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けっきょく、リリーベルは同席していた老医師の「興奮させるのも良くないので」という意見に従って退出し、スノーパール城伯が用意させた着替えを借りて、濡れた長衣が乾くまで客用の一室で待つことになった。侍女が豚毛のブラシで髪を梳いて、乾かしてくれる。
「散々な目に遭いましたね。お嬢さまったら、名高い白騎士さまにこんな無礼を働いて、天罰でもうけたら、どうするおつもりかしら」
「まさか。天罰なんてありませんよ。私はそんな、たいそうな存在ではありません」
腰かけに座ったリリーベルは笑って流したが、侍女の意見は異なるようだ。
「いいんですよ。街の男は、お嬢さまを『理想の美姫』なんて褒めそやしますけれどね。城では、いつもあんな感じです。旦那さまや若さまが甘やかしすぎなんですよ」
「グレイシー嬢のあの状態は、いつ頃から? ずいぶん顔色が悪いようでしたが……」
聖殿長から話を聞いた時点では、「軽症だろう」と予想していた。
しかし実際に本人に会ってみると、グレイシー・シープフィールド嬢はたしかに具合が悪く見えた。城内の医師も白魔術師も、そして父親であるスノーパール城伯も、なぜきちんと治療をほどこさないのだろう。
「あれは仮病ですよ。正確には、断食です」
侍女はあっさり答えた。
「一月ほど前から、少しずつ食事をとらなくなったんです。ご自分の意志で。それで、お痩せになって」
「どうして、そんなことを」
「知りたいですか?」
リリーベルの背後に立っていた侍女は、さも得意げに「とっておきの情報を教える」という表情をリリーベルに近づけ、彼女の返事を待たずにひそひそ、説明していく。
「ここだけの話、お嬢さまは、このスノーパールに恋仲の殿方がいるんです。ですが、大旦那さま……祖父のエバーグリーン辺境伯は、お嬢さまをひきとって王都の貴族と結婚させようとしているんです。それでお嬢さまは、大旦那さまの所に行かなくてすむよう、食事を減らして病気のふりをして、スノーパールに留まろうとしているんです」
リリーベルは拍子抜けした。
わかってみれば、なんということはない真相である。
「スノーパール城伯は、そのことを……?」
「明言されたことはありまん。ここだけの話、どうもお嬢さまの恋人は、貴族ではないようで。おそらく街の豪商の息子か、都から派遣されてきた騎士か役人ではないかと。ですが、旦那さまはお嬢さまには本当に甘いですから。『積極的に賛成はしないけれど、反対もしない』という方針のようで……おそらく、お嬢さまが本気でお願いしたら、しぶしぶ、お認めになると思います。最近は旦那さまも、なんやかんやと理由をつけて、大旦那さまの誘いを断っておられるくらいで」
鬱憤がたまっているのか、リリーベルや城伯令嬢と大差ない年齢の侍女は、訊きもしないのに主家の内情をぺらぺらしゃべっていき、最後に「秘密ですよ」と唇に人差し指をあてると、ブラシを持って客室を出て行く。
髪が乾いたリリーベルは窓辺に寄り、春の花が咲き乱れる中庭をながめたが、先ほどの騒動を思い出してしまい、ため息をつかずにはいられなかった。
(人騒がせな……)
そんな原因で、大事な務めが後回しにされたなんて。
しかしまあ、子供の結婚は親が決めるのが当たり前のこの国で、スノーパール城伯のように最大限、娘の願いを尊重しようという態度は好ましいし、他人に迷惑や心配をかけない範囲であれば、なんとか恋を貫こうと行動するグレイシー嬢の必死さもほほえましくはある。
(でも、食事はとったほうがいいと思うけれど……)
思いつつ、リリーベルの脳裏でなにかがひっかかった。
脳裏によみがえる、水差しを投げつけてきた少女の姿。
明確な言葉にはできない。
けれどこの、もやもやとした違和感は――――
「リリーベル?」
覚えのある声に我に返った。
「カレルお兄さま?」
昼下がりの中庭に出てきたのは、鎧をまとった金髪紫眼の青年だった。
「今日は、普通の服なんだね。最近は白魔術師の衣装ばかりだったから、新鮮だな。似合っているよ」
カレルはリリーベルを一瞥して、まず、そう告げた。
リリーベルが着ているのは畏れ多くも城伯令嬢の物で、胸のすぐ下でベルトを締め、スカート部分はたっぷりと布地を用いてドレープを活かした、白一色の室内着である。
リリーベルは辞退したのだが、スノーパール城伯のため息交じりの「あの娘が無礼を働いたのだから、あの娘が着替えを用意するのは当然」という説得により、濡れた服が乾く間だけ、借りることにしたのだ。
が、着替える原因については口を閉じ、「ありがとうございます」と礼を述べると早々に話題を変える。
「お兄さまも、こちらにいらしていたのですね」
「騎士団長の護衛でね。視察の一環だよ。いつもはスノーパール城伯が同行するのだけれど、今日は城で客人を迎えるというので、こちらまで来たんだ。……『客人』はリリーベルだったのかい?」
「ええ、まあ」
中庭で色とりどりの春薔薇を愛でながら、リリーベルは簡単に、今日、この城に来た事情を説明する。
「グレイシー嬢か。そういえば、ずっと姿を見なかったな。仲間は『スノーパールの白薔薇』を見るのを楽しみにしていたから、残念がっていたけれど。病だったのか。重症なのかい?」
「いいえ。先ほど拝見しましたけれど、エバーグリーン辺境伯の心配のしすぎです。城伯お抱えの医師も白魔術師もいますし、私がでしゃばるまでもありません」
リリーベルはさり気なく、侍女から聞いた話は伏せておく。
「それは良かった。それにしても、辺境伯と城伯は令嬢の嫁ぎ先でもめていると聞いたけれど……診察でまで張り合いはじめたのか」
「ご存じなのですか?」
「噂程度に、ね。辺境伯は孫娘を王都の有力な貴族と結婚させたがっているけれど、城伯は違う縁談を用意しているとかなんとか」
その『違う縁談』が『身分違い』とは、まだ知られていないようだ。
「『スノーパールの白薔薇』は、王都でもちらほら知られているからね。辺境伯としては、孫娘をできるだけ高く売りつけて、王都との縁を持ちたいんだろう。シープフィールド家は、グレイシー嬢くらいしか未婚の女性がいないというし」
「そうなのですか?」
「辺境伯は息子が二人。長男も息子が二人で、次男の城伯が息子一人に娘一人……だそうだよ、たしか」
なるほど、それならグレイシー嬢の嫁ぎ先選びには人一倍、気を遣うだろう。
リリーベルは納得し、別の疑問がわいた。
「カレルお兄さま……お兄さまは、おいくつでしたっけ?」
「どうしたんだい、急に」
「ふと気になって。ちゃんと聞いたことがない気がして……お兄さまも、縁談が来る年齢ですよね?」
「そういうことか」
カレルは苦笑した。
思えば八年前にカレルと出会って以来、温和で賢いカレルは多くの女の子達に好かれてきたと思う。金髪に紫の瞳の、いかにも好青年で、正式に王都の騎士団所属の騎士となった今では、街の娘が想定する結婚相手として申し分ないはずだ。
けれどカレルにそれらしい気配はない。カレルの両親は「そろそろ身を固めてほしい」と思っていそうだが、カレル自身は相変わらず独りで、妹同然の関係であるリリーベルも「想う相手がいる」と聞いたことさえなかった。
「リリーベルまで、そういうことを言わないでほしいな。ただでさえ、父さんも母さんもうるさくて、うんざりしているのに」
「心配なさっているんですよ。どなたか良い方はいらっしゃらないんですか? カレルお兄さまなら、相手の親も文句は言わないでしょうに」
カレルは苦いものを含んだように笑った。
「私はまだ当分、結婚はしないよ。なんといっても妹がこのとおり、まだまだ頼りないお嬢さんだからね」
銀色の籠手をはめた手が、リリーベルの亜麻色の頭をぽんぽんとなでる。
リリーベルは抵抗した。
「子供扱いはやめてください。私もう、十六歳です。きちんと聖殿から白騎士の認定をいただいて、役目も果たしています。そうやって、いつまでも半人前扱いされるのは心外です」
「おや。そうだったかな?」
「そうです。最近は魔物退治も、すっかり慣れましたし……お兄さまがいつ、どなたと結婚されても、支障はありません。安心して結婚なさってください」
「つい先日、転んで魔除けの香をばらまいて駄目にしてしまったとか、何度、練習しても聖水作りがうまくいかないとか、体力作りのつらさで泣いていた気がするんだけれど?」
「いつの話ですか! もう、五年は昔の話です!」
リリーベルは頬をかすかに染めて怒ったが、もともとの顔立ちが可憐なので、あまり迫力はない。緑の瞳が活き活きと輝き、亜麻色の髪が陽に透けて、彼女自身が美しい庭園に住まう妖精かなにかのようだった。
「たしかに……子供扱いは、もう無理かな……」
ぼそりとカレルは呟いたが、リリーベルはちょうど、すぐそばに咲いていた赤い薔薇を見ていて、聞き逃す。
「すみません、なにかおっしゃいました?」
「ああ、いいよ。独り言」
庭園に侍女がやってきて、リリーベルを呼ぶ。
リリーベルは「じゃあ」とカレルに会釈して、侍女のもとへいそぐ。
その後ろ姿を見送りながら、金髪紫眼の青年はもう一度、誰にともなく呟く。
「子供扱いは……しなくていいのかな?」
その後、夕食の時間(貴族は午後四時頃)となり、帰るつもりだったリリーベルはご相伴にあずかることになる。むろん辞退したのだが、スノーパール城伯に「娘が無礼を働いた詫びに」と強く勧められたのだ。
食事の席にグレイシー嬢の姿はなかったが、リリーベルの来訪を知ったカレルの上司である騎士団長が着席しており、騎士団長と城伯、双方から紅の一族第十一位との戦いについてあれこれ訊ねられ、なるほどこれが目的だったのかと、リリーベルは納得した。
日暮れ前、騎士団長はカレル達護衛を連れて帰って行ったが、リリーベルは「スノーパールの街の防衛に活かすため、もっと魔物や紅の一族の話を聞きたい」という城伯に押し切られて、城に一泊する羽目になってしまった。
供をしてきた修道士は聖殿に帰って、事情を聖殿長に報告する。
スノーパール城伯は魔物や紅の一族に関する知識を熱心に求め、リリーベルが解放されて、用意された客用の寝台に入ることができた時には、そこそこ夜も更けていた。
ストックが尽きたため、明日からは不定期更新になります。三日間に一話は更新する予定です。
よろしければ、これからも読んでやってください。