識が消えかかる。目が虚ろになり、ふらふらと体が揺れる。後ろに倒れそうになったところをシルに支えられ、ぎりぎりでその体勢を保った。
「あ、あ、あ……ぁ」
なんと言えば正確だろうか。神秘的、幻想的、人智を超えた神智の域、超自然的。どれも相応しく、だが、足りない。全てを足してもそれを超えている。
ルシールの触れたシルの肌は、人に、生き物に持つことを許されたものではない。神でさえ恐れるのではないかと、そう錯覚してしまうほどに、美しい。
流れる聖水のように粒子ほどの抵抗もなく滑らせ、全てを昇華させてしまうような感覚が、そこにあった。
「ルシールさん! ルシールさん!!」
「――」
その美麗にあてられたルシールは落ちるように深い眠りに入る。
何が起きたのか理解できないシルは、縋ったルシールを揺さぶり起こそうとする。
無意識なのだ。
シルは自分が原因でこうなったことを知らない。それは自分にそれを為すほどの力があることを知らないからだ。
だって、これまでシルが関わってきた人物は皆、そういった反応をしたことがないのだから。
意識が芽生えたころ、すでに傍にいてくれたガイルもフィリセも、ともに生活してきたネルもルボンも、魔法を教えてきたパルムも、誰もこんなことには。もちろんイツキもヒナタも。
ましてや誰かがそんなことを言ったこともない。――恐らく。
だから、何故こうなったのかがわからないでいるのだ。
「パルム! ガイルを!」
「? ルシールさん!? シルさん! どうしたんですか!」
シルの呼びかけに即座に反応し、セレネの体を離れて疾走するパルム。その一瞬のできごとでルシールの異常に気付いたセレネは急いで駆け寄り、状況説明を促す。が、シルにも何が起きたのかわからず、説明することができない。
出せる言葉がないシルはゆるゆると首を横に振り、ただただ俯くだけになる。困惑と罪悪感が混在し、思考力が低下し始めた。
それからすぐにやってきたガイルに、こうなった原因ではなく経緯を問われ、あったままを伝える。
「――まさか、もう……なのか?」
説明を受けたガイルは口の中だけでそう呟き、
「……とにかく大事はねぇ。すぐに目覚めるたぁ思うが、それからでも安静にさせろ。それで大丈夫なはずだ」
パルムが持ってきた毛布でルシールの裸体を包み、軽々とその体を持ち上げる。
セレネの案内で彼女の自室、三重扉の奥の部屋へ運び、深く沈むベッドへと寝かせる。深い寝息に安堵し、何度も感謝の言葉を述べて頭を下げるセレネを横目に、シルの腕を掴み、
「――話がある」
と小声で一言、いつもより真剣な眼差しで放つ。ガイル自身、何が起きたのか薄々理解している様子だ。
そんなガイルに無言で頷き、腕を掴まれたままセレネに一礼し、退室する。
二階の大部屋へ戻る途中、立ち止まったガイルと向き合う形となった。
「ガイル。私は……」
「わかってる。シルのせいじゃねぇ」
俯くシルに先の問題の積を問うことをせず、しかし、険しい表情を解くこともなかった。
「もしかして……これも私の病気せいなの……?」
「――っ」
ガイルの表情に、過去の記憶を侍らせ、その元を思い出す。そして出た言葉がこの「病気」だった。
その単語に息を飲み込んだガイルは、説明し難いといった表情で、実際に説明し難いことを歯痒く感じる。
「――。たぶん、そうだ」
本当は頷きたくない。しかし、苦渋の決断の末、ついにそう答えたガイルは砕けるほどの力で歯を噛み締める。
「私の病気って一体何が起きるの? どんな病気なの? ――なんで私なの?」
「――」
――それはシルがシル・ガーネットだから。
そう答えられるならどれほど楽だろうか。
その「病気は」シル以外の事例がない。だからシルも困惑する。既知ならぬ情報を推測で考えることはできる。だが、これは推測すらも超えて――
「何もわからねぇんだ……」
シルの希望であるガイルが、その説明を可としない。彼自身、なんとかして、そう、命を投げ打ってでもシルを救いたい。でもまだ、できない。
「ただ、あまり人と関わるな。感情が鍵になってるのは、確かだ」
一言、確かに言えるのは、シルの周りでこうした事件が起きるときは、必ずシルの感情の揺れが原因となっていること。
かつて幾度か似たようなことがあった。その経験則からシルの感情が周囲の人間になんらかの影響を及ぼす。
そのことを以前も、ガイルではない誰かが教えたのだが、それはすでにシルの記憶の外にある。
「でもそれじゃあ私の目標は……」
「俺が支える。他の奴も上手く使えばいい。だから――」
一息置く。
ガイルはたった一つだけ、大きな感情を心の中で暴れさせながら、
「俺から離れるな。ずっと俺の傍にいろ」
最後の最後に、結ばれた手をぎゅっと強く握って、そう言い放った。
――ガイルは正しい。否、間違うこともあるが、それはシルを思ってそうだと決めつけているだけのこと。
今回のこの命令も、きっとシルのことを考えてくれている。だから、正しい。
シルには断る理由がなくなる。
「傍に……いる」
残り少ない期限の中で、シルの目的を果たすためには、ガイルに従うべきだ。
彼はシルに嘘をつかない。彼はシルのために最善を尽くす。彼はシルのためなら自らの肉をも引き裂き、骨をも噛み砕く。
そんなガイルを信じている。
もし、この病気の治療薬があるのなら、それはガイルだと言えるほどに。
だから――そばにいる。




