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ドロップアウトからの再就職先は、異世界の最強騎士団でした~訳ありヴァイオリニスト、魔力回復役になる~  作者: 東 吉乃
第三章 生き方の決め方

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97.鍵、心の奥底に


 第一陣が去り、ユクの離宮には再び静けさが訪れた。

 その中で常駐の管理人と食堂にいた料理人はアークの判断で早々に帰された。アナスタシアは食事の心配をしたが、一晩くらいどうとでもなるということ、それに守る対象が増えると足手まといだという理由で却下された次第だ。

 夜になるまで次は来ない。

 アークの判断を元にそれからは迎え撃つ準備に奔走することとなった。

 最初は離宮の見取り図を眺めるところからだ。

 離宮のほとんどは二階建てながら、一部が四階まである。その全てを無傷の内に守ることは不可能で、立て籠る部屋を中心に第一から第三までの防衛線を作ることとなった。

 そうと決まればまず部屋の移動である。

 燃え落ちてすっかり用を為さなくなった扉の部屋ではどうにも具合が悪い。そのままアークと真澄、そしてアナスタシアはそれまでいた離宮の西側から、反対の東にある角部屋へと移った。

「客間であまり広くはありませんが、表からは見えません」

 一角にある窓を指差しながらアナスタシアが言う。

 確かに見える景色は山の連なりながら最高峰のダズネ山はなく、下方に目を転じると白い衣をまといつつある庭園の木々と、冷たく深い紺色の池が佇んでいた。

 先ほどの部屋とは違って三方が壁なので安心感はある。

 が、寒い。

 本来使う予定のなかった部屋ゆえ、空気が芯から冷えきっている。まずは暖をとるためにアークが部屋の角に積み上げられている薪を引っ張り出し始めた。

「それで、赤紫に心当たりはあるのか」

 手際よく薪を並べながらアークが問う。

 先ほど発現していた光のことを訊いているのだ。燃え落ちた扉は赤紫の光に包まれていた。

 叙任する熾火によって、魔力の色は変わる。

 今のアルバリークでいえばアークが叙任した騎士は青い魔力を発現させるし、宮廷騎士団長であればそれはすみれ色になる。

 とはいえさすがにアークでもレイテアの熾火には詳しくないようで、アナスタシアに尋ねているのだ。

 問われたアナスタシアは言いにくそうに一瞬ためらいを見せた。

「赤紫は……魔術士団長のお色です」

「ほう」

「ですが士団長はそんなお方ではないはずです」

 戸惑いも(あらわ)にアナスタシアが口をつぐむ。

 アークはすぐに返事をせず、合間で暖炉に火が入った。

「あの連中の中に知った顔はいたか?」

 火起こしを終えたアークが立ち上がる。

「重要なことだ。よく思い出せ」

「……少なくとも部屋に入ってきた者たちの中にはおりません。ですが、わたくしが見知っている魔術士はほんの一握りです」

 そんな自分が何かを判断する、あるいはその一助になるとは到底思えない。

 そう付け加えてアナスタシアは首を横に振った。

「士団長の指示だったとしたら、優秀な魔術士が動いていることでしょう。大変慕われているお方です。あの方の下でこそと集う者のなんと多いことか」

 一人二人が相手ならまだしも、束になって来られたら。

 不安を隠しきれない様子でアナスタシアが目を伏せる。アークからは大丈夫だとも不味い状況だとも、特段の言及はなかった。

「その士団長とやら、出自は確かなのか」

「はい。お家としては貴族ですが、辿れば王族の遠縁にあたります」

「ふうん……現王との仲は?」

「特段悪いとは聞いておりません。筋の通らないことはなさらないし、誰にでも礼儀正しい方です」

「筋、ね。さてそんなできた人間がお前の首を狙うのはどういった大義名分なんだかな」

「それは、……分かりません」

「まあ叙任した人間全てが最後まで裏切らないというのも幻想だが。こればかりは相手に吐かせないと分からん」

 二人のやりとりは淡々と進んでいく。

 そうこうする内に部屋が温まってきたので、真澄は夜までの補給のためヴァイオリンの準備を始めた。ケースを開き調弦に入る。昼過ぎに弾いた時もそうだったが、左手は痛みどころか違和感さえも綺麗さっぱり消えていて、本当に完治していた。

 楽譜をめくりながら何を弾くか考えていると、ノックと共にライノが戻ってきた。

「遅くなりました」

 肩の雪を払いながら後ろ手にドアを閉める。

 部屋のすみで見取り図を眺めていたアークがその姿を認め、手招きした。

「偵察ご苦労。結果を聞こう」

「館の敷地に入り込んでいたのは全部で十二名です。魔術士団の人間が五名、魔の蛇が五名」

「残りの二人は」

 端的な問いに対し、僅かに間が空いた。

「……敷地の外、後方に控えていてあまり確認できていません」

 少しだけライノの声が固くなった。

 責められると思ってのことだろうか。しかしそんな殊勝な人間だったかと真澄は訝しんだが、アークは頓着しなかった。

「魔術士が五人か。館ごと消すのも辞さない勢いだな」

 呆れたようにアークが手元の羊皮紙を弾く。

「となると真正面から組み合っても消耗戦だ。罠を張る、来い」

 館の見取り図を手に立ち上がったアークがアナスタシアを呼ぶ。

 二人で出ていこうとしたところで、しかし彼ははたと足を止めた。振り返ってその視線が向かう先はライノだ。

「まさかこの状況でないとは思うが、マスミに危害を加えたら分かってるだろうな」

「や、さすがに大丈夫だと思うわよ」

 激烈に凄むアークをなだめたのは真澄である。

「そもそもカスミちゃんが色々制約かけてるし、人質って意味じゃ一緒でしょ?」

 アナスタシアを連れていくのはアークなのだ。

 変なことをしたら、という前提は互いに変わらない上に、ライノの中での優先順位を推し量ればアークの心配は杞憂に終わるだろう。

 駄目押しとして真澄は碧空のスカーフをひらりと振った。

「何かあったらほら、警報も飛ぶし」

「それは警報じゃねえぞ、お前は何回言えば」

「はいはい。いいから行ってらっしゃい、時間ないんでしょう」

「チッ。二人とも大人しくしてろよ」

 盛大な舌打ちと共にアークが大股で出ていく。慌てて後を追うアナスタシアを見送り、部屋にはしばし沈黙が訪れた。


*     *     *     *


「寒かったでしょ。まああたれば?」

 突っ立ったままのライノに真澄は話しかけ、暖炉を指差してやる。

 どうせアークたちがいると立場上遠慮して絶対に温まろうとはしないのだ。ならばせめて今だけでも、と真澄は思って勧めるのである。

「隣に座れとは言わないから、ほら」

「いや、俺はいい」

「鼻真っ赤にして説得力ないけど」

 言うが早いかプイッと顔を逸らされた。

 吹き出しそうになりつつ席を空けてやると、本当にソファの隅っこの方にライノは腰を下ろした。

 手出し無用と釘を刺されていたので、彼の魔力は減っていないだろう。

 今夜に向けて手持ち無沙汰に楽譜を眺めつつ、真澄は気になっていたことを訊いてみた。

「誰か知り合いでもいたの?」

「……は?」

「さっきの偵察の話。二人は良く分からないって言ってたけど、分からない割には色々考えてそうな顔だったから」

 もっと平たく言えば、その存在そのものが甚だ不本意そうだった。

 そんな風に真澄が投げてみると、ライノが鼻を鳴らした。

「お前、他人の頭の中が読めるのか」

「エスパーじゃないからそれは無理。まあアークより空気は読めるとは思うけど」

「じゃあ上申すべきかどうか教えてくれ」

「それは事と次第によるけど、とりあえず話してみたら?」

「俺の記憶違いや見間違いじゃなきゃ、あれは王太子殿下の側近だった」

「えーと王太子様っていうと」

「アナスタシア殿下の一番上の兄上だ」

 つまりどういうことだ。

 カスミレアズあたりがいたら頭の回転が速い彼が状況分析をしてくれただろうが、残念なことに今はそれが望めない。

 やむなく真澄は自力で考えを巡らせてみる。

 キーワードには覚えがある。


 魔術士団長と、一番上の兄。


 二人ともアナスタシアより実力のある魔術士だと聞いた。

 単純に考えて彼らが結託したのならば、アナスタシアは思った以上に窮地に立たされている気がする。

「素人意見だけど、それって結構まずくない?」

「結構どころか絶体絶命だ」

 レイテアそのものの国体は近く無くなるとはいえ、国政の中心人物と軍部の最高司令官である。彼らの財力と掌握している人材を考えるとその影響力は計り知れず、敵に回すと本当の意味で消されてもおかしくない。

 そう言って項垂れるライノに思わず真澄は噛みついた。

「ちょっと、そこまで分かっててなんでアークに言わなかったの?」

「迷ったさ! でも俺はどうしても殿下を傷付けたくなかった」

 アナスタシアはきょうだいを皆慕っている。一番上の兄などは実の母親より共に過ごす時間が長かったくらいで、きょうだいの中でも最も仲が良いといっていい間柄だ。

 きっと知りたくないはず。

 聞いてしまえば絶対に傷付く。

 ライノはそう断言して、「だから言えなかった」と俯いた。

「なんで傷付くって断言できるのよ?」

「王太子殿下は継戦派だ」

 国王の右腕としてこれまで実質的な指揮をとってきた。その意味で、もちろん魔術士団長に対しても影響力はある。

 アークの予想が確かなら、停戦派であるアナスタシアを排除しようとする動機はあってもおかしくない。

「ちょっとあんたね……それでアナスタシアが怪我でもしたらどう責任取るつもりなのよ?」

 さすがの真澄もついため息が出た。

 重大ではあるが、今この数時間を隠し通したとして、しかし今夜には必ず知られてしまう秘密。

 どう考えても明かした方がいい。

 説得する真澄に対してライノは渋ったが、「そんなに弱い子じゃないと思うけどね」という一言が決め手となったか、最後には頷いた。

 二人の間にまた少しだけ沈黙が降りる。

 炎の温かさで少しは人心地ついたか、或いは秘めていたことを吐き出して肩の荷が降りたか、窺ってみるとライノの横顔は険が取れていた。

 まだアークたちは戻ってくる気配がない。

 それを見越して真澄は少しだけ踏み込んでみることにした。

「別件だけど、老婆心ながらアナスタシアとちゃんと話をしたら? 今すぐは無理でも、まあ今夜のどたばたが落ち着いた後にでも」

「ちゃんとってどういう意味だよ」

「すぐ不貞腐れるのやめなさい。ったく、あの子が絡むとこれなんだから……『魔の蛇』だったっけ? レイテアの中でもあんまり覚えが宜しくないみたいじゃない」

 そう、「魔の蛇」。

 碌でもない組織だとは真澄ももちろん知っている。

 未遂に終わったとはいえ二度の誘拐事件を経験したし、毎度返り討ちにしているとはいえアークも命を狙われていたし、全て捕縛されたとはいえ祭りに乗じて騒ぎを起こしたりと、まあアルバリークに対する悪事だけでも数え上げたら枚挙に暇がない。

 表向きは王女の騎士という公職、真っ当な仕事に就いている。

 にもかかわらずその主人に内緒でわざわざ履いた二足目のわらじがそれとは、どうにも深い理由があるとしか思えない。

 思い起こせばヴェストーファでの誘拐事件の際、ライノが語っていたのはアルバリークへの不満と故郷を捨てたことだ。

「アナスタシアのこと、どうにかしてやりたいってだけで『魔の蛇』に入ったわけ? それにしたって何回も挑戦するにはちょっと相手が悪すぎない? 割に合わないっていうか」

 だって相手はあのアークなのだ。

 多分、アルバリークの中で最も好戦的な性格であり、同時にそれが許される立場と力を持っている男だ。おまけに歴代最強の近衛騎士長もついている。

 仮にフェルデほどの実力があるのならまだ分からないでもないが、ライノ自身は彼らに遠く及ばないであろうことを自覚している節がある。

 それゆえ、なぜそこまでして、と問いたくなるのだ。

「なんでそんなことを訊いてくる」

「いや別に放っておいてもいいんだけど、このままだとこじれたままになりそうだから」

「お前には関係ない」

「それは百も承知だけどね」

 話したくないなら構わない。黙っておくのも自由だ。ただそれでも、と。

 そこまで言って真澄は肩を竦めた。

「そんなに気になるのか……アルバリーク人じゃないくせに」

「またそれ? 前も言ってたけど、ライノにとってアルバリーク人かどうかってそんなに重要なの?」

「……生まれがそうだったからって祖国に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しいだろ。なのにお前はわざわざ面倒ごとに関わろうとするから、変なやつだと思う」

 そしてライノは明かした。

 彼の父は旧第四騎士団の神聖騎士で、一時代を築いた「白き二十の獅子」だったと。さらに旧第四騎士団の廃団が一度決まった時に、退役する道を選んだのだ、とも。

「……そうだったの? 道理で」

 第四騎士団の過去に詳しかったはずである。

 思わず感嘆の息を漏らした真澄を見て、ライノはもう一つ皮肉な笑みを浮かべた。

「もっと驚かせてやろうか? 俺は一度、第四騎士団長の叙任を受けたことがある」

「えっ」

「とはいえ地方で受けて帝都の本隊に編入される前に辞めた。十年以上も前の話だし、あの男は絶対に覚えてないだろうよ」

「まあ記憶はそうかもしれないけど、じゃあなんでライノの魔力は青くないの?」

「それは殿下の叙任を受け直したからだ」

「なんで?」

「質問ばっかりだな……親にも言ってないのになんで最初に説明するのがお前なんだ」

 ぶつぶつ文句を垂れながらも、ライノは「少し長くなる」と彼自身の過去を語った。


 神聖騎士だったとはいえ、彼の父も楽士を伴侶とすることはできなかった。楽士不足は今に始まった話ではなく、数十年前から警鐘は鳴らされていて、しかし抜本的な解決を見ないまま今日に至っている。

 ライノの母はレイテア出身なのだそうだ。

 まったくの一般人で国境の村娘として育ったが、いかんせん故郷の場所が悪かった。アルバリークとの戦争で焼け出され路頭に迷ったところを、前線にいたライノの父に助けられたのだ。

 その縁で二人は夫婦となった。

 母が故郷に帰りたいと口に出すことはなかったが、故郷の景色を描いた織物を肌身離さず持っていて、何かある時にはそれをそっと眺めていた。

 その後戦線が一旦落ち着いた時分、父は仕事の都合でしばらくアルバリーク帝都を離れることができなかった。が、第四騎士団の廃団話がもつれた頃にアルバリークに見切りをつけた。

 第四騎士団の行く末を思わなかったわけではない。

 辞めるなら獅子と呼ばれる前に辞めていた。

 ただ、どうにか代替わりを果たしたとしても楽士不足という補給線の問題が解決されない以上、いつかまた同じ日が来る。そんな現実に疑問を抱き続けていたライノの父は、新しい騎士団長であるアークに期待を持ちながらも「何かが切れた」と言い、そのまま新生第四騎士団に戻ることなく退役した。

 両親はそれからすぐレイテアへと移住した。

 ライノはそのままアルバリークに残った。本当の理由は明かさなかったが、敵国であるレイテアに行くことに気持ちの整理がつかないというと両親はそれを尊重してくれた。まだ十になったばかりの頃で、成人するまでは親戚が面倒を見てくれた。

 それから五年間を帝都で過ごした。

 成人してから地方で叙任を受けて騎士にはなったものの、母が一般人であることに加えて父からの才能も受け継がなかったらしく、実力は頭打ちだった。

 騎士団を辞めたのは十八の時だ。

 今から八年前、アークから最後の楽士がいなくなったと同時に、ライノもまた父親と同様にアルバリークに見切りをつけた。

 何かが変わるのではと信じていた。

 だが父がいた頃と結局は何も変わらず、第四騎士団は認められるどころか覚えが悪くなるばかりだった。

 正直、腹が立った。

 父が見限ったのは間違いではなかったのだ。

 その事実に気付いて、ようやくライノもアルバリークを出る決心が固まった。

 レイテアでの新しい生活は凪いでいた。

 アナスタシアの騎士に選ばれたのは三年前のことだ。その時に叙任を受け直して、名実共にライノはレイテアの人間となった。


 「魔の蛇」に入った理由。


 大部分はアナスタシアのためだった。

 彼女の密かな願いを叶えるには正攻法だけでは無理で、深い情報を得るためにも迷いはなかった。

 だが純粋にそれだけだったのか。

 改めて問われると、「多分違う」と今なら答える。


 第四騎士団に失望した、それは確かだ。

 だがどうしても忘れられない言葉があって、心の奥底にいつも引っ掛かっていた。

「使い捨てを容認するのか」

 と。

 旧第四騎士団の代行司令官の葬儀の場で、アークが追及したことだ。

 その力強い言葉は希望たり得た。

 いつかその未来が訪れることを期待して、己の目で確かめることができたのならと心の奥底でずっと願っていた。

 だが現実はそうではなくて。


 自分から捨てたものであるのに、忘れられなかった。


 多分それが理由だとライノは言った。

「……考えてみりゃ第四騎士団長どうこうじゃないわけだ。報われないあの人を見続けるのに疲れて、クソな周りに失望して、アルバリークがどうでも良くなって。というより、どこにいてもどうせ変わらないってな」

 別に個人的な恨みがあったわけじゃない。

 そう言うライノの視線は燃える暖炉に注がれていて、横顔は憑き物が落ちたように穏やかだった。

「つまり素直じゃなかったわけね」

「うるさい」

 真澄の感想にライノが嫌そうな顔を向けてくる。


 十年だ。

 いや、話の始まりまで遡ればもっと。


 決して短いとは言い難い期間、ライノは誰にも本心を打ち明けてはこなかった。理由は色々あるだろう。だが何かから自由になったようなその空気に、真澄は思わず訊ねていた。

「どうして教えてくれたの」

 話の流れもあったが、それにしても時間潰しの雑談と呼ぶには重すぎる。


 心の懸かりを口にすること。


 真澄にしてみればそれはとても難しく、きっと自分には死ぬまでできないような気がしていた。

 けれどライノはすらりとやり遂げたように見える。しかし真澄の質問に彼は答えなかった。

 少しでも言葉にしたら、何かが変わるだろうか。

 自分自身に期待しなくなってから久しいが、真澄は目を逸らし続けてきた現実を口にした。

「……誰かのせいにして逃げたら楽よね」

「ふん。知った口きくな」

「ごめん、言葉が悪かったわ。逃げるっていうより、距離を置くっていった方が近いかも」

 心の奥底、抱いている感情を寸分の狂いなく表現するのは難しい。

 そんな真澄の呟きをどう受け取っているのか、ライノは今度は噛みついてこなかった。

「あなたやあなたのお父さんがどうこうってわけじゃないの。気に障ったならごめん。話を聞いて、私が私自身にそう思っただけ」

「なんだそれは。よく分からん」

「んー……『何かが切れた』って気持ちがすごく良く分かるっていうか。私にもそういう経験がある。それは私自身の問題でもあったけど、でもそこにもう一人……」

 母でも、父でも、恩師でも、まして兄弟子でもなく。

 極力その名前を、存在を思い出さないようにしてきた人物の影が脳裏をよぎる。


 光あふれる眩しい舞台、「感情がない音」と言われたあの。

 その中央に立つ彼女。

 真澄のことを愛してくれた彼女。

 とてつもなく、その生の限りに、真澄の音を美しいと愛してくれた人。


 そんな彼女から真澄は逃げ出して、最後はヴァイオリンからも逃げた。


 逃げ出した理由は――


「……こうやってライノには言えるのに、相手が近ければ近いほど言えないのってどうしてなんだろうね。不思議」

 ここが最後の関であることは真澄自身が分かっている。越えた先に答えがあることも。

 あと一息なのだ。

 けれどそれは誰かに背中を押されるのでは駄目で、自分自身で踏み出さねばならないと自覚している。

「それだけ大事だってことだろ」

 突然怒ったようにライノが声を張った。

 思わぬ返しに真澄は目をしばたく。

「……なんだよその顔。自分で言ったくせに」

「や、ちょっとびっくりして」

「人に発破かけといて自分は動かないのかよ。卑怯者」

「ひきょ、ちょっとそこまで言う?」

「死ぬまでには言っとけよ。いつ死ぬか分からんけどよ」

 とりあえず今夜をどうにか乗り切らねば。

 ライノが呟いた時、呼応するように暖炉の火が爆ぜた。


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