第6話:貴族の世界とコルセットは本当に窮屈だと思う件
窮屈だ。
本当に、窮屈。
この貴族の世界は、本当に窮屈だと思う。
ドレスの、胸を締め付けるコルセットにはじまって。
朝、突然ブレトンが部屋にやってきて頭の傷を消毒された。
「いっだだ……!」
「我慢してください。」
傷自体はそんなに深くないけど、打ち身の傷が酷くて、腫れていたらしい。
「もー、痩せ我慢せずに訴えて!こういう時は!」
「ご、ごめんなさいってば!」
だから優しく治療してよ!
ブレトンが薬草を塗った湿布を頭に張り付けて、はい完了、と言った。
「……臭いわ。」
「薬草なんですから仕方ないでしょう。」
ま、いっか。どうせ今日も書斎の片付けとか、子爵の看病だけで、外に出ることはないもの。
さぁ働こう、と立ち上がった時、すでにブレトンは薬箱を持って部屋を出ようとしていた。
「あ、ブレトンさん!」
「はい?」
「ありがとう。」
「……どういたしまして。」
にこりと彼は笑って、部屋を出ていった。
子爵の寝室に向かうと、子爵はすでに起きていてベッドの上で仕事をしていた。
薬草のにおいに子爵はすぐに気が付いて笑った。
「少し……匂うね。」
「ほっといてください。」
女性に対して匂うとか言うのはどうかと思うわ。
「だけどそれは効きがいい。すぐに腫れも引くだろう。」
「だと嬉しいんですけど。で、今日の書類はどこからですか。」
「ん。ありがたいね、本当に。」
子爵が不自由なのは私のせいなので、ありがたいと言われると複雑な気持ちになる。
「これはもう目を通したよ。お願いできるかな。」
私は子爵から書類の束を受け取り、頷いた。
午前は子爵が目を通した書類に判を押したり、時には何かを書いたりした。子爵に必要な資料があれば、私が机の上から探して渡す。その繰り返し。
お昼には椅子を押して食堂へ。
3時にはおやつとして林檎でも向いて食べさせる。
夕方には書庫に行って、生理整頓にいそしむ。正直、この時が一番心安らぐ。
これが、ここ数日の私の一日の仕事だった。
***
夕方、いつものようにメアリーがピピをつれて、こっそりと書庫にやってきた。
「子爵大変そうね、まだ良くならないのかしら?」
しっかり主を心配するメアリーは、いい召使だと思う。
「さぁ。もう随分良さそうよ。精神的にはぴんぴんしているんだし、早く治って欲しいわ。」
この書庫の仕事に集中するために。
「でも、やっぱり仲睦まじいのね!看病してるんでしょう?」
ピピが目を輝かせて言う。
「仲……?」
仕事です。
「あ、ねぇねえ!パーティはどうだった?」
「え、あぁ……。」
あの最低最悪な思い出しか残らなかったパーティーのことか。
「煌びやかで、圧倒されたわ。」
無難な感想を述べておいた。
「ね、素敵な殿方はいた!?」
「ばっかねー!ラピスには子爵がいるでしょ!」
「でもー!」
もうこの2人の妄想を止めるのは不可能だから、これ系の話を訂正するのは諦めた。
「殿方といえば、あの人に会ったわ。子爵の昔からの友人の……、なんだっけ名前。」
名前を覚えるのが苦手だ。
「あ、ミケルだ。ミケルさん。」
「ええっ!?ミケル様っ!?」
「お話したの?!」
「すっごい!うらやましい!」
「に、憎いわラピス!」
2人のテンションがこれ以上なくオーバーヒート。
「ええ?!」
確かにカッコよかったけど、そんなに有名なの?
彼の評価に納得がいかないわけじゃないけれど、自分にとってはミケルの存在はある種トラウマ的体験の一端なので、憧れじみた気持ちは微塵も生まれなかった。
それからパーティーの楽しげな演出などについて共有と雑談をした後、2人は仕事に戻ると言って立ち上がった。
「ラピス。」
「ん?」
部屋を出ようとしたピピが振り向いて耳打ちしてきた。
「今日、夕食の後、ちょっといい?」
「え。何?いいけど。」
「ありがとう。メアリーには内緒よ?」
彼女はふふっと笑った。
「うん。でも10時くらいでもいい?食後、色々、子爵の面倒……、看病があるから。」
「うん!」
ピピはにっこり笑って去っていった。
***
夜、食事を終えた後、子爵の車いすを押して寝室に向かう。
「そういえば、ブレトンさんは?」
「いないよ。仕事を任してる。」
ブレトンは、今日全然姿を見せなかった。やはりブレトンはいわゆる『お付きの人』ではないようだ。
「……もしかして、夜の?」
「ん?なんだいラピス?」
「なんでもありません。」
変な想像をして寒気がしただけです。
そうこうしているうちに寝室につき、子爵はベッドに腰を下ろした。
「ラピス。後で頼みたいことがあるんだけどいいかな。」
「え?あ、はい。いいですけど、後とは言わず今すぐでもいいですか?」
「そう急かずともいいだろう。せっかちだな君は。」
「一応、約束があるんで。」
「約束?誰と?」
子爵はじっと見つめてきた。
「誰でもいいでしょう。」
プライベートです。
「……もしかして、男か?」
「はあ?」
どうしてそうなる。
「困るな、ラピス。」
「わ!」
ぐっと手を引かれて引き寄せられた。
近い、顔が近いってば!
「君は表向き、私の“特別な君”なんだよ?」
「いっ、いつ、そうなったんですかねぇ?」
「あの夜のパーティーから。皆にお披露目も済んだしね。」
「……聞いてませんけど。」
「分かってるもんだと。」
……ああ、もう!
「男じゃありませんよ!女です!それが分かればいいでしょう!」
「うん。よろしい。」
ぱっと、手を離される。私は急いで子爵から一歩遠ざかり睨みつけたが、子爵は楽しそうに笑っていた。
これは完全に遊ばれている。いらっとした。
「それで?!用件は!」
思わず怒気を含んだ声が出る。
「うん。実は、書庫にある本をいくつか持ってきてほしいんだ。」
「ん、読書ですか?」
「いや、勉強だよ。」
貴族って大人になってからも勉強するんだ。
「わかりました。で、どの本ですか?」
頼まれたのは、難解そうな薬草学の本だった。
***
「いっけない、遅れそう。」
なんだかんだ、書庫へ向かうのが10時ぎりぎりになってしまった。
私は廊下を音をたてないように走った。
廊下は古い城だからか石でできているところが多い。それは靴の音をかなり響かせるので、特に夜は少々気を使った。
「ごめん、ピピ!遅れたかも!」
書庫の扉を開くとすでにピピは来ていた。
「しー……っ!ラピス、静かに!」
「わ、ごめんっ。」
ピピは微笑んで、持っていたろうそくから、部屋のろうそくに火をうつした。ぼうっと部屋が明るくなる。
「ごめんねこんな時間に。」
「ううん。いいわよ。それで、何?」
「うん。実はね、子爵のことで。」
「子爵?」
子爵の話をするために、わざわざこんな時間に呼び出したの?
「えぇ。子爵って、その……アレでしょう?」
「アレ?」
「もう、わかってるでしょ。ほら、ブロイニュの……。」
「……あぁ。特別な、ってやつ?」
確か、ブレトンが言ってた。伝統を守る者とかなんとか。
「そう。私も初めはそれが怖かったんだけど、意外に子爵って普通の貴族って言うか。」
他に貴族を知らないが、私はあんまり普通じゃないと思う。
しかしこの流れ。これはまさか、『子爵が好きなので協力して』コースかな。
「でも、私。聞いてしまったの。子爵が隠し持ってる『魔女の粉のレシピ』が、なくなったって……!」
「え?」
意外な方向に話が飛んだ。
「ブレトン様が、今全力で探しているそうよ……!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!何の話をしてるの?」
魔女の粉のレシピ?またこの話?どうしてピピが?
混乱する。
「ねぇ。ラピスがやったんじゃないの?」
「………………は?」
思考が停止した。
「本当のことを言ってラピス!友達を疑うなんてしたくないの。」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
何それ、全く話が見えない。思考も追いつかない。またしても状況把握率が10パーセントを下回る。
「レシピが無くなったのは、あなたが来てからなの。使用人の間で、あなたが怪しいってことになっているわ!」
「ええ!?」
「私はあなたの味方よ!だから、今すぐ逃げてほしいの!このままじゃ殺されてしまうわ!もし取っていたのならなおさら、取っていなくても……、罪人には厳しい子爵よ!拷問されてしまうかもしれない!」
「はぁ!?」
ピピの必死な様子に嘘はなさそうだ。だが、先ほどの子爵の様子から、そんな疑いがかけられているとも思えない。
「逃げる手はずはしてあげる。だから逃げて!」
「で、でも私!取ってなんかないわよ!」
「そんなの分かっているわ!でも、子爵は知っての通り恐ろしい方よ!何されるか……!」
確かに子爵は恐ろしい。躊躇なく人も切り捨てる。しかも嘘つきだ。だけど、話が通じない人では絶対にない。
それは、確信をもって言い切れる。
「……じ、自分で子爵に話つけてくる!」
「ダメよ!逆効果だわ!」
「私は何も悪いことしていないんだもの!堂々と胸を張って言いきってやるわ!」
必死に止めるピピを振りはらって、私は書庫から出ようとドアノブに手をかけた。
ピピが追いかけてきて、後ろから抱きつく形で私を止めた。
そして、カチャンと扉のカギを閉める。
「ピピ、大丈夫だから!」
「思っていたよりも、ずーっと、強情な人なのね。」
急に、ピピの声色が変わった。
「汚らわしい武民の血が流れている人だもの、当然か……。」
先ほどまでの高い声とはだいぶ違う、乾いた声。別人かと思い、後ろを振り向くが、そこにはピピしかいなかった。
「ピピ?」
「あっははは!」
突然ピピが高笑いした。ぎゅっと、私を後ろから捕えたまま。
「馬鹿ねぇ。」
カチン、という音がした。隠し持っていたらしいナイフを開いて、ピピは私の首筋に冷たい刃を突きつけた。
私はその現実に汗が噴き出したのを感じ、今自分の身に起きていることを理解した。
「逃がしてあげるって言ったのよ?」
「ピピ……、ちょっと。危ないよ……それ。」
声が震えてそんなことしか言えなかった。
「あなたが逃げれば、疑いはあなたにかかって、それで全てがまーるくおさまったのに。」
彼女の声はねっとりとしていて、嘲笑うようだった。
「でも、あなたが逃げないって言うのなら。仕方ないわ。」
「どう言う意味……?」
「あなたを殺して、“逃げたこと”にして、しまいよ。」
「……!!!」
ぞぞっと身体を走る悪寒。これが俗に言う『殺気』だと確信した。
「大丈夫、心臓ひとつき。血もあまり出ない死に方にしてあげる。……綺麗なものよ?その死体は。」
「ちょっと!冗談……よしてよね。」
「冗談?あはは……馬鹿な娘ねぇ。」
ピピは完全に私の知る彼女とは違っていた。変貌。狂気。そういったものに満ちた『魔女』に見えた。
他人の殺意が自分に向いている時、母はどうしろと言っていた?
―――なりふりかまわないこと。
「っう……わああああああああああああああああ!」
「!」
思いっきり引いた右の肘がピピの脇腹に、どすっときまったのを感じた。
彼女は短く唸り、私を捉えていた腕をほどいた。
「ふざけないでよね!!」
私はすぐに振り向いて、そこら辺に落ちていた本を拾って思いっきり投げつけた。
うまくナイフに当たれば、落としてくれるはずだ。
投げる。投げる。拾っては、投げる。
ああ、せっかく片付けたのに!またやりなおしだ!でも、そんなことに構っていられない。
「ふ、っざけてるのはあんたでしょう!楽に殺してやるって言ってるのに!」
ピピは腕で本をガードして叫んだ。
「殺されてたまるかって話よ!」
「っの、野蛮人!」
「ほっといて!」
このまま隙を見て、扉の鍵を開けて、外へ飛び出してやる!
だが、一瞬のうちに、ピピが飛びかかってきていて、湿布が張ってあったところを思いっきり本で殴られた。
「っだ!」
死ぬほど痛くて、立眩みすらした。
思わずぎゅっと目をつむってしまう。
「あ!」
しまった!と目を開くと、彼女の笑った顔が見えた。
「終わりよ。蛮族の娘。」
ナイフがきらりと光り、こちらに一直線に振り下ろされる。
終わりだ。
そう思った瞬間、突然部屋に光が差し込み、冷たいナイフの光が消えた。
ドアが開いたのだ。
振り向かずとも、そこにいる人間の予想はついた。
「子、爵……!」
一変してピピの顔が歪む。
「逃げられると思うなよ。」
子爵の冷たい声が聞こえた。
その次の瞬間、断末魔は何回聞いたって醜いものだと、私は知った。
***
ずいぶん長いこと呆然として、意識がなかったように思う。
いつへたり込んでしまったのか覚えていないが、正気に戻った時、私は座り込んでしまっていた。
「……平気か。」
子爵が、手を差し出してきた。
見上げると、彼は血まみれでそこに立っており、血の滴る剣を左手に持っていた。
「ぁ……」
私は何も言えず、表情も作れず、どうしてか涙も出なかった。
「……嘘付き。」
そして、あの夜と同じセリフを吐いた。
「足、全然。使えるじゃないですか……。」
彼はしっかりと両足でそこに立っていたのだ。
「殺さなくたって……、よかった、んじゃ……ないですか……。」
私はそう言いながらも、そんなことはないとはっきり分かっていた。
意識がしっかりしてきて痛みが戻ってくると、死ぬほど頭が痛かった。
「君を殺そうとしていたんだぞ。」
「それでも……。」
そしてそれが、偽善者じみた意見であることも。
「今、切り捨てないと再び狙われる。こちらが隙を見せれば、また付け込まれる。油断ができない。容赦ができない。」
「それが……あなたのいる世界?」
じっと、彼の顔を見つめた。ああ、相変わらず鋭い目だ。冷たい目だ。
「そうだ。」
「それでも友人くらい……信用するでしょう?」
頷いてほしくて言った。
「友人でも、牙を見せると言うのなら、容赦しない。いつでも切り捨てる覚悟はある。」
だけど、ひどくあっさりと否定された。
「彼女は、友人だったのよ……。」
側で転がっている死んだ女を見る。飛び散った血液が、せっかく製本した本にかかっている。
「だが裏切った。誰もが裏切りうる。それが家族でも。」
「……あの子が、家族でも、あなたは切っていた?」
「切っていた。」
それは躊躇も、迷いもない言葉だった。
そんな彼を目の前にして、表情が作れない。どんな顔をしたらいいのか分からない。頭が痛い。
「それが、あなたのいなきゃいけない世界なら……。」
涙だけだ。
「それは、とても悲しい世界ね……。」
涙だけが、やっと、目からこぼれおちた。
彼は、目を細めて否定も肯定もしなかった。
だからなの?
だから、そんな目をしているの?
私はね、寂しいわ。そんな、世界は。
独りだから。
***
翌日。子爵の書斎にやってきたブレトンが子爵に告げる。
「結局、彼女の寝室から見つかりましたよ。例のモノは。」
「そうか。ご苦労だった。」
ブレトンが、破られた本の束のようなものを子爵に手渡した。
「昨夜は、大変でしたね。」
「あぁ。お前を城に置いておけばよかった。嘘もばれた。」
子爵が足を軽く上げて見せる。
「嘘なんかつくのがいけないんです。」
ブレトンの強烈な正論に、子爵は小さく舌打ちをした。
「舌打ちは下品ですよ。子爵?」
可愛くない従者に対して、いよいよふてくされた顔をして、子爵は窓の外を見た。
「彼女は?」
「頭が痛いからと言って、部屋から出てこない。」
「そうですか。」
無理もないか、とブレトンは思った。
「例のモノの存在も、確信しただろう。」
「話したんですか?」
「いや。」
「話せばいいと思いますよ、私は。お話してあげればいでしょう。本当のあなたのことを。」
「…………下世話な奴だ。」
なんとでも、とブレトンは笑った。
そんなブレトンを恨めしそうに見て、子爵はぽつりと呟いた。
「悲しい世界だと言われた。」
「え?」
「私達の世界は、悲しいと。」
「……へぇ。皆が憧れる、貴族の世界をですか?」
「あれには理解できない窮屈さがあるんだろう。」
ふーん、とブレトンは唸った。
「でも、同意ですね。」
「……ああ。私もだ。」
窮屈だ。
***
「ラピスー?」
ノックと、メアリーの声が部屋の外から聞こえてきた。
「大丈夫?あの、おかゆ持って来たんだけど。」
「ありがとう。入っていいわよ……。」
カチャ……と、遠慮がちな音がして、メアリーは部屋に入ってきた。
「おはよう。具合は?」
「悪い。頭めちゃくちゃ頭痛い。」
「何、ぶり返した?怪我。」
「うん……。」
昨夜、思いっきり殴られたから。
「見してみ……うわ。こりゃ酷い。こぶになってる。おかゆ、食べれる?」
「食べれる。」
おかゆをテーブルに置いて、メアリーは小さなため息をついた。
「ねえラピス。実はね。ピピ、いなくなっちゃったの。」
「…………へぇ。」
ズキッとした。頭ではなく心臓が。
「逃げちゃったのかなって噂。ほら、やっぱここって、特別でしょ。」
「……特別?」
「だって、あのヴァーテンホール家だもの。それ相当の覚悟を持って、奉公に来てるわけよ。」
「若い娘、少ないのはそのせい……?」
「そうよ。だから、よくあることなの。脱走って。」
「……そっか。」
「だから、元気出して。」
メアリーは寂しそうだったが、その寂しさを飲み込むように、にっこり笑って部屋を出ていった。
私、知るべきだと思う。子爵のこと。もっと。