88.魔術士というもの・11
「近衛なんぞいらん。最初からあなたはそう言って憚らなかった。地位に恋々としていざという時に民の盾になれない――死ねないようでは困る、と。そういうあなただったから、私はあなたの元で誓願を立てることを望みました。歴代最高と呼ばれたこの力を、あなたなら余すことなく使ってくれるだろうと信じて」
右腕の語気は珍しく荒くなっていた。無論言われずとも覚えている。
守るべきもののために死ね。
それを王族でもない人間に求めるのは酷だと分かっていて尚アークは要求した。十五になり成人を迎え、第四騎士団長に就任した時のことだ。近衛騎士長候補として並んだ者たちは濃淡ありながらも軒並み怯んだ。
アークは彼らを責めなかった。
年嵩の神聖騎士ばかりだったからだ。彼らが選ばれたのはひとえにアークが若かった――むしろ若すぎた――せいであって、彼らが進んで手を挙げてきたわけではない。一言で言えば宮廷騎士団長である次兄からの余計な世話だ。そんな事情を勘案すれば、無理に指名したところで上手くいかないのは早晩知れていたし、それはアークの目指す第四騎士団とはかけ離れていた。
そして新生第四騎士団は、異例の近衛騎士長不在のまま始まった。
翌年。
一つ下のカスミレアズが見習い期間を終え正式に叙任を受ける年に、彼は自ら第四騎士団の門扉を叩いた。
武官でエイセル家を知らぬ者はいない。
代々はもちろんのこと、当主であるカスミレアズの父が他でもない宮廷騎士団の神聖騎士としてその名を馳せていた。
ゆえにアークも当然知っていて、だから門前払いをした。
カスミレアズはエイセル家の長男である。
騎士としてその才覚が認められ、最も早い七歳から見習いとして宮廷騎士団に仕官に上がっていたのは周知の事実だ。そのまま宮廷騎士団で叙任を受けること、次期当主としてゆくゆくは父親の後を継ぐであろうことは誰一人として疑っていなかった。
輝かしい未来が約束されている。
そんな人間が弱小扱いの第四騎士団に用などあるはずがないのだ。仮にあったとしても宮廷騎士団がらみの相手である。一歩間違えれば、というか間違わなくても面倒は避けられない。そういうわけでアークは何度請われても面会に応じなかった。
取り次ぎをやっていたのはセルジュだ。
旧第四騎士団を生きた伝説といっていい神聖騎士で、その実力もさることながらそれ以上に厳しい指導で有名だった。彼はアークの実質的な近衛騎士長役を買って出てくれて、見る間に滞りがちだった執務が片付くようになった。
ともあれ、最初からひいきなどしない御仁がある日言ったのだ。
一度会ってやったらどうか、と。
もう何度突っぱねたか覚えてすらいない。最初は日に一度だったくせにその頃は朝昼晩夜討ち朝駆けところ構わずとなっていたから、軽く三桁は越えていただろう。とはいえただ回数を重ねるだけではそもそもセルジュが認めない。顔だけ見るかという気持ちになったのは、続いたセルジュの言葉が大きかった。
馬鹿と鋏は使いようってやつでしてな。
誰とは言わんが暗にエイセル家の次期当主を馬鹿呼ばわり。しかし本当にただの馬鹿ならセルジュの眼鏡に叶うわけがないのもまた事実。生きた伝説を面白がらせる若造に、その三日後とうとうアークは会うことにした。
「死なば諸とも」
カスミレアズの肉声がアークを現実に引き戻す。
繰り返されたのは若かりし頃の純粋だった言葉そのままだ。
昨日のことのように覚えている、初めて顔を合わせた日。懐かしさを感じながらもアークは一つ息を吐いた。
「何回同じ説教をさせる気だ。俺はお前の敵か? それを言うなら一蓮托生だろうが」
「そういえばそうでしたね」
肩をすくめたカスミレアズはまったく悪びれずに笑った。久しぶりに無防備なその顔は、出会った時と変わらず真っ直ぐだった。
本を読むより武芸に勤しんでいた部下。
今でこそ常識人として振る舞っているし関係各所からの信頼も厚いが、中身は至極単純なのだ。本来は考えるより先に身体が動く人間である。
見た目の印象や態度はともかく、曲がりなりにも王族としての教育を受けたアークの方がものを知っていて、教えたり訂正したりを繰り返して早十三年だ。それはカスミレアズが第四騎士団の一員となって過ごした月日と同じである。
「いいか、そういうところだぞ。どう考えてもお前に宮廷騎士団は無理だったな。今確信した」
「今ですか。私は二十年前に見切りをつけていましたが」
「諦めるのが早すぎだ。ったく、お前の親はさぞ期待してただろうに」
神聖騎士の父親と、大魔術士の母親。
どちらも宮廷に出仕していて実力は折り紙つき。そんな二人の子となれば、当の親でなくとも期待したくなるのが人情というものだ。
事実、カスミレアズは幼い頃から才能の片鱗を見せていた。
身体は丈夫で体力があり、剣の扱いも飲み込みが早い。そして見習い期間の仮叙任でさえ、その魔力量の伸びは目をみはるものがあった。
末は間違いなく宮廷騎士団の近衛騎士長。
誰もが疑わなかったそんな未来を、カスミレアズは一言の下にさっさと捨てた。
「細かい作業は苦手なもので」
「――だから『何も考えなくていい盾になりたい』、だったな」
端から聞けば失礼極まりない発言である。特に第四騎士団に対しては。
当然アークも耳を疑った。
喧嘩を売りにきたのかこいつは、と。
額に青筋が浮かんだのは言うまでもない。次兄からの新手の嫌がらせかとも勘繰った。勢い詰問口調になったアークだったがしかし、話を聞いているうちに怒りは消えた。
それどころか最後は哀れみしか感じず、たった一度の面会でそれまで頑なに突っぱねてきたカスミレアズの第四騎士団入団を認めるに至った。
「苦手、ね。そりゃあんまり控えめ過ぎだろう。もはや絶望的に不器用すぎた部類だぞ、あれは」
話題にするたび笑うしかない。
確かにカスミレアズは両親から良いところを受け継いだ。が、天は二物を与えなかった。
あれほど突出した魔力量を誇りながら、一度に二つ以上の条件を組み込めないほど魔力繰りが下手くそ。
話を聞いた時にはその意味不明さに聞き返したほどだ。
そして三回目の説明でどうにかアークが理解したのは、どうやらカスミレアズは「攻撃する」か「守る」の加減ならばできるものの、認証などに代表される間接系魔術の一切が使えない、という衝撃の事実だった。
七歳から見習いに上がって、成人までの八年間。
宮廷騎士団の人間が毎日誰かしら付きっきりで指導したにもかかわらず、惨憺たるこの結果。
宮廷騎士団は内部を守るのが仕事である。
でかい魔獣を一発で仕留めるより、侵入者を探知したり警備上の罠を張る、あるいは自白を促すような責め苦を絶妙な加減で与えるなどの複雑な魔術を扱える器用さが必須だ。
その前提からすると、カスミレアズは話にならない。
使い物になるならないの議論より、はるか手前の問題だったのである。
かくてカスミレアズは第四騎士団の扉を叩いた。
盾になることだけは、誰にも負けないからと言って。
そこには親の面目だとかを勘案するもう一つの器用さもなく、ただ己ができることに生涯を懸けたいという真っ直ぐすぎる思いだけがあった。
馬鹿正直にも程がある。
確かに第四騎士団にとってはまたとない貴重な人材だ。攻守ともに戦闘に特化した力は他のどこより第四騎士団で活きる。できないことには見切りをつけ、できることに注力するのは絶対に正しい。そういう意味で確かにカスミレアズの判断は真面目かつ最も合理的だった。
それを差っ引いても、さすがにもう少し親の立場も考えてやれと説教したのは懐かしい思い出である。
この件でカスミレアズの父親が宮廷騎士団内で冷遇されるようなことはなかった――さすがに次兄もそこまで分別がないわけではなかったらしい――が、後日二割増しで次兄からアークが嫌味を言われたのは余談だ。
「……配慮したところで今さらか?」
この十三年間、諦めたわけではなかった。
アークとセルジュの二人がかりで叩き込んで、今ではカスミレアズもいくつかの間接魔術は使えるようになった。
カスミレアズ本人がどう思っているかは不明だ。
しかしアークにとってそれは、いつか来るべき未来への備えだった。
カスミレアズは意思なき物ではない。
職務上でアークの右腕として在るが、エイセル家の長男であること、家督を継がねばならない立場は変わらない。いつ宮廷騎士団へ呼び戻されるかは分からないのだ。
そんなアークの考えを他所に、カスミレアズは肩を竦めた。
「母は未だに私の宮廷騎士団勤めを諦めきれないようですが」
そして困ったように笑う。
「父は納得させましたから」
「初耳だぞ。いつだ」
「近衛騎士長を拝命した時です。二十歳でしたか」
「お前の親父さん、堅物だったろう。どうやって煙に巻いた?」
「特別なことは何も。所属はともかく歴代最速で近衛騎士長になって何の文句があるのかと言っただけです」
「お前、……やるな」
毒気を抜かれ、アークはやぐらの石壁に背中を預けた。
心配は杞憂だったらしい。
そんなアークに、今度はカスミレアズが「そもそもですが」と片眉を上げた。
「まさか私の事情だけを考慮するおつもりではないですよね。私に訊くなら他の者全員に同じ質問をすべきです。近衛騎士長だけ特別扱いなど下に示しがつきませんから。それを踏まえて第四騎士団が何人いると思っておいでですか。どんな命令が出されたのか存じませんが、私も部下の誰も、命が惜しければあなたの叙任など端から受けておりませんよ」
「もういい分かった」
知っていて尚釘を刺すための小言だ。遮らなければしばらく続くのが目に見えて、アークは顔をしかめて手を振った。
馬鹿だこいつ、とかつて思った相手から諭されるなど。
こんな日が来るとは微塵も描いていなかった。
感慨深いのか座りが悪いのか、良く分からない。ただ第四騎士団の再興はどうやら間違いではなかったらしい、それだけは確信できた。
「殿下はなんと?」
本当の本題に切り込んだのはカスミレアズだった。
この部下はアークが先日、単身で王太子に呼び出されたことを知っている。
覚悟は聞いた。
であれば腹心に対して隠し立てする必要はない。アークは一つ息を吐いて、カスミレアズに目を向けた。
「エルストラス遠征だ」
「とすると、グリスト渡河……ですか?」
上がったのはエルストラスとレイテアを隔てる大河の名だ。
連峰の麓に栄えるアルバリークと違いエルストラスは国土の大半が平野で、広大な野を貫くグリスト川はこの中央大陸を南北に分けている。
平地に横たわるその流れは速くはない。
しかし水量の豊富さは他に類を見ず、豊かな自然に育まれる生態系は「複雑」の一言に表される。連峰がアルバリークの天然要塞ならば、グリスト川はエルストラスの巨大水濠と呼んでいいだろう。
「その理解で間違いない。時期はそうだな、……早ければこの冬だ」
アークの説明にカスミレアズが眉を寄せる。
順当な反応だ。
行軍にあたって最も避けるべき季節は冬である。
防寒のために人も馬も重装備にならざるを得ず、進軍速度はどうしても鈍る。さらに吹雪など天候が悪ければ何日も足止めをくらう。普通の頭を持っているなら教えられずとも分かる話だ。
それに加えてグリスト川に橋はない。
主要な渡河手段は船だ。グリストが巨大水濠と呼ばれる所以でもあって、橋梁建築の技術がないわけではなく、架けても維持ができないのである。グリスト川全域に棲息し、その生態系の頂点に君臨する魔獣セーオム――レヴィアタの眷属ともされる――が、破壊してしまうからだ。
セーオムはその巨体もさることながら、獰猛さでも知られている。
縄張り、つまりグリスト川への侵入者はたちどころに敵か餌として認識される。例外はない。ゆえにただの船では漕ぎ出した瞬間に沈められてしまう。
無事に渡るには堅固な防御壁を船体にまとわせねばならず、場合によっては足場の不安定な船上でセーオムと戦闘になる。第四騎士団という大所帯を行軍させるには大きな障壁だ。
危険度と費用を勘案すると、妥当とは言い難い。
そうまでして遠征しなければならない理由はなにか。目線で問うてくるカスミレアズに、アークは長兄から話された内容を伝えた。
赤の周期が激烈になりそうなこと。
既にエルストラスが魔獣から襲撃を受け、かなりの被害を受けたこと。
レイテアの魔術士団は疲弊しており、大規模な戦線を展開する力が残っていないこと。よって内々にアルバリークからの庇護を求め、結果として終戦という名のレイテア併合を迎えること。
そして魔術士団の立て直しが急務であると同時にエルストラスから救援要請も入っていて、
――つまりアルバリークとしては自国とレイテア、さらにエルストラスの三拠点で多方面作戦を展開せねばならなくなったことを明かした。
「レイテアは宮廷と第一魔術士団が面倒を見る。合わせて第一と第二騎士団も派遣される手筈だ」
「ではエルストラスには第二魔術士団と我らですか? 釣り合いを考えるならば第三騎士団も編成されるのが妥当でしょうが」
さすがにそれは望みすぎか。
考え込む風情でカスミレアズが呟く。
それは平時ならばかなり良い読みだったが、今回に関しては外れていた。
「第三騎士団は留守番だ。帝都を守る」
「そうですか」
「第二魔術士団も遠征はしない」
言い切ったアークに、カスミレアズから相槌はなかった。
鋭さを増した視線が突き刺さる。そこには聞き返すような戸惑いが一筋混じっている。
が、苛烈な現実を部下に言わせるのは忍びなく、アークは一息に続けた。
「エルストラス遠征は第四騎士団単独で任された。目標は敵殲滅の準備が整うまでの間、エルストラス皇都を敵脅威から守ること。それまで魔術士団は温存される」
「……敵の正体は?」
「ジズだそうだ」
カスミレアズが絶句した。
その名は神話の中に海のレヴィアタそして陸のベヒモスと並び記されている。
『全天の覇者』と異名をとる空の魔獣は、翼が朝陽から夕陽まで届くほど大きく、それが羽ばたくから夜が訪れるのだと語られている。
鉤爪は大陸をつかみ、くちばしは海原を飲み干す。
鳴き声は不吉な予言をもたらし、その声を聞いた者には災厄が降りかかるとされ、「決して触れることなかれ」とアルバリーク建国記は警告する。
女神デーアは一度だけその怪鳥と闘った。
ある日を境に夜が続き、朝が来なくなった。長い闇が三月を数えた時、デーアは立つ。そして空を覆うその鳥に朝を返すよう掛け合うが受け入れられず、とうとうデーアは力で光を取り戻した。
しかし代償は大きかった。
魔獣は去り際に呪いの言葉を投げつけた。かわす手段を持たなかった女神は、その呪いを受けて命の期限を切られてしまう。
だから建国の女神はここにいない。
彼女から与えられ残された祝福だけが、今の人間が頼れる力なのだ。
レヴィアタと同格だが非常に性質の悪い相手である。
ましてそれが群れを為しているというのだから、一筋縄ではいかないのが目に見えていた。
ついでにエルストラス皇族の使役獣が食い殺された事実を教えてみるも驚きは出尽くしたらしく、カスミレアズは僅かに眉を寄せるに留まった。
「諸々踏まえて訊こう。渡河の基本を覚えているか」
二の句を継げないでいるカスミレアズに対し、アークは問うた。
突然の問いに虚を衝かれたか、一瞬カスミレアズが考え込む。ややあって、答えは出された。
「……『敵に遠く渡れ』」
「正しい。が、その敵の所在が今はまったく掴めていない。一口にエルストラスと言っても広いからな。だからまずは探索が先立つ任務で、これは第一騎士団の所掌になった」
ジズの群れがどこを拠点にしているのかをまず暴く。その間、第四騎士団はいつでも遠征できるよう即応態勢を整えることに注力するのだ。
「地方戦力も全て含む編成になる。大掛かりになるぞ」
「全域召集をかけるのですか? しかしそれは」
「どうせ対レイテアの前線はなくなる。国が消えるんだから当然だ。武楽会が終わればすぐに宮廷から発表されるだろう。異論は出しようがない」
「辺境の守備はどうなるのです」
「それは第三騎士団が代わりに請け負う」
「お待ちください。先ほど第三は帝都を守ると」
「言った。帝都も辺境も第三騎士団の管轄になった」
「……できるできないではなく、やらねばならないのでしょうが。それにしても物理的に頭数が足りないのでは?」
「当面は第二魔術士団がそこを補う。それもあっての采配だ」
迫り来る脅威を前にして、既に流れは大きく動き始めている。
もはや誰も抗えないのだ。
抱いた誓いと授けられた力。
本物であるかどうか試される時が来た、ただそれだけのこと。
この世界に生きるのならば避けては通れない戦いである。
アークが言うと、カスミレアズは口を引き結び夜空を見上げた。
* * * *
翌日、武会の準々決勝が行われた。
第一戦はネストリとアナスタシアで、奇しくも真騎士部門戦と同じ組み合わせとなった。結果は健闘したもののネストリが敗れ、ばらの王女の名声がさらに高まった。
カスミレアズとフェルデの第二戦は観客が会場外まで溢れでた。
歴代最強の近衛騎士長と稀代の大魔術士の対戦である。
評判が評判を呼び、後に振り返ると個人戦決勝に勝るとも劣らない盛り上がりをみせた試合だった。
軍配はカスミレアズに上がった。
周囲がそれをどう見ていたかは分からない。
だが少なくともアークの目には、フェルデはカスミレアズを殺すつもりで仕掛けているようにしか見えなかった。よしんば殺せなくとも、次の準決勝で負けるよう魔力枯渇を目論んでいるようでもあった。
個人戦の回復については、曲に制限はないが時間に制限がついている。
試合前の一時間しか回復は許されず、不正ができないよう武会出場者は最初に誓約の魔術をかけられているのだ。
もとより専属契約も無効化されている。
魔力の器が大きければ大きいほど一時間の縛りは重く圧しかかり、それは魔力そのものをどう使うのか、温存するのかしないのか、次に当たる相手の読みと共に試合運びを左右する。
カスミレアズはフェルデの猛攻をどうにか凌ぎ、勝利を収めた。
沸き立つ会場の中、アークは全員に解散するよう命令した。
この人混みでは当のカスミレアズ自身しばらく控室からも出られないはずで、待つだけ時間の無駄だ。そうしてアルバリーク陣営は早々に各自会場から引き上げた。
全員の姿が雑踏に紛れたことを確認し、アークは踵を返す。
興奮冷めやらぬ人波をかきわけながら向かった先は石造りの砦の中、武会出場者の控室だった。
扉を閉めると喧騒が一気に遠のく。
そのまま歩を進めると、角を三回曲がって目的地へ着いた。廊下の突き当たりにあるその部屋は、扉にカスミレアズ=エイセルと書かれた紙が貼られている。アークはノックをした後、返事を待たずに中へと入った。
「誰だ、っ……!」
瞬間、鋭い怒声が飛んでくる。
部屋の端に置かれた椅子、その背にくず折れるように深く身を預けているカスミレアズがいた。
咎める色を浮かべた碧眼はアークを捉えて、そのまま数秒固まった。沈黙の合間にアークは何も言わず後ろ手に扉を閉める。背中を預けて腕を組めば、内開きの扉はこれで誰も入ってはこれない。
アークはその場から動かず、視線だけをカスミレアズに向ける。
問い質すそれだ。
気付いていないはずがないカスミレアズはしかし、避けるように目礼を寄越してきた。
「……失礼しました」
顔色が悪い。
今しがたの無礼に青ざめているのとは違う。浮かんでいる冷や汗はその前から額に滲んでいた。
扉を開け閉てせずにいると、やがて動いていた空気が止まる。
アークの鼻腔を一筋の匂いが掠めた。
嗅ぎ慣れたそれは鉄錆と同じだ。
カスミレアズは脱いだ鎧を床に投げ捨てたまま、マントを腰回りに巻いている。常になく乱雑な結び目は黒く濡れていた。
「治癒はかけたのか」
「……何のお話ですか」
肩で浅い呼吸を繰り返しながら尚、カスミレアズは何も言わなかった。文句も愚痴も泣き言さえも。
それが意思表示だ。
理解したアークもまた、重ねて問うことはしなかった。
回復は端からしてやるつもりなどない。棄権を勧めるのも余計な世話だ。
「そうか」
言って、アークは腕を解いた。
カスミレアズは無言のままでいる。真面目なだけあって、こうなると誰が何を言おうと絶対に翻意しない。
それこそ第四騎士団に入ると決めた時さながらに。
「――男ならば貫きとおせ」
抱いた信念に恥じぬよう。
返事は待たず、アークは腹心に背を向けた。振り返らずに控室を後にする。
続いて出てくる気配はない。
夕闇が迫り、数少ない石の採光枠からは金の光が音もなく射し込んでいる。外を見遣ればソルカンヌの街へとくり出す人の群れがあって、彼らは今夜酒を飲みながら、明日はどちらが勝つのか――近衛騎士長カスミレアズか、ばらの王女アナスタシアか――その予想で盛り上がるのだろう。
実力は拮抗している。
両者の状態が万全ならば。
「……死ぬにはまだ早いぞ」
誰にともなく呟きながら歩くと、石の床、殊更に靴音が高く響いた。




