8.言葉は通じてるよ、でも互いの言ってる内容が通じない
嵐のように二人がさっさと出て行ってしまった後で、真澄はがっくりとうなだれた。がくりと力が抜け、ベッドの上に座り込む。
身体中が痛い。
主に下半身が。
有無を言わせない力だったくせに、最後は優しいとかなにそれ。
しんと静まり返った幕の中、否応にも昨晩のことが思い出されて色々な意味で叫びたくなる。身体は痛い。ぶつけた背中と縛られた手首足首は言わずもがな、何よりも全身の倦怠感がすごい。朝なのに、運動会直後のようなあの気怠い感じが波状攻撃を仕掛けてくる。
どう考えても筋肉痛の予兆だ。
死んでからも筋肉痛になるのかと思うと、どうにも釈然としない。あらゆるものがこれほど現実味を帯びた質感だと、第二の人生が始まったような錯覚に陥る。
始まりがこれだと碌な人生じゃなさそうだけどね!
半ばやけくそになりながらも、真澄は視線を走らせる。
とりあえずあられもなさすぎるこの格好を何とかせねば。その一心で周囲を探すと、放り投げられた服の抜け殻がそこかしこにあった。
何より心が痛んだのは、ブラがベッド脇に思いっきりそれと分かる形で落ちていたことだ。
うん。確実にカスミレアズに見られている。間違いない。これはダメージがでかい。
何もなかったと言い張ったものの、心痛でもう一回くらい昇天できそうだ。曲がりなりにも妙齢の女性として、確実にどうかと思われる失態である。
同時に、突っ込みたい部分は多々あっただろうにあえてつつき回すような真似をしなかったカスミレアズ。まさに大人の対応の鑑だったことに拍手を送りたい。そうしたところで記憶は消えてはくれないが。
まあ見られたものは今更どうしようもない。
取り返しのつかないことは漢らしくすっぱりと諦めるが良かろう。そんなこんなでかなり強引に自分の中での折り合いをつけ、真澄は散らばった抜け殻を一つ一つ拾い集めた。
「ところで風呂っつーもんはないんですかねー」
さながら飼い犬に話しかけるおっさんのように独り言を呟きつつ、とりあえず広い幕内を隅から隅まで歩き回ってみる。
ちょっとした邸宅並みの空間には、寝台周りの他に応接の椅子とテーブル、明らかに仕事用と分かる執務机などが揃えられている。しかし期待したような一切の水回りはどうやら外にあるらしく、風呂は早々に諦めざるを得なかった。
あちこちを見て回る内に分かったことがもう一つある。
実は意外と行けるんじゃないかと期待して、真っ先に幕の入口をめくってみた。アークの言っていた「認証しなければ出入りできない」という言葉を疑ってかかった、ともいう。
ただの脅し文句かと思っていたがなんとびっくり、確かに真澄は外に出られなかった。
これには正直驚いた。幕に触れようと思っても叶わないのだ。それは入口に限った話ではなくて、どの部分の幕であっても透明の壁に遮られるかのように手が届かなかった。
意外とあの世の方が、文明は進んでいるのかもしれない。
かなり真面目にそんな考えが頭をよぎった。
冷静に考えてみれば、死んだ人間が皆こちらの世界に来ているとすれば、アリストテレスだのダヴィンチだの教科書に出てくる各時代の天才たちがひしめきあっているのだ。難解な技術が発展していたとしても不思議ではない。
宗教観は丸無視の仮定だが、この際そんな細かい話は置いておく。
とりあえず待てど暮らせど帰ってこない二人に、そういえばと思い立ち真澄は執務机に寄った。ヴァイオリンを検めるのが目的だったが、それより先にでかい机の存在感を前にして元サラリーマンの視点が蘇る。
重厚かつ光沢のある木机、大きさは部長級だ。
やはりあのアークとか言う男、それなりの地位にいるらしい。普通の社員ならば、この半分もあれば充分だ。
ただし汚い。
羽ペン、羊皮紙、ナイフはまだいい。手のひらほどもある明らかに高そうな宝石がはまったペンダントだの、明らかに破られた跡が残る手紙だのが混在するのはどうかと思う。
そして何より、食い差しのパンが完全に干からびて転がってるのがあり得ない。
机の乱れは心の乱れ。仕事ができる人間の机は軒並み整理整頓されているが、片付けられない奴は仕事ができない。ごく一部の例外、つまり本物の天才は散らかっていてもそれを補って余りある成果を叩きだすものだが、アークがどちらなのかは果たして想像の域を出ない。
「……って違う、部長かどうかはどうでもいいんだってば」
ぺし、と頬を手で打ち、真澄はヴァイオリンケースに手を伸ばした。
蓋を開けるとヴァイオリンは元通りに収まっていた。予想外だ。流線形に繰り抜かれた型にいれただけだろうと思っていたが、ネック――弦を張っている黒い指板――も、しっかりと紐で固定されている。
もちろん知っている人間なら当たり前にそうする。
だがどう見ても軍人っぽいあの男がそんなことを知っていたのが驚きであるし、知らなかったにしても「元通りに戻す」ができるのが意外だ。
少なくない驚きを感じつつ、真澄は固定紐を解いた。
傷などがついていたら立ち直れないな、などと内心冷や冷やしていたが、幸いなことに見た目は特に問題なさそうだ。あとは本当に大丈夫かどうか、弾いて確かめねばならない。
実はけっこう心配している。
目に見える傷がなくても受けた衝撃が思いのほか深く、音が変わってしまうヴァイオリンの話はそう珍しくない。
使い慣れた弓を張り、松脂を一往復だけ擦りつける。次いで肩当をヴァイオリンにつけて、肩に乗せて顎で挟み込む。
弓の元をA線にかけ、手首を下に滑らせる。
基準の音にずれはない。次いでD線と同時に鳴らす。二つの弦が大きく震え、共鳴する。G線に移弦、Dと合わせて最も低く柔らかな音の響きが鎖骨から顎を通り、身体に沁みこんでいく。最後にE線。繊細ながらも華やかに最高音域を担うその弦は、楽器の準備が整ったことを伝えてきた。
調弦は終わりだ。
ふと、何を弾こうかと考えを巡らせる。浮かんできたのは、静かな8分の9拍子だった。
カンタータ第147番『主よ、人の望みの喜びよ』。
ドイツの作曲家、ヨハン=ゼバスティアン=バッハの生んだ教会カンタータの中の一節で、およそ三百年もの昔である一七二三年に作曲されている。遥か昔の曲だが、今日の世界で最上級に知られている曲の一つと言っていいだろう。
バッハが生きたのは神聖ローマ帝国の頃、バロック音楽期の終わりだ。
その美しい三連符の連なりは静謐な祈りを伝えてくる。
戦争の多い苦難の時代、それでも決然と信仰を抱き続けたバッハが生み出した旋律の美しさは、悠久の時を経て尚色褪せずに人の心に届く。
光が射すように。
救いの御手が必ず傍にあることを信じ、心が張り裂けようともその信仰を抱き続ける喜びを、この曲はただひたすら透明に謳う。
込められた想いを受けて、弦が歓喜に震える。
良かった。
目を閉じて弾きながら、真澄の睫毛が震えた。歌っている。豊かな音色は何も変わりない。
この音と共に在ることができるのならば、どこであろうと構わない。本当に死んでしまっていたとしてもいい。この美しさに震える胸があれば、それでいい。
その形は違えども、人の喜びは確かにそこにある。
* * * *
四分ほどの短い曲を弾き終わり、真澄が細く長い息を吐いた時だった。
ばさり。
それまで気配を感じなかった幕の入口が乱雑に翻った。
突然の音に思わず真澄は弓を握りしめて身構えた。息せき切って駆け込んできたのはアークとカスミレアズだ。二人の鬼気迫る様子に、真澄は息を呑んだ。
脇目もふらず、アークは一直線に真澄に歩み寄る。
ベッドに腰かけていた真澄は立ち上がって逃げる暇もなかった。アークの左手が、弓を持ったままの真澄の右手首をがっしりと掴む。
見下ろしてくる漆黒の瞳には、驚きの中にも強い意志が見え隠れする。昨晩とは目の色が違う。人をからかって楽しんでいた余裕の瞳ではない、何倍も真剣な眼差しだ。
何事かと真澄が問うより先に、アークが口火を切った。
「やはりお前は楽士だったのか」
「や、だからプロじゃないってば」
「だがヴィラードは弾ける、そうだろう」
「ヴィラード? って、ヴァイオリンのこと?」
左手に抱えた楽器に視線を落とす。
昨日から気になっていた。アークはヴァイオリンのことを、ずっとヴィラードと呼んでいる。擦弦楽器にはヴァイオリン属、ヴィオール属という括りがあるが、それらのいずれにもヴィラードという名の楽器はない。
古い時代にはそういう名前だったのか。
歴史的な資料が残っていないだけで、あるいはアーク達が生きた時代にはそう呼ばれていたのかもしれない。そんな疑問を持ちつつアークを見ると、眉間が寄せられている。
「ヴァイオリン?」
おうむ返しは、明らかに両者が異なるものであるという認識を隠さない。
それを見た真澄は誤解を招かないよう、丁寧に説明した。
「私が弾いたのはヴァイオリン。あなたの言うヴィラードとは多分、違うと思う。少なくともこれをヴィラードと呼ぶ人には会ったことがないし、そういう意味で見たこともないヴィラードとやらを弾けるかと訊かれても、答えは『いいえ』にしかならない」
「これはヴィラードではないのか? 色は奇妙だが、音は確かに」
「そりゃまあ、ヴァイオリン属に近しい楽器なら音域が違うだけで、同じような音が出るでしょうよ」
「そうなのか?」
「多分ね。ヴィラードがどんな楽器なのか全然知らないけど、ヴァイオリンと似てるんでしょ?」
手首を掴まれたまま、真澄は言った。
そろそろ離してほしい。
結構な力で握りこまれているせいか、指先が痺れてきた。このままだと血流が止まり、手首が紫色になってしまう。それとなく腕を引いてみたが、しかしそれは逆効果だった。
ぐい、とアークに引き寄せられて、思わず中腰になる。
「ヴィラードでもヴァイオリンでもこの際どちらでもいい。細かい話は後だ」
「は? どっちでもって、」
「もう一度弾け」
「は?」
目の前に迫った端正な顔に、思わず真澄は尻込みする。だがお構いなしにアークは二の句を継いだ。
「今日これから騎士叙任式がある。そこに俺の楽士として立て」
「え、やだ」
即答してしまった。
つい。
不可抗力で。
アークが黙る。聞こえた言葉に間違いがないか、斟酌しているように見受けられる。そのまま視線を滑らせて後ろを確認すると、控えているカスミレアズも似たような表情を浮かべていた。
すう、と深呼吸の音が響く。
次いで細く長い息が吐かれた後、アークが目を眇めた。
「お前今なんて言った」
「え、やだって言ったけど?」
「……自分の立場が分かってないな」
やれやれとでも言いたげに、アークは執務机に収まっていた大き目の椅子を引き寄せた。そのままどかりと腰を下ろす。背もたれに身体を預け、足を組み、膝の上で指を組む。一つ一つは余裕の振る舞いに見えるが、苛立ちは隠しきれていない。
一度は組んだ指を解き、アークは自身のこめかみをその長い指でとん、と叩いた。
「どんな事情であれ俺の天幕近くに入り込んだという事実の前に、その場で斬り殺されても文句は言えん状況だぞ。スパイなら、分かっているだろうが」
「だから違」
「昨晩俺は言ったはずだ。お前自身が危険ではないことを証明してみせろと。だがお前は違うと言葉で主張するだけで、なんの行動も取りはしない。容疑を晴らしたくば、こちらの要求を飲むのが最低条件だ」
鋭い視線に、まるで喉元にナイフを突きつけられているような錯覚に陥る。
騎士とかいう単語が先ほど聞こえてきた。ということはおそらく彼らは軍属になるのだろう。やたらと気迫に溢れた表情は、やはりその手の荒事に慣れているからか。
だがしかし。
既にあの世にいる状態で脅されても、一体何を怖がれと。
生前の真澄ならばもう少し殊勝な態度を取っただろう。命あっての物種、危ない人間は極力刺激しないのが鉄則だ。だって死にたくないもの。
だが残念なことに真澄は若くしてあっさりぽっくり逝ってしまった。自分視点では来てしまったと言う方が正しいのかもしれないがそれはともかく。
「だからなんで私がそっちの要求を呑まなきゃならないのよ。違うって言ってんのに信じないのはそっちでしょ?」
「怖いもの知らずなことだ。蛮勇は身を滅ぼすぞ?」
「滅ぼすもくそも、どうせもう死んでるんだから怖いもへったくれもないでしょうが」
それとも何か、あの世のさらにあの世があるのか。
真澄がキレ気味にまくし立てると、一瞬アークが面食らったように黙り込んだ。次いで、意味ありげに後ろを振り返り、控えていたカスミレアズと顔を見合わせる。
おかしなタイミングで黙り込むものだ。
時が止まった二人を見ながら、真澄もまた首を捻る。少し待つと、特に言葉も交わさないままアークが真澄に向き直った。
「お前今『死んでる』と言ったか? どういう意味だ?」
「言葉のとおりよ。ここってあの世なんでしょ? そんで、二人とも死んでから五百年以上は経ってるんでしょ? だから良く分かんない火の玉とか光とか出せるんでしょ?」
「何がどうしてそういう理解になったんだ」
「だってヴァイオリンも知らないんだから、そりゃかなり昔に死んだんだなと」
「ヴァイオリンとやらは知らんが、だからそれはヴィラードだろう」
「ごめん、だからヴィラードが分かんないんだってば」
「あ?」
「は?」
最後は疑問符の応酬となり、互いに頭を抱える羽目に陥った。
ついさっきだ。同じような会話をしたのはほんの数分前で、それで何故もう一度一連の流れをおさらいせねばならないのか。
意味が分からない。
似たような会話を繰り返しているにも関わらず、互いに何を言っているのかが理解できないというまさかの事態だ。
困惑の空気が幕内に広がる。
アークが額に手をやり目を閉じる。渋い顔だ。頭が痛いんだろうなと一発で分かるくらい、苦渋の顔をしている。
どうやらその原因は会話の噛み合わなさというか真澄自身の発言にあるようだが、そうはいっても話の通じなさに頭が痛いのは真澄も同じだ。
気を取り直したようにアークが座り直して腕を組んだ。仕切り直しとばかり、咳払いのおまけ付きで。
「ちょっと待て。お前、ここがどこだか分かってるか?」
「だからあの世でしょ?」
「は?」
「は?」
だから疑問符の応酬で終わる会話ってどうなのか。




