94.相対する願いの大きさ
その奇妙な符合に気付いたのは五年前のことだった。
アナスタシア、十三歳の夏。
殊のほか暑さが厳しく、木々草花さえも萎れて元気がない、そんな夏だった。
熾火のアナスタシアは国際魔術研究機関――イーファのレイテア支部に、十歳から研究員として迎え入れられていた。
数多ある部門の中でも専門は天文学だった。
現世魔術には直結しない傍流の学問ではあったが、星の動きを読めばその年の天候が予測できる。天候は作物の実りに直結するもので、もとよりアルバリークとの長い戦争で国庫備蓄が乏しいことを幼少から知る立場にあったアナスタシアにとっては、必然ともいえる選択だった。
星を読む。
その特性から平素よりどうしても夜が遅くなりがちだったが、五年前の夏は昼間の熱を避けるため、夜型の生活に拍車がかかっていた。
開け放った窓、虫の声が小さく響く。
時折流れ込んでくる風は深夜になっても尚、生暖かくゆるかった。
あまり広くはない研究室の中、書棚から溢れた記録や文書が隙間という隙間に所狭しと積み重なる。天文の部門長は悠久の星のごとくおおらかで、それが他部門からの圧力に対する壁になっている一方、研究室内の整理整頓にはまったく寄与していなかった。
最も年次の低いアナスタシアは率先して分類や片付けをしていた。
そうすることでより多くの文献を目にする機会に恵まれるし、自身の勉強にもなるからだ。そうしてその日も一つの山に手をつけたところだった。
まずは一山、自分の机へ。
抱えられるだけ持ち上げて一歩を踏み出した時、ぱさりと足元で音が鳴った。歩みを止めて下を覗きこむ。床に広がっていたのは煤けて色が変わった羊皮紙表紙の束だった。
引っ掛けたか掴み損ねたかで落ちてしまったらしい。
明らかに他の文献とは異なる雰囲気に、アナスタシアの興味が引かれた。
やろうとしていた整理を横に、その羊皮紙の束を拾い上げる。自席に戻りながら最初の数ページをめくると、どうやらそれは古い時代の星の運びを記録したものだと知れた。
それから時を忘れて読みふけった。
小一時間ほどで切り上げようと思っていたものの、およそ三百年の蓄積された時間は魅力に過ぎた。
肩を叩かれてはたと気付けば鳥が爽やかに鳴いていて、目の前に足が見えた。不思議に思いながら顔を上げると少しだけ呆れ顔で笑う部門長が横に立っている。熱中したはいいものの、いつしか疲れて眠ってしまったらしい。「そんなに根を詰めて」と軽いお説教はもらったが、昨夜の発見の大きさにいてもたってもいられなかった。
赤の周期は規模と時期を予測できる。
それは古い記録が示してくれた意外な事実だった。
夜の天球、その頂には通年位置を変えず輝く主星デーアがある。青白い光を放つ孤高の彼女にはしかし、ある周期で供――連星――ができるのだ。
供の一人は頻繁に訪れる。
およそ十年に一度、彼が来る時は穏やかな周期だ。
二人目は会える者と会えない者がいる。五十年に一度ふと思い出したように寄り付く彼は、豪勢な手土産を持参する。
最後の三人目。
長い旅路の果てにようやくたどり着く彼。困難な道を想起させるかのごとくその存在自体を災厄と呼んでいいほど、苛烈な周期となる。
星と赤の周期の関連に気付いたのは偶然で、たまたま最後の連星が記録された年に覚えがあったからだ。歴史で学んだそれは、アルバリークはヴェストーファ地方で大きな飢饉が起こった年で、レイテアでも作物が不作だった。その合致を見て辿れる限り歴史を辿ると、そこに完全な符合があったのだ。
数週間かけて調べあげた成果を報告した時、部門長は驚きに目を丸くした。
その後天文学の部門内で詳細内容を吟味され、次の赤の周期は五年後、それも三連星が並ぶと予測された。
無論いたずらに不安を煽るものではなく、過去の蓄積から十二分に信憑性に足る予測だ。その内容は天文学部門からレイテアの政治機構へと正式な手続きを踏んで通達された。
が、真剣に取り合う者はいなかった。
ただでさえアルバリークとの戦況が芳しくない中、国庫備蓄の少なさそして民の安全対策へ警鐘を鳴らして停戦を上申したのだ。国の中枢、特にアナスタシアの父である国王からは不興を買い、周辺を固める要人要職たちもそれに倣った。
さらに、天文学が傍流の学問であることも情報軽視に拍車をかけた。
そもそも大元となる運星記録には最初の観測者とおそらくその弟子たちの名前が記載されていたが、彼らは皆無名の研究者だった。記録の信憑性そのものを疑われ、レイテア国史とも比較したという説明さえ棄却され、通達はレイテア中枢を動かすには至らなかった。
一部の人間、いわゆる停戦派から支持を得たのは事実だったが、彼らの影響力も大きくはなかった。
部門長は力及ばないことをアナスタシアに詫びた。
その顛末が決して部門長のせいではないと知っていたアナスタシアは次の手に出た。
それが婚姻による停戦である。
末席とはいえアナスタシアは王女として生まれた。幸いなこと、まだ成人前で具体的な婚姻の話は出ていなかった。というより多くの姉たちがいて、彼女たちの縁談を纏めるのに忙しく、アナスタシアは完全に棚上げになっていたのだ。
この状態を使わない手はない。
そうと決めたら一刻も惜しい。アナスタシアはすぐにアルバリークの内部、皇族の血筋と要職を徹底的に調べた。
最優先は当然ながら独身で、かつ現アルバリーク国王にできるだけ近い血筋。そしてある程度の発言権を有し、宮廷もその存在を無視できない人間。
年齢は問わなかった。
結果、候補としてアークレスターヴ=アルバアルセ=カノーヴァの名が上がった。
現アルバリーク国王の末子で第四騎士団総司令官。
先に挙げた条件にこれ以上ないほど合致していて申し分ないとはこのことだった。
相手を見定めたら、後はどう話を持っていくかである。
戦争中ということもあり、ただの縁談では事が運ばないだろう。国力はアルバリークが上なのは自明で、開戦経緯からしてもレイテア側から何かしらの手土産、献上品が要る。
考えて、楽士として成るしかないと思った。
第四騎士団総司令には専属楽士がいない。それは規格外の力のせいで、周辺事情はアルバリーク内情を調べさせた側近から聞いていた。
相手の利になることを条件にしなければ交渉は成立しない。
そしてアナスタシアは楽士になるために動いた。
最初は自身の専属に教えを請うた。
しかし結果は捗々しくなかった。
元より魔術士としての教育は受けていても楽士のそれは未知のもので、いきなり楽譜の読み方からつまずいた。それでもどうにか一つずつ理解を重ねていったが、次に演奏技術の習得で壁に当たった。
子供ではなく成長してから教えるというのは相手にとっても初めてのことで負担が大きく、結局楽士は交代した。
ただ、相手が変わっても状況は好転しなかった。
楽士になりたい本当の理由を明かすわけにはいかないため、あくまでもヴィラードは「向上心豊かな王女の趣味」として周囲には認知されていた。そのような中では魔術士としての本分を第一に求められるわけで、練習時間は睡眠時間を削ることでどうにか捻出する有り様だった。
二年が経っても目覚ましい変化は見られなかった。
むしろ十五歳となり成人を迎えたアナスタシアには王女の騎士が付けられ、身動きが取りづらくなった。表向きは護衛だが実態は父からの監視である。さらに熾火としての叙任など公的な仕事が増えたことにより、ますます時間は限られるようになった。
あと三年。
募る危機感はアナスタシアに古式魔術の研究に向かわせた。
このまま楽士を変え続けたとて、レイテアの楽士では埒が空かない。であれば自分の望む師を喚ぶしかない。今は絶えた古式魔術に「召喚」があることは知っていたし、イーファに研究名目で申請すれば一度だけなら実行できる。
一か八かで文献を読み漁り膨大な資料を集め、とうに失われた理論の復元に腐心した。
これには時間がかかった。
復元だけで二年を費やした。その間にも楽士としての修練は怠らなかったが、やはり凡庸の域を出ることは叶わなかった。
気持ちは背水の陣だった。
残る一年は完成した理論が発動するかどうかの確認に明け暮れた。イーファの縛りで一度しか実行は許されていない。発動の手前までの理論を少しずつ実行しては手直しをして、また確認する。その繰り返しだった。
百や二百では到底済まなかった。それほどに古式魔術は複雑かつ難解だった。
原始的な作業を何度も、それこそ気が遠くなるほど繰り返して、そして季節は春になった。
もう待てない。
この冬には本格的に赤の周期が始まってしまう。そうなる前に少なくとも婚姻の話を持ち出さねばならず、話をする時にはアナスタシアに楽士としてそれなりの実力が備わっていなければならない。
あと半年。
すぐには成長できずとも、自分に最も相応しい師がいてくれさえしたら、交渉のテーブルにはつけるはずだ。
そしてあの日。
水も緩み、風が豊かに吹いたあの夜に、アナスタシアは「召喚」を発動させた。
どうか。
どうかこの身にその才を分け与えてくれる師を、あまねく全ての世界で最もヴィラードを愛し、またそれに愛される人を降されよ、と。
対価は三十年分の魔力。
婚姻を結んだ直後に死没するのは両国の関係上宜しくない。アナスタシアが懸けられるものは魔術士としての寿命しかなく、そこにためらいはなかった。
* * * *
「出来得る最善を尽くしましたが、わたくしの召喚は不完全でした。レイテアではなくアルバリークに座標がずれてしまいましたし、自分の力が及ばなかった結果とはいえアークレスターヴ殿下の専属にはマスミ様がなられましたし……」
アナスタシアは小さく笑うが、細い肩は落ちていた。
彼女はそのまま視線を壁に向ける。
「ごめんねライノ。私はあなたにずっと嘘をついてきた。あなたが私のことを信じてくれるのをいいことに、出会った日から今日まで騙してたの」
僅かに砕けた言葉は両者の親密さを表している。
だがその内容は穏当ではなく、事実壁際に立つライノの頬は強張っていた。
視線は真っ直ぐアナスタシアを射抜いている。
何かを問いたげな唇はしかし、開いては閉じを繰り返す。水底で空気を求めてあえぐように、その表情は苦悶に満ちていた。
「あなたは恋なのだと、私に……理屈ではない、だから譲れないとおっしゃった。だからこそ私は」
ライノの言葉が途切れる。
戸惑いの視線は助けを求めてさまよっていた。
「父君の犬だと、その疑念は拭いきれませんでしたか」
「いいえ。あなたは誰より私を優先してくれた。あなたを父の手駒だと思ったことなんて一度もないわ。あなたには、……感謝の気持ちしか」
アナスタシアが困ったように言葉を切った。
「アークレスターヴ殿下の専属になりたかったのは本当よ。理由が違っただけ」
「分かりません。なぜあなたがそうまでする必要があったのか」
「わたくしが王女に生まれついたからです。それに、……どうせわたくしの希望なんて通らないのだから、人の役に立つことができるのならその方が良いでしょう」
苦渋の顔を見せるライノとは対照的に、アナスタシアは穏やかな微笑みを浮かべていた。
色々とすれ違っていそうな彼らの横。
一方の真澄はというと、仲裁に入るどころか一気に渡された情報に混乱すると同時に動揺していた。
わざわざ異世界に喚び出された理由は理解した。退っ引きならない事情だったことも分かったし、アナスタシアの心情は察するに余りある。
その上で知らなかったことの衝撃が大きい。
アークがアルバリーク帝国統治者の血縁。
貴族どころか王族や皇族と呼ばれるものに類する血筋ということだ。真澄のような庶民とは明らかに立場が違う。
完全に想定外の情報である。
召喚の理由が霞むほどの衝撃にどこから話を始めたら良いのか迷いに迷って、ようやく真澄は口を開いた。
「揉めてるところ悪いんだけど、専属ってつまるところ結婚なの? 初耳っていうか私はアークの専属だけど嫁になった覚えはないし全然そういう関係じゃないし、アークもそのつもりはないはずよ? だからあなたがアークの専属になりたいなら直接本人に今ここで掛け合ってみてもいいと思うし、アークがいいって言うなら私は専属やめてもいいし、私はアークが困ってたところにたまたま居合わせたからあくまでもただの繋ぎで専属やってただけだし」
文を繋ぎすぎて支離滅裂だが、そういうことだ。
アナスタシアのお蔭でアークと真澄が出逢ったのは間違いない。そこでこれ幸いとばかりに真澄を雇ったのはアークの勝手であって、そもそもアーク的には専属は誰でもいいはずなのだ。
大体にして、
専属がそのまま結婚ならば、なぜアークはわざわざプロポーズをしてくるのだ。
もうこの時点で真澄には意味が分からない。
誰でもいいはずながらアークにも立場というものがあるはずで、それを無視していいのかどうかも真澄には分からない。
分からないことだらけだ。
そして疑問符を浮かべている真澄の言葉に、今度はアナスタシアが首を捻る始末だ。
「繋ぎで専属? え、ですが、専属は専属であって繋ぎはあり得ないのでは……」
と、これまた根本的な部分が噛み合わない。
こうなってくるともうアークを入れて話をした方が早い。真澄の判断にアナスタシアもためらいがちに頷き、そして真澄はテーブルにアークを呼んだ。
* * * *
事の次第をアナスタシアと真澄の二人から聞いたアークの眉間には、かなり深い皺が刻まれた。
そのまましばし押し黙る。
腕組をして天井を仰ぎ見た彼は「……クソだな」と低く呟いた。やがて黒曜石の瞳がひたとアナスタシアを見据える。強い視線にアナスタシアの身体が強張った。
「なぜ繋ぎにしたのか? マスミが分からんのは当たり前だ、あえて説明しなかった。だがお前が分からんのは嘘だろう。本気で言ってるならお前は人として失格だ」
何かを圧し殺すようにアークが目を閉じる。
堪えきれない体で吐き出された息はただ重かった。
「マスミはこの世界の人間じゃない。確信はなくとも疑うべき素地は最初からあった。つまりマスミにはマスミの生活があって、知らんからといってこっちの都合の全てを背負わせるわけにはいかんだろうが。分かるか、この意味」
「……」
「お前は赤の周期がこれまでに類を見ないほどの規模になる、それを予見して動いてきた。召喚に手を出したのもそこにお前の魔力を懸けたのも多くの人間を救うためだった。それは間違いなく正しい。王族として、魔術士として、どこまでもお前は正しかった」
だが掲げたその大義名分のために、
「お前は人一人の人生を狂わせた。その自覚があるのか、俺はそれを訊いている」
今だかつて聞いたことがないくらい冷たく、硬い声だった。
沈黙が場を満たす。
最初から答えは期待していない風で、アークが息を吐いた。
「……そこに踏み切らせたのが俺のせいだったってのが一番クソだけどな」
アークが吐き捨てる。
その横顔はどこまでも痛そうで、それはいつかヴェストーファで泣いたあの日よりも痛そうで、どうしてアークがそこまで憤るのか真澄には図りかねた。
が、それは次のやりとりで明かされた。
「赤の周期をどうにかした後のことは考えていたのか」
「それは……」
「仮にお前が俺の専属に収まったとして、それじゃあマスミはお払い箱か? それとも適当に誰か相手を見繕ったか? たとえばそこの騎士を払い下げるとか」
「っ、払い下げるだなんてそんな、マスミ様にもライノにもそんな失礼な真似、わたくしは……!」
アナスタシアが卓を叩いて立ち上がる。
初めて見せた狼狽ぶりに真澄は驚いたが、アークはまったく動じなかった。
「それじゃあどうするつもりだった? お役御免で元の世界へ帰すつもりだったか?」
ざくり。
音が聞こえそうなほど鋭利な問いだった。
アナスタシアは答えない。
立ったまま凍りついている。
それでもアークは追撃の手を緩めなかった。
「考えてなかっただろう。『使役』と違って『召喚』だ、端から一方通行だからな。余程特殊な契約条件を付けてりゃ話は別だが」
付けたのか。
真正面から問い質すアークに、アナスタシアはとうとう俯いて力なく首を横に振った。
「わたくしの力では術式を復元するだけで精一杯で、それ以上のことは何一つできませんでした……」
消え入りそうな声だった。
視線は合わない。
アナスタシアの緑の瞳は床に縫い止められていて、しばらくを待ってみても上がる気配はなかった。
静かに暖炉が燃える部屋。
真澄は自分の心が思いの外凪いでいることに意外さを感じていた。そのままアークに視線を投げる。強くアナスタシアを見据えていたそれはふと外され、真っ直ぐ真澄に向けられた。
「私は帰れない、ってことよね?」
話の流れを追うにそういう結論のはずだ。
真澄の念押しに、アークからは端的に「そうだ」と肯定が返ってきた。
それ以上はなにも言われない。
弁明も慰めもない潔さに、彼の心の深淵を垣間見た気がした。
「知ってて、ここに来るまで……今日まで付き合ってくれてたの?」
「……別にそういうわけじゃねえよ」
「でも知ってたんでしょ?」
多分、こういう結論になるであろうことを間違いなくアークは予見していた。だからこれほど怒りを露にした。それはきっと、真澄の「帰れるかもしれない」という拭いされない期待を知っていたからだ。
どうしてこういうことばかり濃やかなのだろう。
真澄の代わりにやり過ぎなほど相手を責めるアークを見ていたら毒気も抜かれる。怒った顔が泣いているようだと言ったら、多分また小突かれるのだろう。
求め続けた問いの終着、真澄の目から涙はこぼれなかった。
「……ありがとう」
呟きだがはっきりと真澄は言った。
こちらを見るアークの顔が険しくなる。目は合ったが言葉を交わさないまま、真澄は窓の外を見た。
曇天はより影を濃くしている。
冬が来る。一人で寒さに凍えていた前の冬が目蓋に浮かぶ。
どちらであろうと独り生きていくのは変わらない、か。
そう自分に言い聞かせれば心に波風も立たない。
自嘲なのか諦念なのか。
ただ胸の内で「そんな気がしていた」と呟く自分は、小さく笑っていた。




