77.薔薇の真意
道中変わり続けるベッドに中々慣れることができなかった真澄は、その日ようやく一つどころに滞在する安心感から熟睡した。
翌朝のんびり起きて部屋に運ばれた朝食を堪能していると、挨拶ついでにセルジュが顔を出した。曰く、早起き組は既にソルカンヌの街に繰り出しているらしい。カスミレアズとグレイスも連れ立って出ていったとかで、意外な報告に思わず真澄は眉を上げた。
窓際に立ちながらセルジュが指で示す一角には確かに人通りが多く、お祭り騒ぎは始まっているようだ。
「ソルカンヌって美味しい名物あります?」
祭りというからには絶対に屋台が出ているはず。
そんな確信に満ちた真澄の眼差しを受けて、セルジュはにやりと笑った。
「ソルカンヌといえばディナル酒。これを飲まないのは人生の損失だな」
「ディナル酒?」
おうむ返しをしつつ、つい声に期待が滲む。
するとセルジュが顎を撫で目を瞑りながら滔々と語り始めた。
「別名を『金の雫』といってな。名前に違わず透き通った金色の酒なんだが、これの歴史が面白い。ソルカンヌは見てのとおり頑強な城郭都市だ。つまり自給自足を前提としていて流通は発達していない。出入りが増えればそれだけ外敵の侵入を許しやすくなるからな。長期間立て籠れるように井戸もあるが、保存の利く酒も当然造るわけだ」
そんな条件下で、酒の原料となるディナルが殊のほか豊作となった年があった。
限られた人手で収穫は進まず、鈴なりとなった果樹畑が壮観だったと記録は述べる。
そうこうする内に、収穫の遅れたディナルが樹になりながらにして腐り始めてしまった。白いカビがディナルの実を覆い、およそ三割ほどは駄目になった。しかしそのまま放っておくわけにもいかない。やむなく来年への肥料にしようと片付け始めた時、一人の農夫がその芳醇な香りに気付いたのだ。
「普通のディナルよりも各段に濃く甘く、それと気付けば果樹園全体がむせ返るほどの匂いに包まれていたのだとか。それでディナルの紫の皮を割ってみると、中の果実が金色に熟れていた」
誘うような香りにしたたる雫。
思わず舐めた農夫はそのディナルが極上の酒に変わっていることに驚き、処分を進める仲間たちの元へと走った。それが今日大陸中で名高いディナル酒の始まりだったとされている。
「普通のディナルの身は白くて、そこから造る酒もまた白い。今でもソルカンヌの住人が日常的に飲むのはその白ディナル酒で、金ディナルは祭りとか特別な時にしか飲まれない」
「その特別な時がまさに今、というわけですか」
「そうだ」
「となれば今からでも繰り出したくなりますね」
窓の向こうに広がる喧騒を見ながら真澄の手に力が入る。
セルジュは満足気に「そうだろうそうだろう」と頷き、「いつでも護衛としてついていこう」と公私混同甚だしい発言をしている。そうして二人で命の水について語り合っていると、背後でごそりと音がした。
「……この飲んだくれども、朝っぱらから何の話をしてる」
気怠いながら第一声が非難である。
振り返ると、ベッドの上で上半身を起こしながらも頭を抱えているアークがいた。
「あ、おはよう」
思ったより早い目覚めに眉を上げながら真澄は声をかける。暇潰しの相手をしてくれていたセルジュは、もうその必要はないとみたかそこで退出していった。
真澄は一旦手を止めていた朝食の卓に戻り杯に水を注ぐ。
それを見たアークがそのまま手を伸ばしてくるが、「横着するな」と一蹴すると、低血圧の男は渋々といった態で起きてきた。
「で? 街に行きたいのか?」
一息に水を煽ったアークが寝起きの掠れ声で訊いてくる。受けた真澄はフォークにハーブソーセージを刺しつつ唸った。
「金ディナルは確かに気になるんだけどねー」
「どうした、珍しく歯切れ悪いな」
「昼からにしようかと思って。護衛のこと考えたらカスミちゃんたちが戻るまで待った方がいいかなって」
「俺がいれば事足りるぞ」
「実際問題そうなんだろうけど、護衛帯同のルール決めた張本人が率先して破るのもどうかって話よ」
神話の魔獣と互角に戦う男である。
結果は負けたが、お荷物の真澄がいなければそれも覆っていたかもしれない。そういう意味でアーク一人いればそれはもう色々と捗るわけで他の騎士たちの手を煩わせることはないのだが、いかんせんそういうわけにもいかないのである。護衛には護衛の本分というものがあって、何かあった時に責任を問われるのは彼らなのだ。
そんな真澄の言を黙って聞きながらアークは再び水を流し込んでいる。
杯を置いて手近な果物を口に放り込み、「それもそうだな」と納得顔になった。
「じゃあ昼飯がてら出」
伸びをしかけたアークの動きがぴたりと止まった。黒曜石の瞳が探るように宙を見る。
言葉さえも切れたことを怪訝に思い真澄が眉を寄せた時、唐突にそれは訪れた。
「え、なに? ――っ!」
一陣の風が部屋に舞い込む。降ろしていた髪が千々に乱れ、真澄は頭を抱えて身を縮めた。
やがて忙しない空気の動きが落ち着く。
恐る恐る目を開けてみると、そこには緑に輝く小さな鳥が羽ばたいていた。可愛らしい容姿だがしかしその目は赤く光っている。対照的な二つの色に、急を要すことが本能的に知れた。
「第一騎士団の警報だ。妹ガウディに何かあった」
端的に告げながらアークが手早く着替え始める。
その手が長剣を取るのとセルジュが部屋に駆け込んできたのは同時だった。
* * * *
ハーバート=フェルデがグレイス=ガウディに対してよからぬことを企んだ際に、それを挫くように。
武楽会本戦に向けてアルバリークを出立する前にかけていた保険である。
それがまさかこんなに早く役に立つ日がくるとは思ってもいなかった。どれだけ執念深い男なのだろう、あのフェルデという名の大魔術士は。悔しさと憎たらしさが綯い交ぜになった胸中を抱えながら、真澄はアークたちと一緒に街中へと走った。
アークとリシャールだけではなく、カスミレアズとヒンティ騎士長の力添えもある強力な守りだ。
きっとグレイスは無事でいる。
自分に言い聞かせるように祈りながら不案内な街を駆け抜ける。程なくして辿り着いた一角には人だかりが膨らんでいた。セルジュを先頭にそれをかき分けながら進むと、その中心部には役者が既に揃っていた。
地面にへたり込んでいるグレイスと、その肩を抱き寄せているイヴ。その横には二人を守るようにリシャールが立っている。
碧空の鷲は低い位置に滞空し、鋭いくちばしを時折ガチリ、と鳴らしている。
その先に寝転がっているのは一人の男で、ぴくりとも動かない様子からどうも意識がないらしい。男を調べるように取り囲んでいるのはカスミレアズとヒンティ騎士長だ。
そして何故か少し離れた場所に、腕組みをしながら無表情で構えているフェルデがいた。その足元にはくず折れた男が数人転がっている。
状況が良く分からない。
対フェルデ用にかけた保険であるのに当の本人は五体満足でそこにいる。
これだけ見れば攻撃の全てがかわされてしまったように思えるが、その一方で碧空の鷲が威嚇しているのは明らかに別人であって、昏倒しているその人物には見覚えがない。
アークは一瞬だけフェルデに視線を投げつつも、真っ直ぐにカスミレアズたちのもとへと向かう。片や真澄はセルジュに連れられてグレイスに近づいた。
「真澄さままで。お騒がせして申し訳ありません」
グレイスが蒼白な顔をさらに曇らせる。
「気にしないの。怪我は?」
「ありません。実はフェルデ様が助けてくださって」
「……あの男が? どういうこと?」
ただでさえ混乱を極めている現場の中でグレイスの証言は衝撃すぎた。
よくよく聞いてみると、どうもグレイスは間違われたらしい。
それは他でもない楽会首席である真澄に、だ。
カスミレアズが横にいたのが不味かったようで、武楽会のペアではなく首席楽士とその護衛と認識されてしまった。そしてこの人混みを利用してグレイスは忍び寄られ、あわや誘拐されるところだった。
相手も万全を期そうとしたのだろう。
最初から拘束術をかけにきて、それがグレイスにかかっていた保険――相手にとっては罠――が、起動した。
そして群衆はパニックに陥るわけである。
当たり前だ。
何色もの光が派手に交錯しただろう。緑の隼が手品よろしく何羽も飛び出す一方、巨大な青い鷲は躍り出るわ、すみれ色の雷撃は迸るわ、その混乱は想像に難くない。
「ただ、相手は一人ではなかったみたいで」
図らずも大騒ぎとなったその場で、明らかにグレイスに向かってくる数人の影があった。逃げ惑う人々の中で異質すぎる動きにグレイスの背筋が凍る。カスミレアズは傍にいたが、不規則に乱れる人波に翻弄されて思うように長剣を抜けないでいる。
その時に閃いたのがフェルデの色だった。
幾筋にも分かれた琥珀の光は黒装束の男四人を正確に捉え、容赦なくその意識を奪った。そうこうするうちにリシャールとイヴが駆けつけ、ヒンティ騎士長が合流し、真澄たちも飛んできた、というわけだ。
「災難だったな」
頭の上からかけられた声に振り向くと、そこにはアークとカスミレアズがいた。その向こうではセルジュが男共を縛り上げ、ヒンティ騎士長がフェルデに何やら話しかけている。
「もういいの?」
相変わらず荒事に対する手際が良すぎるセルジュを眺めつつ真澄が問うと、アークが面倒くさそうに肩を竦めた。
「事後処理はソルカンヌ――というよりレイテアの所掌だ」
「嘘でしょ、こっちが被害者なのに。グレイスから聞いたけど、明らかに害意ありじゃない」
「これ以上やると過剰防衛になる」
ただでさえ大盤振る舞いの保険に加え、フェルデの容赦ない追い込み。状況的には正当防衛だがあまり騒ぎ立てると外交上宜しくない、というのがアークの言だった。
しかし真澄としてはすぐには納得できない。
大声で喚くと注目を集めてしまうので、とりあえず立ち上がってアークとカスミレアズに近寄る。
「今までも散々狙われてきたじゃない。これがレイテアの意思ってことでしょ?」
いい加減、正面きって苦情を入れてもいいのではないか。真澄の主張はこれなのだが、アークは頷かなかった。
「あくまでも一部だ。総意じゃない」
「なんで言い切れるわけ?」
「もしもそうなら、これだけの費用と時間をかけて武楽会をやるはずがない」
和平への道、その模索は続いている。
今その芽を摘み取るわけにはいかないのだとアークは言った。
「一枚岩の国なんぞ、そうそうない」
アルバリークでさえそうなのだから。
ため息交じりにアークが呟くのを聞いて、真澄はすぐに返事ができなかった。
* * * *
いきなり騒ぎの起こった街に出る気にはなれず、結局真澄とアークは部屋に引き上げて午後を過ごした。
夜には晩餐会が開かれる。
やることといえばその為の正装に抜かりがないか確認するくらいで、そんなものは一時間もあれば片付いてしまった。真澄でさえその程度、アークなどそもそも軍人として規定の礼装なので検める必要もない。結果として真澄は持ってきたアルバリーク建国記を読み耽り、アークは昼寝をする始末だった。
武楽会が始まるという実感がまるで湧かない。
夕方になって化粧と着替えの準備を終えた真澄は、姿見に映る自身を見て小首を傾げた。
その後ろ、鏡越しには礼装に着替えたアークが文机に向かっている。手元の書面を眺めながらその横顔が難しいものになっているのに気付き、真澄は「どうしたの」と声を掛けた。
「……参加者名簿?」
無骨な手に握られているのはレイテア側の武楽会参加者名簿だった。
今さらなにを気にしているのだろう。
手元を覗きこみながら反応を待っていると、やがてアークが紙を放り投げた。そして不機嫌そうに唸る。
「去年の首席がいない」
「都合悪くて欠席したんじゃないの?」
「武楽会以上に優先されるべき都合なんぞない。まして一度は首席になったのなら尚更」
それきりアークは考え込むように押し黙ってしまった。
真澄としてはアークが言い切るからにはそういうものなのだと理解するしかないわけで、そこに異議を挟むつもりなどない。が、気になるのは朝の騒ぎに端を発し、アークが妙に神経質になっている点である。
日頃の大雑把な言動からすると、信じられないくらい慎重な物言いが多い。
国の代表としてここにいるからなのか、それとも別の理由があるのか。なんとなく今はまだ訊くタイミングではないような気がして、真澄はそれ以上問い質すのをやめた。
それから程なくして晩餐会が始まった。
大広間にずらりと長テーブルが何列も設えられ、真っ白なテーブルクロスが眩しい。天井には豪奢なシャンデリアに勝るとも劣らない大小様々な光球が浮かび上がり、女性陣のまとう宝飾や騎士の長剣飾りをこれでもかと煌めかせている。
座る場所はあらかじめ指定されていた。
武楽会の出場部門ごと、アルバリークとレイテアの出場者が向かい合わせで着席するのだ。上座下座も決まっていて、それは実力順だった。
つまり真澄とアークの前に座るのはレイテアの首席組なのである。
先に着席していた相手方は真澄たちの到着に顔を綻ばせて礼をとってきた。面食らったのは真澄である。どんな殺伐とした会になるかと構えていたのだが、いざ開式の挨拶と乾杯が終わってからは会場中から穏やかな談笑が聞こえてくる。そしてレイテアの首席組も長旅の労を労いつつ、今年のディナルは豊作になりそうだとかソルカンヌの名所など、当たり障りのない大人の会話を途切れることなく提供してくれた。
見れば見るほど、聞けば聞くほど常識人だ。
ヴェストーファで真澄を誘拐しようとした男や「魔の蛇」の一団、それに今朝方の黒装束などとは似ても似つかない。真澄の中でのレイテアに対するイメージが大きく変わる中、会も中盤に差し掛かった頃、アークが「そういえば」と口火を切った。
「昨年の首席が不在のようですが」
会場全体に一度視線を巡らせる。
そんなアークを見て、レイテアの首席魔術士である男性が「ええ」と顔を曇らせた。
「喰われました。魔獣に」
レイテアの首席楽士もそっと目を伏せる。
二人の様子に驚いて真澄は横目でアークを窺ったが、尋ねた張本人は動じていない様子だった。
「ここ数年イグルスが増え続けて手を焼いているのです。ご承知のとおりイグルスの縄張りは広いですから、山際の里にかなりの被害が出ていまして」
その討伐に向かった際に、去年の首席は深手を負ったのだという。
一命は取り留めたが未だ療養中で、今年の武楽会出場は叶わなかったらしい。
「赤の周期は始まったばかりなのに先が思いやられます」
心底困っているという風に、首席魔術士は食事の手を止めた。
「我が国だけではありません。エルストラスも近年の魔獣増加に悩んでいるようですよ。より高位の使役獣を召喚したいとかで、先日まで研究者の一団がしばらく王都に滞在していましたし」
「へえ。新しい術式はできたのですか」
「一つは完成したみたいですが、大掛かりなので使いこなすにはしばらくかかる見込みだとか」
「……どこも難儀だな」
「アルバリークはいかがです?」
「そういえば先日レヴィアタが出ました。珍しいこともあると思っていましたが、赤の周期と考えればまあ妥当か」
「レヴィアタですか!?」
レイテア首席組の目が丸くなった。神話の魔獣はアルバリークのみならず、どうにも大陸中で有名らしい。
「ああ、ご心配なく。山奥だったので特に被害はありません」
涼しい顔でアークが付け加えると、レイテア組は分かりやすく安堵の息を吐いた。
「今年の武楽会を機に、長めの停戦が実現すると良いですね」
祈るようなレイテア首席魔術士の言葉だった。
戦争中の敵国とは思えないほど彼の態度は真摯に過ぎて、真澄はその不可解さに首を捻るばかりだ。かといってこの場で訊くわけにもいかず、赤の周期とはなんなのか、エルストラスはどこにあるのか、そんな幾つもの疑問が頭の中で浮かんでは消えていった。
「それはそうと、本来ここに座るのは私ではないのですよ」
苦笑交じりに首席魔術士が振り返り、真騎士部門のテーブル、その中のとある一点を見つめた。
その視線の先、首席魔術士の位置に座っているのは女性だった。
艶やかな栗色の長い髪をまとめ、細く白いうなじも露わにばら色のドレスにその身を包んでいる。年の頃はグレイスと同じくらいだろうか。はつらつとした笑顔に滲む若さが愛らしい。
アナスタシア=レイテアである。
昨日、他でもない真澄がその存在に気付いて場を騒然とさせた人物だ。
「彼女は?」
素知らぬふりでアークが尋ねる。
すると、
「ばらの王女――我が国レイテアの至宝です」
その眩く輝くばら色の光は魔術士の最高峰であって、同年代で彼女の右に出る者はない。あるいは世代交代も間近かもしれず、若い魔術士は皆、その誉れ高き王女の元に集う。
ばら色の力を授けられた者は、未来の第一線を担う人材として成長途上にある。
王女がいればレイテアはますますの発展を遂げるだろう、誰もがそう確信しているのだと首席魔術士が言った。
「そんな実力者がなぜ真騎士部門に?」
最も訊きたいことがアークの口から滑り出る。
それまで嬉しそうに語っていた首席魔術士は、そこで僅かに眉を下げた。
「国王がお許しになりませんでした」
本来は武楽会への参加さえ許されなかったのだという。
が、今年どうしても出場できなければ二度と魔術士としての力は使わない、そんな王女の頑なな姿勢に、最後は条件付きで国王が折れた。
「それが真騎士部門での出場?」
「そうです」
「……ふうん」
釈然としない様子ながら、当たり障りのない相槌をアークが打つ。
真意が読めない。
部門を問わないのであれば、記念に参加したかっただけなのか。だがその程度の気持ちであれば、むしろ二度と魔術士としての力は使わないと頑なになる理由が分からない。
一体なにが目的なのか。
不可解さを残したまま直接ばらの王女と話をすることもできず、やがて武楽会前夜の晩餐会は終わりを迎えた。




