19
昨夜につづいて今夜も空を飛ぶ。
二度目のせいか、昨夜ほどの驚愕や恐怖は感じなかったが、やはり地面に足がついていないのは心もとない。
紅の一族第六位アルベルテュスは、城壁の上空でぴたりと停止する。鳥のように旋回することさえない。
「これも紅魔術ですか?」
「貴女方人間のいう『魔術』の定義を、正確に把握しているわけではないが。『俺の能力か?』と問われれば、そのとおりだ」
リリーベルはアルベルテュスの肩をしっかりつかみながら、恐ろしさをこらえて下を見おろす。月が出ていないうえ、多少の距離もあるので、人間のリリーベルの目では多くを視認できない。
まず、城壁上に等間隔に設置された松明の小さな光が視界に入り、次いで、外側のある部分だけ、同じような小さな光がばらついて散っているのが目に映る。その散っている光が時折、消えたかと思うと現れ、現れたかと思うと消えるのだ。
「暴れているな」
「今日の天気は晴れ」程度の調子で告げられたアルベルテュスの言葉で、リリーベルはようやく、その巨体の輪郭をわずかに視認できるようになる。光が消えたり現れたりするのは、動く魔物の体のむこうに見え隠れしていたからなのだ。
「あそこには、警備の兵士やナイト=ベイジル達がいるのに……!」
「生きた人間はあまりいないな。死んだ者なら五人以上、転がっているが」
「そんな……!」
紅の一族の瞳には、この暗さも距離も障害ではないらしい。淡々と情報を伝えてくる。
リリーベルは胸がしめつけられた。
自分が先ほど、無駄に長話をしていなければ……もっと早く行動に移っていれば、この事態は防げたのか?
後悔が胸を満たす。
が、今はそれに浸っている暇はない。
「おろしてください! あの魔物を浄化します!!」
アルベルテュスの反応は鈍かった。
「危ないぞ。隠れて待っている気はないか?」
「ありません!!」
耳元で怒鳴られ、もともと聴覚も優れている紅の一族は思わず顔をしかめる。
やれやれ、とリリーベルを抱え直した。
「魔物のそばでいいのか?」
「そうです」と言いかけ、リリーベルは考え直す。
「城壁の上におろしていただけますか?」
人型の流れ星が、高い石の壁の上へと流れる。
「どんどん射ろ!! もっと矢を持ってこい!!」
「聖殿への伝令は!?」
城壁上は大騒ぎだった。弓をかまえた兵士達が胸壁から身を乗り出し、地上で暴れる魔物に次々、矢を放っていく。矢はむろん聖化しているし、弓兵の横で槍を抱えた兵士が聖水の小瓶を魔物に投げつけたりと、攻撃自体は絶え間なくつづいているが、いかんせん相手の体が大きいのと、おそらくは皮膚が固く厚いのとで、あまり効いている様子がない。
昨日と違い、月の出ていない夜だということも影響しているだろう。人間側に圧倒的に不利な条件だった。
「どいてください!」
「ナイト=リリーベル!?」
リリーベルは胸壁の一つにとりつき、地面を見おろす。
彼女が突然、背後から現れたことを不審に思う兵士はいない。それどころではないし、いたとしても、休憩で城壁上に来ていたのだろう、くらいにしか考えないだろう。
リリーベルは空にいた時よりも、もう少し詳しく状況を視認することができた。
先ほどまでリリーベルも警備にあたっていた場所に松明が錯乱し、あるものは消えかかり、あるものはすぐそばに兵士が倒れている。三人の兵士達が大声を出しながら槍を突き出しているが、魔物にはたいした牽制になっていないようだ。魔物は昨日同様、芋虫のような巨体でじりじりと兵士達に迫り、兵士達は逃げる隙も見つけられない。
そこに白い光が閃いた。
線のように細いが鋭い光が一閃、二閃して、魔物の太い胴体を斬る。
効果があったらしく、魔物は身をよじって例のおぞましい悲鳴をあげた。
「ナイト=ベイジル!!」
リリーベルが、あるいは彼女の横にいた兵士達が叫ぶ。
白騎士であるナイト=ベイジルが戦っているのだ。おそらくは実質、一人にちかい状態で。
リリーベルは数秒間、注意深く魔物と白い光を凝視し、その動きを見極める。
「聖水を!」
リリーベルは手近な兵士から小瓶を奪い、腰から愛用の剣を抜いて瓶の中身を刃にかける。腕も籠手も、胸当や顔も濡らした。
「ナイト=リリーベル!?」
白い衣装に身を包んだ女性が駆けてくる。
同僚の白魔術師、コーデリア・ホワイトだ。
「聖化の白魔術を!」
「え? ええ!?」
コーデリア・ホワイトは急な要求に目を瞬かせながらも、リリーベルの注文通り、彼女の剣に聖化の白魔術をかけてくれる。リリーベル自身も聖化の術は扱えるし、聖水も持ち歩いているが、あの魔物相手に戦うなら、自身の力も聖水も少しでも温存しておきたい。
飛びあがるように、胸壁の縁に乗った。鉄靴をはいた足の下に、あの魔物の巨体がある。体から生えた無数の人間の手足が、誘うようにうごめいている。
リリーベルは剣の柄を両手で持ち、かまえた。
「ナイト=リリーベル!?」
誰かの戸惑うような声が聞こえたが、応えている余裕はない。
「偉大なる光の主、昼の王、数多の星と月の兄、我ら人間の命と日々の守り手よ――――」
聖句を唱えはじめる。聖水が、剣の刃が浄化の力を宿し、自身の体内を力がめぐりはじめるのが感じとれる。
リリーベルは眼下を見おろした。
魔物の頭(と思しき部位)が自分の位置を通りすぎた、その瞬間。
「ナイト=リリーベル!!」
飛んだ。
胸壁から一直線に下方に落下する。
同時に、聖句の最後の一言を唱えて、腕をふりおろした。
「光あれ!!」
ひときわ強い白い輝きが放たれ、それが魔物の、人間でいうところの背骨に沿って勢いよく移動する。斬られた部位がぱっくりと口を開ける。
剣を魔物の背中に引っかける形で落下したため、落下の勢いは減速し、リリーベルは両膝のやわらかさを利用して衝突の衝撃を逃し、魔物の背中に着地することに成功する。
彼女の眼前には、自分が開けた長い傷口があった。
血や体液はあふれない。強い浄化の力によって、傷口が黒く炭化しているだめだ。
これでどうだ? と思ったのもつかの間、リリーベルが乗っていた床は大きくゆれた。
魔物が激痛に身をそらしたのだ。
予測していたリリーベルは魔物の背を跳ねるように移動して、地面へとすべりおりる。
五秒か六秒、身をそらした魔物はそのまま、棒立ちのような体勢でかたまる。痛みに全身が硬直したのだろうか。
二つの方向から、特に強い白い光が閃いたと思うと、魔物の筒型の巨体は三つに切断され、土埃を舞いあげて地面に倒れた。
リリーベルは咳き込む。目に埃が入って、涙が出た。
「ナイト=リリーベル!!」
ナイト=ベイジルの声が聞こえる。リリーベルと同時に魔物にとどめを刺したのは、彼の剣だ。
リリーベルが彼の姿を探すと、ナイト=ベイジルはリリーベルの物より大きい剣を杖代わりに立ち、頭から血を流していた。
リリーベルは先輩であり上司である白騎士に駆け寄る。
「ナイト=ベイジル、お怪我を?」
「かすっただけだ、心配ない」
ナイト=ベイジルは手巾で額を押さえる。
「助かった。礼を言う」
「ナイト=ベイジルが、あの魔物を引きつけてくださっていたからです。二度はできません」
さすがに、あの高さからの落下は肝が冷えた。二度は無理だ。
それにしても。
「三体目が出現するなんて……やはり、昼間の浄化だけでは足りなかったのですね」
「それもあるが……大勢いたため、油断していた。魔物の術者が現れたのだ」
ナイト=ベイジルの大柄な壮年の肉体がかしぐ。リリーベルはいそいで手を貸した。
「術者が……!? やはり、黒魔術師ですか? いったいどこの何者が、なんの目的で……」
「あの顔には、見覚えがある。あれは……」
「え?」
ナイト=ベイジルは呻き声をもらして、その場に膝をついた。
「ナイト=ベイジル……足を!?」
よく見ると、ナイト=ベイジルの腿当がへこんで切れ目が入り、そこから血が流れ出している。リリーベルの物より、厚く頑丈なナイト=ベイジルの鎧を切るとは、あの魔物はそれほどの力を持っていたのか。
「ナイト=ベイジル、ナイト=リリーベル」
ちょうど、逃げ惑ってた兵士達が戻ってきた。どの兵士も、汗まみれの顔に恐怖の跡がまざまざと残って、抱えた槍が折れている者もいる。
「ナイト=ベイジルを城壁内に運んで、手当てを。倒れている他の兵士も、まだ息がある者はすぐに……」
「待て、ナイト=リリーベル」
兵士達に指示を出し、自身は倒れている者達の生死の確認に向かおうとしたリリーベルの手を、ナイト=ベイジルの手が籠手ごとつかんで引きとめた。
「すぐに、身を隠……っ、あの術者は……狙いは……」
「リリーベル?」
覚えのある若者の声が割り込んできた。
「カレルお兄さま?」
松明を掲げ、鎧を着込んでやってきたのは、兄代わりの青年だった。金髪が炎に照らされて、赤っぽく染まっている。
「魔物が出たと聞いて……リリーベルが倒したのかい?」
「いえ、私ではなく、ナイト=ベイジルと……」
カレルはきょろきょろと周囲を見渡す。
彼がここに来たのは、騎士団長の命令をうけてのことだろう。戦況によっては、騎士団も出動しなければならないと判断されたのだ。
リリーベルはカレルに状況を報告しようと、歩き出す。
「待て、ナイト=リリー……」
ナイト=ベイジルの制止をさえぎるように、一つの人影がリリーベルの前に出た。
カレルとリリーベルの間に、すらりとした長身を割り込ませる。
長い黒髪、広い肩。炎に照り返されて、なお白い肌。
紅の一族第六位、アルベルテュスだった。
「え……」
カレルが戸惑ったのが伝わる。
リリーベルは焦った。
人間に酷似した姿をしてはいても、アルベルテュスの瞳の赤い色は明らかだ。
魔物とすぐにばれてしまう。
「なにを……」
「リリーベルに近づくな」
前へ出ようとしたリリーベルを制して、アルベルテュスはカレルをにらみつける。
「リリーベルは、俺の妻だ。貴様が近づくことは許さない」
「は?」
カレルが驚いたような呆れたような声を出した。




