93.時の価値
白い光が遠ざかり、微かに聞こえていた音もいつしか消えていた。
真澄がそれに気付いたのは、アークからの「おい」という声掛けがあったからだった。
「大丈夫か」
覗きこまれて目が合う。相変わらず迫力のある強い目だ。
長かったような短かったような白い時間。
名前の思い出せない、けれどとても穏やかな曲がずっと流れていて、意識が溶けていきそうだった。
だから、急に漆黒の瞳に見つめられて驚いた。
「ちょっ、近い近い!」
慌てて顎を引く。
その勢いが存外に強すぎて、真澄は後ろにたたらを踏んだ。
「あ、っと」
バランスを崩してすとんと尻餅をつく。床についた手は柔らかな毛足に触れた。
見ると見事な紋様の織物だ。
複雑な色合いはよくよく目を凝らすと一枚の絵を浮かび上がらせた。
雄大な山。
非対称の稜線はすらりと立つ牡鹿のごとく高低差がある。青く大きなその麓には、赤い屋根の家々が連なり集落を形成している。空には白く輝く月がある。月光に佇むその絵は静謐で、美しかった。
「……すごい絵」
絵というか織物なのだが、真澄の口からは素直な驚きがこぼれ落ちた。
「見事だな」
上から覗きこむアークも唸る。
「このでかさでこれほどの紋様となると、年単位の仕事だ。市民の家が数軒は建つぞ」
「嘘でしょ思いっきり踏んじゃってるんだけど!」
アルバリークの家の相場は知らない。
が、給料三ヶ月分程度とはとても思えず、真澄は慌てて腰を上げた。そんな様子をアークは横で半目になって見てくるのだ。
「なんであんたは平気な顔してるわけ?」
「高いっつっても絨毯だぞ? そもそもこいつは踏むもんだろうが」
「もっともだけど、なにその上流階級発言。貧乏騎士団長のくせに」
「お前なあ」
アークに呆れられたと同時、くすくすと押し殺す笑い声が聞こえた。
言い合いはやめ、出所を探して部屋を見渡す。
およそ三十畳はあろうかという広い中、壁際に控えめに立っていたのはアナスタシアだった。試合の時とは違うが、簡素なローブに身を包んでいる様がやはり魔術士らしい。話そうとすると部屋の中心に置かれた法円が光り、ライノが姿を現した。
「揃いましたね」
どこかほっとした様子でアナスタシアが頬を緩める。
無言でライノが頭を下げ、脇に避ける。その動きを確認してから、アナスタシアは改めてアークと真澄に向き直った。
「この度はご無理を聞いて頂き心よりお礼申し上げます。本当に、……」
深々と頭が下げられる。
栗色の豊かな髪が、ローブを着て尚細い肩からするりと滑り落ちた。
「暖かい部屋を用意しています。ユクもこの二、三日で急に寒くなったようです」
再び顔を上げたアナスタシアは小さく笑い、真澄たちを隣の部屋へと誘った。
一度出た廊下は確かに冷え込んでいた。
窓の向こうに山が見える。
尖った山頂の独特さに、先ほど織物に描かれていた山と同じだとすぐに気付く。絵と違うのはくすんだその色で、冬を目前にしたダズネ山は茶色く、季節の移り変わりを如実に示していた。
朝だというのに空も暗い。
灰色の雲が分厚く垂れ込めていて、時折吹く強い風が廊下の窓をがたがたと鳴らしていた。
人の気配は薄い。
景色から察するに館の二階にいるらしいが、物音など皆無で、ここには本当に限られた人間しかいないことが知れた。
「こちらです」
開かれた扉の向こうでは暖炉が赤々と燃えていた。
冷えた廊下とは密度の違う、暖かな空気が流れ出てくる。急な温度差に身震いしながら真澄たちは部屋へと入った。
中は先の部屋より広かった。
奥の暖炉の前に柔らかそうなソファがあり、こちらにも見事な織物がかけられている。揺れる炎に紋様が濃淡を変えて、さながら生きているかのようだ。
手前には円卓と椅子が並ぶ。
先頭を歩くアナスタシアはその円卓の前で止まり、振り返った。
「もしも叶いますれば、マスミ様にまずお話できたらと思うのですが」
「部屋に二人だけというのは却下だ」
真澄が悩む間もなくアークが言い放つ。
二度は言わん、と絶対に譲らない姿勢のアークにライノが何かを言いかけるも、アナスタシアはそれを手で小さく制した。
「おっしゃるとおりです。敵地の真っ只中で専属を一人放り出すような騎士はおりません。この部屋の中で円卓とソファに分かれての話し合い、ではいかがですか。その上でわたくしの魔力はゼロに致します」
「その条件なら飲む……が、どうやって魔力を消す? 俺は魔力枯渇は使えんぞ」
知ってるかどうかは知らんが、と訝りながらもアークが投げる。すると、アナスタシアは真澄を見た。
「マスミ様の腕を治したいと思います。慢性の炎症にお悩みかと」
「……なんで知ってるの?」
純粋な驚きである。
真澄の左腕は星祭りの後、武楽会の選考会から腱鞘炎を発症していた。回復には休ませることが一番と知りつつも、本戦があったために治癒をかけながら騙し騙しここまできた。
武楽会が終わり、しばらくは休養を余儀なくされるところだったのだ。
とはいえ、本戦で手を抜いたわけではない。
不自由な仕草を見せてはいないし、ましてアルバリークの中でさえ限られた人間しか知らない情報を、なぜアナスタシアが知っているのか。
するとアナスタシアは小さく苦笑してライノに視線を投げた。
「それはまあ、……諜報活動の成果なわけだが」
水を向けられたライノが答えるも、彼はそこで苦った。
「逆に言うと守りが固すぎてそれ以外何もできなかったわけで」
最高に歯切れが悪い。
弱点を知りつつ手も足も出なかった、と白状するあたりは割に素直で、若干ではあるが好感度が上がった。
これに関してアークからのコメントは無かった。
言えばとどめになると思ったのか、なんともぬるい眼差しを送るだけだ。
「治癒はその場しのぎだぞ。怪我の状態としてはそれなりに深刻だ。そのままだとまともに弾けやしない」
どうする、と問うアークにアナスタシアが真っ直ぐ答えた。
「古式治癒で完治させます」
「……使えるのか」
「理論は復元しました。一度だけ実験して効果も確認済みです。そういう意味で実用に足る状態ではありますが、」
アナスタシアの顔が曇った。
「アークレスターヴ殿下は古式と現世魔術の最も基本的な違いをご存知ですか」
「さあな。せいぜいが使う魔力量の基本単位が違う、くらいしか知らん」
肩を竦めながらアークが「お前たち魔術士のように頭を使って研究するのは性じゃない」と付け加える。
そんな直球にアナスタシアは困ったように笑った。
「ではご説明させて頂きますね。両者の違いというのは発動魔力量の大小ではなく、その術式に制限がかけられているかどうかにあります」
長くなるので座りましょう。
そう言って、アナスタシアはテーブルに全員を案内した。
最奥上座にアーク。左隣に真澄が座り、アナスタシアはその向かいに腰を降ろす。ライノは一人固辞していたが、「いいからかけなさい」と強く言われ、渋々従った。
「魔術で何かを為すには必ず代償が要ります。それは神から授けられた力であって、人知を越えているからに他なりません。肉体の限界を超えているから、とでも言いましょうか。その代償を術者の魔力だけに限定したものが現世魔術です。これは攻撃であれ治癒であれ変わりません」
「ということは、古式は魔力以外の何かを必要とするのか?」
「はい」
「……そう特殊なものとは思えんな。アルバリークでも古式魔術の研究と一部の再現はされている」
「おっしゃるとおりです。特別な才能などが要求されるわけではありません。むしろ万人に共通のものです」
「一体なんだ」
「時間です」
アナスタシアの答えに、それまで淀みなかったアークの言葉が止まった。
虚をつかれたように押し黙る。
真澄自身もその意味するところを図りかねて、質問はおろか相槌さえも出せなかった。
部屋を満たす沈黙。
その中でアナスタシアが滔々と語った。
「かつて古式魔術が全盛だった時代には、魔術における不可能は死者を蘇らせることだけだったとされています。単純に聞くとありとあらゆる行動が思うままになったように思えますが、それは間違いです。その大きな効果は全て、魔術の対象あるいは術者の時間を使うことで賄われていた、というのが真実です」
例えば治癒。
古式魔術では止血や痛みを和らげるだけに留まらず、骨折などもたちどころに治し、瀕死の大怪我でさえ完全に治すことができた。
が、
それは魔力で癒しているのではない。
やっているのは術者の魔力を原動力として対象の肉体時間を早めて回復させているのだ。全治一ヶ月の怪我ならば、治癒をかけるその五分で一ヶ月の時間を肉体に強制的に経過させるわけだ。
「寿命が五十年だとします。騎士であれば職業柄、大きな怪我も多いでしょう。一つ一つは一週間、一ヶ月、あるいは半年ほどで自然回復するものだとして、けれどそれを強制的に回復させ続ければ僅かな時間にもかかわらず年単位で肉体年齢は経過していく。この意味お分かりになりますか」
アナスタシアの顔は真剣そのものだった。
「二十代でも急激に衰えて死ぬ。術式だけが数多産み出される一方で、魔術の原理原則がまだ解明されていなかった頃は、原因不明の奇病として世界中で恐れられたと記されています」
その奇病は特に軍人――騎士と魔術士を中心に猛威を振るった。
歴史の書にはその始まりが克明に残されている。
魔術大国があった東の新大陸。古い中央大陸からの移民たちが築いた港町が母体のそれは、厳しい自然環境と乏しい資源という困難を乗り越える手段として魔術を利用し始め、後年の人口増加に寄与したとされる。
人の生活圏が拡大すれば、先住の者と衝突する。
最初は生活の一助だった魔術はやがて魔獣との勢力争いに勝つ為に研究が進められ、大いなる発展を遂げた。
騎士と魔術士、そして楽士という分業――いわゆる技能の専門化が明確になったのもこの時代だとされている。争うべき敵は強大で、予断は許されない。新しい術式が日夜開発され、回復のための楽曲も多種多様に書かれ、まさに日が昇る勢いだった。
そんな中、その奇病は始まったのだ。
「解明には百年もの時間を要しました。結果として新大陸の人口は伸び悩み、今や沿岸部の限られた場所にしか集落は残っていません。およそ自滅に近いとはいえ、かつて魔術大国として名を馳せた栄華はもはや遠い過去だというのはご存知のとおりです」
人はかくも弱き存在である。
アナスタシアが呟いた時、強い北風に窓ががたりと鳴った。
「わたくしたち魔術士は研究者でもあります。野放図に扱えば命さえ落とす、そんな危険な状態を許すわけにはいかず、先人たちの手によって全大陸魔術統括機関――イーファが発足しました。そしてすべての現世魔術に制限がかけられたのです」
イーファにより現世魔術の術式は厳しく管理され、万人が支障なく扱えるよう代償は魔力のみ――つまり、発動とその効果は極小に抑えられる――ようになった。
この制限がかかっていなければ魔術として使用を認められず、その術式は日の目を見ることはない。
同時に魔術士を名乗るにはイーファに登録されることが必須で、登録されると魔力の使用履歴に監視がつく。事前に申請した研究の一環以外で古式魔術を使ったり、あるいはイーファ登録なしに一定値以上の魔術を扱えば、即座に身柄を拘束される。
厳しい管理と運用は東大陸の犠牲が大きすぎたからだ。
関連の死者数は数万を超えている。
「すみません、少し横道に逸れてしまいました。結局お話したかったのは、完治と引き換えに少しだけ肉体の時間が進んでしまうということなのです。もちろんマスミ様がお嫌でしたら治癒は使いません」
「んー……そうねえ」
思わず真澄は手を口に持っていき考え込んだ。
「さっきの話って、つまり完治するまでの時間をあっという間に経過させてその分寿命が短くなるってことよね。腱鞘炎は、うーん……個人差あるけど、聞いた範囲じゃ大体三ヶ月から半年とか一年くらいで治るかなーって感じだから」
腱鞘炎になった例はそれこそ周囲にいくらでも転がっていた。
しかも完全に弾くことなく静養に専念できる人間は皆無で、誰もが皆多かれ少なかれ長引く痛みと付き合わねばならない状態を余儀なくされていた。
ある程度覚悟をしていた真澄にしてみれば、アナスタシアからの提案は行幸以外の何者でもない。
「いいわ、お願いする。最悪完治まで三年とかだったとしても、平均寿命からしたらまあ誤差の範囲だし」
「おい本当にいいのか」
さっくり決断した真澄に対し、慌てて念押ししてきたのはアークである。
アルバリークの平均寿命は知らないが日本人のそれは知っている真澄は、「まあね」と小首を傾げた。
「確か九十歳近くよ、日本人女性の平均寿命って」
八十年ほども生きれば、あと一年か二年か三年かというのはそう大きな差ではないだろう。どうあれ大往生であることに変わりない。
つらつらと真澄が語ると、難しい顔でアークが考え込む。そして、「九十……平均で九十だと? 統計間違いか何かじゃねえのか……」などとブツブツ呟く。
とりあえずそれ以上の反対はなさそうなので、真澄はアナスタシアに向かって頷いた。
「やっちゃって。痛くなくなるなら私も早い方が嬉しいし」
「本当によろしいですか?」
アークを気にする素振りでアナスタシアが目をしばたく。いいのいいの、と真澄は手を振った。
「どうせもう違うこと考えてるみたいだし、今のうちよ」
「……分かりました。では」
失礼します。
生真面目に一礼して、アナスタシアが両手を真澄の左腕にかざした。
そして柔らかな言葉を紡ぐ。
意味は分からない。訊けば、特に術式に改良を加えない真正の古式魔術はそのまま古語で発動させるらしい。子守歌のような優しい音は、そういえば転移の時に聞こえた旋律に良く似ていた。
「……綺麗な色ね」
左腕を包み込むばら色の光に目を細める。
美しく高貴で、同時にたおやかだ。
濁りなく揺らぎながら濃淡を変える光は敵意などどこにも見えず、ただアナスタシア=レイテアという人となりを映しているようだった。
やがて光は収斂する。
全てが真澄の中に染み込んだ時、アナスタシアが「どうでしょうか」と窺ってきた。
「私の魔力は丁度なくなりました。感覚的には過不足なさそうなのですが」
「痛みは消えたみたい。大丈夫そうよ、どうもありがとう」
ヴァイオリンを弾く時のように左腕を捻ってみると、痛みどころか軋むような感覚も綺麗になくなっていた。これまではその姿勢をとるだけで痛みが襲ってきていたわけで、どうやら本当に完治してしまったようだった。
感心しきりで腕やら手やらを動かす。
慣れ親しんだ感覚に思わず頬を緩めていると、やおらアークが立ち上がった。
「約束だ、二人で話せ。俺は向こうにいる」
用件だけ簡潔に言って暖炉前のソファを指差す。
急に出た許可に「え」とアナスタシアが戸惑うがそんなことはお構い無し、さっさとアークは歩き去った。
追うようにしてライノも立ち上がり、一礼して壁際まで下がった。さすがにアークと二人きり正面から向き合って座るほど胆力はないらしい。
「ああ見えて約束は守る男よ」
言葉はきついけどね。
真澄が肩を竦めてみせると、アナスタシアは困ったように笑った。
* * * *
「なにからお話したら良いでしょうか」
女二人だけになったテーブルで、迷いながらアナスタシアが口を開いた。
両手は固く握りしめられている。
ただでさえ白い彼女の肌が、そんな仕草に青ざめているようにさえ見えた。
「お呼びしたのはわたくしの師になって頂きたかったからです」
「師……って言われても」
真澄は戸惑った。
地球には魔術などなかった。錬金術や魔女、魔法などとそれらしい歴史はあるにはあったが、いずれも科学に駆逐されて確立されなかった理論あるいは空想扱いだ。
そんな自分が、稀代の魔術士と呼ばれるアナスタシアに何を教えられるというのだろう。
「ごめん、魔術は無理だと思う」
「いえ、違うのです。魔術ではなくて、ヴィラードの師としてお迎えするつもりでした」
「……え」
「おっしゃりたいことは分かります。まずは聞いてくださいますか」
若く澄んだその目は離宮の外、彼方に見えるダズネ山に向けられていた。
「わたくしは魔術士ではなく楽士として大成したくありました。アークレスターヴ殿下に輿入れすることをずっと夢見てきましたゆえ」
それは爆弾発言としか捉えようがなかった。
反射的にアークを見るも、背を向けたままで振り返る気配はない。約束どおり聞く気はないらしく、声をかけるのは憚られた。
壁際のライノを見る。
すると一瞬合った視線は、次に避けるように逸らされた。
主は魔術士として在ることを望んでいない。
昨日の言葉が脳裏に浮かび、このことかと合点が行く。かといって、真澄には何もできなかった。
愛想笑いを返すことも、声を出すことも。
ただ早鐘を打ち始めた胸がうるさかった。




