65.選考会とおまじない
めでたくスパイ容疑が晴れたのも束の間、あっという間に月は変わり、選考会の日を迎えていた。
四日間という短い間ではあったが、真澄自身ができることはやった。
もとより自由曲は慣れ親しんでいる曲を選んでいるから問題ない。不安に思っていた課題曲も難易度はそこまで高くなく、暗譜までできている。
着慣れてしまった制服に腕を通す。
襟元に碧空のスカーフをゆるまないようしっかりと結び、真澄はヴァイオリンケースを肩にかけて部屋を出た。リリーが握り拳で「ご武運を!」と叫んでくれて、思わず苦笑する。「武会じゃなくて楽会だってば」と返せば、少しだけ感じていた緊張がほどけていった。
ありがとう、リリー。
手を振りながら、心の中で礼を呟く。優しく可憐で、右も左も分からなかった真澄にとても良くしてくれた彼女。きっと、首を長くして真澄の帰りを待っていてくれることだろう。
晩夏の月を迎えたが、外は相変わらず日差しが強い。道行く人間は手で首元をあおいだり、ハンカチで額を拭ったりしながらそれぞれの目的地へと歩いていく。
楽士棟を目指す傍ら、真澄の脳裏には昨夜アークと交わした会話が蘇った。
武楽会で最高の栄誉を勝ち取ったものには望むままの褒美が与えられる、そんな夢のような内容をアークは当たり前の顔で語った。
「アルバリークが勝ったら、望むものを褒美で取らせてもらえるぞ」
「そうなの?」
「二言はない。金、宝石、家、地位。望むがままだ」
言い切ったアークが信じられなくて、真澄は押し黙った。
オリンピック選手でもそんな破格の条件ではない。そんな真澄の沈黙をどう受け取ったのか、「即物的なものに限らない」と説明が重ねられた。
「騎士団で気に入ったのがいれば、契りを交わすこともできる」
「そんなことも許されるの? 気前良すぎない?」
「むしろ良くある。身分違いの恋路に多い話だ。武会で優勝を果たして貴族の娘を娶ることを許された騎士もいれば、格の低い楽士が名誉を手にして神聖騎士を夫にと望む場合もある」
アルバリークではそれだけ名誉なこととされているらしい。
拒否権はないのかと訊けば、断るものなどいないという。元から恋人同士の場合がほとんどだが、そうではない場合もある。しかし、それだけの才覚ある者に求められたこと自体が同じく大変に名誉であるとみなされるがゆえ、不成立という結果は過去に一度もないとも。
「じゃあたとえば私がアークを、って言ったらどうなるの?」
真澄の問いには、一瞬間が空いた。
が、真澄は気にせず軽く続けた。どうせ仮定の話であって、答えなんて求めていない。
「しばらくは総司令官様なんでしょ? 食いっぱぐれることはなさそうだし」
あの、身を切るように寒かったクリスマスイヴ。
自分の人生には先が見えなかった。こんな生活いつまでも続けられない、心の片隅で言い聞かせながら、でもなにをどうしたら良いのかなど分からなかった。
二回も人生を踏み外した自分には。
ひるがえって、ここで暮らしたら定職に就けるかもしれないという淡い希望が胸をかすめる。あるいは誰かに身を寄せることができたのなら、それもまた一つの生き方かもしれない。
高望みはしない。
身元不明の人間を引き取ってもらうのだ、総司令官のアークでなくとも、真っ当な正騎士であれば御の字だ。
「……本気で言ってるのか?」
「第二十婦人くらいでいいから、それもありかしらねー」
言ってすぐ、真澄は「冗談よ」と舌を出した。
アークが存外に真面目な顔をしていたからだ。まだ選考会も始まってないこの時分で、悩むような話ではない。
「最優秀賞を取れたら、……ね」
ぽつりと呟いて、真澄は口を閉ざした。
そしてまだ見ぬ未来に想いを馳せる。
もしもそんな名誉に恵まれたのだとしたら、望むのはきっと元の世界に帰ることだ。だって自分にはこの世界で生きていく理由がない。
けれど同時に、それはきっと叶えられない願いであろうことも薄く予感している。
帰るか、とも。
帰りたいか、とも
スパイ疑惑が晴れてから今日に至るまで、そのどちらもアークは訊いてはこなかった。
できることを黙っている、そんな卑怯な男ではない。
だとすれば答えはすぐそこに見えている。一縷の望みをかけるのであれば、それは真澄を召喚したという張本人――レイテアにいるという誰か――に、直接かけあってみるしかない。
考え込んだ真澄に対し、アークはそれ以上なにも言ってはこなかった。
* * * *
考えごとをしながら歩いていると、楽士棟へはあっという間に到着した。
指定されたのは三階である。中でも最大の大きさを誇る部屋にいくと、すでに沢山の楽士がところ狭しとヴィラードを広げ、最後の調整に入っていた。
音の洪水が押し寄せる中、真澄は入口で見知らぬ文官に「選考会の参加者ですか」と呼び止められる。
返事とともに頷くと、重ねて所属と名前を尋ねられた。
「マスミ=トードーです。第四騎士団の」
「えーと、ま、ま……第四騎士団の、ま……第四騎士団?」
ぴたり。
ずらっと長い羊皮紙をなぞっていた指が止まる。針葉樹の深い緑、落ち着いた制服に身を包んだその文官は、伏せていた顔をはたと上げた。
しげしげ。
そんな効果音が聞こえそうなほど、薄茶の双眸から見つめられる。穴が開きそうだ。
「……噂と全然違いますね」
「なんですかそれ」
「碧空の楽士殿は悪鬼羅刹だとかなんとか」
まさかの人外認定ときた。
真澄が言葉を失っていると受付の文官がさらりと「違ったんですね失礼」と詫びつつ、拍子抜けしたように眼鏡をかけ直した。なんとも不思議な文官である。あまりにも自然体すぎて、本当に失礼だったと思っているかどうか、はなはだ疑問だ。
そして彼は羊皮紙にチェックを入れる。その手元をのぞきこんでみると、他の列には沢山の名前が並ぶ中、真澄はたった一人で一つの列というかグループを作っていた。
なるほど、所属ごとに楽士を記載しているらしい。
魔術士団はいわずもがな、他の騎士団もかなり名簿は賑わっている。こうして比べると、第四騎士団の避けられっぷりが突き抜けていることが良く分かった。
「じゃあこれ、どうぞ」
文官が手のひらサイズの紙きれを渡してくる。
そこには三ケタの番号が記されていた。
「あなた選考会は初めてですね。この番号で呼びますから、それまではこの部屋でお待ちください。調整はご自由に」
「ちょっと待って、選考会って番号順ですか?」
「そうですよ」
「楽士ってこんなにいるの!?」
素っ頓狂な声も出る。
真澄の番号はあわや千に届こうかという数字だった。明らかに目の前の名簿より多い。
「いますよ。地方からも出てきてますから」
ちなみにあなた最後ですよ、などと余計な解説まで寄越してくる。冷静に考えてみればそうだ。第四騎士団は国境の要衝を守っているとアークが吼えていたのだから、地方にも楽士は少なからずいるだろう。むしろいて然るべきだ。
いつまで待たなきゃならないんだろう。
こうなると知っていたら早々に申し込みしていたのにと歯噛みするが、今さら後の祭りである。いきなり肩を落とす真澄を気の毒に思ったのか、文官は「でも」と続けた。
「総数は確かに多いですけど、多分すぐ呼ばれますよ」
「なんで?」
「九から始まる札は、三次審査まで免除――つまり神聖騎士部門の楽士ですから。申込書にご自分で出場部門、記載したでしょう?」
いきなり進退窮まった。
真澄の頬が引きつる。経歴書の内容にあれこれ悩んだことは覚えているが、申込書はそういえばアークに任せっぱなしだった。ゆえに、選考会が部門別であることさえ今知ったという体たらくである。
はあ、まあ、そうですね。
実に日本人的無難な相槌でその場を流す。
するとあまり深くは追求されずに――というか、まさか自分の出場部門を知らない楽士がいるとは夢にも思わないだけのことだろうが――文官は軽く肩を回しながら淡々と言った。
結局のところ、選考会に参加する楽士の九割以上が、正騎士、真騎士部門であるらしい。
神聖騎士部門に申し込みをしたとしても、出自やこれまでの経歴、専属相手などを厳しく審査され、不適格とされれば真騎士部門に落とされる。
結果として下二つの部門は数百人単位、選考会に何日もかかってしまう。
この部屋にいるのはほんの一握りだそうで、しばらくはこの賑わいが続くそうだ。
それと比べたら神聖騎士部門はそもそも選考の総人数が数十人しかいない上に、その実力は最初から折り紙付き。よって、わざわざ音感や初見演奏ができるかなど確認するまでもない。
演奏して、実力順に並べるだけで選考会は終わる。一日で充分なのだとか。
知られざる武楽会の一面である。真澄はその文官に礼を言って、部屋の中へと歩を進めた。
ゆっくりと通路を往きながら開いている椅子を探す。が、かなり大きな部屋とはいえ、そのほとんどが既に埋まっている。よくよく見れば制服の人間はほとんどいない。逆にそれと分かる宮廷楽士の周りにはぽっかり空間が空いていて、両者の隔たりを感じさせた。
ちらほら見える制服組は、いずれも面識がない。
敵意を向けられるわけでもないので素通りしつつ奥まで行くと、隅にグレイスがいた。
真剣な顔で楽譜をめくりながら、左手の運指を確認している。例によって制服で敬遠されていたのか隣が開いていたので、真澄はそこに腰を落ち着けた。
ヴァイオリンケースを机上に置き、弓を取り出す。横目で窺いながら松脂を塗っていると、かすかなため息が聞こえてきた。
グレイスがヴィラードを降ろしている。
食い入るように楽譜を見つめる顔は、心なしか蒼褪めていた。
「緊張してるの?」
「……え、あ、マスミさま」
緩慢な動きはいつもの彼女らしくない。
どうしたのかと真澄が訝っていると、グレイスは諦めたように小さく笑った。
ダメ元で神聖騎士部門に申し込んだは良いものの、いざそれが認められて本番となり、どうしても手が震えてしまうのだ、と言う。
「絶対に失敗できないと思って、三時間も前から入ってるのですが」
弾けば弾くほど腕がいうことをきかなくなる。
声が消え入りそうだ。銀色に輝く儚い両目がきつく閉じられる。縁取るまつげさえも同じ色で震えていた。
「やっぱりやめておけば良かった」
「……どうして?」
「私が無様な演奏を晒してしまうと、エイセル騎士長にご迷惑をかけてしまいます」
「ごめん、なんでそこでカスミちゃんが出てくるの?」
真澄の頭上に、大きな疑問符が浮かぶ。
あまりのうろたえぶりに最初は真剣に心配したのだが、いきなり話の流れが見えなくなった。グレイスはヴィラードと弓をケースに戻し、膝の上で両手をきゅ、と握りしめる。
薄白い手の甲は血の気がない。
根気強く待つと、ややあって薄い唇がためらいがちに開かれた。
「魔術士団の仕事ばかりしている私の背中を、後押ししてくださったんです」
それはグレイスが中庭で頬を張られたあの日のこと。
夜、真澄とアークが経歴書で頭を抱えていた同時刻、カスミレアズはグレイスを第一騎士団に連れていった。彼女の兄であるリシャール=ガウディに引き合わせるために。
久しぶりに会う家族水入らずでという目論見だったようだが、そこは兄妹が恩人を引き留めた。もとより神聖騎士同士、面識もある。リシャールは市街警備の夜勤が控えていて、そのついでということで三人で市街に出て食事を共にした。
帰り道は必然二人になる。
宮廷の宿舎棟へ戻る道すがら、カスミレアズが選考会への参加をグレイスに勧めたのだ。
魔術士団から囲われていたグレイスは楽会に出たことがなかった。急な提案に当然彼女は戸惑う。だがこのままでは変わらず魔術士団に飼い殺されるだけだという指摘に、その胸を衝かれた。
外圧をはねのけるには相応の実績を。
そのための協力は惜しまないと言って、カスミレアズは推薦状を出すことを約束した。
楽会への名乗りは本来、経歴書と申込書があれば事足りる。
が、参加部門の騎士から推薦状が付けば、それは楽士にとって選考会を勝ち抜くための強力な後押しになる。特に神聖騎士となればその効果は絶大で、楽士の実力を保証するなによりの証左であって、申し込み時に部門不適格とみなされることはまずなくなる上に、推薦した騎士の実力を元に選考でも一定の考慮がなされる代物だ。
良いことずくめに見える推薦状。
しかし誰彼構わず書けるものではない。
推薦するということは、その楽士に関する一切の責任を負うと同義なのだ。楽士が実力を発揮できなかったら、その評価は推薦騎士にも跳ね返ってくる。楽会本番ならまだしも選考会さえ勝ち抜けなかったとなれば、正しく冷静な目を持たない、騎士の風上にも置けないという評価が下される。
ゆえに、余程のことがなければ推薦状など出さないのが慣例だった。
グレイスは固辞した。だがカスミレアズは受けた恩を返すだけのこと、評価などどうでもいいと投げ捨てた。
アークの下、第四騎士団で生きていくと決めた時からそうだった、と。
誰かからの称賛が欲しくて騎士として在るのではない。騎士とは守るためにこの場所に立っている。それを支えたいと思ってくれる誰かがいるのなら、手を貸すのにためらう理由など一つもない。
淡々と語ったカスミレアズに、グレイスはただ頷いた。何度も頷いた。こぼれた涙が夜道に紛れて見えなければいい、そう願った。
翌日のことだった。
美しい碧空の小鳥が夜にグレイスを訪ねてきた。同室の友人はすでに夢の中で、まるで計ったかのような時分だった。
甘えるようにちょん、と指先をつついて、鳥はふわりと宙に溶けた。約束に違わず、几帳面な直筆の推薦状がグレイスの手元に届けられた瞬間だった。
それから今日のこの日に至るまで、グレイスは寝る間も惜しんで練習に励んできた。
決して無様な真似はさらすまいとして、出来るだけのことはしてきた。けれど不安は大きくなるばかりなのだと目を伏せる。
「昨日までは、絶対に選ばれるんだと強い気持ちでいられたのですが」
初めて目の当たりにする選考会の熱気に呑まれたらしい。グレイスは身を縮こまらせてため息を吐いた。
そんな約束をしていたのかと真澄は驚くが、本題ではないのでとりあえず横に置く。
自身が経験した最初のコンクールが思い出される。
真澄はグレイスの手を取った。冷たく、汗がじっとりと滲んでいる。緊張の手だ。あの日の真澄と同じ。
包みこむ真澄の手はとても温かい。これはあの日の恩師と同じだ。
「ねえグレイス。あなたに魔法をかけてあげましょうか」
含み笑いで真澄は持ちかける。
それまで全身強張らせていたグレイスが、きょとん、と首を傾げた。
「魔法……ですか?」
「そう。一回しかできないから、よーく考えて答えてね。いい?」
「は、はい」
慌てた様子でグレイスが居住まいを正す。両手は互いに繋がったままなので、奇妙な光景だ。
「それじゃいくわよ」
真澄は銀色の瞳をのぞきこんだ。
「毎日練習してきたんでしょう? 朝も、昼も、夜も」
「はい」
「暗譜はできてる?」
「はい。課題曲も自由曲もできています」
「曲は好き?」
「好きです」
「ヴィラードは?」
「……大好きです」
「それなら大丈夫。ヴィラードが助けてくれるわ」
誰かと交わした約束など関係ない。今は忘れてしまえ、と真澄は言った。
「あなたの重ねてきた努力と好きであるという気持ちを、このヴィラードは誰より知っている。あなたが愛した分だけ、このヴィラードはあなたに応えてくれる。恐がることなんてなにもないのよ、一人じゃないんだから」
その震える指さえ受け止めてくれるのが、ヴィラード、ヴァイオリンという楽器だ。
グレイスがはっとしたように顔を上げる。
彼女がなにかを言う前に、タイミング良く文官がグレイスを呼びに来た。慌ててグレイスは身支度を整えて、かろうじて真澄に一礼を残して案内されていった。
見送る背中はもう曲がってはいない。
きっと大丈夫。安堵の息を吐いて、真澄は自分の相棒に手を伸ばした。
* * * *
それから真澄が呼ばれたのは、昼になる直前だった。
いっそ腹ごしらえしてから選考に臨みたいところだったが、文句は言えない。選考が終わったら待合部屋には戻らないという説明を受けて、全ての荷物をひっくるめて真澄は文官の後をついていった。
「今年は順調に進んでいますよ」
廊下を歩きながら、のんびりと文官が評す。
「例年ならば夕方までかかるのですが」
「申し込みが少なかったんですか?」
「いえ、多かったですよ。ただ、陣容を見てかなり絞り込まれてましたね」
申し込みの悠に半数以上が真騎士部門へ落とされた。
言葉の内容は剛毅だが、まったく気負いのない彼は話がしやすい。ついでとばかり、真澄は尋ねてみることにした。
「陣容って?」
「あなたとかですね。あとは先ほどのガウディもそうですが、それ以外にも数人、推薦状持ちがいました。今年は豊作でしたねえ」
先ほどグレイスが言っていた話だ。にわか知識ながらも真澄はそれらしい相槌を打つ。
「でも推薦状持ってるからって、どうして他が絞り込まれるんです?」
「そりゃ真っ向やっても勝負にならないから、ですね」
三部門で選出枠がそれぞれ五人しかないのだ。
こと最高峰の神聖騎士部門となれば、名もなき有象無象がどれだけ手を伸ばしたところで、格の違う人間だけでその枠以上の数がいれば、やるだけ無駄なのである。
救済措置はある。
真に実力ある楽士だったのなら、落とされた真騎士部門でその名を轟かせるだろう。その結果を引っ提げてまた翌年出直せばいい。厳しいようだが無名には無名の理由があるはずで、実力の証明にはそれが一番手っ取り早い。
結果。
今年の神聖騎士部門は、わずか十二名での選考会と相成った。
「まあ私の仕事はまだまだ続くんですけどね」
笑った文官は、そして辿り着いた部屋の扉をノックした。中からの返事を待たずに外開きの扉を開ける。彼は真澄を中へと促し、「それでは頑張って」とだけ言い残してさっさと扉を閉めたのだった。
中に入ると、少し奥まった場所に長机が置かれており、そこに五人が座っていた。
右端には空の長机がある。おそらくヴァイオリンケースを置く場所だろうが、指示が出るだろう。まずは話のしやすい距離まで真澄が近寄ると、「あっ」という嬉しそうな言葉が左端から上がった。
「お久しぶりですね!」
めっちゃ満面の笑みで、丸眼鏡のおっさんが手を振っている。
この生え際の寂しいインパクトある彼は、忘れようにも忘れられない――魔術研究機関の、魔力可視化のおっさんだ。
「あ、あー。その節はどうもお世話になりまして」
「いえいえこちらこそ。大変有意義な研究をさせて頂きました」
おっさんが机に両手をついて、大仰に頭を下げた。若干まぶしい。
「知り合いですか?」
咎めるような問いが反対側から上がった。右端に座る、宮廷楽士長だ。
余計な詮索をされたら敵わない。真澄は「まあちょっとしたあれで、ええ」と愛想笑いで誤魔化した。実質なにも答えてはいないのだが、会話の流れをぶった切るのが目的なのでどうでもいい。
口をつぐみ、真澄は背筋を伸ばして正面を向く。
両端をのぞき、三人が濃紺の騎士服を着ている。肩章はいずれも黒紫、宮廷騎士団だ。中央に座すのはすみれ色の目の人物で、肩章は金糸で縁取られている。これもまた忘れられない相手、宮廷騎士団長である。
その右隣は銀糸の肩章、ヒンティ騎士長だ。
真澄がこの場で唯一知らないのは、残るもう一人の宮廷騎士だけだった。
三人に共通しているのは「威圧感がすごい」というただその一点に尽きる。およそ軍人らしいといえばいいか、にこりともしない堅い表情は、いっそ機嫌が悪いのかと勘繰りたくなるレベルだ。
鋭く射抜いてくる視線は、弾く前から楽士を見定めにかかっている。
「それでは準備にかかるように。そちらの長机を使って構いません」
楽士長から指示が出る。
真澄は大人しく従い、弓を張って松脂を塗り、肩当を付け、調弦、と一連の準備を終えた。
「整いましたか?」
「はい」
「宜しい。それではまず課題曲から始めなさい」
部屋が静寂に包まれる。
わずかな衣擦れさえ響きそうな中、真澄はゆっくりと弓を走らせた。
その曲はアルバリークの黎明を表しているのだという。『デーアの降りし荒野』という名前からは、水源豊かな今のアルバリークとはほど遠い情景を思い起こさせる。
主旋律はレイフ=ヴォーン=ウィリアムズの『グリーンスリーヴスによる幻想曲』にどこかしら似ている。
もの悲しくも果てなく広がる大地が目蓋に浮かぶ。
かつて女神デーアが建国を誓った日。幾多の困難が立ちはだかる中、遮るもののない枯れた大地に吹きすさぶ風は冷たかっただろう。
神話は千年の苦難を語っている。
アルバリークは女神の千年を礎に建った遥かな国であり、その加護を受けている希有な国でもある。
建国歌ともいっていいこの曲に彼らがなにを想うのか、真澄には分からなかった。
真澄自身はただ、余分なものが削ぎ落とされた美しい曲だと、そう思う。




