第一章17―1 『いってらっしゃい』
とある貴族の家に訪れ、帰ってきた次の朝、イツキはいつもより明るい表情になっていた。ヒナタはそれが少し嬉しく、心が躍る。
朝の挨拶を交わし、イツキが自分の横に座ったのは自然な流れだったが、自分の好きな人がこうも近くに寄られると動揺を隠せない。
でも、その直後、イツキは神妙な顔つきで謝罪を述べた。
それがどういう意味の謝罪だったのか、イツキは詳しく語らなかったが、ヒナタは察する。その後のカインとの会話でもわかるようにヒナタがいなかった夜に何かがあったのだ。
そのはずなのにイツキは何があったを言おうとはしてくれなかった。そしてそれ以来、イツキとの会話が減った。
それから三日後の夜。ヒナタは寝台に俯せになって考えを巡らしていた。
明日の朝、朝食後だ。イツキたちが出発する。シルに聞いたところ、またあの貴族のところへ向かうらしい。それがどれくらいの期間になるのかを聞くと、一年以内だとシルは言った。長い。
その期間、何をするのかイツキは教えてくれなかった。ただ自分にできることを探してあちこち走り回っていた。
「はぁ……どうなるんだろ、私たち」
俯せの状態から体を捻り、仰向けに。部屋の隅から本棚にかかる魔石灯の光の線を見つめながら、途方もない疑問を口にする。
これから何が始まるのか、どこに行きつくのか、なぜイツキがここを離れてしまうのか。すべてがわからない。
「大丈夫ですよ」
「シルちゃん……」
ヒナタの心配を打ち消そうとする声が、部屋の入り口から聞こえた。水色の、否、白色の髪のシルだ。
彼女は身に纏ったマントを取り払い、ローブを脱ぎながら話を続ける。
「ヒナタさんがここにいる限り、無事は保障します。イツキさんが私たちといる限り、命を懸けて守ります」
「シルちゃんのことは信じてるよ。でも、それでもね、私はイツキ君といたいなって思うの」
「――」
「やっぱり一緒に行っちゃダメなの?」
シルと出かけたときにもわかった。この世界は危険が多すぎる。ここに来る前も捕らわれたし、出かけたときも魔獣と呼ばれる獣に襲われた。
そしてこれからイツキたちが向かうところはもっと危険が伴うだろう。だからきっとヒナタではなくイツキなのだ。それにイツキはヒナタがついてくることを賛成しない。
そんなイツキの意志を無視して、イツキの傍にいたいと思うことは我が儘なのだろうか。
「なんでイツキ君なの? 何をしに行くの? 私は何もわからないまま置いて行かれるの?」
「ヒナタさん……」
シルが、俯くヒナタの前に屈む。
「お願いします。聞かないでください、終わったらちゃんと話しますから」
気のせいか、声が曇っている。顔を上げれば、シルはいつも通りだ。だが、何かがヒナタの心に引っかかった。それが何なのか、ヒナタにはわからない。でも、ヒナタはシルの願いを拒めない。
「どうなるんだろうね……」
やり場のない疑問を音にして、だが、それに答えは帰ってこない。
「でもこれだけは約束して」
シルの手を取り、引き寄せて目を見つめる。
「みんな無事でいて」
限られた中からただ一つ選び、願うとしたら、その場所を守ることだ。イツキがイツキでいられる、その場所を。
「何も成功しなくても、絶対にみんながいないとダメだよ」
「……はい、約束します。みんなが無事で帰ってくることを。――でも」
「――?」
シルは疑問符を浮かべるヒナタにふっと笑い、
「私も我が儘なので。すべて成功させて、帰ってきます」
「――ふふっ」
普段はあまり見ないシルの笑顔と、予想外な子供っぽさにヒナタも思わず笑みを零す。イツキのことが心配ではあるが、彼女を信じる。改めてそう決意した。
「じゃあ、準備手伝いするね」
「ありがとうございます。じゃあ、準備が早く進むように祈っておいてください」
「うん。ってそれだけでいいの?」
「それがいいんです。もちべいしょん、です」
慣れない片仮名言葉を使って慣れないサムズアップをするシル。ぎこちない彼女のこの姿も普段は見ることができないレアな姿だ。
それがいいと言われたヒナタはそのとおりに祈る。祈ると言っても何をすればいいのかわからないヒナタは、それっぽく手を合わせたり座礼してみたりする。元の世界ならあまり違和感のない行為だが、それらを知らないシルは少し動揺していた。
翌朝、いつものようにイツキと朝の挨拶を交わすことはできなかった。
あまりしてほしくない無理をイツキはきっとするだろう。彼がよく言っていた『目立たず、楽に』はそれほど徹底されていないことをヒナタは知っている。いつもなんだかんだで頑張っているのだ。
「いよいよ出発だね」
「ん、ああ、そうだな。何事もないといいんだけどな」
「……そうだね」
まただ。これ以上何を話せばいいのかわからない。言いたいことは山ほどあるのに、それを無責任に言ってもいいのか、そんな戸惑いが生まれてしまう。
そして何も言えないまま、朝食の時間が終わり、出発のとき。
フィリセが出発する五人に話をしている。エイド、ホルン、クロト、ネル、ルボン。次は自分が。
――何を言えば? 自分の心配を伝えることに意味はない。だったら、何を?
「――ヒナタ」
無意識に下を向いて考え込んでいたヒナタにふいに声がかかる。イツキの声だ。彼はその声で何を言うのだろう。どんな感情で、何を――――
「いってきます」
「――」
ただ一言、そう言われた。何の変哲もない一言を。心配するこちらのことなんて何も考えてないような、否、心配するなと言っているような、そんな笑顔で。
ならば、ヒナタがするべきことは一つだ。ただ、祈ればいい。
――帰ってきてね。
「うん――」
――いってらっしゃい。




