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ドロップアウトからの再就職先は、異世界の最強騎士団でした~訳ありヴァイオリニスト、魔力回復役になる~  作者: 東 吉乃
第二章 楽士の奮闘、ここに極まる

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71.抱き続けた思慕と憧憬


 真澄は悩んでいた。

 波乱の組決めから早二週間が経っている。この間、他の選抜者とはそれなりに顔を合わせていたものの、アークとはほとんど会話らしい会話を交わしていなかった。

 それ自体は別に構わない。

 まずもってアーク自身が忙しい。本人が武楽会で長期不在になることに加え、楽士の護衛計画を他の騎士団と詰めているらしい。それもこれも「魔の蛇」を締め上げて吐かせた情報――碧空の楽士誘拐計画が発覚したからである。

 今でも朝は真澄の方が早いが、夜は一体何時に戻ってきているのか見当もつかない有様だ。

 少なくとも日付が変わるまでは真澄も起きている。

 だがベッドに入ってから眠りに落ちるまで、アークの気配を感じたことは一度もない。下手をすれば丑三つ時か、あるいは明け方に戻ってきているのかもしれない。


 良く分からないのは、毎日必ずアークが横で休んでいることだ。

 そして真澄が朝食の後、訓練場に一度顔を出してから部屋に戻ると、もうその姿はない。


 関係ないと突っぱねたあの日からずっとこうなのである。活動時間帯が違いすぎて、もはや同居人以下であるにも関わらず、だ。

 確かに帝都に来てから、夜はなし崩し的に一緒だった。

 だがあれだけ一方的に拒絶したのだから、気まずいとかそういう感情はないのだろうか、と疑問に思うわけである。逆に正体不明で寝こけているアークを毎朝目の当たりにして真澄の方がいたたまれなくなってきた。こっちがこれほど気にしているのに、どうしてあんたは変わらず平常運航なのかと。

 正直、言い過ぎたと後悔している。

 味方でいようとしてくれた相手にぶつけるべき言葉ではなかった。

 実際問題として、感情の欠落そのものは他でもない楽士長が言ったとおり、一朝一夕にどうにかなる話ではない。できる気もしない。根が深い問題であることは真澄自身が一番理解しているから、気長に付き合っていくより当面答えはない。

 そう思えるようになったのは、カスミレアズがかけてくれた言葉を何度も考えたからだ。

 この二週間、毎日考え続けた。

 二度も感情がないと酷評された音を、同時に美しいと言い切ってくれた。再三再四、溺れて沈みゆく真澄を引き上げるように。半分は駄目でも、半分は胸を張っていい。どちらも自分の真実なのだろうから。

 レイテアへの出立は三日後と迫っている。

 出立前夜には壮行会も予定されているから、もうあまり時間がない。今夜あたりアークと膝突き合わせて話をしたいところだが、どうだろう。

 ケースにヴァイオリンを仕舞いながら壁の時計を見る。

 本気でアークを掴まえたければ、昼寝でもして夜に備えた方がいいかもしれない。割と本気でそんなことを考えるのは、肉体の悩みが深刻化しているからだった。

「参ったな……」

 氷水が張られている手桶に浸したタオルを絞り、真澄はそれを左腕に当てる。練習で熱と痛みを持った腕に心地よいが、現実として痛みは日増しに酷くなっていた。

 一度に弾ける長さがどんどん短くなっている。

 今日は午前中だけで、もう何度中断したことだろう。難易度にもよるが、十分を越える曲だと軒並み辛い。

 武楽会で指定される曲は未知数だが、壮大な曲か、短くても曲数が多いことは想像に難くない。なんせ神聖騎士部門の回復を担うのだ、ある程度の回復量がなければそもそも勝負が始まらない。

 弾く直前まで氷水に腕を突っ込めればマシなのだが、無理だろう。

 そんなことをしようものなら腕の不調がバレる。

 ただでさえフェルデという問題児を抱えているのだ。首席である自分が、これ以上の不安要素は見せたくない。

 今は自室に引き籠って弾いているから、まだ誰にも気づかれていない。強いていえば氷水を用意してくれるリリーが知っているが、彼女には堅く口止めしてある。

 氷の調達さえできれば。

 悩みながら指を動かしてみる。ビリ、と電流のような痛みが走った。少し無理をしすぎたかもしれない。

「……もうやめよ」

 ため息交じりに呟いて真澄は弓をゆるめた。一曲も弾けなくなったらそれこそ事だ。

 練習もできず、かといって話し相手もいない。不意に時間を持て余した真澄は、気分転換がてら他の組の様子を見に行くことにした。


*     *     *     *


 最初に向かったのは一番遠い宮廷騎士団だった。

 気晴らしの散歩も兼ねているので、近場をうろうろするよりしっかり歩こうと思っての選択である。ちょうど晩夏の月半ばに差し掛かっていて、日中とはいえ涼しくなった風が心地よい。

 念のため、途中で楽士棟に寄ってみた。

 ここには宮廷楽士全員の出欠札が壁にかけられていて、白札であれば楽士棟、赤札であれば不在であることが一目で分かるようになっている。会いに行こうとしている楽士は、予想どおり全員が赤札になっていた。

 騎士たちの訓練に合わせてそれぞれ訓練場あたりにいるのだろう。

 目星をつけて、真澄は中央棟の横にある宮廷騎士団の訓練場を目指して再び歩き始めた。



 初めて訪ねる他所の訓練場は、真澄の知っているそれとは様相が異なっていた。

 活気あふれる声や剣げきの音が聞こえるのは同じだ。しかし、そこかしこで爆発音が炸裂したり、地響きがひっきりなし、ではない。

 訓練の内容が違うのだろうか。

 あるいは第四騎士団が無駄に荒っぽいだけか。

 高い外壁の外で首を捻っていると、「なにかご用ですか」と背後から声がかかった。振り返ってみると、そこにいたのはあの無愛想な騎士だった。

 演奏会の時にエスコートしてくれた彼だ。

 無愛想ではあるが、無関心ではないらしい。これ幸いとばかり、真澄は取り次ぎを申し入れた。

「ヒンティ騎士長かサルメラ次席にお会いしたいのですが」

「ご用件は?」

「武楽会の件で、打ち合わせを」

「……かしこまりました。こちらへどうぞ」

 身に着けているスカーフと武楽会という単語、この組み合わせだけで素通りである。つくづく恐ろしい効力だ。

 そのまま訓練場内部の通路を無言で歩く。

 やがて通されたのは一角を占める大きな部屋だった。エスコートの騎士が「少々お待ちください」と言い残し、部屋の中へと消えていく。ちょうど眼下では宮廷騎士団の訓練が繰り広げられていて、待っている間に真澄はそれを見て楽しんだ。

 今年入ったばかりの従騎士なのだろうか。

 見るからに身体の出来上がっていない十数名が、数人から指導を受けている。初々しさに真澄の頬がゆるんだと同時、ばあん、と扉の開けられる音が響いた。

「なにかあったの!?」

 血相変えて戸口に立っていたのはシェリルだった。

 その剣幕に若干驚きつつ、かのエスコート騎士は「私はこれで」と立ち去ってしまう。その背中に真澄が「ありがとう」と声を掛けるのと、シェリルが真澄に詰め寄るのは同時だった。

「まさかあの魔術士がまた!?」

「ちょっ、ちが……!」

 いきなり襟首を引っ掴まれて、がっくんがっくん揺さぶられる。

 縦に振れそうになる首を必死に横に振る。しばらくすると、「……違うの?」とシェリルの手が止まった。

「げほっ! えほっ! ……その突っ走る癖、ごほっ、なんとかならないの?」

 涙目でむせながら真澄は抗議する。

 が、腰に手をやり胸を張ったシェリルは言い切った。

「だってあなた碧空なのよ? それがわざわざこっちに来るなんて、よほどのことだと思うじゃない」

 いっそ清々しい理論だ。

「それに武楽会の話だっていうし」

「ああそれね。実は話があるわけじゃなくて、どうしてるかなと思って会いに来たの」

「……え? それだけ?」

「うん、それだけ」

「……なによそれ! 驚かさないでよ!」

 いきなり怒られてしまった。

 しかしアポなし突撃は確かに真澄が悪い。ということで首を竦めつつ真澄は素直に謝った。すると、目を怒らせながらも「寄りたければ寄ったら」とシェリルが受け入れてくれたので、図々しいついでに甘えることにした。



「調子どう?」

 出されたお茶に遠慮なく手を付けながら、真澄は尋ねた。

 ヒンティ騎士長の姿はない。聞けば、休憩の間には中央棟に戻ってある程度仕事を片付けているらしい。どこにいっても近衛騎士長というのは働き者のようだ。今がちょうどその休憩時だったらしく、シェリルはこうして一人でいるのだとか。

 部屋そのものはなんの変哲もないただの部屋である。

 申し訳程度に楽譜と譜面台があるが、誰かが常日頃控えているような雰囲気ではない。良くいえば整頓されているのだが、率直にいえばがらんどうの、物寂しい部屋だ。

 普通の楽士は訓練場には常駐しないとかつて聞いた。

 そういえば目の前にいるシェリルとの出会いも楽士棟での縄張り争いだったわけで、こればかりは致し方ないことなのかもしれない。

 部屋を窺いながら真澄がとりとめもなく考えていると、シェリルがカップを置いた。

「いつもどおりよ。私は指も良く動いているし、あの方も変わらず騎士として最高峰だわ」

 全ては順調にいっている。

 そんなシェリルの言葉に違和感を覚え、真澄は前から訊きたかったことを口に出した。

「ねえ。シェリルって、どうしてヒンティ騎士長の専属になったの?」

「どうして、って」

「もうちょい平たく訊くと、なんで『あの方』って呼ぶのかな、なんて」

 尊敬があふれているのに遠い気がする。そしてその距離は、シェリルから取っているように見えるのだ。 

 これまでもずっと折に触れ感じていた率直な印象を真澄は述べた。

 すると、シェリルは一瞬まなじりを吊り上げた。気の強い琥珀色の瞳がまっすぐに真澄を捉え、反論しようと口が開く。が、いくら待っても言葉どころか吐息一つさえ出てこなかった。

 シェリルは唇を噛みしめ、卓上に置いた彼女の手を見ている。

 そのまましばらく待っていると、やがて意を決したようにシェリルが顔を上げた。

「私とあの方、……分不相応に見える?」

 思わぬ返球である。

 口を引き結んで怒った空気をまといながら、シェリルの顔は思い詰めてもいる。興味本位から始めた話だが、真澄は真面目に応えることにした。

「別に。むしろお似合いじゃない?」

「嘘。正直に言いなさいよ」

「こんなとこで嘘ついてどうすんの」

 呆れて真澄は半目になる。

「ヒンティ騎士長、シェリルのことすごく大切にしてるじゃない。他人の目なんて全然気にしてないし」

 あの分別ある大人が、ことシェリルを前にすると憚らないのだ。

 見せつけられたあれやこれやを思い出して思わず真澄の目は遠くなる。試合に勝って勝負に負けた記憶は、そう過去のものでもない。

 あれで一体なにを不安に思うのだろう。

 ところが真澄の疑問は、続いたシェリルの呟きに粉砕された。

「……私は、あの方がなにを考えているのか分からない」

 にわかに信じ難い呟きである。

 が、思い詰めた表情はのろけや冗談を言っているようにはとても見えなかった。

「そうは言ってもお互い納得の上で専属になったんでしょ?」

 まさかくじ引きかなにかで適当に決めたわけでもあるまいし。

 スパイ容疑をかけられていた真澄でさえ、自分の意思を最大限尊重されたのだ。結果として頷く以外に答えがなかったというのは後からの話であって、ちゃんと宮廷楽士として働いているシェリルと、まして相手があの大魔術士フェルデのような人間ならともかくヒンティ騎士長という時点で、無理など通る余地はどこにもないように思う。

 シェリルは黙り込んでいる。

 こういうことになると分かっていたなら、アルマあたりにこの質問を先にぶつけておくべきだった。アルバリーク人歴が三ヶ月と少しの真澄には、切り込み方というものが中々に難しい。

 自然、返す言葉は総論となる。

 少なくとも真澄の目には、シェリルがヒンティ騎士長につり合わないような理由は見えなかった。

「誰になに言われたのか知らないけど、他人からどう思われようと関係ないでしょうよ」

「つくづくあなたって単純よね」

「ちょっと」

「雑草みたい。なに食べたらそうなるのよ。どうしたら、そんな風に」

 シェリルが不意に黙り込んだ。

 暴言を吐かれて一瞬身構えたが、真澄はぐっとこらえた。そして相手の呟いた言葉をよくよく斟酌してみる。


 とげとげしているくせに、見え隠れする脆さ。


 言葉ばかりが強いのは、あるいはその傷付きやすい内面を守ろうとしてのことか。

 そんな仮定を置いてみれば、人付き合いの下手くそさも納得だ。そして同時に、彼女がなにを思い悩むのだろうかと気がかりにもなる。

 不器用な年下楽士を前にして、真澄は眉を下げた。

 なんと声をかけたものだろう。

 慎重に言葉を選んでいると、うつむいたままでシェリルがぽつりと言った。

「……本当は、私じゃなかったのよ」

「どういうこと?」

「私が十五で仕官に上がった時にはもう、あの方には専属がいた」

「そうなの? 専属が二人ってこと?」

「あなた、碧空のくせになにも知らないのね。本当に、……なにも」

 シェリルが吐き捨てるように言いながら鼻で笑った。

 けれど真澄を馬鹿にするその顔が、真澄には泣いているように見えた。

「二人が同時に名乗れるなら専属なんて呼ばないでしょ。私があの方の専属になったのは一年と少し前よ。先任が流行り病で亡くなって、私はその後釜だった」

 初めて知った事実に、真澄は言葉を失った。


*     *     *     *


 シェリルは落ちこぼれだった。


 楽士としての家格を問えば、サルメラ家は決して上流ではなかった。

 本家と分家が存在する程度には大きかったが、中流の域を出るような抜きんでた楽士は輩出したことがない。そういう意味で、たとえばガウディ家やアーステラ家などとはとても肩を並べられない家だった。

 一族の話題は、いかにして大魔術士の専属になるかばかり。

 仕官するのは当たり前の家格ながら、しかしその中にあって騎士の専属になることは恥だとされてきた。労働条件が天地の差であるからだ。最小の労力で最大の利を、それが上流を目指すサルメラ一族の掟だった。

 一族の結束は固かった。

 それは本家を頂点とし、分家はその意向に従う形で維持されていた。分家の中でも優秀な子は本家に養子として迎えられる。そして本家で仕官に値するまで育てられた人間が、晴れて宮廷へ上がるのだ。

 目的は、待遇の良い魔術士団と関係を築く、それ以外のなにものも許されなかった。

 仕官に上がった人間は繋がりを得ることに腐心した。やがて受け取る莫大な報酬が本家に送られ、その資金を元にさらに教育に力を入れる、そういう流れが出来上がっていた。

 いくつかある分家筋の一つで、シェリルは長子として生を受けた。

 楽士への適正を早いうちから示したシェリルに両親は喜んだ。シェリルを差し出せば、本家に目を掛けてもらえると言って。

 四歳で本家に預けられたシェリルは、しかし三年経っても本家に馴染まなかった。

 弾けば弾くほど、実の両親から遠ざけられることに気付いたからだ。シェリルは家に帰りたかった。両親が好きだった。その幼い感情は、そのまま行動に現れた。言うことをきかず、かんしゃくを頻繁に起こすシェリルに本家は手を焼き、結局十歳になった年に生家へと返された。

 だが両親の興味がシェリルに戻ってくることはなかった。

 すでにいた妹二人が、同じように本家に預けられていたからだ。落ちこぼれの長女には見向きもせず、両親は本家で才能を伸ばす妹二人と生まれたばかりの弟だけを見ていた。

 居心地の悪い実家から出たのは十五の時だ。

 幸か不幸か幼少に叩きこまれた基礎が役に立って、両親に黙って申し込んだ宮廷楽士の試験に合格したのだ。出発の日の朝、見送りに出てくれたのは婆やだけだった。シェリルの乳母でもあった彼女は、何度振り返ってもずっと門の前に佇んでいた。


 息苦しかった家から離れたがしかし、そこも安息の地とは程遠かった。


 どこに行っても一族の人間がいる。

 そして顔を合わせるたびに詰め寄られるのだ、「お前が使い物にならなかった子か」「本家の時間を無駄にして、どの面下げてここにいる」「分家ごときに専属が見つかるのか」「騎士の専属を選ぶくらいなら出仕を辞めてしまえ、一族の恥だ」と。

 敵は他でもない身内、血族だった。

 実家に帰れば弟妹たちに見下される。本家の集まりに顔を出せば露骨に嘲笑を受ける。楽士一族の結束は確かに固いが、その恩恵はあくまでも一族の意向に沿わねば与えられないものだった。

 一族との溝が決定的になったのは、本家が主催した夜楽会でのことである。

 会は中流以上であれば季節に一度は主催して、魔術士や騎士はいわずもがな、他の楽家にも声を掛けて互い社交の場とするものだ。その目的の最上位は一族の抱える楽士の実力を披露することにあるが、招待客――つまり将来の専属候補――を見定める側面も持っている。

 楽家にとっては大変に重要な催しである。そこでシェリルは、本家の従姉いとこと真っ向ぶつかった。

 理由は実に些細だった。

 招かれていた騎士の一人が従姉になにかを尋ねていた。だが従姉は一瞥もくれず聞こえないふりを装って、近くにいた魔術士に話しかけた。

 若い騎士は当惑を隠さなかった。

 もう顔も覚えていない、肩章の色さえ定かでない相手だ。その当時でシェリルより若く見えたから、多分どこぞの神聖騎士の付き人で、あるいは初めての夜楽会だったのだろうと思う。

 シェリルはその騎士の相手をした。

 どうせ一族のつまはじき者だ。主催者側にもかかわらずヴィラードの腕を披露することは許されていなかったし、退屈しのぎにちょうど良かった。

 優しい相手だった。初対面ながら互いに楽しく、穏やかに話をしていた記憶がある。それを叩き壊したのが従姉だった。

「一族の勤めも果たせないくせに、媚びるのだけは得意なのね。媚びたところで益体もないけれど。それとも娼婦に鞍替えかしら」

 シェリルのみならず招いた客さえまとめて貶めた従姉は、汚物を見るような目をしていた。蔑みの視線に、シェリルの理性は焼き切れた。

 その後の詳細なやりとりは覚えていない。

 だが最後に切った啖呵だけは今も記憶に鮮やかだ。


「お前たち金の亡者と一緒にするな。殉職する覚悟もない半端な楽士が、なにを賢しらに」


 従姉からは杯に満たされた酒を顔にかけられた。シェリルは従姉の頬を張った。裏手で、一切の手加減なしに。

 泣き崩れたのは従姉の方だ。

 突然始まった諍いに人だかりができていたが、その距離は遠かった。床にうずくまる従姉を冷ややかに見下ろしていると、従姉の母親――本家の伯母が駆け寄ってきた。

 そして赤く腫れ上がった娘の顔を見るなり、金切声で「二度と一族の敷居をまたぐな」と宣言されたのだ。

 夜楽会の途中だったが、シェリルは無言で本家を去った。暗い夜道、見上げれば冬の澄んだ空気に星々がまたたいていて、酒に濡れたままの頬が風に冷たかった。初めて人を殴った右手が軋むように痛かったが、心は空虚だった。

 もう落ちこぼれでさえない。失格の烙印を押されたがらくただった。



 それからしばらくの間、仕事がぱたりと来なくなった。

 理由は分かっていた。

 だからこそシェリルは毎日楽士棟へ出た。来る日も来る日も、誰からも声を掛けられなくとも、ひたすら譜面と向き合い己の技術を磨き続けた。決して多いとはいえない蓄えを僅かづつ崩し、食事を切り詰め、少ない服を何度も繕い、いつか来るべき要請を待った。

 自分は軍属であるから。

 贅沢をしたくてここにいるのではない。誰からも愛されなかった自分は、誰にも迷惑をかけずに独りで生きていく場所が欲しかった。そんな自分が望んで辿り着いた場所は、死をも厭わぬ軍人たちが立っているから存在していた。

 彼らが命を懸けるのなら、自分は何を懸けるのだろう。

 答えは一つで、最期まで絶対に裏切らない補給線でありたかった。

 宿舎棟と楽士棟の往復だけしかしない、誰とも会話をしない日々はおよそ一年ほども続いた。そうして季節が一巡した冬、「騎士団からの要請が入った」という理由で楽士長がシェリルを訪ねてきた。

 たかだか一年やそこらで一族が溜飲を下げたとは思えない。

 半信半疑のシェリルに、楽士長は「楽士の数が少なくてそれどころではない」と実情を明かした。

 帝都で性質の悪い病が流行っているのだという。罹れば半月は高熱にうなされ、特に体力のない老人や幼子の致死率が高く、若くても悪くすれば死に至る病だ。その症状は十四年前にヴェストーファ地方で猛威を振るった病に良く似ていた。

 罹患を恐れ、帝都からは人の流出が止まらなかった。

 それは宮廷も同じで、様々な理由をつけて我先にといとまを願い出る軍属が後を絶たなかった。

 苦境に陥ったのは任務に従事せねばならない軍人である。だがただでさえ少なくなった楽士は軒並み魔術士団に引っ張られてしまい、騎士団は青息吐息だった。


 年の瀬。


 殊のほか寒さの厳しい冬だった。今でも思い出すのは、ゆっくりと音もなく降り積もっていく雪と、息絶えるように白く塗りつぶされていく楽士棟だ。

 後方支援方がいなくなり閑散とした宮廷。

 ようやく届いた悲痛な要請。

 往く場所のない、元より生涯に惜しむなにかを持たないシェリルには、その手を払う理由などなかった。


 そして、活気の失せた騎士団で最初に目通りしたのがヒンティ騎士長だったのである。


*     *     *     *


「その時にはもう、あの方の専属も病に侵されていた」

 新しい年を迎えてすぐ、次席楽士は亡くなった。

 十年連れ添った二人の終わりはどこまでも呆気なかったという。

「病で亡くなった遺体はその日のうちに荼毘に付されてしまって。葬儀が終わった日もあの方は遅くまで働いていた。喪に服した一年間も同じで、……あの方は一日も休むことはなかった」

 直接口をきいたことはほとんどない。

 シェリルは人の少なくなった宮廷の中で、ただ毎日楽士棟から中央棟へ出向いて宮廷騎士団を支え続けた。雪が解けた後もずっと、雨の日も風の日も。親しく喋るような人間は相も変わらずいなかったが、日々の糧を得られるだけで他に望むべくもなかった。

 病が収束したのは次の冬だった。

 人の戻りは鈍く、まだ灯の消えたような宮廷で、ヒンティ騎士長の喪はひっそりと明けた。その日に人知れず、専属の申し入れがあったのだという。

「喪が明けたその日よ。どう思う?」

「それは、……それだけシェリルに専属になってもらいたかったんじゃないの?」

 普通に考えればそうなる。

 だがシェリルは首を横に振った。

「あの方は責任感が強いから、近衛騎士長として楽士が必要だと考えたのでしょう。たまたま私しか近くにいなかったから申し込んだのであって、多分誰でも良かった」

 申し込まれた時、理由は言われなかった。だからシェリルも頷くだけで、受けた理由を言わなかった。

 これを互いに納得したと呼べるのか。

 だから相手が思う本当のところなど分からないのだと言って、シェリルは息を吐いた。

「分からないけど、でも、私はもう自分の名前を捨てることにした」

 願わくばサルメラではなくヒンティを名乗る許しがほしい。武楽会で名誉を勝ち取ることができたのなら、とシェリルが呟いた。

「……ねえシェリル。どうして今なの?」

 もっと早くに捨てても良かったのではないのか。

 語られた過去はあまりに辛く、逆になぜそこまでして我慢を重ねてきたのか、真澄には不思議だった。

「帰りたい理由がなくなったからよ」

「それ、」

「婆やが亡くなったの。夏の暑さに耐えきれなくて」

 今年の星祭りを見ることなく育ての母は逝った。

 サルメラの家にかろうじてシェリルを繋ぎとめていた人は、もういない。


 沈黙の降りた部屋に、遠く騎士たちの掛け声が届く。


 すでに真澄のカップは空になっていたが、シェリルのそれは少しも減っていなかった。

「どうしてあなたなんかにこんな話……忘れて」

 なにかを振り切るように、シェリルがそっぽを向いた。


 部屋にノックが響いたのはそれと同時である。


 弾かれたように二人で扉に視線をやると、入ってきたのはヒンティ騎士長だった。

 珍しい来客と見てヒンティ騎士長が眉を上げる。切り替えた真澄が「お邪魔してます」と愛想を振ると、鋭い視線が和らいだ。

「どうしました? こちらにお越しになるなど珍しい」

「気分転換に散歩がてら会いに来ました」

 そう言って真澄がシェリルを指し示すと、ヒンティ騎士長が頬を緩めた。

「シェリルに会いに来てくれたのですか」

 名を呼んで、眩しそうに目を細める。その視線には穏やかながらも確かに熱がこもっていて、相手を大切に想うそれ以外の他意があるようにはとても見えなかった。

 ばつが悪いのか、シェリルは冷めきったお茶を口元に運んでいる。

 あまり長居するのも悪いので、真澄は「もう帰ります」と腰を上げた。

 その瞬間、「このタイミングで帰るのか」と恨みがましい視線がシェリルから飛んできたが、真澄は知らん顔で黙殺した。二人の問題は二人で解決するのが筋だ。助けを請われたのならまだしも、片方の話だけしか聞いていない状態の第三者が首を突っ込んでいい話ではない。

 ただし投げっぱなしはあんまりなので、真澄は選択肢だけ置いていくことにした。

「ありがとうシェリル。私のところにも遊びに来てよ、いつでも歓迎するから」

 お茶も菓子も潤沢にあるから大丈夫。

 真澄が胸を張ると、シェリルが眉根を寄せた。

「『私のところ』って、まさかあの第四訓練場の部屋?」

「そう。あ、夜は宿舎棟だからそっちの方が近いかもね。どっちでもいいわよ」

「き……気が向いたらね!」

 がちゃん。

 シェリルがカップをソーサーに振り下ろす。乱雑だ。なぜかその手はカップを握りしめていて、力が入っていた。

「別に今からでもいいけど」

 様子見で真澄が声を掛けると、

「構わないよ。たまには気晴らししておいで」

 ヒンティ騎士長からも物分かりのよい援護が出てくる。そして「根を詰めすぎだ。私のことはいいから」と続く。だがシェリルは頑として首を縦には振らず、ヒンティ騎士長は困ったように笑って、それ以上無理に勧めることはしなかった。

 そんな二人に礼を言って、真澄は中央訓練場を後にした。



 存外に話し込んでいたようで、外に出た時には昼に差し掛かる直前だった。

 とりあえず散歩は一旦止めて、真澄は腹ごしらえをするためにリリーの待つ宿舎棟へと踵を返した。


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