86.魔術士というもの・9
その扉を前にして、アークは入室許可を得るのをためらった。
実際問題としてはアークが呼び出された側であって、かつここは次の間に相当する短い廊下である――つまり護衛も正しく通り抜けてきている――ゆえ、最早なんらの障害も残っていない。それでも顔が渋くなるのは、これから受ける話がおそらく重いであろうことが薄らと分かるからだ。
小さく息を吐いて、眉間をほぐす。
王太子であるところの長兄は人格者だ。誰が見ても公明正大。むしろどう穿って見ようとも一分の隙なくそう在る。それが父親、つまり陛下を反面教師にしてそうなったのかは分かりかねるが、それにしても一度陛下に噛みついて覚えの悪くなった弟であっても分け隔てなく接してくれるのは、ありがたい反面余計な気を遣わせて、と申し訳なくなる。
まあ末の弟を構ったくらいで文句が出るような脇の甘さなどあの長兄にはそもそもないわけで、心配するだけ無駄といえば無駄なのだが。
ともあれ、
物事が決まる時にどれだけ早くそれを知るかは、騎士団運営にあたって死活問題である。
蚊帳の外に置かれて割を食わされることが多かった第四騎士団だが、ここ数年は改善の兆しが見えている。それもこれも遠くはない代替わりを見据えて長兄がかなりの政務を担い始めたからだ。
ただし、手放しで喜んでばかりもいられない。
最上位の意思決定に近付けた引き替えに、相応に重要な任務が降ってくる。適材適所というのは長兄が折に触れ口にする言葉だが、今度はどんな話が飛び出てくるやら。
なんせ無効試合という武楽会史上初の采配があったばかりだ。
裏には色々と思惑が交錯しているだろう。
考えれば考えるほど、顔は渋くなる一方だ。
寄せられて固くなった眉間は中々ほぐれなかった。が、どうにか柔らかくなったのを入念に確かめてから、改めてアークは扉を叩いた。
「アークレスターヴです」
中から返事があってすぐ、アークはドアノブを押した。
すぐに部屋は見渡せない。
目の前には次の廊下があって、突き当たりの左から光が差している。歩を進めて角を曲がると、豪奢な調度がゆったりと設えられた広い部屋だった。
不慣れな配置に束の間目を走らせる。
大きな出窓が正面にあり、十人はかけられそうな卓が置かれている。既に日は落ちかけていて、斜めに差し込む夕陽が白いそれを金に染めていた。見れば天窓もある。日中は豊かな光が入るであろうその場所は、王太子妃がいわゆる茶会などを催すのに相応しい。
が、今そこには誰の姿もない。
手前を窺うと書棚の並ぶ一画にソファが陣取っている。仮眠も取れそうな大きさ、背もたれにかけられているのはレイテア特産の織物だ。とりどりの色糸を使い編まれる紋様は、使う色が多いほど、そして紋様が複雑であるほど価値があると聞く。
極彩色のその上に長い金髪の後頭部を見つけ、アークは「兄上」と声をかけた。
「こちらに」
手短な指示に従い、アークはソファに腰を下ろした。
長兄の斜め前、空いていた方に。
「少し待ってくれるか。あと二つで終わる」
そして座るや否や状況が端的に説明される。長兄の前には山と積まれた文書があって、外遊中でさえそれだけに集中できない身の上が知れた。
相変わらず忙しいことだ。
ほとんど全ての執務を三位の神聖騎士に代行丸投げしてきたアークとは違う。一応、余程重要な案件があれば伝令が来る手筈にはなっているが、ソルカンヌに到着してからというもの帝都から音沙汰はまったくない。
というより、立場の違いがそうさせるのだろう。
元より武官は代行が前提になっている。騎士団が軍として機能するため、いついかなる時であっても明確な指揮系統を守らねばならないからだ。「上官がいないので決められません」では話にならないし、それで待ってくれるお人好しの敵などいない。
これに関しては、そういえばマスミが随分と憤ってたなと思い出す。
既に懐かしい記憶になりかけているそれは、ヴェストーファでの一幕だ。騎士というものをざっくり説明した時、「替わりはいくらでもいる」というただの事実に、最後まで納得していなさそうな顔だった。
つらつら考えていると、長兄の手が文書を閉じた。
「待たせたね」
目頭を揉みながらの言葉に、アークは首を振った。
「いえ。むしろ待った内に入りません」
「誉めても出るのはお茶だけだぞ」
笑いながら腰を上げようとした長兄だったが、アークはそれを手で制した。
そして自分が立ち上がる。
「それくらい弟に言いつけましょう」
「珍しい台詞だなあ。兄弟どうこう言われるのは兄弟の中で一番嫌いじゃないか」
「相手によります。そりゃイアンだったら金もらってもお断りです」
否応なしに次兄――九人の中で最も仲の悪い兄――の顔を思い浮かべてしまい、またしてもアークの顔は渋くなる。それを見た長兄は困ったように苦笑するが、追加の言葉は特になかった。
そんな間合いに感謝しつつ、アークは用意されていたワゴンのティーポットを取った。
薄い縁の繊細なカップに茶を注ぐ。白い器が色づいていき、ふわりと湯気が立ち上った。
横から見ている長兄は、ただ穏やかな視線を寄越してくる。
この匙加減が絶妙なのだ。
実際にやり合った時は様式として説教されるが、それ以外ではうるさく言われたことがない。突き放されているのではなく見守られていると理解できる距離感が、アーク自身を素直にさせる。
うっとうしい小言ばかりの次兄とは違う。
この長兄を少しくらい見習えば多少なりとも話をする余地はできそうものだが、しかしあの性格では百年経っても無理だろう。比べるだけ無駄だ。
満たされた二つのカップを持って、アークはソファへ戻った。
ちなみにソーサーは省略した。茶会に呼ばれたわけではないことは承知している。
「それで、俺はなにをしたら良いんですか」
「私は『お茶の相手を』と言付けたはずだよ」
相変わらずせっかちだ、と呆れたように長兄の眉が下がった。
反対にアークは片眉を上げてみせる。
「使用人どころか義姉上もテオも姿が見えない。男二人で優雅に茶飲み話と思うほど平和ボケしてません」
完全に人払いがされているのだから、間違いなく政務の話だ。
そして最前線担当の第四騎士団、その長であるアークが呼び出された時点で話の方向はお察しでもある。
帝都で動きがあったか。
あるいは国境か。
武楽会中ではあるが即応の段取りを頭で描きながら、僅かばかりの緊張がアークの背筋を伸ばす。
覚悟を決めながら静かに待つアークに、長兄はカップを置いてから向きなおった。
「今年の武楽会、勝敗はつけないかもしれない。条件次第だけれどね」
虚を突かれてアークは押し黙った。
想定していた話題とは全く別方向の切り出しだったからだ。そして少し経っても言葉が出ないのは、冷静に内容を斟酌すると不可解な部分がありすぎてなにから質したものか迷ったからである。
そんなアークを見てか、長兄が続けた。
「神聖騎士部門の残る二戦。アルバリークが勝てばレイテアに並ぶ。今日の試合が無効になったからね。だがそうなったとしても追加試合はしない。今年の武楽会はそこで終了だ」
「……交換条件は?」
その取り決めはアルバリーク側が譲歩している。残る二戦次第というが、実質勝負は見えているからだ。
こちらの三位が相手の主席を下している事実を前に、それ以下の魔術士などアークとカスミレアズの相手にはならない。レイテア側にその認識があるかはともかくとして、長兄が分かっていないはずがない。
ゆえに、勝ち数が並ぶのは分かりきっている。
そして追加試合となれば出るのはアークだ。
フェルデが下した相手をアークが下せない理由はない。
となれば神聖騎士部門はアルバリークに軍配が上がるわけで、真騎士部門の白星と合わせて団体戦勝利の名誉はアルバリークのものとなる。
つまり、長兄の言っている内容は神聖騎士部門だけの話で終わらない。
後に催される個人戦はエキシビションであって、その結果は国の名誉とはならない。あくまでも団体戦の結果が武楽会としての結果なのだ。
それを平たく言って引き分けにするなど、影響は計り知れない。少なくとも帝都――陛下を始めとする宮廷からは矢のような糾弾が来るだろう。
生半可な条件では誰も納得しない。
下手をすれば磐石な長兄の立場さえ危うくするかもしれない。そんな恐れさえ孕む判断、対価は一体なんなのか。
「レイテア魔術士団の一切をアルバリーク預りにする」
まるで天気の話でもするような涼しい声だった。
「……は?」
「アークのそんな驚いた顔、子供の頃以来だね」
「そんなこと、……いや、茶化さないでください。今の話、まさか魔術士団を併合するってことですか」
「そのまさかだよ」
「……俺の中では軍の併合はつまり国の併合と同義だと理解してるんですが、合ってますか」
「今回に関しては八十点だね。レイテアの統治機構はそのまま残る。ただし上位決定機関としてアルバリーク宮廷が入ることになるから、まあ帝国辺境とほぼ同じ扱いだ。元鞘に戻ると言うほうが正しいかもしれないが」
「レイテアの王族は?」
「なくなる」
ばっさり切って捨てた長兄は、それでも穏やかな表情を浮かべたままだ。
そこに潜む苛烈さに、帝国為政者としての器が見える。
滅多に窺えない厳しさを目の当たりにするにつけ思い知らされる。長兄だからではない、他でもない彼だからこそ立太子できたのだ。
「属領になるから当然、一地方の領主扱いになる。それ以上でも以下でもない」
「まあ、……そうでしょうね。妥当かと」
「そういうわけで武楽会そのものが今年で最後だ。建前上遺恨を残さないためにも、勝敗をつけずに済むのなら丁度いい」
「確かに武楽会は最後だと思ってましたよ。停戦協定の話がありましたから。でもそれにしたって併合って……話が一足飛びに進みすぎです。どんな裏技を使えばそうなるんですか」
アークとしては話の大きさと展開の早さに度肝を抜かれるばかりである。
と、そこで初めて長兄の顔が僅かに曇った。
「芳しくない情報がエルストラスから入っている」
上げられた名前はこの中央大陸にある残り一つ、南方の国だ。
異界の存在を呼び出して使役する古式魔術を操る召喚士たちがいる。国体は大きくないが、騎士、魔術士と対等な力を持つ者たちで、アルバリークのみならずレイテアともかねてより親交がある。
他でもないアークの後見人――陛下の第三妃、エルネスティーヌ=トラスの生国だ。
既に亡い生母イリス=アルセと区別して、トラスの母とアークは呼ぶ。
母イリスは側室の第四妃として十九歳で輿入れした。翌年にアークを産み、その後は弟妹のないまま二十七で病没した。たった一人残されたアークを生母と同じように愛し育ててくれたのがエルネスティーヌだ。
養母はその名が示すとおり、エルストラスの第一皇女だった。
最後の側室となるイリスが輿入れする前、正妃の他に三人いた側室の中で、唯一男子に恵まれなかった人だ。普通ならば立場が弱くなるところだが、しかし正妃に次いで最初の姫を産んだこと、そしてもうけた七人の姫が皆魔術士としての才覚を現したことなどから、宮廷内で確たる発言力を持っている。
エルネスティーヌの繋がりで、エルストラスは今でもアルバリークに礼を欠かさない。
謀とは程遠い間柄で芳しくない情報となると、疑う余地はない。アークは無駄な質問を差し挟まず、続きを待った。
「今回の赤の周期が、過去に類を見ないほど大規模になる恐れがあるらしい。厳重警戒されたし、と通達があった」
「そういえば晩餐会で、近年の魔獣増加に手を焼いていると聞きました。新しい使役獣を召喚するために研究が進められてるとか」
より高位の、つまり力のある魔獣を必要としている。
エルストラスの召喚士たちがその研究のため、レイテアに滞在していたとレイテアの主席魔術士が言っていたと記憶している。
「知っているなら話は早い。エルストラス皇族の使役獣が食い殺された」
「は? 食い……殺され、た?」
困惑にアークは目を瞬いた。
エルストラス皇族の呼び出す使役獣は、初代の帝が契約を交わした強力な獣として名を馳せていた。皇族血筋の豊富な魔力が契約の源泉で、普通の召喚士ではとても御しきれない高位の相手だと。
それが食い殺されるなど。
「いや、そこまで具体的な話は出てなかったですが」
あくまでも話題の一つであって、語られたのはそんな血生臭く不穏な内容ではなかった。話が早いと言われても情報量に違いがありすぎて、さすがに戸惑いを隠せない。
長兄は沈痛の面持ちで目を伏せた。
「当たり前だろう。最重要機密だ、アルバリークでも知っているのは陛下と私、あとはイアンとイェレミアス様だけだ」
「それは、……まずは宮廷の防御を固めると」
上がった名前は宮廷騎士団長と宮廷魔術士団長の名前だ。
どちらも内部を守るのが仕事である。
「そう、緊急配備だ。いつ攻められるか分からないからね。いくらあの二人が優秀でも、レヴィアタ級の魔獣の群れをさばくのは準備がいる」
神話に出てくる魔獣と同格。しかも群れを成している。
その事実だけでアークの背中は薄ら寒くなった。
「ここまでが前提。話を最初に戻そう」
レイテアとの停戦協定が併合に近い形になった理由は、
「長く続いた我が国との戦争で、レイテアの魔術士団は疲弊している。たかがイグルスごときに右往左往していたのはお前が一番分かっているだろう。そんな体たらくで、過去最悪になりそうな赤の周期を凌げると思うか」
その脅威はエルストラスで現実のものとなった。
交渉の余地などない相手だ。種族が違うのだから、そもそも話が通じない。
「亡国になるか否か。天秤にかければ答えは自ずと出る」
「……理解しました。本当の対価はアルバリークからの庇護ということですね」
偶然とはいえ色々なタイミングが重なりあった。その中で武楽会うんぬんは都合よく建前にされたのだ。
「そして第四騎士団がレイテアに派遣される、と。そういう筋書きに?」
「良い読みだが、惜しい」
レイテアには宮廷魔術士団から大魔術士が派遣される。
当面はレイテア魔術士団を統括するためだが、それがゆくゆくは団長になるのだと長兄は言った。
その流れに、アークの脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
「そのためにフェルデを武楽会に入れたんですか」
イグルス掃討をアルバリークが指揮すると決まった時、誰より憤っていたのはフェルデだ。
弱体化した魔術士団、立て直しを思えばあの激昂ぶりも合点がいく。
しかし長兄から肯定の返事は出なかった。
「まさか。こうなると知っていたなら、援軍をエルストラスに送り込んでいたよ」
エルネスティーヌの血縁――兄弟姉妹、そして甥、姪たち――が、何人も命を落とした。
それを見過ごすほど帝国は冷たくない。
そう言って笑った長兄の顔は、次の瞬間に悔恨に歪んだ。
* * * *
そして神聖騎士部門の残る二戦は、長兄の目論見どおりの結果となった。
大編成は初だといっていたガウディの妹は大役を立派に果たした。
完全な補給を受けたカスミレアズは、相手に掠らせもせず鮮やかに勝利を決めた。まったく危なげない試合運びはむしろ退屈でさえあった。
最終日。
真澄に気負いは見受けられなかった。
聞けば「懸ける人生なんてもう無いから」と笑った。一度はどこかで懸けたのか。そんな問いは、訊く間合いを量りあぐねて結局は問わず仕舞いとなった。
真澄の演奏は完璧だった。
比喩ではなく武楽会史上最高の楽士だと内外で称えられ、その回復を受けたアークもまた順当に勝った。
二勝二敗で引き分け。
後の歴史上で最後となるこの武楽会は、様々な思惑を孕んで「勝負なし」の形で決着した。
それぞれの思惑は大河に浮かぶ落ち葉のごとく。
翻弄されるのか沈むのか、あるいは流れ着く先があるのかは、アーク自身にも分からなかった。




