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青い目をむき、牙をむき、巨大な爪が生えて、見あげていたはずのアルベルテュスと同じくらいの身長になり、肌は木の皮のようにひび割れて死人のように青白い。
『スノーパールの白薔薇』と謳われたグレイシー・シープフィールド城伯令嬢は、その容貌を大きく変容させていた。
アルベルテュスが呆れたようにグレイシー嬢に言う。
「永遠に若く美しいままで生きたい、と言っていなかったか? 鏡を見てみろ。対極の姿をしているぞ」
彼のような飛び抜けた美貌の主に、こんなことをつまらなさそうに言われて、立ち直れる女はどれほどいるのだろう。他人事ながらリリーベルは気の毒になったが、当のグレイシー嬢はアルベルテュスの言葉を理解していたのかどうか。
鎌のような五爪をふりあげ、愛するはずの男性に襲いかかってきた。
アルベルテュスは難なく、それを避ける。長い黒髪さえ、かすりもしない。
「ま、待って……」
リリーベルは立ちあがろうとして左腿の痛みが復活し、よろめく。
剣を抜き、杖代わりにして立った。
「大丈夫だ。すぐに消滅させる。貴女に心配していただくのは、心弾む状況だが」
その台詞の前半を証明するように、アルベルテュスはやすやすと変容したグレイシー嬢の両腕をつかんで、動きを封じる。
実際には、今のグレイシー嬢は大人の男でもたやすく放り投げる程度の腕力を有していたのだが、アルベルテュスがあまりに容易に捕まえてしまったため、リリーベルにその事実は伝わっていない。
アルベルテュスは両手に力を込めた。左右に引っぱって、魔物化した少女を二つに引き裂くつもりだったのだが。
「それが本当に、切り札だと思うのか?」
カレルが意味ありげに笑う。
ほぼ同時だった。
暗がりから蹄の音が近づいてきて、馬のいななきが聞こえたかと思うと、新たな声が飛び込んでくる。
「グレイシー!!」
「スノーパール城伯……!」
リリーベルは驚いたが、よく考えれば当然の展開だろう。
馬に乗って現れたのは、グレイシー・シープフィールドの父親、ロドニー・シープフィールド卿だった。松明を掲げた騎士が、同じく馬に乗って付き添っている。
「グレイシー!! どこだ!!」
スノーパール城伯は声をはりあげる。アルベルテュスが捕まえる魔物の姿は目に入っているはずだか、それがまさか最愛の娘とは、夢にも想像できないに違いない。
「アルベルテュス! グレイシーはどこにいる!!」
(えっ……)
リリーベルは意表を突かれた。
(城伯は彼を知っているの?)
「名で呼ぶ許しを出した覚えはないぞ。位階で呼べ」
呼ばれたアルベルテュスは不愉快そうに告げる。
「これがお前の娘だ、ロドニー・シープフィールド。駄目だと忠告しておいたのに、俺以外の紅の一族の血を飲んで、魔物化した」
「なんだと!?」
城伯は愕然と、アルベルテュスがつかむ異形の人間だった存在を見つめる。
「どういうこと……? 城伯はあの人と……いったい、どういう関係で……?」
困惑して呟くリリーベルに、答えたのはカレルだった。
「スノーパール城伯とその娘は、あの第六位と懇意なんだよ。というより、この街を含めた、この辺り一帯が第六位の領域だ」
「え……?」
カレルはつまらなさそうに面白くなさそうに説明していく。
「普段、紅の一族は各地に散っている。この近辺はあの男の領域下で、あの男は、もう何年も前からスノーパール城伯とずぶずぶの関係で、あの令嬢を餌にもらう約束もしていた。そうやって、自分に都合よくこの街を動かしていたんだ」
「えっ……」
言葉を失ったリリーベルの耳に、当のアルベルテュスからの反論が届く。
「領域なのはたしかだが。『ずぶずぶ』と言えるほど親しくなった覚えはない。街の支配もロドニー・シープフィールドの支配権を認めている。人間の治世に口は出していない、面倒だからな。俺はただ、第二位に頼まれて、人間側の侵攻の情報を得ていただけだ。娘をもらう約束もしていない。本人が『紅の一族になりたい』と言ってきたんだ」
ロドニー・シープフィールド卿が沈痛な表情を浮かべる。市民に、敵である魔物と内通していることがばれた、治世者としての苦悩ではなく、娘の無謀を止められなかった父親としての悔恨なのだが、今のリリーベルにはそこまで読みとれない。
「城伯が……紅の一族と、つながっていたのですか……? なぜ……」
「その方が手っとり早いからだ。俺は必要な情報が得られるし、引き換えに、人間の手に負えない魔物は、人間が気づく前に俺が倒してきた。おかげでロドニー・シープフィールドは魔物の脅威にさらされながらも、致命的な損害は避けてこられた」
「そんな……そんなことが……」
「しかたがない。これも政治だ。敵に完全に抵抗するよりも、裏で融通し合ったほうが、お互いに損害が少なくて済む。おかげでこちらは、最悪の状況をまぬがれてきたのだ」
「だからといって……! 魔物と組むなんて……!」
「政治だ! この街を守るために、必要な手段だ!! 人間側にもっと強力な抵抗の手立てがあれば、こんな手は使わずに済んだ!! これは不足を補うための、必要悪だ!!」
スノーパール城伯の言葉はリリーベルの胸を深く貫いた。
つまり城伯は「リリーベル達、白魔術師や白騎士達がもっと強くて頼りになれば、魔物と裏で取引する必要はなかった。リリーベル達の力不足を、取引という形で補った」と主張しているのである。
リリーベルが傷つかないはずはなかった。
白魔術師として白騎士として、研鑽を積み、経験を重ねてきた矜持が、自負が傷つけられた。
そして城伯の言葉は、リリーベル以外の白魔術師、白騎士達の必死の戦いを侮辱するものでもあった。
(それは……そうかもしれない、けれど……っ)
言葉を失ったリリーベルに、慰めのつもりかアルベルテュスが声をかけてくる。
「気落ちする必要はないぞ。その男はその男が思うほど、俺を手の上で転がしていない。俺や紅の一族がこの街を襲わなかったのは、その必要がなかったからだ。この街に限らず、俺達は街や都を滅ぼすことはない。俺達にとって人間は大事な糧だ。糧を無益に滅ぼすような真似をするはずがない。俺がその男と組んだのは、あくまで情報のためだ。人間側の侵攻計画について、知っておくに越したことはなかっただけだ」
「貴様……! 私の娘を、グレイシーを得ていながら……!!」
「もらった覚えはない。くりかえすが、体質が俺と合うとわかって、この娘から『紅の一族にしてくれ』と言ってきたんだ。あまりにしつこいから、望みどおりにしてやっただけだ」
「紅の一族に……吸血鬼になりたいと、グレイシー嬢自ら望んだ、ということですか?」
「そうだ。そこの男のように、人間の姿と思考をたもったまま、永遠の若さと命を手に入れたいと言ってきた。それで少しずつ、俺の血を与えていたんだが……」
リリーベルの脳裏に閃くものがあった。
「ひょっとして……先日までのグレイシー嬢の体調不良は、絶食などではなく……」
「変化が進んで、人間の食べ物をうけつけなくなっていただけだ。さらに血を与えていれば二、三ヶ月で紅の一族入りするはずだった」
「そんな……」
グレイシー嬢の病に、そんな事情が隠されていたなんて。
しかし。
「でも……それならどうして、グレイシー嬢は急に回復を……?」
「変化を止めた。多少、細かい技術が必要だったが、俺の血をすべて抜いて人間に戻した。まだ初期だったので、成功したんだ」
当のグレイシー嬢の両腕を拘束したまま、アルベルテュスはすらすら答えていく。
「どうして急に、そんなことを……」
「? 貴女は、この娘の体調を気遣っていなかったか? 俺はてっきり、貴女はこの娘の一族入りを望まないと思っていたんだが」
紅の一族第六位は首をかしげた。本気で不思議そうだった。
つまり彼は、リリーベルに気を遣ってグレイシー嬢を人間に戻した、そう言っているのだ。
「……あなたはその理由を、グレイシー嬢に伝えたのですか?」
「伝えた。理由を訊かれたし、説明しないと納得しそうになかったからな」
「納得しなかった……ということは、人間に戻ることを拒否したのですね?」
「ああ。しつこく」
リリーベルは合点がいった。
「私が叩かれた理由は、それですか……」
グレイシー嬢の言っていた『邪魔』の意味がわかった。
リリーベルが余計なことを言うかするかしたために、アルベルテュスが彼女の紅の一族入りを止めたと解釈したのだ。実際には、アルベルテュスが勝手にしたことだったのだが。
「……あなたは勝手です」
リリーベルは呆れをとおりこして疲労を感じた。
「グレイシー嬢とて、生半可な気持ちであなたの血を受けたわけではないでしょう。それなのにあなたは、いったん与えたものを独断で奪った。彼女がどれほど傷つき、失望したと思うのです」
魔物の青年は戸惑ったようだ。
「貴女は、この娘が紅の一族になったほうが良かったと言うのか?」
「そうではありません。ですが、彼女はあなたの都合にふり回されました。あなたは彼女の気持ちを軽んじた、と言っているのです。『勝手』とは、そういう意味です」
アルベルテュスは困ったように、あるいはすねたように首をかしげる。
「俺は貴女が喜べば、それでいい」
「そこまでだ」
背後から腕が伸びてきて、剣を杖に立つリリーベルの首を絞めるように捕まえた。リリーベルの剣を奪って、放る。
「これ以上は、お前がリリーベルと話すことは認めない。リリーベルは私のもの、お前はここで第十三位たる私に敗れ、第六位の位階を汚すがいい。お前の位階は私がもらってやる」
「カレルお兄さま……!」
カレルは優しくリリーベルを見る。
「計画の実行だ、リリーベル。予定より早いが、今夜、君を私のものにしよう。君はこれから、永遠に私のものになるんだよ――――」
「……今度こそ私を殺して、血を吸うつもりですか? ただではすみませんよ……!」
肉体同様、リリーベルの血も聖化が進んでいる。紅の一族第十三位のカレルといえど、飲めば無傷ではいられないはずだ。
どうせ殺されるなら、せめて一矢は報いる。
リリーベルは、そう決意する。
だがカレルは笑って彼女の言葉を否定した。
「殺しはしない。言ったろう? 私は君を生かしたまま、君の恐怖と絶望を味わいたいんだ」
カレルはリリーベルの首を捕えているのと反対の腕を伸ばす。
その手から強い魔力が飛ぶのを、リリーベルの白騎士としての感覚が察知する。
魔力はアルベルテュスとグレイシー嬢の横をすり抜け、彼らの背後に落ちた。
いまだ浄化が済んでいない、あの異形の魔物の屍。正確には、その下の地面へと。
地面はカレルの魔力を吸い込み――――鳴動した。
「!!」
「なんだ!?」
リリーベルが、スノーパール城伯が身をこわばらせる。
地面がゆれ、地を割って飛び出すように現れたのは、芋虫型の巨体だった。
表面に無数の人間の手足がうごめき、顔が埋まっている。
「四体目……!!」
「さあ、結婚式のはじまりだ」
驚愕するリリーベルにカレルは高らかに宣言し、悪魔そのものの笑みを浮かべる。
「あの魔物は君のために用意したんだよ、リリーベル。あの魔物の魔力と存在で君を汚し、君の肉体の聖化を無効化する。そうして私の血を飲む。君は紅の一族になるんだ、リリーベル。永遠に私のそばで、その絶望と恐怖を私に捧げつづけるんだよ――――」




