25
(口があったのね……)
頭上に迫った、異形の魔物の洞窟のような口を見あげて、つい、そんなどうでもいい感想を抱く。そういえば、この魔物が口を開けたところは見たことがなかった。
口は巨大だが、牙はなかった。獲物に噛みついて食い千切ることが目的ではないからだろう。
「さあ、彼女を頼むよ。腿に傷をつけて多少の血は抜いているが、君の中ですべての魔力を用いて、たっぷりと汚してあげておくれ」
カレルはリリーベルの首を離し、かわりに両手を後ろ手に捕えて魔物へ押しやる。
勝利を確信した笑みで、グレイシー嬢を拘束したままのアルベルテュスを見た。
「お前はそこで、指をくわえて見ているがいい。リリーベルが私のものになる過程をな」
「お兄さま……!」
リリーベルは鉄靴をはいた足でなんとか踏ん張ろうと努力するが、カレルはやはり魔物で、白騎士として鍛えてきたリリーベルの脚力をものともしない。
(この魔物を倒す……今の私にできる!?)
リリーベルは抗いながらも、地面に視線を落として剣をさがす。カレルに捕まった際に奪われた剣は離れた位置に転がっており、聖水の小瓶も残りはわずか。そもそもリリーベル自身が四体目の魔物との戦いで、己の白魔術の力の大半を使いきっている。
(冗談じゃない……!)
こんなところで、こんな男によって魔物に堕とされるなんて。
(母さん、父さん……神よ!)
今だけでいい、力が欲しい。
この魔物の企みを阻止するだけの力が。
リリーベルは心の底から痛切に思った。
その願いに、神ではなく魔物が応える。
「案ずるな、リリーベル。俺が、貴女をそんな男に渡しはしないし、貴女が望まないなら紅の一族にもしない」
焦るリリーベルの心を、穏やかな低い美声が鎮めた。
赤い瞳の青年は白皙の美貌に優しい笑みを浮かべて、リリーベルを見つめている。
一瞬、リリーベルは本気で彼なら頼っていい気がした。
「第十三位。言っても無駄だろうから、『やめろ』とは言わん。その代わり覚悟しろ。第六位たる俺に消される覚悟をな」
「ふん」とカレルは鼻で笑った。
「今のお前に、なにができる? 『契約』を優先しなければならない、お前に」
「邪魔くらいは簡単だ」
アルベルテュスは余裕たっぷりに笑った。
すかさず、両手で捕まえていたグレイシー嬢の腕を動かし、青白く変容した両手首を片手で捕えなおす。そして空いた手を自分の口に近づけると、手首に強く噛みついた。
赤い雫があふれ出す。
血が滴るままに、その濡れた手を地面へと突き出す。
いまだ三体目の魔物が倒れたままの地面、四体目が現れたばかりの地面に向かって。
赤い滴が珠となって飛び、地面を濡らす。
強い魔力が飛んだのを、リリーベルは感知した。
彼女の手首をつかんだカレルの手にも、緊張に力がこもる。
妨害の暇はなかった。十滴ほどの赤い珠が地面に染みてから、十秒を数える間もなく。
ふたたび地面がゆれる。
「貴様の材料を使わせてもらったぞ、第十三位」
第六位アルベルテュスの声が聞こえる。
地面が割れ、夜空を突くように現れたのは、五体目の魔物だった。
ただし、見た目は同じ異形でも、その体格は四体目より一回り大きい。
「第六位、貴様……!!」
「共食いになるかな? 行け。そいつをリリーベルに近づけさせるな」
「待ってくださ……!!」
異形の魔物が、異形の魔物に襲いかかる。
五体目は体格差による体重差を利用して四体目に体当たりをくらわせ、石を積み上げたぶ厚い城壁に四体目を押しつける。城壁がゆれ、上にいた警備兵達の驚愕の声があがった。
「やめろ、第六位!! スノーパールが! 私の街を破壊する気か!!」
スノーパール城伯が叫ぶが、アルベルテュスは意に介さない。
「娘が最優先と言ったのは、そちらだろう。望みどおりにしている。目をつぶれ」
城壁を見上げる。胸壁から、何人もの兵士達が驚きと恐怖の表情でこちらを見おろしており、うち数人が白い衣装をまとっている。
アルベルテュスは紅の一族特有の、夜の闇をものともしない卓越した視力で、目当ての人物を選別する。
魔物化したグレイシー嬢を地面に押し倒すと、彼女の首の上に自分で傷つけた手をかざした。赤い滴が一本の細い長い針となってグレイシー嬢の首に刺さり、下の地面に彼女を縫いつける。グレイシー嬢は針を抜こうとして暴れるが、びくともしない。
「第六位!! グレイシーを殺す気か!!」
「少し黙っていろ。『契約』は守る」
言うと、その場を離れた。
長い足を大きく動かし、ほぼ垂直に積み上げられた城壁の厚い壁を、体重が存在しないかのように軽やかに登って行く。いや、『跳ねあがっていく』だろうか。
最後の一跳びで全身が胸壁の上に出た。
「ひっ!!」
白い衣装に身を包んだ、二十歳前後と思しき女が悲鳴をあげる。
アルベルテュスはかまわずに、その女の襟首を捕まえると、重力に従って地面へと落ちた。
「きゃああああ!!」
「コーデリア・ホワイト!!」
仰天したナイト=ベイジルが手を伸ばしたが、服の裾さえ捕まえられない。
コーデリア・ホワイトは地面に激突する寸前、二本の腕に支えられて無傷を維持した。
最短時間で地表に戻ってきた魔物の青年は、わけがわからず呆然としてる城伯を無視して、コーデリア・ホワイトを地面に縫いつけたグレイシー嬢の隣まで運ぶ。
「こ、この魔物は……」
「治癒の白魔術を」
「え? 白魔術? 浄化ですか?」
「治癒だ。合図したら、即かけられるよう、準備しておけ」
「え? え? あの……どなた、ですか?」
「訊くな。言われたとおりにしろ」
アルベルテュスは、赤い針を嫌がってもがくグレイシー嬢の胸の上に、赤く濡れた手をかざす。
コーデリア・ホワイトが気づいた。
「ナイト=リリーベル!? あの方は……兄君!? どうしてこんな所に……って、あの魔物が近いぃ!!」
「待機しろ!!」
背後の巨体のぶつかり合いに気づいたコーデリア・ホワイトが、悲鳴をあげる。
アルベルテュスが、この青年には珍しく、苛立ちも露わに怒鳴った。
リリーベルがいれば「コーデリア・ホワイトは白魔術師で実戦経験も豊富ですが、コーデリア・ホワイトに限らず、白魔術師は白騎士のように最前線で戦うことはありません。白魔術師はあくまで後方からの援護要員で、直接的な戦闘技術や能力は持たないんです。突然、強力な魔物の近くに連れていかれて、とり乱さないはずがありません」と弁護してくれていたはずだ。
アルベルテュスは一気に体内の魔力を高めて、紅魔術の行使に入る。
予測どおり、第十三位の血と魔力は、すでにグレイシー・シープフィールドの肉体のかなりの部分に浸透し、蝕んでいた。
(救いがあるとすれば、血を飲んだのはおそらく今夜、まだ、そう時間は経っていない、ということか。とはいえ、けっこうな量を飲んでいるな。俺のように体質的に合う血でさえ、何十日もかけて少しずつ摂取していかないと、魔物化の危険があると教えておいたのに。こちらの話を聞いていなかったのか?)
アルベルテュスはますます、ここでグレイシーのために時間と手間を割く無益を感じたが、『契約』を交わしている以上、しかたない。
ちらりとリリーベルと第十三位の様子をうかがってから、魔物化した人間の娘に視線を戻した。
「第十三位の血と魔力を抜く。その際、肉体を損傷するから、大きなものだけ治癒しろ。浄化は用いるな、こちらの魔力が半減する」
「は、はい」
コーデリア・ホワイト――――アルベルテュスが、城壁上にいる白魔術師達の中でもっとも治癒の力が強いと看破した白魔術師が、動揺を堪えながら返事する。
コーデリア・ホワイトは、見知らぬ青年の手から、今まで感じたことのないような強力で混じり気のない、純粋な魔力が放たれるのを感知した。
「おのれ……第六位!」
カレルが忌々しげに舌打ちする。
リリーベルはぶつかり合う二体の異形の魔物を、痛ましげな視線で見あげた。
力を与えて目覚めさせたのがカレルであれ、アルベルテュスであれ、あれはもともと、亡くなった人達の体の集まりだ。望まぬ死を与えられた上、死後もこんな風に肉体を利用されるなんて。
「カレルお兄さま。もう、やめてください。なにをされても、私はお兄さまのものにはなりません。紅の一族にもなりません。こんなことは無駄……」
無造作に顎をつかまれた。
「それは私ではなく、あの男を選ぶということか? 君は第十三位たる私より、第六位のあの男が好きなのかい?」
「位階の問題ではありません。私は魔物の妻にはなりませんし、私以外の何者にも、自分を明け渡しません。ましてそれが……家族と故郷の仇なら、なおさら」
リリーベルは明確に宣言する。
澄んだ緑の瞳には力が戻り、そのまっすぐな光は、一途だからこそ悲壮だった。
カレルは嬉しそうに赤い目を細める。
「ああ。そう、そうだよ、リリーベル。そういう君だからこそ、汚し甲斐がある。君のその誇りも気高さも信念も志も、すべてを折って折り尽くして、力を失って絶望と恐怖だけが残った君を、永遠に愛でていきたいんだ」
リリーベルはほぞを噛んだ。
話の通じない男性が、こんなところにもいた。
「なに。君を私のものにする方法は、いくらでもある。この程度で私の計画が妨害されたと思ったら、とんだ勘違いだ」
それはリリーベルというより、アルベルテュスにむけられた言葉であっただろう。
しかし被害を負ったのは、リリーベルだった。
リリーベルを片手で後ろ手に拘束していたカレルは、もう一方の手をあげる。
リリーベルは突然、脇腹に灼熱を感じた。
見おろすとカレルの手が赤く濡れ、胸当の腰にちかい部分がめくれるように裂けて、そこから赤い水が次々あふれ出してくる。
リリーベルは驚愕した。
(鎧を……素手で裂いて、中の肉を切ったの!?)
強烈な痛みが脇腹を襲って全身に広がる。
カレルの手がリリーベルの背を軽く押し、もともと左腿に傷を負っていたリリーベルは容易く地面に倒れた。倒れた際の衝撃が傷に響いて、ますます痛みが増幅する。
呻くと、カレルはその苦痛の声と、自分の手を濡らしたリリーベルの血をうっとりと味わった。
ぶつかり合う異形の魔物達へ、爪先を向ける。魔物達の戦いは、五体目が明らかに優勢だった。
「そこで待っておいで、リリーベル。すぐに戻って来るよ」
言うと、魔物に向かって歩き出す。
リリーベルの目に、倒れたグレイシー嬢とそれを囲むスノーパール城伯、コーデリア・ホワイト、アルベルテュスの姿が見えた。
カレルはゆうゆうと彼らの横を通り過ぎて、魔物に近づいていく。
リリーベルは脇腹を押えながら、這うように地面を移動した。
視線の先には、カレルが投げたリリーベルの愛用の剣。
(なんとか……戻って来る前に……!)
剣までは五十歩ほどの距離。普段なら、どうということのない距離だが。
「ナイト=リリーベル……!」
「おい、集中しろ」
同僚の姿を見て動揺するコーデリア・ホワイトに、魔物の青年の注意が飛んでくる。城伯は無言。視線が娘に固定されている。
グレイシー嬢はもとの身長に戻り、外見もかなり人間だった頃に近づいていた。
(あと少し……)
何年ぶりかで、アルベルテュスは『焦り』『気が急く』という気持ちを味わっている。
リリーベルは移動を速めた。
(あと少し……!)
「待たせたね」
頭上から覚えのある声が降ってきた。
愛用の柄に手を伸ばす間もなく、体が、特に下半身が奇妙に生暖かくやわらかい感触に包まれ、ふわりと浮く。上空へ運ばれる。
「ナイト=リリーベル!」
誰かの声が飛んできた。城壁上の兵士だろうが、確認する余裕はない。
「さあ。はじめようか」
カレルが両腕をひろげてリリーベルを誘う。
リリーベルがいたのは、例の四体目の魔物の口の中だった。
正確には、下半身のほぼ全体を咥えられており、魔物の表面に生えた人間の手が、リリーベルをつかもうと手を伸ばしていた。
月のない夜空を背に、胸を張って魔物の頭の上に立ち、赤い瞳を輝かせたカレルは、魔物の王者のような風格さえただよう。
リリーベルはどっと全身が冷えて、体中に嫌な汗が流れた。
いそいで地上を見おろせば、アルベルテュス達はいまだグレイシー嬢にかかりきりのようであり、アルベルテュスが生み出した五体目の魔物はいつの間にか地面に倒れて、動く気配がない。
「直接、倒したんだよ。いくら第六位が造ったとはいえ、しょせんは低級な存在。第十三位たる、私の敵にはならない」
リリーベルの視線の意味を察したカレルが説明する。
その言葉を証明するように、五体目の魔物は筒状の胴体に大きな穴を開けていた。カレルの仕業だろう。
「さあ。はじめようか」
カレルの赤い瞳がいっそう赤く、邪悪に輝く。
「忠実な私の眷属よ。私の花嫁を呑み込め。彼女の忌まわしく変化した血を一滴残らず吸い出し、髪も肌も手も足も頭のてっぺんから爪の先まで、体の奥の奥深くまで、完全に汚し抜くんだ」
魔物が頭をあげる。
口を開き、重力とリリーベル自身の体重を利用して、一気に腹の中まで落としてしまうつもりなのだ。
「離して!」
リリーベルは魔物の唇を叩くが、魔物が痛がる様子は微塵もない。
「大丈夫。ずっと見ていてあげるよ」
カレルの赤い瞳がうっとりと細められる。
そのまなざしと表情が八年前のあの瞳の記憶と重なり、リリーベルは十六年間の人生でこれほど他人を怒り、憎み、軽蔑したことはない、という目でカレルを見た。
「絶対に、あなたのものにはなりません! たとえこの身が、どれほど汚されようと――――!!」
青年の姿をした魔物が笑った。
「ナイト=リリーベル!!」
ひときわ通る大声が、ななめ横から飛んできた。
リリーベルは首をねじってそちらを見、カレルは興味なさげに視線だけ動かす。
巨体の魔物に咥えられたおかげで、リリーベルのいる高さは城壁上と、ほぼ同等になっている。あるいはそれもカレルの「仲間の無残な堕落を、聖殿の人間達に見せつけてやろう」という計算の一環だったかもしれないが。
その胸壁から、星の光をはじく物が飛んできた。
「使え!!」
とっさに、リリーベルは不安定な体勢から手を伸ばす。
ナイト=ベイジルが投げた、彼の長剣だった。
むろん、たっぷりと聖化の白魔術がかけられ、刃は聖水に濡れている。剣自体が、リリーベル以上の歴戦の勇士だ。
長剣は測ったようにリリーベルのもとに届き、リリーベルはその重い一振りを両手で受けとめ、即座に柄をにぎって鞘を投げ捨てる。
「余計なことを!」
カレルが城壁上をにらみつける。
リリーベルは両手で長剣をかまえた。
「お兄さま……」
一瞬、昔の記憶がリリーベルの頭をよぎる。
真実はどうあれ、この人を『兄』として信じた時期はたしかにあった。
だが一時、目をつぶり、そして開いた時には、リリーベルの心は決まっている。
「それほど私を望むというなら、差し上げましょう。ただし、私はお兄さまの命をいただきます―――――!!」
念入りに聖化された刃が真昼の太陽のように白く輝き、辺りを照らし出す。
「偉大なる光の主、昼の王、数多の星と月の兄、我ら人間の命と日々の守り手よ――――」
残り少ない力のすべてをしぼり出す。
「陽光が地に降るように、その偉大なる御力を、地上を歩く我らに貸したまえ。深き慈悲を、闇の生き物達に分け与えたまえ――――!」
全身の力を込めて長剣をふりあげた。
「いい加減にしろ、リリーベル!!」
カレルが手で光から目を守りつつ、踏み出してくる。
その動きを、横から飛んできた矢の雨が阻害した。
城壁上から放たれた、二十を超す聖化した矢の斉射だった。
その一瞬の隙に。
「――――光あれ!!」
白い輝きが爆発した。
リリーベルは不思議な夢を見た。
魔物も人間もいない世界で、アルベルテュスの話に耳をかたむけている。
アルベルテュスの話題は尽きることがなく、それを聞くリリーベルの興味も尽きることがなかった。
城壁外の騒ぎに目を覚まし、寝間着姿で通りに出ていたスノーパールの市民も、その光に気づく。
北側の城壁の上から、白い太陽のような強烈な光がのぞいている。
「朝……?」
そう勘違いする者もいた。
魔物が断末魔の声をあげてのけぞり、力を失って、筒状の体が折れる。
巨大な口も噛む力を失い、咥えていたものをぽろりとこぼした。
地上から細身の影が飛んだかと思うと、魔物がこぼしたものを空中で受け止める。
巨体が激しい音を立て、地面に倒れた。
土埃が舞いあがる。
コーデリア・ホワイトは土埃に目を傷つけながらも、なんとか目を凝らそうと試みる。
隣にはスノーパール城伯。
城伯は腕に、華奢な金髪の少女を抱いていた。
地面がゆれ、石を積み上げた城壁もふるえて、城壁上にいた兵士達が、ある者は胸壁につかまり、ある者はしゃがんで床にしがみつく。
土埃はしばらく収まらなかった。
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