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ドロップアウトからの再就職先は、異世界の最強騎士団でした~訳ありヴァイオリニスト、魔力回復役になる~  作者: 東 吉乃
第二章 楽士の奮闘、ここに極まる

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75.それぞれの転機


 なんとも賑やかなさえずりが耳に届き、真澄はゆっくりと覚醒した。

 目を開けると薄暗い。

 が、聞こえる音は間違いなく朝の到来を告げており、疑問符を浮かべつつ身動ぎをする。すると耳元で「起きたか」と低い声が響き、真澄の背中と肩が盛大にびくついた。

「は!? え、なに、……アーク?」

 驚きすぎて跳ね起きる。すると、それまでやたらと温かかった背中が急に冷えた。

 よくよく見れば朝の光が天井から差し込んでいる。天井というよりは入り口で、視線をずらせば岩肌に背を預けたままのアークが呆れ顔で座っている。

 一瞬考え込んだ真澄はそこで、そういえば遭難している真っ最中であることを思い出した。

 どうやら無事に夜を越えたらしい。

 初の野宿、というか遭難でよくもこれだけ眠りこんだものである。我がことながら真澄が内心で感心していると、アークが腕と背筋を伸ばしながら笑った。

「正体不明で寝こけてたな? さすがの豪胆さだ」

「自分でもどうかと思ってるからそれ以上言わないで」

「いいじゃねえか、めそめそ泣かれるより余程いい」

 大雑把な相槌を鑑みるに、湯たんぽ兼敷布団にされていた張本人はまったく意に介していないらしい。

 さて、と呟きながらアークが上を指差した。

「出るぞ。夜明けと同時に捜索部隊が動き始めてるはずだ」

 できる限り距離を稼いで、今日の日没までにはどうにか合流したい。

 アークの言葉に真澄も頷き立ち上がった。野宿二晩目など、真澄としてもできればご免被りたい所存だ。

 狭い洞窟から出ると、山の涼しい風が新鮮な空気を運んできた。

 深呼吸をしながら真澄は全身のあちらこちらを伸ばした。身体を寄せ合っていたお陰で凍えることはなかったが、不自然な体勢だったので変に凝り固まっている。その横で、アークが念入りに太陽と連峰の方角を確認していた。

「とりあえず腹ごしらえするか」

「え、どうやって」

 まさか今から狩りに行くとか言い出すのだろうか、この男は。

 少し考えてから、「余裕でありそうな選択肢だ」と妙に真澄は納得した。熊と戦うことを厭わない発言があったのは昨晩だ。あまつさえ、毛皮を剥ぐ気満々だった。

 どんな大物を狩ってくるのか予想もつかない。

 となると、予防線は張っておくに越したことはない。

「この状況で四の五の言うのもアレだってのは分かってるんだけど、できれば初心者に優しい生肉でお願いします」

「は?」

「熊肉とか匂いがすごいっていうし。ウサギとか鹿くらいならなんとかいけるような気がしないでもない」

「……火もないのに野獣を食うつもりか?」

「死にたくなけりゃ頑張るしかないでしょ?」

 さすがにこの山道をアークと同じ速度で走破しろ、と言われてもそれは無理な相談だが、それ以外の努力できる部分では甘えていられないのである。生きて戻るのが先決なのであって、そのために取れる手段に泣き言など吐いていられない。

 まあそうはいっても初心者なので腹を壊すくらいは大目に見てもらいたい。

 胸を張って真澄が決意表明すると、アークが力いっぱい噴き出した。

「どうしてお前は発想がそう極端なんだ」

 生肉を食う覚悟は早々に決めるくせに、俺にふさわしいかどうかは迷うのか。

 ずばり言って、次いで「まったく理解できねえな」と肩を竦める。

「たかが遭難くらいで迷惑もクソもあるか」

 いきなり昨晩の話題を引っ張り出されて真澄は面食らった。真澄にしてみればずっと言えずにいた悩みを、非日常の、それも夜に紛れてどうにか吐き出したものだ。

 それをこの男はまったく気にせず口にする。

 真澄が返答に詰まっていると、短剣を検めながらアークが言った。

「マスミの国は平和だと言っていたな。戦争中ではないと」

 ヴェストーファでの記憶が蘇る。

 故郷に軍人はいなかったのかと問われ、答えられなかったあの日だ。騎士にもいくつかの階級があることを知り、そこに存在する序列と、代わりはいくらでもいるという事実に衝撃を受けた日。

 感じた遠さが自分たちになにをもたらすのか、想像もつかなかった。

 それが今、目の前に再び迫っている。

「俺たちの間には温度差がある。距離といってもいい。おそらくそれは、俺たちの前提がまったく違うからなんだろう」

 一切の気負いなくアークが言い放った。

「前提、って?」

「俺たちにとって生きることは戦うことだ。これは遥か神代に混沌の世界をさまよった祖先の頃から変わらない。いつか安息の地を築くその日を目指して、迷っている時間はない。俺には感覚的に理解できるこの話が、多分、マスミには伝わらない」

「……うん、分かんない」

「これを踏まえて訊くが、マスミの世界での生きるとはどういうことだった?」

 問われてまた答えられなかった。


 生きるとはなにか。


 この世に生を受けて、教育を与えられ、長じ、社会の中で働いて、いつか家庭を持ち子どもを育てる。

 なんのためにそうするのだろう。

 生物としては子孫を残せばそれでいい。あるいはその営みさえただの結果であって意味はないのかもしれないが、問われているのはそういう表面的なことではない、それだけは分かる。分かっていて尚、答えられないのだ。

 今ここで、なにに生涯を懸けるとも言い切れない自分がいた。

「時折聞くお前のいた世界、俺には理想郷に聞こえる。それなのにお前は少しも幸せそうじゃない」

「そんなことは」

「逃げるな。じゃあなぜ楽士長の言葉にあれほど傷付いた」

 どうでもいいなら笑ってごまかしたはずだ。そうしなかったのは本当に痛かった過去があるからで、まだ縛られているからだろう。

 ぴたりと言い当てられて、真澄は目を伏せた。

「それでも帰るのか」

 誰とも目も合わせられないほど傷付いたその場所に。

 真正面からアークは真澄に対峙してきた。直球だ。迷いなど欠片もない。昨夜真澄が望んだ帰ることの可否は言わずとも、その是非を問うてくる。

「……そう聞かれると是が非でもってわけじゃないけど、帰るのが筋ってものでしょ」

 どうにか口にしたのは理由にもなっていない理由だった。

「待っている誰かがいるのか」

「さあ。母さんは亡くなってるし、父さんには新しい家庭があるし。定職についてたわけでもないから、特にこれといって待っててくれるような人はいないよ」

 言うほど切ない。が、覆しようのない事実だ。

 そしてそれを見越したようにアークは畳みかけてくる。

「会いたい奴がいるということか」

「別に。父さんは今さら私を必要とはしてないだろうし、友達も死ぬほど会いたいかって訊かれるとそこまで深い仲の相手はいないってのが本音」

「ではなぜ帰るんだ」

「なんでって」

「職には就いていない、親からも独立している、恋人もいない。帰る必要があるのか」

「ストレートに喧嘩売ってくるとか人間としてどうかと思うんだけどどう思う?」

 あまりにも歯に衣着せず畳みかけられ、さすがに真澄の額に青筋が浮かんだ。

 まともな理由を出せない中途半端な自分が悪いのは分かっているが、それにしても言い方、と殴ってやりたくなる。

「確かにアークの言うとおり帰ることにそこまでこだわりはないわよ。でも逆に言うと、この世界で新しく暮らしていこうと思うほどのなにかがあるわけでもない。昨日も言ったけど、アークに迷惑をかけてまで」

「俺がお前を望んでもか」

「だからそれは代わりがみつかるって言ったじゃない」

「迷惑じゃないと言っているだろう」

「なんでよ遭難までしてんのに意味分かんない」

「そのための力だからに決まってんだろ」

「は? そのためって、……非常事態専用? ごめん、もっと意味分かんない」

 言い争いにヒートアップしかけた頭が冷静になった。


 多分、自分たちはまた噛み合っていない。


 これまで散々繰り返してきたこの感じ。まさか遭難中にもやるとは思わなかった。懐かしいといえば懐かしいが、このままだと話が予想外の方向に大きく迂回すると相場は決まっている。

 軌道修正を図るべく真澄は深呼吸をして頭を整理した。

 発端はなんだったか。

 確か、互いの背景があまりにも違いすぎて、互いに理解できていないという話だったはずだ。

「待って。結局アークが言いたいことって、遭難しても問題ないようなサバイバル力があるから、別に私が遭難しても迷惑じゃないってこと?」

 要約すると最高に意味不明な文脈になった。

 コレジャナイ感が半端ない。

 だがどこを修正したものか本来の発言者ではない真澄には見当もつかないので、微妙な顔で首を傾げるしかない。そんな真澄を見たアークも、困惑顔で腕組をする始末だ。

 互いに首を傾げ合って数秒。

「……一割も伝わってないらしいな」

「うん、なんかそんな気がしてる」

 現状把握の度合は一致している。惨憺たる結果である、ということはさておいて。

「迷惑云々というよりそれ以前の問題で、……」

 慎重に言葉を選びながら、アークが説明を続ける。

「いいか。俺の『熾火』しかり、叙任の『種火』しかり、この力は戦うために――もっと言うなら守るために与えられた力だ。アルバリーク建国の時に結ばれた古い盟約で、違えることはあり得ない。そもそもが自分自身じゃない、誰かのために在るものだ」

「……そうなの?」

「そうだ。だから論点をそこに据える意味がない」

 きっぱりとアークが言い切った。

 真澄の葛藤は、どうも考えることそのものが無駄らしい。にわかに呑みこみがたい話だが、真偽のほどは確かめようがないので「はあそうですか」と頷くしかない。

 他に是が非でも帰らねばならない理由は存在しない。

 となれば、真澄の突っ張る理由は消されたも同然なのである。

「ここまでは理解したか」

「なんか今いち釈然としないけど、うん」

 真澄の同意を取り付けて、アークが「その上で、」と続けた。

「俺がお前を望んでも、帰るのかと聞いている」

「それって楽士としてってことよね?」

「そうじゃない」

「え、楽士以外ってこと? それはちょっと……困ったな、我ながら厨房は無理だと思うんだよね。掃除っていうか、女官の下っ端ならなんとか?」

「違う。料理人も女官も間に合ってる」

「じゃあ庭師とか? ごめんもっと無理」

「この雰囲気でどうしてそう残念な発想しか出てこないんだお前は」

「残念とか余計なお世話よ。で、結局なにをやればいいの?」

「俺の嫁」

「は? なに言ってんの?」

「だから、俺の嫁になれ」

「は? なに言ってんの?」

「てめえ……綺麗に繰り返しやがって」

 今度はアークの額に青筋が浮かんだ。

 が、ここで真澄が押し切られる謂れはない。

「いや、そこで罵倒されるのはおかしいでしょ。ついこの間までスパイだと思ってた相手に求婚とか、どっきりか罰ゲームか悪ふざけのどれかとしか思えないんだけど」

 まさかこんなに疑わしいプロポーズを受ける日が来るとは夢にも思わなかったわけである。

「しかも遭難中よ? なんでここっていうか、今?」

 真澄は頭っから信じる気がない。

 その態度に業を煮やしたのか、アークが切れ気味にまくし立ててきた。

「お前がそれを言うか。そもそも帰るとかいきなり言い出したのは誰だと思ってやがる。こっちにだって色々と考えてた都合があるってのに、好き好んで遭難中に申し込む奴がいると思ってんのか」

「ちょっ、私のせいだって言いたいわけ!?」

「そうに決まってんだろ! 俺が一番驚いてるわ、時と場所も選んでられないほど切羽詰った自分にな!」

 最後はもはや罵りあいの様相を呈していた。が、信じられないことにこれが生涯の伴侶を得るがためのやりとりだというから、世の中分からない。


 山間、生還できるかどうかも定かでない遭難中に、ヤケクソで。


 色気も空気も一切無視だ。そんな二人だから、無粋な横槍が入ってもまったくおかしくはないのである。

 ぜえはあと肩で息をする合間に、うなり声が割りこんできた。

 互いに合わせていた視線を外しはたと見れば、三頭のウォルヴズが「気付けよ」と言わんばかりに牙を剥き出している。自分たちが腹ごしらえする前に、腹ごしらえされそうな勢いだ。

 真澄の背筋は凍ったが、一方のアークは不機嫌極まりない顔で短剣片手に前へ出た。

「肝心な時に邪魔しやがって……」

 いつもならば、青い闘気が揺らめいていそうなほどの激昂だ。

 三頭はそれぞれに低く身構えている。

 が、アークは一歩も退かずに中心へと飛び込み、あっという間に三頭を蹴散らしたのだった。

「まだ縄張り抜けてなかったんだ」

 動かなくなった三頭を恐々うかがいながら、真澄は呟く。

 水場を離れて安全圏へと移動できたと思っていたのだが違うらしい。

「縄張りは抜けたはずだが、……匂いを辿られてるんだろう」

 アークがしかめっ面になっている。

「じゃあずっと追いかけてくるってこと?」

「ああ。連中にとっちゃ相当うまそうな匂いだろうしな」

 もはや悠長に話を続けている場合ではない。

 日の高さを慎重に見極めつつ、アークがしばし考え込んだ。

「多少遠回りになるがやむを得ない。川に戻る」

 やがて下された判断に真澄は従い、二人は早々にその場を後にした。



 道中は無言だった。

 道なき道を進むには、足元だけではなく左右と頭上も気を付けねばならない。それだけでも注意力が必要で、かつできる限り急いでいる。散歩気分とは程遠い移動だった。

 清流の音が少しずつ大きくなり始めた頃、先を歩くアークが足を止めた。

 勾配の途中にある繁みに目を留めている。少しだけ待つように言われ、真澄は大人しく従った。

 足を止めると、肩で息をしている自分に気付く。汗ばんだ額を拭いながら見上げると、高い梢から幾重にも差し込んでくる光が眩しかった。

 アークはすぐに戻ってきた。

 手に黄色の丸いなにかを持っている。中の一つを手で半分に割り、真澄に寄越してきた。途端に爽やかな香りが鼻腔をかすめる。

「いい匂い」

 柑橘だ。

 真澄の手の中で、まん丸なそれはレモンのような清々しい香りを放っている。

「食べられるのは中だけだ。外側の皮は苦いから、捨てていい」

 言いながらアークはさっさと一つ目を口に放り込んでいる。それにならって一つを食べてみると、ものすごい衝撃が真澄の舌に走った。

「すっぱ!」

 口元を押さえて思わずその場にしゃがみ込む。

 レモンの比ではない。

 せめて吐き出さないよう必死にこらえて悶絶する真澄の頭上に、「原生な上に早生わせだからな」などと涼しいコメントが降ってくる。

「最初にそれ言って欲しかった……」

「お、飲みこめたか。さすがだ」

「生肉食べること考えたら余裕よ」

 激烈な酸味に目を眇めつつ、真澄は残りの半分をさっさと口に入れた。

 するとアークが追加で二つを寄越してくる。

「食えるなら食っておけ。味はともかく、栄養価は高い」

 慣れているのかこちらは酸味に動じた様子もなく、早々に三つ目を頬張るところだった。

 遅い朝食の後は、辿り着いた清流でまずは喉を潤した。冷たさに疲れが吹き飛ぶ。ずいぶんと下ったのか最初に目を覚ました時の急流とは打って変わり、流れがかなり穏やかになっていた。

 アークがおもむろに靴と下衣を脱ぐ。

 そして、慎重に水深を確かめながら川に入っていく。中ほどまで進んだ時、アークが振り返って手招きをした。

「ゆっくりでいい。渡ってこい」

 水深はアークの膝くらいだ。

 真澄の下衣は膝より短く、脱がずとも濡れないだろう。そのまま真澄はゆっくりと清流に足を踏み出した。

 滑る川石に気を付けながらどうにかアークのもとまで辿り着く。「上出来だ」と笑ったアークは、次に真澄を抱きかかえて残り半分をさっさと渡り切った。

 それからしばらくを川沿いに歩いた。

 途中、流れの緩やかな場所を選び、何度か川を横切った。時にはしばらく水の中を進んだ。濡れることも厭わずに、だ。それが三度目を迎えた時、真澄はその理由を尋ねた。

「時間稼ぎだ」

 返ってきたのは簡潔な答えだった。

「追手を巻ければいいんだが、連中はしつこい」

 それでも陸上をただやみくもに逃げるより、格段に追跡されにくくなっている。そうアークは言った。



 中天に上っていた日が傾き、やがて世界が金色に染まる頃まで、真澄とアークはひたすら進み続けた。既に川沿いからは離れている。夜が来る前に身を寄せる場所を探す必要があったからだ。

 だが逃避行はそこで遮られた。

 無数の足音が背後から迫ってくる。周りは木立が続くばかりで割りに歩きやすいが、逆に隠れられそうな岩場や洞窟は見当たらない。

 アークが素早く周囲に目を走らせる。

 近場にあった最も大きな樹の幹に真澄を押し付ける。樹齢百年を越えていそうな立派な幹は、真澄の身幅よりよほど大きかった。そして真澄を守るようにアークが立つ。

 重なり合う幾つもの足音はやがてその姿を現した。

 鼻を宙でひくつかせるもの、地面を嗅ぎまわるもの。十頭ほどだろうか。先頭がこちらに気付き、猛然と地を蹴った。

 

 黄昏の中、きらめく刀身はウォルヴズの小集団を血祭に上げた。


 全てを屠り息のないことを確認したところで、次の群れが追いついてきた。

 アークはものも言わず短剣を振るい続ける。

 鮮やかな動きに累々とウォルヴズの死体が積み上がっていく。日が落ちていく。金の光が遠ざかり、薄暮がひたりひたりと近づいてくる。大群に圧されて、少しずつアークの背中が迫った。

 どれくらいそうしていたか。

 飛びかかってきた一頭を切り倒したアークが膝を折った。その背に黒い染みが広がっている。真澄は狼狽した。どうして。ウォルヴズは前からしかきていないのに、いつの間に。

 左右に目を走らせるも、なにもいない。

 もう一度前に向き直った時、膝をつきながらも拳を振るうアークがいた。

 短剣を握る右手は別のウォルヴズの牙が食い込んでいる。首を狙って飛び込んできた一頭の横っ面を、しかし左手で強か殴りつける。

 持っていかれそうになる右手。

 だがアークは一歩も退かず、相手の口に拳をめり込ませた。顎を裂く勢いで殴り倒す。引き抜いた手はどちらのものか、血まみれだった。

 再びアークは立ち上がる。

 最後の一頭はしかし、襲ってくる前に遠吠えをした。山が震える。アークが地を蹴る。すぐに両者はもつれ合い、軍配はアークに上がった。

 死屍累々の中、アークが肩で息をしている。

 その顔は険しい。

 真澄が駆け寄ると、頬が蒼褪めていた。

「群れを呼ばれた。すぐにここを離れるぞ」

 鬼気迫る様子に背中の傷を問える隙は無かった。言うが早いかアークは真澄の手を取り、薄暮の中を駆けだす。だがいくらも進まないうちに、遠吠えと四つ足の駆ける音が響いた。

 アークの足が明らかに鈍っている。

 見れば頬や腕に無数の傷が走り、満身創痍の状態だ。それでも戦意あふれる目で決然と振り返るアークに、真澄はなにも言えなかった。

 闇に溶けそうな勾配の向こう、いくつもの影が並ぶ。

 先ほどの比ではない。

 だが真澄に向き直ったアークは血まみれになりながらも静かな顔をしていた。

「大丈夫だ。絶対に守る」

 身をひるがえしたアークは単身、ウォルヴズの群れに突っ込んでいった。


 くらくなる森の中に赤い目が光る。

 一秒が永遠に感じる。


 増え続ける赤、闇にかき消えていくアークの背中。誰でもいい、誰か助けて。初めて祈ったその瞬間、夕闇に溶けそうな藍の光がもつれあう集団を切り裂いた。


*     *     *     *


 その伝令が読み上げられた時、張り詰めていた部屋に安堵が広がった。

「日没直前だったようです。今晩は野営をして、下山は明朝になります」

 セルジュから届いた書簡を読みながら、カスミレアズは息を吐いた。

 女性陣はヴィラードを放り出して互いに抱き合っている。交代とはいえ誰一人眠ることなく魔力補給のために弾き続けてくれた彼女たちは、それぞれが目元をそっと拭っていた。

 最新の位置を特定するために高度な探知をかけ続けていたリシャールは、「良かった……」と呟き卓に突っ伏す。ずっとあふれ出ていた優しい緑の光が名残惜しそうにかき消えた。

 その頑張りをねぎらうように、ヒンティ騎士長が背中を叩く。

「それで、明日の壮行会には間に合いそうか?」

 ヒンティ騎士長に問われ、カスミレアズは文面を最後まで追ってから、首を横に振った。

「アーク様が深手を負っていると報告にあります。命に別状はないようですが、レイテア出立を考えると治療と休息に専念すべきでしょう」

「分かった。イアンセルバート様には私からうまく伝えておこう」

 壮行会の主催は宮廷騎士団長である。

 ことを荒げずうまく執り成せるのは、目の前にいるヒンティ騎士長の他にいない。

「当然、マスミ殿も同じだろう?」

「できればそうして頂けるとありがたいのですが」

「無論だ」

 あまりやりたい仕事ではないだろうに、ヒンティ騎士長が鷹揚に頷いた。


 実際問題として、壮行会に神聖騎士部門の首席二人が欠席するなど前代未聞である。


 あの宮廷騎士団長のことだ。

 どれだけヒンティ騎士長が執り成しても、おそらくどこかで小言はもらう羽目になるだろう。あの二人は嫌がるだろうが、命あっての物種なので我慢してもらうしかない。

 冷静に考えてみれば、そもそも前代未聞尽くしの二人である。

 これまでもそうだったが報告を見るとそれが際立つ。予想通り神話の魔獣レヴィアタと一戦交えていたらしく、それだけでも剛毅なのだが続きがすごい。


 アルバリークで最大落差を誇るヴィスカス大瀑布から落下。

 続く急流に流されるも総司令官は肋骨の亀裂骨折と腰の裂創に留まる。首席には目立った創傷なし。

 初日は自然洞窟に退避、夜明けまで問題なし。

 二日目、ウォルヴズの縄張りに踏み込んだため渡河を繰り返しながら断続的に日没まで交戦。

 日没前に捜索本隊と合流、ウォルヴズ一掃の上、これより野営に入る。総司令官の全身に咬創あり、先の裂創と合わせて早急な治癒を要する状態。首席には目立った創傷なし。

 下山は明朝、帝都への帰還は日没後になる見込み。

 

 セルジュからの報告は見本のように事実のみを述べている。飾りのない文章はまさに軍人のそれだが、その簡潔さがかえって遭難の壮絶さを際立たせている。

 よく生きていたものだ。

 文面を最後まで追ったカスミレアズは立ち上がり、全員に頭を下げた。

「皆さんのお陰です。とても言葉に換えられませんが、第四騎士団を代表して深くお礼申し上げます」

「水臭いぞ、エイセル騎士長」

 ヒンティ騎士長が眉を下げた。

「最初に助けてくれたのはアークレスターヴ様でありマスミ殿じゃないか」

 テオドアーシュ殿下の件、頷いてくれたことがどれだけ有難かったか。殿下が元気を取り戻されたのも、今、前以上に熱心に教育を受けているのも、全て二人のお陰なのだとヒンティ騎士長が言う。

「あのお話ね。私もびっくりしたもの」

 アーステラ首席がころころと笑った。

「うちの人はいっつもアークレスターヴ様の素行に『胃が痛い』なんてこぼすくせに、結局は陰で喜んでたのよ? 第一騎士団から備品補填の予算を出してもいいなんて言って」

「そこはありがたく頂戴しました。第四の予算は訓練場の補修費で火の車ですから」

 内情に詳しいヒンティ騎士長が暴露する。

「元気があってよろしいではありませんか」

 アーステラ首席がもっともらしいことを並べてくれるが、カスミレアズとしては恐縮しきりである。

 そんな年長組を前に、「私もです」と細いながらもはっきり告げたのはグレイスだった。

「マスミさまと出会えていなかったら、私はきっとここにはいませんでした。誰とも口をきかず、お兄様に会いに行く勇気も出せず、フェルデ様の言いなりだったでしょう」

 認証スカーフを破いてしまったのは大変申し訳なかったのですが。

 カスミレアズにとっては懐かしくも衝撃の記憶を引き出しつつ、グレイスが硬く手を組んでいる。銀のまつ毛に縁取られた大きな目は涙に赤く染まっていた。

「そうですよ、エイセル騎士長。これだけ妹がお世話になっているのに知らん顔なんて、できるわけがありません」

 目の下に隈を作りながらもリシャールが笑った。

「何回遭難されてもお付き合いしますよ」

 それくらい、妹が第一騎士団を訪ねて来てくれたあの日が嬉しかった。そして、そうできるよう取り計らってくれた第四騎士団長と、連れてきてくれた第四近衛騎士長には感謝してもしきれない、と。

 目を細めるリシャールの視線は、グレイスに向いている。

「何回もだなんて縁起でもないですよ、リシャールさんったら」

 たしなめるようにイヴが横から口を挟む。

「でも、困った時はいつだってお手伝いはさせて頂きたいのは同じです。自分じゃなくて家族を大事にされると、どうしてこんなに嬉しいんでしょうね?」

 同じくアンシェラという名の妹を持つ彼女がリシャールに追従する。

「このご恩をどうにかしてお返ししたい、なんてやたらと張り切ってしまって」

「そうなんだよなあ」

 気の良い二人が「不思議だよなー」「不思議ですよね」と息ぴったりである。

 本来であれば彼らが一番疲れているはずだ。それでも二人は穏やかな笑顔を絶やさない。



 一昼夜ぶりに訪れた安堵に緩む空気の中、ヒンティ騎士長が立ち上がった。宮廷騎士団長に壮行会の話をつけに行くのだと言う。その動きを皮切りに、部屋に詰めていた面々もそれぞれ腰を上げた。

 ゆっくり休んでほしいとカスミレアズが声をかけると、彼らは皆一様に「あなたも」と返してきた。

 最後に部屋を出たのはサルメラ次席だ。

 そういえばと思い、カスミレアズは彼女を呼び止めた。

「ありがとうございました」

 若手に比べて体力のないアーステラ首席を気遣い、グレイスとイヴがまだ弾けない高度な曲を弾き、大きな補給源として揺るぎなくあったのは他でもない彼女だ。

 お陰で密に伝令を飛ばすことができて、早期発見に至ったも同然なのである。

 この補給がなければ、刻々と変化するリシャールの探知結果を捜索部隊につなぐことはできなかった。

「お礼など要りません。私は私にできることをしただけです」

 一瞬合った目は、次にぷいと逸らされた。

 頭一つ分以上小さいのに威嚇されているようだ。そんなサルメラ次席を前にして、カスミレアズは頬を緩めた。なんとなく、ヒンティ騎士長の気持ちが少しだけ分かった気もする。

 二の句を継がないカスミレアズに、サルメラ次席がそっぽを向いたまま言った。

「……帰ってこないなんてあり得ません。話もまだなのに」

 カスミレアズの相槌は待たず、彼女は肩を怒らせながら廊下をずんずんと歩いていった。


 そのままの勢いで先を歩いていたグレイスとイヴを追い抜く。

 最初は驚いて脇に避けた二人は顔を見合わせて笑い、小走りで遠ざかる背を追いかけていった。


*     *     *     *


 夏が過ぎていく。

 新しい出会いと二度とない日々、そしてそれぞれの葛藤を抱えながら。


 来る秋にどんな変化が起こるのかは彼らの誰も、まだ知らない。


 帝都の中央広場は今日のこの日も賑わっている。

 高くなり始めた空の下、女神デーアの像は陽光を受けて白く輝き、民の暮らしを見守っている。六枚羽をひるがえし、右手に大剣、左手に極光を携える勇猛な女神はしかし、優しい微笑みを浮かべていた。


 その加護が、アルバリークをこの国たらしめている。



 あちらこちら寄り道してしまいましたが、皆さまのお陰で二章を無事に終わることができました。お礼申し上げます。

 一章と違い登場人物が増えて混乱をお招きする部分もあったかと思います。ただ、そんな中でも「誰それが好きだ」というありがたいお言葉を頂戴することもあり、作者としては大変嬉しい章でもありました。


 一ヶ月ほどお休みを頂いて、第三章は二月から始めようと考えております。


 ようやく折り返し地点ですが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。



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