82.魔術士というもの・5
「これより模範演奏を実施致しますので、ご希望の方は引き続きその場でお待ちください。三十分ほどお時間を頂戴しまして、準備が整い次第開始致します」
運営からのアナウンスが流れ、楽会会場のざわめきが膨らんだ。
実のところ神聖騎士部門初日はこの模範演奏だけで終わる。真澄たち出場者は今日、まさにこれから、課題となる楽譜を渡される手はずだ。譜面を手に入れてからが本当の勝負の始まりで、自分が担当する曲を弾きこなすことはもちろん、暗譜まで要求されている。
部門戦そのものは一日に一組だけ。
つまり明日の初戦組が最も時間に余裕がなく、最終組は逆に五日間の猶予がある。が、話はそう単純にはいかない。
模範演奏に入る前の説明で運営が言っていた。
今回作曲を担当したのはレイテアの誇る最高の作曲家で、書き下ろされたこの組曲は後半になるほど演奏時間が長く、壮大になっていく、と。
それを聞いて、アルバリーク陣営の若手――グレイスとイヴ、そしてシェリル――の顔が、緊張に強張った。同時に大御所であるアルマも眉をひそめる。状況をよく分かっていない真澄がアルマを見ると、彼女は頬に手を当てながら真澄に向き直った。
「あなたは知らないわよね。紹介のあった作曲家……ルシーダはね、魔術士用の曲を得意としてるので有名なのよ。まあレイテアの作曲家だから当たり前といえば当たり前なんだけれど、まさか彼を出してくるなんて」
ほう、とアルマが息を吐く。
そこには驚きと呆れが混ざっていた。
「レイテアの楽士は去年と顔ぶれががらりと変わっているし、ルシーダまで引っ張りだしてきたところを見るとかなり自信があるようね」
「そんなに難しい譜を書くんですか、そのルシーダって」
「そうねえ……あなたなら初見でもしっかり弾きこなせるとは思うけれど」
ただでさえ魔術士用の曲は回復量を増やすために技巧的かつ長いものが多い。その中でも群を抜いて難しいと有名なのが、そのルシーダの曲だとアルマは言った。
「譜はアルバリークに入ってこなくても、その噂だけは流れてくるほど高名よ」
「へえ……」
「この中でルシーダを弾いたことがあるのは私だけでしょうね」
その凄さだけが轟く未知の譜。
だからこの緊張感なのだと、アルマが若手の三人を指差した。
「え、でも楽譜は手に入らないんじゃ」
首を傾げた真澄に、アルマが懐かしそうな顔をしてみせる。
「かなり前に公式の楽士交流会があったのよ。色々あって今はもう無くなってしまったけれどね」
アルマが若かりし頃に出会った、同じく若かったルシーダの曲。
それはまだ荒削りながらも全てを蹴散らさんとばかりに激しく尖り、弾きこなすのはさながら暴れ馬を手懐けるような感覚だった、とアルマが笑った。
「それなのに旋律は一度聞けば忘れられないほど美しいの。この胸に響いてくる。これからも彼の新しい曲を弾けるレイテアの楽士が羨ましかったわ。だから、緊張するより楽しんで弾いてほしいけれど、……」
アルマはもう一度若手の様子を窺うが、先ほどから変わらず硬い表情の後進たちを見て苦笑した。
「……無理そうねえ」
「確かにルシーダの譜は興味が湧きますが、判定基準が会場全体に晒されますから。弾けているかどうかが目に見えるのは、やはり怖いです」
漏らしたのはシェリルだった。
彼女が言う「晒される」というのはこの神聖騎士部門用にかけられる特殊な魔術のことで、これも運営から事前説明があっている。組の勝敗そのものは課題曲で回復を受けた騎士と魔術士が実際に戦った上で決まるが、楽士だけの序列も当然決められるわけで、それが「どれだけ正確に弾けているか」という観点で判定されるのだ。
まず正しく譜面を弾いているかが肝要となる。
一度曲が始まると、譜面と違えば回復はゼロとなる術式だ。音の高低はもちろんのこと休符も判定されるので、旋律間違いをごまかすために余計なアドリブを入れても無意味である。
加えて音程を外せばやはりこれも同様の措置が取られる。
この二つを踏まえて、会場全体から見えるよう拡大された魔珠が舞台上で輝くのだ。光が満ちなければ、その楽士は暗譜ができていないか音程を外している、つまり補給線として一流ではないと誰でも分かるようになっている。
精神的に辛い仕掛けだ。
かつて真澄がアークから聞いた、武楽会で人生が狂う、楽士生命を絶たれる者もいるという話もこれで真実味を帯びるというものだ。
関係者席の周りはえもいわれぬ空気となっている。
アルバリークの緊張とレイテアの気負いが混ざり合い、熱気として満ちていく。騎士や魔術士より険しい顔で楽士がいる、そんな見慣れない光景だ。
片や一般客の多くは帰る素振りを見せておらず、連れ合いと話す者、舞台を指差す者と様々だ。期待値はかなり高いとみていいだろう。
存命の内にこれほどその名が知られている。
真澄はルシーダというその作曲家を知らないが、これまでに成してきた仕事、そしてその質の高さが自ずと感じられる光景だ。アルマの話とも相まって、どんな譜が渡されるのだろうかと期待に胸が膨らみもする。
そんな中、目の前の舞台では早速動きが出ていた。
大勢の運営方がそれぞれ椅子を抱えて、扇状に置いていく。その中心手前には明らかに指揮台と思われる空間が作られた。さらに椅子の前には木でできた譜面台が並べられて、あっという間にオーケストラの舞台が出来上がる。
意外な思いで真澄はそれを見ていた。
アルバリークに来てからというもの独奏がほとんどで、多くてもせいぜいが四重奏などの室内楽ばかりだったからだ。事実これまで開催されてきた正騎士と真騎士部門は独奏で、その点からしてもあまりにも様相が異なっている。
「こういうのもあるんですね」
隣に座るアルマに真澄は話しかける。
すると彼女は「ああそうか」と合点がいった様子で眉を下げた。
「大編成はまだお呼びがかからなかったのね。それもそうよね、時期が早いもの」
「時期?」
「アルバリークでは新年の祝賀で演奏されるのよ。あなたはまだアルバリークに来て一年と経っていないから。それ以外は王族のご成婚だとか慶事の時に編成されるから、不定期なの」
「ああ、そうだったんですか。ないのかなって不思議に思ってました」
「あなたのお国では大編成が沢山あって?」
「そうですね。楽団は幾つもありました」
それこそ毎年ニューイヤーコンサートを開催するような世界を股にかけて活躍するプロ楽団もあれば、その地域に根差した活動を地道に続けるアマ楽団もあった。
そんな話を真澄がすると、アルマは驚きに目を見開いた。
「まあ。そんなに沢山、ヴィラード以外の楽器奏者がいるの?」
「それは、ええ。でなければオーケストラ……大編成とは呼べないですし」
「……素晴らしいことだわ。アルバリークでは年々減っていて、十年もすれば大編成ができなくなるかもしれないのに」
「減っている? なり手がいないんですか?」
「ヴィラード以外が弾けてもお金にならないもの。名誉職扱いだけれど生計が成り立たないとなれば、先祖代々の家業であっても継ぐ人間が減るのは当然ね」
国としてもっと演奏機会を作るか、あるいは手当てを出せば結果はまた違っていたかもしれないが。
花開いた文化が萎れていくのを見るのは辛い。アルマはそう言って目を伏せた。
その一方で、真澄の頭には疑問符が浮かぶ。
「お金にならないって……宮廷楽士でさえ人手は足りていないのに?」
楽士一族はその利益を守るために、持てる技術や楽譜を門外不出にしているはずだ。楽士同士の競り合いはあっても、それが生業を畳むほど大きな理由にはならない気がするのだが、どうだろう。
純粋に分からない。
真澄が黙って斟酌していると、アルマがため息を吐いた。
「ヴィラードはそうね。でもヴィラード以外は魔力の回復ができないから。軍事国家のアルバリークで他の楽器が衰退するのは必然だったのかもしれないわね」
寂しそうに呟くアルマ。
それに対する相槌を、真澄は打てなかった。
衝撃が大きすぎて。
今なんて、とは重ねて尋ねられなかった。
あまりにも当たり前のようにアルマが言ったからだ。魔力の回復はヴィラードしかできない、という事実を。
固まったマスミをよそに、アルマがところで、と話を変えた。
「お国では経験おあり? 大編成の筆頭は」
「筆頭……ですか?」
一瞬迷った。
文脈から考え得るのはソリストかコンサートマスターあたりだが、どちらだろう。前者ならば答えは是だが、後者は若輩かつなんの実績もなかった真澄には到底できない役割だった。
とはいえ、自分たちは腕を競い合うためにここに来た。
そうすると答えは自ずと見えてくる。やらされるのはソリストだ。
「あります。ただ、かなり前の話ですけど」
「それなら安心だわ。まああなたの場合、やったことがなくても大丈夫でしょうけれどね。となると筆頭経験がないのはグレイスだけね」
アルマの視線につられて先を見ると、そこには浮かない表情のグレイスがいた。むしろ青ざめている。
ただでさえ難しいと有名な作曲家をほぼ初見で弾くことに加え、初めてのソリストときたら無理もない。ちなみにイヴは地元のヴェストーファで、シェリルは次席として何度か大編成のソリストはやっているらしい。
悩ましげにアルマが唸った。
「まさか大編成で競わされるとは思っていなかったから、ここはまったく対策していなかったのが泣き所ね。グレイスは四組目で日はあるから、それまでになんとかしましょう」
替えの人間などいないのだ。どれだけ不安が大きかろうと、この面子でやるしかない。
そんなアルマの叱咤激励に、グレイスは不安気に一つ頷いた。
そうこうしているうちに楽譜が運ばれてきた。
組順に渡されたそれは光沢の美しい銀色の表紙で、中身は紙だった。かなり分厚い。見るまでもなく長い曲なのだろうと容易に推測できた。
ぱらぱらと真澄はページをめくる。
案の定譜面の書き換えが必要で、他の曲を聴きながらやってしまおうと鞄から羽ペンとインク壺を取り出しつつ、真澄は座った。
最初のページからして音符が多い。
今日中に終わるだろうか。つい渋い顔になっていると、頭上から声がかかった。
「それ、正気ですか……? 私の倍以上ありますよ」
「ん?」
顔を上げると、イヴがひきつった顔で真澄の手元を凝視していた。
彼女は初日組で最も時間が限られている。
真澄からすると彼女の方がプレッシャーを感じるのではと思うのだが、どうも違うらしい。ちなみにその奥にいるグレイスはよそ見する余裕もなく、食い入るようにもらった楽譜を眺めている。
「まあ私は最終組だから時間あるし、なんとかなるでしょ」
楽譜である以上、物理的に弾けない旋律はないはずだ。
考えていたことをそのまま真澄が口に出すと、イヴが呆気に取られたように絶句した。
「大丈夫よ。やると言ったらやる方だから」
横から飛んできたのはシェリルの声だった。
「それにこの方の辞書に手加減という文字はないもの。心配するだけ時間の無駄、自分のことだけ考えたらいい」
かつて真剣勝負の末に下した相手から、なんとも正直な言葉が飛び出してきた。
ぶは、と噴き出す音が続く。
後ろを振り返ると、並ぶ騎士たちの中でアークが腹を抱えて笑い、両脇に座るカスミレアズとヒンティ騎士長が口元を手で押さえながら苦しい表情になっていた。
「的確すぎて言い返せねえな」
「ちょっとアーク」
真澄の抗議はしかし「事実だろうが」と、あっさり流された。
「そんなに気負わなくていいぞ。多少ハンデがあった方が面白い」
繰り返すが一人で戦うわけではない、俺たちがいる。
そんな総大将の台詞に、「そうでしたね」とイヴが頬を緩めた。
「大変長らくお待たせ致しました。ただ今より模範演奏を開始致します」
ちょうど良いタイミングで運営から案内が入って、真澄たちは雑談を切り上げ舞台へと意識を向けた。
ずらりと勢揃いした大編成。
大小様々な楽器を手にした奏者たちが座る中、舞台の袖から二人が歩いてきた。先頭は大編成と同じ黒服。後に続くのは雪のように白いドレスをまとう白髪の女性だった。
生来の色ではない。
頬などに相応の皺があり、加齢によるものだと知れた。
「ソリスト、交代で弾くのかしら」
交響曲を弾くのは体力が要る。
そんな真澄の呟きを拾ったのはアルマだった。
「あの方ね、レイテア魔術士団長の専属楽士よ。先代の、だけれど。若い武楽会首席よりよほど信頼できる腕であることは間違いないでしょうね」
「先代……ということは第一線はもう、退かれて?」
「ええ。団長交代に合わせて田舎へ越したと聞いたわ。でもあの方にお呼びがかかるのならば、気を引き締めなくては」
「なぜです? 引退しているなら出場はしませんよね」
経歴は確かにすごい。
だが直接やり合うわけではないものを、そこまで警戒する必要があるのか。真澄が問うと、初めて焦りとも緊張ともつかない笑みを浮かべてアルマが言った。
「私の上の世代――つまりあの方と同期の楽士は、誰もあの方を越えられなかったのよ。ただの一度もね」
彼女が首席の座にいた十年間、アルバリークは武楽会勝利から遠ざけられた。
当時は伝説としてその名を轟かせた人物なのだという。
「近場にいる現役では模範演奏に到底間に合わなかったのでしょう。だからあの方に白羽の矢が立てられた。この組曲、ルシーダの譜の中でも最高に難しいかもしれない」
ここにきて経験豊富なアルマでさえ頬を引き締めた。
真澄は舞台へと目を転じる。
指揮者がゆっくりとその手を掲げ、柔らかな音がほとばしり始めた。
* * * *
その組曲は、イギリスの作曲家グスターヴ=ホルストの組曲『惑星』を彷彿とさせた。
各楽章は実に豊かで多彩な表現に溢れている。
ホルストのそれは全部で七楽章――火星、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星――から成り、天文学ではなく占星術の星を元に書かれた。ゆえに各楽章についている副題は運星の用語が当てられていて、たとえば最も有名な旋律を含む木星ならば「快楽をもたらすもの」となっている。
木星は占星術で幸運や拡大、発展を表す星だ。
いわゆる社会的な成功を意味していて、政治的な支配者や皇帝などといったものに代表される。そのため、天文学的な目線で見てしまうと副題の意味がまったく通じないという面白い組曲である。
『女神の軌跡』はそれと同じように名付けられている。
星ではないが各楽章には地球でいうところの四大元素――風、水、火、土――と、異色だが最終楽章に「国」が割り当てられ、副題もしっかり示されている。
違うのは演奏時間だった。
どの楽章も悠に三十分はかかっている。真澄の弾くことになる最終楽章に至っては一時間を越えた。
ホルストの『惑星』は、全七楽章で五十分ほどだ。それと比べると破格に長い。事実イヴがまたしても心配そうな視線を送ってきたが、交響曲として考えれば三時間程度の演奏時間は珍しい話ではない。
ちなみに長いといっても、実際には楽譜上のテンポ指示がどうなっているかと小節数に左右されるから、一概には比べられないのだが。
ともあれ、『女神の軌跡』は交響組曲であるものの、中身を見るとソリストつまり楽士の独奏部が譜の各所に見られ、その意味では協奏曲にも近いと言えそうだった。
かつて伝説を築いたソリストが、見事な弓さばきと踊るような運指で歌い上げていく。その姿は確かに経験の浅い人間には荷が重かったであろうと思わせた。
実に弾き甲斐のありそうな重厚絢爛な楽章もあれば、静かに流れる時の彼方を感じさせる楽章もある。
やがて組曲は真澄の弾く最終楽章、フィナーレを飾る『遥かなる故郷』へと差し掛かった。
始まりはソリストだけがピッツィカートで主題旋律を奏でる。哀愁漂いながらも美しく壮大な曲だ。
耳に残る旋律は、『惑星』の中でも最上級に知られた木星の第四主題である中間部、Andante Maestosoに良く似ていた。
題名を見て、真澄は物思いに沈む。
どうして自分はここにいるのだろう。自分はここで何を成すのだろう。振り返ればまるで逃げるように発ってきた故郷。未だ知れない召喚者の意図。アークからの求婚とその答え。
何もかもが中途半端だ。
木星のもたらすものとは程遠い。




