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昨日の残り半分です。
変なところで切って、すみませんでした。
「人を物扱いだなんて……私は、あなたの所有物にはなりません!!」
「では、どんな?」
「え?」
「人間は、他人を欲した時は、なんと表現するんだ? 『他の男と共にいるな』『俺だけを見ていろ』『人生のすべてを俺のそばで過ごせ』。そういう気持ちを告げたい時、なんといえば正しいんだ? どのような台詞を用いる?」
「えー……」
(他人を欲した時の、正しい台詞……?)
剣をかまえたまま、リリーベルは本気で途方に暮れた。
(……そんなの聞いたことない!)
何故なら、リリーベルは十歳で聖殿入りして以降、日々を白魔術の修行と武術の鍛錬と神への祈りと人々への奉仕にばかり費やしてきた。
白魔術師や白騎士は修道女とは別物なので、婚姻や恋愛を禁じられているわけではない。
だが、生真面目なまでに勤めに励んできたリリーベルにとって、恋愛や結婚ほど縁遠かったものはない。忙しい日々にそれらが入り込む余地はなかったというだけでなく、騎士としても白魔術師としても、並みの男を上回る実力者の彼女に、近づいてくる男性は皆無だった。
「え、えーと……」
リリーベルは必死に高速で記憶をさらうが、それらしき情報は出てこない。
真面目にこちらを待つ赤い瞳にますます焦りながら、ようやく、それらしい知識が引っぱり出せた。
「人生すべてを共に、ということなら、『結婚してください』とか『愛しています』とか、いろいろあるでしょう!!」
(……『結婚』!?)
口に出してから、その単語の意味をふりかえった。
(魔物相手に、何を言っているの私――――!?)
どっと汗が噴き出した。顔に血が集中する。耳まで熱い。穴があったら、自分を埋めてやりたかった。
「『結婚してください』……?」
赤い瞳の青年はさらりと黒髪をゆらして首をかしげる。
「そうか。そういう台詞もあったな」
長い足で大きく踏み出したかと思うとリリーベルのすぐ目の前に立ち、剣をかまえた彼女の手をすばやくにぎって捕まえる。
「では、言葉をあらためる。結婚してくれ、リリーベル。俺は貴女がほしい」
「ちっ……違います! やっぱり物扱いじゃないですか!!」
「『愛している』という感覚がわからない。わからない以上は使いたくない。俺は貴女に嘘はつきたくない。結婚なら理解できる。要は、番になるということだろう? 貴女が俺と結婚すれば、俺は貴女をずっと手元に置いて、他の男を寄りつかせずに済む」
リリーベルは内心で『お手上げ』の悲鳴をあげる。
(誰か……誰か助けて――――! なんなんですか、この方!! まったく理解できないです!!)
混乱の極にあったリリーベルを正気に戻したのは、突然、出現した魔力の気配だった。
正確には、先ほどからずっとそこに在ったのに、小さすぎて忘れていたのだ。
赤い蝶が激しく舞い踊り、羽根を妖しく輝かせる。感じられる魔力がぐんぐん大きくなっていく。
「魔物……!」
「ああ」
魔物の支配者の一族の高位の青年は長い腕を伸ばして、難なく蝶をつかまえた。
「魔力を与えすぎた。蝶では器が小さすぎたな」
「魔力を与えた……?」
「貴女をここへ呼び寄せたくて、眷属にした。が、もう限界のようだ」
蝶を捕まえていた長い指が動いて、赤い羽根をにぎり潰す。
大きくなっていた魔力の気配がふつりと消えた。
「どうして……!」
「? なにが?」
「蝶でも魔物なら、あなたの同族でしょう!? 情けはないのですか?」
「魔物だが、蝶だ。同族ではないし、同族でも邪魔なら消すものだ」
紅の一族第六位は不思議そうに答える。
「貴女だって、邪魔者は消すだろう?」
「消しません!」
リリーベルは即答した。
「少なくとも、魔物以外を問答無用に消すようなことはいたしません!!」
「なぜ、魔物ならいいんだ?」
「魔物は人を害し、紅の一族は人の血をすすって堕落させます! 人々を守るため、あなた方魔物を一体でも多く倒すのが、白騎士たる私の使命です!!」
むう、と紅の一族第六位の青年は不満そうに口を曲げた。
「下等な魔物は、たしかに人間を襲うが。俺達、紅の一族は人の血を飲むだけで、殺しはしない。むしろ魔物より穏健なのを、褒めてほしいくらいだ」
「でも、あなた方紅の一族がいるから、魔物が増えるのでしょう!?」
今だって『蝶に魔力を与えて眷属にした』と明言したばかりだ。
「まあ、それは。だが、俺達だけが増やしているわけではないし、むしろ俺達は、魔力を与える状況と相手を選んでいる。そもそも俺達が増やさなくても、自然に魔物化する人間や獣は存在する。そういう体質と運命だった、というだけだ」
「自然に魔物化……?」
リリーベルは戸惑った。あまり聞かない話だ。
「では昨日の狼や、それ以外も……」
「ああ。昨日、貴女を襲った三頭なら、別だ。あれは俺が魔力を与えた」
「え?」
「貴女を泉に連れて来たあと、事情があって貴女を置いて離れた。だから、かわりに狼を三頭、眷属化させて貴女の護衛をさせ、兵士を連れて来させた。意識のない貴女を一人で放置できなかったからな」
そう説明して、思い出したように付け足す。
「そうだ、申し訳なかった。貴女を助けるために眷属化した狼だったのに、処分を忘れたせいで、あの三頭は貴女を襲ってしまった。悪かった」
魔物の青年の謝罪は本気に見えたが、リリーベルはそれどころではなかった。
「あの狼達は……私を助けるために魔物になった、と言うことですか……?」
「そういう言い方はできる」
「そんな……」
リリーベルは胸が苦しくなった。
「それでは、私は恩人に剣をむけたことになります」
剣をにぎる手に残る、肉を裂く感触、骨を砕く衝撃。
これまで白騎士として数多の魔物を浄化してきたリリーベルだが、相手がもともと普通の生き物だった可能性があることを忘れたことはない。
リリーベルを守り、安全を確保するために魔物に変えられたのに、そのリリーベルの手によって殺されたのだ。
あの晩、この青年に見つからなければ、三頭とも今も、ただの狼として森で暮らせていたかもしれないのに。
しかしリリーベルの言葉は、紅の一族第六位にはまるで感銘を与えなかったようだった。
「その理屈で言えば、俺のほうがもっと積極的に貴女を助けている。貴女の恩人のはずなのに、俺は今、貴女に剣をむけられているんだが」
リリーベルは、きっ、と魔物の青年をにらみつけた。瞳が潤んでいる。
「あなたが手を出さなければ、あの狼達が命を落とすことはなかった、と言っているんです! ただの狼だろうと蝶だろうと……魔物になったら、私は浄化する他ないんです!!」
なぜなら、魔物化した獣も人も、確実に生きている人間達を襲うから。
あの狼達も、また。
紅の一族の青年はなにか反論しようとしたようだが、まっすぐに見あげてくる白騎士の乙女の姿に気勢を削がれたのか、ただ肩をすくめる。
「やめよう。貴女と長く話すのは楽しいが、喧嘩はしたくない。怒った顔も愛らしいが、次はぜひ、笑った顔を見せてくれ」
「人の話をきちんと……!」
魔物の青年はリリーベルの話をさえぎって、腰にさげた袋から細長いものをとり出し、リリーベルの首のうしろに両手を回す。身をかたくする彼女の、亜麻色の髪を結んでいた地味な髪紐の上から、緑色のリボンを巻いた。
「こちらのほうが似合うな」
深い緑色はリリーベルの亜麻色の髪も白い肌も、どちらも引き立てている。
「今度、もっと上等のリボンを贈ろう。人間の男はそうやって、気に入った女を口説くのだろう? 宝石も香料もドレスも金貨も、貴女が望むなら望むだけ」
「けっこうです!!」
リリーベルはとっさに、いまだ両手ににぎっていた剣をふりあげたが、勢いは明らかに削がれ、浄化の力もたいして宿っていなかった。青年はやすやすと避ける。
「さらっては行けないが、思い出してもらえたことだし、今夜はこれで満足しよう。また、あらためて訪問する」
「二度と来ないでください!!」
「次こそはさらおう。今夜は、これで――――」
低い美声がリリーベルの耳元にささやくと、しっとりとやわらかい感触が目尻に触れて、恩人の死を悼んでにじんでいた涙を吸った。
「!!」
リリーベルは混乱と恥じらいが頂点に達して、涙も引っ込む。
こんどこそ斬ってやろうと、そちらを向いた時には――――長い黒髪も、白皙の美貌も、赤い瞳もすべて、幻が薄まるように木々の間の闇に溶けて見えなくなってしまった。
とり残されたリリーベルは、しばらく呆然とその場に立ち尽くす。
やがて、怒声と共に愛用の剣を一閃させた。
「なんなんです、あの方っ!!」
ぶん、と剣先が唸って下草を一、二本、切る。
「どうした、第六位」
夜半。
隠れ場所に集った同胞達との酒盛りを終えた紅の一族第五位は、第六位の、人気のない窓辺で深いため息をつく、珍しい姿を発見する。
「……油断した。聖水をかけたり、魔除けの香を染みこませたりしている皮膚のほうがたいしたことなかったんで、涙に触れたら、涙のほうが聖化が進んでいた……」
別れ際にリリーベルの目尻に触れたアルベルテュスの舌は、一滴の熱湯に触れたような痛みを味わい、今もぴりぴり、かるい痺れが残っている。
「白魔術師のことか? そりゃあ、体内で魔力を発生させる以上、外側より、内側から出てくる涙のほうが聖化が進んでいる。わしも昔、白騎士歴三十年の熟練者と戦って、そいつの血を顔と胸に浴びたが。ひどい火傷を負ったうえに、いつまでたっても治らんので、皮膚とその下の肉ごと剥がして、新たに再生させるしかなかった」
「かっかっか」と笑う第五位の顔にも首にも、それらしき傷跡はいっさい見当らない。
アルベルテュスは舌先の痺れを味わいながら、リリーベルに触れた証と思うと、もはや、痛みすら喜びの材料にしかならない己を発見する。
こんなに楽しい、踊り出したくなるような気分は何十年ぶりだろう。リリーベルと会って話した、彼女に触れて抱きしめた、キスをした、彼女から痛みを与えられた、その事実を思い返すだけで、この先、何十年も過ごすであろう鬱屈の時間をすべてしのげる気がする。
『生きている』とは、こうも感覚が鋭敏で、世界に色彩が満ちることだったか。
リリーベルがアルベルテュスを、あの緑が彼のすべてを変えてしまった。
(白騎士だろうが人間だろうが、絶対に手に入れたい――――)




