1 天国と地獄 -3-
少し後に彩名ちゃんから電話がかかってきた。あんまり機嫌がよくなかった。
「いいよね、あんたは。楽しく旅行に行ってさ。私のことなんか忘れてたんでしょ」
最近の彩名ちゃんは小さい頃みたいに素直に話してくれることが多くなった。けれど、こういう風に小学校の時のような意地悪な言い方をすることもやっぱり結構ある。
「忘れてたわけじゃないよ」
私は言い訳した。
「時差があったから、連絡しにくくて」
嘘じゃないけど、彩名ちゃんに連絡するのはいまだにちょっと緊張してしまうというのも本音ではある。
「自慢? あんたって嫌なやつだよね」
案の定、彩名ちゃんの声がいっそう尖った。おばあちゃんの家に行った話をすると『海外旅行に行ったのを自慢している』とか、『海外に親戚がいるからいい気になってる』って思われるらしい。
私は純日本人同士の親の方がうらやましいのだけれどなあ。そうしたらきっと、いつでもよそ者みたいな気分にならなくていいと思うから。
「いいよね。家族で外国行って、友達とわいわいやって、好きな人もいるんでしょ。あんたばっかり幸せでズルい。私はひとりぼっちでさ、体の具合もまだ悪くて寝込んでばっかりで、医者も施設のやつらも冷たくて誰も心配してくれないのに」
そう言われてしまうと、私は何も言えない。
彩名ちゃんの言うとおり、家族も友達も好きな人も傍にいてくれる自分は幸せなんだよなあとも思う。
「ねえねえ」
彩名ちゃんの声がねっとりした感じになる。これは私のことをうんといじめようと思っている時の声だ。
「あんたの好きな人って、あのオジサンでしょ。付き合ってんの? もうヤった?」
「付き合ってないよ……」
私は力なく言った。彩名ちゃんが殺されそうになったのを助けた時、先生が一緒にいて手助けしてくれた。
意識がぼんやりとしていたはずの彩名ちゃんだが、あいにく大人の人が私を助けてくれたことだけは覚えているみたいなのだ。
「学校の先生だって言ったでしょ。付き合うわけないよ」
「何で。関係ないじゃん。隠さなくてもいいよ、私、誰にも言わないし」
「だから隠してないよ」
私の声はだんだん小さくなる。こういう時の彩名ちゃんは何を言っても信じてくれないから、どうしたらいいのか本当に分からない。
「あんたのすぐいい子ぶるところ、嫌い」
ほら、言われてしまった。
「そんなわけないじゃん。ただの先生が、私の家までついて来てくれるわけないじゃん」
「先生は優しいから……」
それにあの時は他にもいろいろ事情があって、たまたまああいうことになったのだ。
けれどそれを全部説明してもどうせ彩名ちゃんは聞いてくれないだろうし、下手すると『言い訳しないで』ってもっと怒るかもしれないし。
「ウソばっかり」
やっぱり話を聞いてくれない。
「バーカバーカ。そんなの信じるわけないじゃん。ウソつかないでよ、友達だって言ったじゃん。それともあっちがウソなの? ひどい人だよね、あんたって」
もう私は黙り込むしかない。何を言ったらいいのか全然分からない。
「取り繕わなくていいのに。私だってタケヒロといっぱいヤったんだからさ。大人と付き合ってる同士、ホントのこと言ってくれたっていいじゃん」
「だから付き合ってないってば。片思いだよ」
私は重い気持ちで最低限の否定をする。
それから彩名ちゃんの言葉の何かがどうしてか気になって、聞かなくていいことを聞いてしまった。
「ね。やったって何を?」
「は?」
「さっきから彩名ちゃん、やったって言うけど何をやったの?」
「は? アンタ馬鹿?」
うーん。確かに自分はあんまり頭が良くないんじゃないかと思うけど。
意味が分からなかったから聞いてみただけなんだけどなあ。
「ごめん、もういい。私、頭悪いからよく分からなかっただけ」
そう言って話を打ち切ろうとした。ついでにそろそろ電話も終わりにしようと思ったのだけれど。
「マジで聞いてるの?」
彩名ちゃんの口調が変わった。
「何だ、そうなんだ。忍ってお子様なんだねー」
やけに嬉しそうだなあ。急にどうしたんだろ。
「いいよ、じゃあ教えてあげる。ヤるって言うのはね……」
その時は本当に、それが地獄の始まりだなんて思わなかったのだ。