73.隣に立つ資格
「ちょっと嘘でしょおおお!?」
絶叫空しく、真澄の身体は絶賛落下中だった。
高さを聞くのもばかばかしいくらい遥か眼下の滝壺に向かって。
「しょうがねえだろこれしか方法がなかった!」
うなる風、瀑布の轟音に負けじとアークが叫ぶ。その腕は絶対に真澄を離すまいと力強いのだが、そういう問題ではないのである。
流れ落ちる大量の水と滝壺から吹き上げる風で、身体が翻弄される。
普通ならば真っ逆さまに落ちてお陀仏になるところを、アークが気合と根性で落下速度を抑えこもうとしている。先ほど真澄を助けた大盾の応用らしいが、それでも滝よりは遅いというだけであって、正直「やばい」以外の感想が浮かばない。
「くそっ俺が重てえのか!?」
「やっぱそうよねさっきより確実に落ちるの早いと思ってた!」
落下しながら会話をするあたり、二人とももうやけくそである。
だって、青い盾は造られる傍からあっという間にすり抜けていくのだ。どう考えても制限荷重を越えている。
見る間に滝壺が迫ってくる。
あまりの恐怖にまばたきさえ忘れて、真澄はアークにしがみついた。
「いやもうこれ絶対無理むりムリ無理――――!」
「この――っ、オラァ!」
あと数秒で叩きつけられる。
絶体絶命のその瞬間、アークの身体から青い極光が弾けた。
* * * *
真澄は暗闇の中に一人立ち尽くしていた。
先ほどまで耳をつんざいていた濁流の音は、すっかり鳴りを潜めている。せせらぎの音さえ聞こえず、向かう先は定かでない。傍にアークもいない。
はぐれてしまった。
途端に大きな不安が押し寄せてくる。そして寒い。思わずその場にしゃがみこんだ時、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「マスミ。目を開けろ――マスミ」
まぶたが重い。
だがずっと呼びかけ続ける声にどうしても応えなければいけないような気がして、真澄はどうにか目を開けた。
「マスミ、……良かった」
逆光がまぶしい。ぼやけた視界に何度かまばたきを繰り返すと、周囲の輪郭が徐々に鮮明になった。
目の前にはアークがいる。
あからさまに安堵の表情を浮かべていて、一瞬なにが起こっているのか分からなかった。
記憶が飛んでいる。
呆けたままで見上げていると、濡れたアークの黒髪から雫がぽたりと垂れてきた。
寒い。ずぶ濡れになっている服と横たわっている身体を順に認識して、そういえば怒り狂ったレヴィアタの猛攻から必死に逃げていたことを真澄は思い出した。
水中に引きずり込まれて食われるか、滝から飛び降りるか。
進退窮まって出てきた二択がそれである。さすが建国の女神と互角に三日三晩戦っただけあって、神話の魔獣は手強かった。結局、三十六計逃げるに如かずということで後者を取ったのだ。
冷静に考えてみればよく選んだものである。
「えっ……と、滝に落ちて、それから……?」
「かなり流された。それも帝都に向かう本流じゃない、支流側に」
厄介なことになった、とアークが舌打ちする。
帝都に近付くどころか離れる方向らしい。日が傾きかけた天を見ながら、おもむろにアークが上着を脱ぎ始めた。なにをするのかと思いきや、濡れて黒くなった制服を絞りだす。
ただでさえ太い腕にくっきりと筋が浮かんでいる。
そして、水がじゃばじゃばと滴り落ちてきた。
親の仇のごとく絞りに絞る。やがて一滴も雫が垂れなくなって「そろそろいいんじゃないの」と真澄が声を掛けようとしたとき、ぶち、という不吉な音が響いた。
「あ」
アークの腕の動きが止まる。ねじれた上着をゆっくり解くと、袖口が若干裂けていた。
見つめて二秒。
大したことではないと判断したらしく、アークは制服を放り投げ、次に下に着こんでいた半袖の簡素なシャツに手を掛けた。恥じらいもなくぐい、と脱ぐ。濡れた髪から雫が鎖骨から胸、割れた腹筋へと伝い、夕陽にきらめいている。上半身裸のまま同じようにアークはシャツを絞り、それで無造作に全身を拭いた。
「見てないで、マスミもさっさと脱いで絞れ」
下衣をすぽんと脱ぎ、下着一丁でさも当たり前のようにアークが言う。
台詞の合間にも下衣は絞られて、アークの足元に水たまりを作っていた。
「身体を冷やすとまずい。日が出ているうちにできるだけ乾かすぞ」
言っている内容は至極まともだが、格好が情けない。
制服効果って本当にあるんだな、などと今この場で最高にどうでもいい感想を抱きつつ、真澄も促されるまま立ち上がった。
まだ日の当たっている大きな岩にアークが制服を広げて天日干ししている。それを横目に自分のシャツに手を掛けたが、真澄はそこではたと動きを止めた。
そんな真澄を見て、アークが首を捻る。ばっちり目が合っていることを確認しつつ、真澄は口を開いた。
「あっち向いてて」
アークの背後に向かって指を差す。が、やはり意図は伝わらなかった。
「なんで」
いっそ清々しいほどに真顔だ。
こうなればはっきり言うしかない。
「それはこっちの台詞よ。なんで見せなきゃならないの」
「いいじゃねえかどうせもう全部見ただろう」
「やかましい!」
いちいち下品だ。あけすけであるともいえるか。
こんな山奥でする会話じゃないと内心で突っ込みつつ、真澄は片眉を上げた。
「あれは事故でしょ。彼氏彼女でもあるまいし、そうほいほいと脱いだらただの変態でしょうが」
「事故?」
「そう。出会い頭の」
「彼氏彼女っていうのは?」
「まさかそれに該当する語彙がないわけ? 恋人ってやつ」
「なるほど。つまり俺とお前はそういう仲ではないと」
思わず真澄は力いっぱい怪訝な顔になる。
「は? 何言ってんの? 当たり前でしょ? いい大人が一回や二回や三回致したからって恋人面なんて互いにいい迷惑でしょ? ってか冷静に考えてなに普通に会話してんのよ気まずいとかそういうのはないわけ?」
「お前気まずいのか」
「別に。言いすぎて悪かったなとか五ミリくらい思ってたけど、なんかもうどうでもよくなった」
あまりにも気にしてなさそうなアークに毒気を抜かれた、というのが正しい。おまけに勢いある清流に丸洗いされて、文字通り色々な負の感情は水に流れていった。
いいからあっち向け、と重ねつつ、真澄はアークに背中を向けてシャツを脱ぐ。
結構な力を込めて絞ったが、しかし元の布量が多くないので申し訳程度の水しか出てこなかった。そしてそれ一枚しかないので、再び真澄はしわくちゃになったシャツに袖を通す。
肌に張り付くほどだった先ほどよりは、随分とましになった。
この分だと日没までには体温とも相まって、それなりに乾いてくれそうな気がする。満足して振り返ると、下着一枚でアークが水際の大きな岩に座っていた。
視線は流れていく清流を追っている。大きな岩ばかりが転がっている中を縫うように走る流れは速く、ところどころで白いしぶきを上げていた。水面は夕陽を反射して輝いている。あたたかな橙色はしかし、もうすぐ日が落ちてしまう事実を無情にも告げていた。
「支流って言ってたけど、どのへんなの?」
アークの隣に腰を下ろしつつ尋ねてみる。
すると、アークが周囲に目を走らせながら思案顔で答えた。
「連峰が太陽と反対側に見えるから、西の支流だろう。こっちは全て神域になっている」
東なら良かったのに、と舌打ちが続く。
「かなり下れば巡礼の道に行き当たるはずだけどな……じき日が落ちる。今日中に辿り着くのは無理だ」
「けっこう遠い?」
「俺の足で一日で行けるかどうか」
「そんなかかるの!?」
「お前な、地図も食料もなしにそう簡単に山を抜けられると思うのか」
本来であれば、その場から動かず救助を待つのが鉄則なのだ。
それを自力でどうにかしようとするなら、それなりの覚悟と準備が要求される。迷ったら一巻の終わりなので常に太陽を見て方角を確認しなければならないし、体力が切れたら歩けなくなるからどうにかして食料調達もしなければならない。
あれこれやっていれば必然と速度は出るわけもなく、まして軍人ではない真澄付き。
季節が夏の終わりであることだけが不幸中の幸いであるが、それにしても三日くらいは彷徨ってもおかしくはない、とアークが平然と言ってのける。
サバイバルなどとは生まれてこのかた無縁だった真澄の頬は、盛大に引きつった。
「アークの火で木をなぎ倒して真っ直ぐ道作るとかできないの」
「相変わらず豪快な発想だな。神域を焼野原にするのか」
「緊急避難ってやつで、そこは情状酌量の余地がありませんかね」
「……無理だな」
「え、諦めるの早くない?」
珍しい。
いつものアークなら「やってみるか」くらい言いそうなものだが、微妙な顔で歯切れが悪い。真澄が目を瞬いていると、観念したようにアークがため息を吐いた。
「やりたくてもできないんだよ」
言いながら、手のひらを宙にかざす。
武骨な手のひらからはいつもの青い光はおろか、魔珠もなにも出てはこなかった。
「最後の盾に全部使った。おかげで今生きてるわけだが、もう伝令も飛ばせない」
回復しようにもヴィラードがない。
であるからして魔力には頼ることはできず、正真正銘の自力で生還するしかない状況である、とアークが付け加える。ひき肉にならなかっただけ儲けものだと言われてしまえば実に納得で、文句をぶつける先もなかった。
分かりやすく手詰まりである。
都会で生まれ育った真澄には、こんな時なにをどうしたらいいのかなどまったく分からない。アイデアが出ないのだから絶句せざるを得ず、そんな真澄を見てアークが「そう暗い顔するな」と慰めを寄越してきた。
「夜になっても俺たちが戻らなければ、何かあったとカスミレアズが気付く」
「じゃあ助けに来てくれるかな」
淡い期待が浮かぶが、しかしアークは首を横に振った。
「気付くのはいいが、逆に夜は動けない。二次被害が出たら話にならんから、日が昇るまで待つしかない」
動けないとか二次被害とか、にわかに事が大きくなってきた。
そこから導き出される回答は一つしかない。
「……もしかしてこれ、遭難ってやつ?」
「……もしかしなくても立派な遭難だ」
恐る恐る聞けば、溜めたっぷりに返された。
事態を正しく把握し、がっくりと肩が落ちる。
まさか武楽会前に遭難するとは夢にも思っていなかった。それも出立三日前である。下手をすれば、出立までに戻れない恐れも十二分にあり得る。
国の威信を懸けた行事に、首席二人が揃って行方不明。
関係各方面に及ぼす影響の大きさにめまいを覚え、真澄は半笑いになった。今回ばかりは十割真澄の過失である。真っ先に思い浮かんだのは、他でもない鮮やかなすみれ色だった。
「壮行会に遅刻したら、……宮廷騎士団長から膝詰めで説教されるんだろうな……うわあ……ごめん」
「遭難して最初の心配がそれか」
大振りな皮ベルトを手で弄びながら、アークが苦笑する。そこに収まっているはずの長剣はどこにもなく、レヴィアタとの戦闘のどさくさに紛れて流されたらしい。
真澄は立てた膝に頬杖をついて「だって、」と言い募った。
「私が大人しくしとけばアークを巻き込むこともなかったわけだし」
「そういやそれ、」
言いかけたアークが口を噤み、素早く身体を起こして片膝をついた。
低く、いつでも飛び出せる体勢だ。鋭い視線は清流向こうの一点を射抜いている。右手が干されていた制服に油断なく伸び、その胸元から短剣を抜き取った。
がさり、と音がする。
風ではない。明らかになにものかが藪を揺らしている。小さな舌打ちと共に、「長剣を落としてなけりゃな」という呟きがこぼれ出た。
アークの手がゆっくりと鞘から短剣を抜く。
研ぎ澄まされた刃が夕陽を反射してきらめくと同時、やぶの中から一対の目が現れた。
「……ウォルヴズの縄張りか。厄介だな」
独りごちつつアークが制服の上を真澄に放り投げてきた。
視線はウォルヴズに合わせたまま、「それ着て下がってろ」と簡潔な指示が飛ぶ。せめても邪魔だけはしないよう、真澄は震える指先を懸命に動かして、言われたとおりにした。
逆手で短剣を構えたまま、アークは微動だにしない。
ウォルヴズは鼻をひくつかせながら一歩、また一歩と近づいてくる。
清流を挟んで両者が対峙する。
やがてうなり声をもらしだしたウォルヴズの口から、よだれが滴り始めた。見事に食料認定されたらしい。次の瞬間、ウォルヴズは清流を蹴散らしたかと思うと、流れの中ほどから大きく跳躍した。
居並ぶ牙が迫る。
アークは迎え撃つ体勢だ。
鋭い爪が肉を引き裂く勢いで、裸の肩にかかる。が、アークの左手が前足をがっちりを抑えこんだ。そして、右手が一閃。喉に深く突き刺さった短剣は、そのまま横一文字に獣の喉を切り裂いた。
声もなく、ウォルヴズが仰け反る。
こと切れた獣の身体は、舌をだらりと垂らしたまま清流へと投げ込まれた。
頬に散った返り血と濡れた短剣を、アークが清水で洗い流す。短剣を鞘に納めたアークは干していた下衣とシャツを手早く着こみ、迷わず真澄の手を取った。
「血の匂いを嗅ぎつけられたらまずい。水辺は惜しいが、安全が最優先だ。離れて野営地を探す」
厳しい司令官の顔だ。
人の命を預かる覚悟の言葉に、真澄は無言で頷くことしかできなかった。
* * * *
完全に日が沈む前に、真澄とアークはその洞窟に滑りこんだ。
それなりに高さはあるが坑道のような奥深いものではなく、おそらく熊かなにかが越冬のために使っているのだろうとアークが判断した。まだ夏の終わり、湿った土の匂いがするばかりで獣臭くもなく、主と鉢合わせする可能性はほぼないらしい。
入口は地続きの横穴ではなく、空に向かってぽっかりと開いている。避難小屋など望むべくもないこの状況においては、風が直接吹きこまないだけで破格の条件だった。
真澄は洞窟で一人座り込みながら、足をなでていた。
裸足に巻かれているのは大きく丈夫な葉で、ほぼ下着のみという軽装だった真澄のためにアークが急ごしらえで作ったものだ。これがなければ、あちこちに折り重なる岩と山道であっという間に足をやられていただろう。
アークはいない。
着くなり「日が落ちるまでには戻ってくる」と言い残し、短剣片手に森の中へ入っていった。ついていけるわけもなく、真澄は不安を必死に押し殺してその背を見送った。
もう清流の音は聞こえない。
斜めに差し込む夕日が少しずつ薄くなり、闇の気配が色濃くなり始める。深まっていく静寂の中、真澄は膝をかかえて顔を埋めた。
足手まといにもほどがある。
ここに辿り着くまでに嫌というほど思い知らされた。
そもそも真澄一人だったとしたら、何回命を落としていただろう。レヴィアタに飲み込まれて終わりだっただろうし、滝から落ちて助かる見込みなどあるわけがない。意識を失った真澄を急流から引き上げたのも、襲ってきたウォルヴズを払い除けたのも、こうして安全な場所を探し出したのも、全てアークだ。
あまりにも自分は無力すぎた。
そしてこんな事態を招いたのは、他でもない真澄自身の短慮なのだ。涙は出ない。だが噛みしめる唇は冷たくて、痛みを感じなかった。
それからどれくらい経っただろう。
長いような短いような静寂の中、急な有声音に真澄の肩は揺れた。
「おいマスミ、奥に入れ」
埋めていた顔を上げると、薄墨色に沈んだ世界の中、アークが入口からこちらをのぞきこんでいた。
慌てて真澄は身体をずらす。
すると先ほどまで座っていた場所に、どさどさと大きな影が落ちてきた。思わず真澄の目は丸くなる。だが近寄って検める勇気も出ず遠巻きにしていると、アークが降りてきた。
「変わりなかったか」
「大丈夫だったけど……それ、なに?」
「ああ、手伝ってくれ」
言うが早いか、身の丈ほどもある葉を渡される。
さながらサーフボードのようだ。どうしたらいいのかと訝っていると、地面に隙間なく敷きつめろという指示が出た。言われるままに、さして広くはない四畳半ほどの空間に真澄はそれを並べた。
その上に、アークが枯草のような細く長い草束を敷いていく。
あらかた終わったところで座っていいと許可が出て、真澄は恐る恐る腰を下ろした。
かさ、という音とともに柔らかな感触が返ってくる。芯から冷えていく地面に座るよりよほど温かく、快適だった。
「すご……柔らかいし、冷たくない」
「遭難のようないわゆる生命の危機にさらされた場合には、優先順位をつけるのが生存率に直結する」
特に大振りな葉で上半身を包みながら、アークが言った。
「最優先はなにか分かったか?」
「……安全な場所を見つけること」
「そうだ。危険を排除するのが最優先。次に体力温存を考える。体温を極力下げないことが重要だ」
アークが座り込み、壁に背を預けた。
薄闇の中、細かい表情は怪しくなってきたが、かろうじて動きは見える。アークは足を大きく開き、ついでに両手も広げていた。
「こっちに来い」
指し示されているのはその開かれた身体の前だ。
意図が読めず、一瞬真澄の身体は硬直した。が、「なにもしねえよ」と続いた声が存外に穏やかで、真澄は大人しく従った。
背中をアークの胸に預ける。
固い。そして、ゆっくりと響く拍動が伝わってくる。
回りこんできた手は真澄の腰をそっと抱きかかえるだけだった。
「食料で体温維持するのが理想だが、さすがに時間がなかった。日が昇ったら探しにいくから、今夜はこれでしのぐぞ」
アークの頬が真澄の頭に寄せられる。
「火種がないのが惜しい。だが寝床と水場は確保したから、冬までは持ち応えられそうだ」
「えっそんなに?」
「冬眠前に熊が戻ってきたら、そいつの毛皮をもらえば防寒もできる。食料の備蓄さえうまくできれば、春までいけるかもな」
「ちょっと待って、下山ってそんなに難しいの!?」
「冗談だ」
くく、と背後で喉が鳴る。
「やろうと思えば冬までいけるのは本当だけどな」
アーク一人ならまだしも、二人なら救助を待ちつつ下山を目指した方がいいに決まっている。
そう続けたアークの身体が小刻みに震えている。からかわれたと真澄が気付いた時には、既にアークの腹筋が崩壊していた。
「素人からかって遊ぶとかいい根性してるじゃない」
ひとしきり笑われた後で、真澄は憮然と抗議をぶつけた。すると、腰を抱きしめるアークの手に僅か力がこもった。
「余裕が出てきたな?」
「……おかげさまで」
「その落ち着き、忘れるなよ」
不意に耳元が温かくなった。
「なにがあっても、いかなる状況下でも、自分を見失うな。落ち着け。信じろ。それがどんな困難も切り抜けるために必要な力だ」
寄せられた唇からは、力強い言葉だけが紡がれた。
闇がひたりと押し寄せてくる。
やがて降るほどの星空が輝きだす。
けれどアークの声だけは途切れることなく、真澄の耳に届き続けた。大丈夫だ、と。言葉そのものを言われているわけではないのに、包み込む体温がそれを伝えてきた。
「……ごめん」
とうとう真澄は口に出した。
アークが口を噤む。入口に切り取られた満天の星々を見上げながら、真澄は続けた。
「私が軽率だった。こんなことになったのに私は役立たずで、アークに迷惑ばっかりかけてる。ごめん。本当に、……ごめんなさい」
すぐには返事はなかった。
代わりにこつ、と後頭部を小突かれる。アークの顎が乗っていた。
「理由があったんだろう」
急にヴィスカス湖に出向いたわけ。
静かに問われて、真澄は言うべきか言わざるべきかを長い時間迷った。が、命を懸けてくれた相手に隠しごとなど、不誠実すぎる真似はできなかった。
「腕を休めようと思ったの」
「……腕?」
「腱鞘炎になっちゃって、最近はまともに弾けなくて。それで」
「痛むのか」
問われて、真澄は小さく頷いた。
背中にいるアークがどんな表情をしているかは分からない。
「どれくらいだ」
「冷やせば一曲くらいはどうにか」
正直な告白に、相槌は出ない。
ややあって沈痛なため息が狭い洞窟内に響いた。真澄の身体が硬直する。だが予想した罵声は飛んでこなかった。
代わりにアークが首筋に顔を埋めてくる。
濡れた音がかすかに漏れて、唇を寄せられていた。
「悪かった」
呟きは謝罪だった。
「無理をさせた。……なにもかも、お前に任せて頼りすぎた」
「違う、そうじゃないのよ。アークも第四騎士団も悪くない。私が不注意で腕を捻って、それでも弾き続けたから」
「どうあれ俺にも言えずにいたなら同じことだ」
専属失格。
アークが呟いた。
「それをいうなら、私の方がよっぽどふさわしくない」
壊れた腕に、感情のない演奏。
あまりにも不完全すぎて笑ってしまう。これで首席楽士だなんて、アークの顔に泥を塗るようなものだ。
「ずっと考えてた。やっぱり私はここにいるのが間違ってるんだと思う」
こんなに迷惑をかけて振り回して、挙句の果てに危険に晒してしまうのなら、元の世界に還るべきなのだ。
たとえ誰も待っていなくても。
帰りたい理由がなくても、いてはいけない理由があるのなら。
「もしも武楽会で優勝できたら、なんでも叶えてもらえるって言ったよね」
「ああ」
「私は、私を呼んだ相手に会わせてもらおうと思ってる」
「……会ってどうする」
「元の世界に還してもらうつもりよ」
「それは、」
「言わないで。今はまだ、できるかできないかは聞きたくない」
「……」
「大丈夫、私の代わりは沢山いる。アルバリークのことをよく知ってて、アークに迷惑をかけない誰かが必ず見つかるわ」
後悔は拭っても拭っても消えないのだ。
これでもしアークに万一のことがあったら、第四騎士団はどうなるのだろう。アークの代わりなどいないのに。
取り返しのつかない事態になっても真澄には責任が取れない。それなのにアークは一つも責めてこない。文句の一つももらさない。
こんな時ばかり、どうしてそんなに真摯な距離を取るのだろう。
それがこの上なく真澄を戸惑わせる。
途切れた会話の合間、真澄は藍色の天空を見上げた。
「星が綺麗ね」
自分が生まれ育った街では、星は見えなかった。こぼれおちた呟きに、相槌は返ってこなかった。




