64.晴れた日
その風邪はずいぶんと性質が悪かった。
疲れを差っ引いても、丸七日間も寝込むなど真澄の人生初だった。ひたすら寝るばかりだった真澄がようやくもそりと起きだした時には、アークが目を見開いて固まっていたくらいである。
思いがけず、盛大に休みをもらってしまった。
おかげで身体はずいぶんと軽くなっている。熱も引いた。汗を流そうと風呂に入りかけた真澄に対し、アークはあまり良い顔をしなかったが、浴室に至るまでのやりとりでとうとう全快を認めた。
「ねえ」
「なんだ」
「散らかしすぎ」
わずか一週間。それでどうして真澄の部屋の一角に、立派なアークの執務室が出現しているのだ。
積み重ねられて崩れている数々の本。巻かれている羊皮紙など一つもない。書類はソファ、テーブル、足元と自由奔放に散らかり、くしゃりと丸められたものまで転がっている。
果ては誰にも見られないと思ったのか、制服の上が脱ぎっぱなしで放り投げられている始末。
本当に片付けられない男である。
「真面目に職務に邁進していたと言ってもらおう」
「社会人として当たり前のことでなに胸張ってんの?」
「……確かに大丈夫そうだな」
小言に対して若干嫌そうな顔をするあたり正直だ。
真澄は追加で口を開きかけたが、「片付けておくから」と先手を打たれた。ので、真澄は意気揚々と風呂に向かった。
ちなみに長湯はさすがに自重した。
湯につかっていたらめまいに見舞われたので、したくてもできなかったというのが本当のところであるが。
綺麗さっぱり汗を流して、流れのまま制服に着替えようとするも、そこで待ったがかかった。寝込んでいる間ろくに食事をとっていなかったので、まずは体力回復を、とアークが譲らなかったためである。
聞けば第四騎士団は今、意図的に稼働率を落としているらしい。
補給に関してはグレイスが楽士たちをまとめてくれているようで、可及的速やかにどうこうせねばならない、というわけでもないそうだ。
そんな現状に安堵し、真澄は大人しくテーブルにかけた。
寝室ではない。衣裳部屋の反対側、寝室の隣に続いている応接間だ。こちらは来客と軽い食事をとれるように、卓も椅子も高さがある。
白く、染み一つないテーブルクロスがまぶしい。
縁には織の模様が入っている。よくよく目を凝らせばそれは、鷲の意匠であると知れた。
夏の日差しが大きな窓から差し込んでくる。開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き込み、たまに蜂かなにかの元気な羽音が通り過ぎていく。
そんな中、繋ぎにリリーがいれてくれたお茶を飲みながら、真澄とアークは七日ぶりにあれやこれやと話をした。
「は? 手加減なしで相手したわけ?」
口に運びかけていたカップを止め、真澄は片眉を上げる。
手始めの話題でこれだ。
テオは元気かと訊いて、いきなりアークが返答に詰まったのである。そんな反応をされたらなにがあったのか気になるではないか。人として当たり前だ。
真澄がどういうことかと問い詰めると、「テオたっての願いで勝負をすることとなり、結果としてテオが腕の骨を折った」と白状された次第だ。
「大人気ないわねー」
多少自分にも覚えはあるが、同じ大人気ないにしても真澄とアークでは次元が違う。
ところがアークは椅子にふんぞり返った。
「真剣勝負に手加減なんぞできるか」
お前だってそうだっただろう、と続く。
「あんな若い楽士相手に鬼か」
「ちょっと人聞き悪いこと言わないで。あれはあっちが突っかかってきたんだから」
当てこすられているのはヒンティ騎士長の楽士の件だ。
「一緒じゃねえか。俺だってテオから言われたんだ」
「にしても大人と子供って」
「違う。あれは男と男の勝負だった」
「そこ?」
男同士というのは年齢差よりも大事なことらしい。
またしてもアルバリークの良く分からん流儀に直面しているうちに、リリーが食事の乗ったワゴンと共に部屋へと戻ってきた。それなりに腹が減っている二人は、背筋を伸ばして行儀よく給仕されるのを待った。
手際よく朝昼兼用の食事が並べられていく。
アークの前には肉がメイン、やたらと大鉢に盛られたスープとサラダも合わせて三人前はありそうな分量が所狭しとひしめき合っている。籠の中には焼き立てペルタがこんもり、香ばしい匂いを漂わせている。
一方で真澄には消化に良さそうなパン粥――より正確にいえばペルタ粥、が置かれた。無論、常識的な量で。
ふわ、と甘い匂いが漂う。
優しい香りに思わず真澄の頬が緩んだ。いただきます、と手を合わせて匙を取る。
「ん、おいしい」
温かさが五臓六腑にしみわたる。
屋台とは違い厚みのあるペルタが牛乳に――牛じゃない別のなにかかもしれないが――浸って、口に運ぶとたっぷりあふれ出てくる。既に引いたとはいえ、熱で乾いていた喉がうるおっていく。柔らかな食感と控えめな甘さが、病み上がりの身体に吸い込まれていくようだ。
「うまいか?」
豪快に頬をふくらませながら、アークが小首を傾げている。
真澄は次のひとすくいを口に含みつつ、こくこくと頷いた。おいしく頂けるというのは幸せなことだ。
「これなら毎朝食べてもいい」
「……ふうん」
「なに、嫌いなの?」
「別に嫌じゃない。ただ、食った気がしない」
どこまでも肉体派な意見に、真澄は笑った。そりゃ一度に肉をそれだけ食べられるのなら、パン粥など前菜程度にしかならないだろう。
おいしいのにもったいない。
そんな感想を述べる真澄の前に、リリーが小鉢を置いた。
「マスミさまなら、こちらもきっとお好きですよ」
どうぞ、と小さじにすくって差し出されたのは深い琥珀色の液体である。
白いスープに、とろりと一筋。言われるままに一口食べた真澄の目は、輝いた。
「これ、はちみつ?」
「はい。もう少し食事寄りの――ブイヨンを入れて作った粥には、入れないのですけど」
「うーん……ますます毎日食べたくなるわ」
「お気に召して良かったです」
心底嬉しそうな様子を見せながら、リリーが給仕を続けていく。
真澄がパン粥一つに舌鼓を打っていると、山盛りのサラダに手を伸ばしながら、思い出したようにアークが口を開いた。
「別に初めてじゃない」
「なにが?」
「テオとの勝負」
だから別に目くじら立てるようなことじゃない。そう続けたアークに、真澄は素朴な疑問をぶつけた。
「ねえ、アルバリーク人って血の気多いの?」
つい呆れた口調にもなる。
アークは言わずもがな、カスミレアズも宮廷騎士団長もそうだ。いずれも臨戦態勢に入るのが早いのは職業柄かと思っていたが、テオまでとなるとそもそも根本的な部分が疑わしい。
冷静になって考えてみれば、楽士たちも遠慮がなかった。
戦闘民族とかいうやつなのだろうか。
ところがそんな真澄の疑問は、「そうじゃない」と一言の下に否定されてしまった。
「あいつ、頭いいんだよ」
「確かに物知りよねえ。デート中なのに紋章学とかなんとか、いろいろ教えてもらったし」
「デ、……まあいい。本は一度読めば忘れないし、人の言葉はずっと覚えてる。なにを教えてもすぐに理解するから規格外の一言に尽きる。なにより王太子の息子で王位継承権第二位、ついでに熾火。まあ下にも置かれない扱いを受けるわけだ」
なるほど、あの大人びた表情はそのせいか。
合点がいって真澄は「そうだよなあ」と唸った。理解はできても感情は別もの。テオのアンバランスさはそのあたりに起因しているらしい。
粥をすくいながら、「それで?」と話の続きをうながす。
アークは瑞々しい菜っ葉を口に運びながら、苦々しい顔を作った。
「魔術士がろくでもないこと吹き込みやがって、テオが信じた。まだ六歳だぞ? 同じ熾火でも、テオは魔術士寄りだからな」
それで宮廷魔術士団と第四騎士団が大喧嘩になった挙句、最終的にアークとテオが決闘することになったのだという。
ぶっ飛びすぎだ。
絶句して匙が止まった真澄だが、肝心な部分はかろうじて尋ねることができた。吹き込まれたその「ろくでもないこと」とはなにか、と。
きいた瞬間、アークの持つフォークが皿の肉に突き立てられた。
「騎士団なんぞ使い捨ての盾だと。だから人員補強は魔術士団が最優先されるべきだし、楽士の充当も当然にそうなる、ってな」
「うわ……それはまた」
「内輪で言ってるならまだかわいいもんだ。真正面から言われたらお前、どうする?」
「そりゃ『舐めてんのか』もしくは『もっぺん言ってみろ』案件ですね。ええはい」
判定。
妥当と認める。
当時その場にいなかった真澄でさえ、聞いただけで不愉快だ。
真澄でこれなら、アークが怒髪天ついて怒鳴り込んだのも容易に想像できる。
「でもよくテオを連れ出せたわね。宮廷騎士団長が黙ってなかったんじゃないの?」
「稽古名目で迎えに行った」
「うわ、やり口が汚い」
腐っても総司令官、いきなり拉致などしないあたりが周到だ。
「事は急を要した。勘違いしたまま成人になられたら敵わん」
思い出せば腹が立つらしい。
憤慨した勢いのまま、アークが肉にかじりつく。
「後は死なない程度に説教した。使い捨ての騎士にも勝てないような魔術士に、一体なにができるんだってな」
真正面から正論だ。そしてアークはテオに、相手を見極める重要性を叩きこんだらしい。
全治二週間の怪我とともに。
真澄以上に大人気なさ全開だが、気持ちは分かる。
アークが銀杯に口を付ける。喉ぼとけが上下して、傾きは見る間に大きくなっていった。空になった杯を卓に置くと、たん、と軽い音がした。
「三年前は考えなし。だが今回はテオが自分で考えて言い出した。受けない理由がない」
「なんか嬉しそうね」
「別に」
そんな話をしつつゆっくりとる食事の合間、夏の空は高く晴れていた。
* * * *
昼食が片付けられた後は、そのまま卓に食後のお茶が並べられた。
中心には軽くつまめる小さな焼き菓子も出されている。が、さすがに今は食べられそうにない。アークも微妙な顔で見つめるのみだ。ありがたく眺めるだけにしながら食休みをしていると、おもむろにアークが言った。
今週は誰の面倒も見なくていい、と。
え、なんで。
真澄が首を捻ると、衝撃の事実が明るみに出た。
「週明けが選考会だぞ。問題ないというなら働いてもいいが」
武楽会の存在を完全に忘れていた。
というより課題曲の存在が判明したと同時にテオの面倒にかかりきりとなったゆえ、なにもしていない。どれくらい手つかずかというと、楽譜の変換さえしていない有様なので、曲調はおろか長さも難易度も未確認である。
は、と口に手をやる真澄を見て、アークが呆れ顔だ。
「もう週の中だから、今日を入れてもあと四日しかないぞ」
「謹んで選考会に集中させて頂きます……」
「だろ?」
楽譜変換の面倒くささを考えて、真澄はがっくりとうなだれる。あれは集中力がいる上に時間を食う作業なのだ。
頬杖をついて目を閉じる。
とりあえず今日のうちに変換してしまえば、残り三日で弾き倒してなんとかなるだろう。というか、どうにかするしかない。
「楽士は大変だな」
同じくだるい格好でアークもテーブルに肘をついている。
真夏の午後、窓を開けているとはいえ気温は高い。食べた直後で体温も上がっている。おまけにゆっくりとした食事だったので、二人ともしばらくは動く気になれないのである。
「そっちは余裕こいてるけど、選考会とかないの?」
「ある。正直もうやめりゃいいと思ってるが」
「なんで?」
「面倒くせえ」
正直すぎる回答がきた。
そして間髪入れず「大体考えてもみろ」と続く。
「俺やカスミレアズ相手に、正騎士や真騎士が相手になると思うか?」
果敢に名乗りを上げるのは結構だが、致命傷を負わせないように手加減するのが大変らしい。
武会の選考は無差別級トーナメントになっていて、成績上位者から順に出場権を獲得していく方式だという。さすが肉体派、実に分かりやすくて好感が持てる。
が、
せめて昨年の優勝者である自分は免除されて然るべきだ、とアークは鼻息が荒い。
気持ちは分からないでもないが、勝負に絶対はないので難しいところだ。加えて世代交代もいつか必ず来るので、後進たちには頑張ってもらわないと困る。
この男、二十年後もこんな感じなのだろうか。
年齢を重ねて落ち着く、渋い大人になる、という想像がまったくできない。
死ぬまで血の気が多いんじゃなかろうか。むしろ頭の血管が切れて昇天とかありそうな未来だが、言うとしばかれそうなので黙っておいた。
久しぶりの、仕事に追われない時間である。
二人でだらだらとりとめもない話をしていると、ややあって部屋にノックの音が響いた。
真澄とアークは扉に視線を投げる。
互いに身体は一ミリも動かない。どっちが応対に出るか目線で牽制しあっていると、「失礼します」という聞き慣れた声と同時に扉が開いた。
颯爽と現れたのは、我らが第四近衛騎士長である。
だらけている真澄たちとは対照的に、今日も制服をきっちりと着こなしている。
「どうした?」
気の抜けたアークの声に眉一つ動かさず、カスミレアズは用件を述べた。
「テオドアーシュ殿下がお見舞いに来られました」
「いいぞ、通せ」
噂をすればなんとやら。
部屋の主よろしくさっさとアークが許可を出す。ここは真澄の部屋なのだが、抗議はしたところで無駄足に終わるだろう。
内開きの扉をカスミレアズが押さえ、その向こうから遠慮がちにひょこり、と顔がのぞいた。その後ろから、影のようにするりと身を滑り込ませてきたのはお馴染みヒンティ騎士長である。
「殿下、こっちですよ」
真澄が手を挙げてその名を呼ぶと、テオが走り寄ってきた。
「マスミ!」
小さな胸にあふれんばかり、大きな花束を抱えている。
鮮やかな夕陽色のバラだ。
テオの口元までを覆う背丈の高いその花弁からは、甘すぎず、はつらつとした爽やかな香りが漂ってくる。
「くれるんですか? 私に?」
「お見舞いに。わたしの名前がついているんだ」
「へえ、殿下の」
相槌を打ちつつ、真澄はテオの全身をさり気なく眺める。
アークから手加減しなかったと聞いたのでどんなもんかと心配していたが、右手だけ固定のために三角巾で吊られているくらいで、テオは元気いっぱいである。そこは小さくても熾火、そんじょそこらの騎士とは違うようだ。
星祭りで絡まれたことも、特に気にはしていないらしい。
良かった、と繊細な金髪を撫でてやる。
くすぐったそうに首をすくめるテオだったが、花束を真澄に押し付けてから胸を張った。
「殿下はだめだ」
「え?」
「マスミはこれからもテオって呼んでいい」
胸を張りつつ上目遣いがかわいい。
分かりました、と真澄が答えると、横から割り込みが入った。
「おい、俺に挨拶はなしか?」
憮然とした声に振り返ると、頬杖をつきながら不機嫌そうに目を細めているアークがいた。
テオが真澄に寄り添う。
服の端を握りしめたかと思うと、テオは「いー」と歯を見せた。上品さとは程遠いクソガキの所作である。思わずアークが頬杖から顔を上げるほどに。
「の野郎」
「やめなさいよ大人気ない」
この程度、骨を折ったんだから甘んじて受けるべきだ。
そう真澄が続けると、アークは額に青筋を浮かべながらも舌打ち一つで引き下がった。再びその頬が手のひらに収まったのを見て、テオが真澄の隣に落ち着いた。
堰を切ったように矢継ぎ早、近況を教えてくれる。
あの鷲を保護したことや再開された魔術士教育のことなど、実に楽し気だ。最初に会った日の暗い影は、もうどこにもない。
そうして小一時間ほども話した頃だろうか。
お茶を飲みながら変わらず真澄が耳を傾けていると、ふと会話が途切れた。真面目な顔でテオが見上げてくる。次いで意を決したように言われたのは、「マスミの音が聴きたい」という願いだった。
一度でいい、と。
真澄はアークの専属だから、本当は頼んではいけないことだと理解している。けれども一度だけでいいから、どうしても聴いてみたいのだ、と乞われた。
一曲弾くくらい大した労力ではない。
だが気にしているのはそういうことではないのだろう。彼らには彼らの流儀というものがある。
意を汲み取り真澄はアークに目線で尋ねた。返ってきたのは鷹揚な頷きだった。許可が下りたので、真澄はヴァイオリンを取りに立ち上がった。
「聴きたい曲はありますか」
一週間ほどヴァイオリンから離れていたせいか、腕と指に違和感がある。指慣らしに音階を奏でつつ好みを尋ねてみると、テオは「マスミの好きな曲がいい」と丸投げの希望を寄越してきた。
準備運動を兼ねてトリルを弾きながら考える。
ヴィヴラートが単音で揺らぎと情感を表す奏法ならば、トリルは二つの音が交互に響く装飾音となる。後者をふんだんに使った美しい曲が、真澄の耳に響いてきた。
「そういえば、テオは鳥が好きでしたよね」
なんの鳴き声か分かりますか? と。
一度弓を止めて、最初の音を丁寧に探り当てる。低いさえずりから始まるその曲は、ポジションのアップダウンとトリル、ヴィヴラートを経て高いさえずりに変わる。
その曲は、『揚げひばり』と名付けられた。
作曲はイギリスのレイフ=ヴォーン=ウィリアムズ。始まりのカデンツァがまさにひばりの鳴き声となる、独特な曲だ。続く美しい主題は、空高く舞い上がるひばりを彷彿とさせる。
弓の動きはそこまで難しくない。ただ、左手の運指に丁寧さが求められる。速く正確なトリルでなければ、ひばりの声に聴こえない。
ひばりは小さい。
手のひらほどしかないそんな鳥が、さえずりながら遥か彼方へ、青に溶けるほどに飛ぶ。さながら未来を見るようではないか。今はまだ頼りないその双肩も、やがてたくましく成長するだろう。
懸命なさえずりは大地を往くものに等しく降り注ぐ。美しいそれに人は耳を傾ける。
きっと手の届かない場所へ。
けれどそんなひばりを見上げてみたい。
何度も繰り返すさえずりと主題は、高みへ昇っていくひばりそのものだ。その鳥は春を、朝を、そして清浄な愛の象徴として、古来より親しまれている。
* * * *
「……ねえマスミ。マスミはどこから来たの?」
最後の音を弾き終わった後、不意にテオが尋ねてきた。構えていたヴァイオリンを降ろし、真澄は微笑む。
「テオの知らない遠い異国ですよ」
「うそだ」
言い訳の余地なく、きっぱりと否定された。
強い口調に視線が集まる。向かいに座るアーク、壁際に控えているカスミレアズとヒンティ騎士長、そして誰より驚いているのは他でもない真澄自身だ。
テオが胸の内ポケットをまさぐる。
中から出てきたのは、幾重にも折りたたまれた紙だった。テオがそれを開いていく。色あせて、埃っぽい匂いがした。
卓の中心に置かれていた菓子をどけ、アークが身を乗り出してくる。なにごとかと近衛騎士長二人も寄って来て、上からのぞき込んでいる。注目を集めながら、白いテーブルクロスの上に茶色の紙がそっと置かれた。
「世界地図だ。マスミの国はどこだ?」
テオの広げた両手ほどもある大判の地図には、中央に大きな大陸があり、三分割の点線が引かれている。北に列島が並び、西に小さな島が点在し、東はもう一つの大陸が描かれている。南に広がるのは大海原だ。
縮尺も図法も分からないが、それでも真澄の見慣れた世界地図ではない。
適当な陸地を指差そうにも手が動かない。
なんの心の準備もなし、突然つきつけられた現実に思考がついていかなかった。口を噤む真澄に、テオが静かに語りかけてくる。
「わたしの知らない国なんてない」
手元の世界に視線を落としたまま、テオが言う。
この賢い少年には、いずれ嘘は見破られるだろう。知らない国はないというのなら、全ての国名や言語はおろか、文化風俗なども頭の中に入っているだろうことは想像に難くない。
観念して真澄は息を吐いた。
「私の生まれた国は、この地図の中にはありません」
どんな怪訝な顔を向けられるだろう。
だが真澄を取り囲む面々は、存外に静かな瞳のままで真澄の言葉に耳を傾けていた。強いていえばヒンティ騎士長がわずかに目を瞠っている程度だ。
テオが唇を噛みしめる。
カスミレアズが地図に目を落とす一方で、アークが腕組みをして椅子の背にもたれた。
ぎしり。
木の軋む音が、静まり返った部屋に妙に響いた。
「テオ。言っていい」
唐突にアークが水を向ける。
一瞬ためらいを見せたテオだったが、「構わない」とアークから重ねられ、その口を開いた。
「古式魔術の匂いがする」
「どっちだ」
エルストラスか、レイテアか。
確信めいたアークの口調に、テオもまた断定で応える。
「使役じゃなくて召喚。だからレイテア」
「……やはりそうか」
アークが天井を見上げた。
「実は最初、マスミにはスパイ容疑をかけていた。いきなりヴェストーファ駐屯地の第三防衛線を突破してきたからだ」
防衛線突破という説明に、ヒンティ騎士長が驚きをあらわにする。
「失礼ながら『隠蔽された術者』にはとても見えませんが……」
「そのとおりだ。むしろ隠蔽術はかかっていなかった」
淡々と語るアークを、真澄はただ見つめるしかできなかった。
不可解すぎたのだという。
鍛えられた肉体でもなく、魔力もない。力任せに暴こうとした隠蔽術は、そもそも最初から影も形もなかった。
その割に、厳戒態勢の第三防衛線を軽々と越えた実績。
言葉は通じるが言っていることが要領を得ず、時折知らない単語を使ってくる。辺境出身かと納得しかけるも、騎士や魔術士はおろか魔獣さえ知らないのん気な辺境などあるわけがない。
謎は深まる一方だった。
だがヴェストーファ滞在中の誘拐騒ぎで、とある可能性が浮上する。
ばら色の眷属が運んできた脅迫状。誘拐犯は「レイテアに真澄の所有権がある」のだと、カスミレアズに対して主張した。つまり、レイテアがなにかしらの契約を真澄に対して結んだ、と考えられる。
確かめるには契約の履歴を視なければならない。
が、その古式魔術は能動探知の最高峰。できる人間が限られているために、今の今まで棚上げになっていたのだ。
「トラスの母上に融通してもらおうと考えていたが、テオができるなら……どうだ、協力してくれるか?」
「やる!」
アークの誘いに対し被せ気味にテオが乗る。彼にとっては朝飯前の様子だ。
一も二もない返事にもっとも腰が引けたのは、他でもない真澄である。そこまで疑われていたというか、単なるスパイの枠を大幅に超えて色々と検討されていたことに驚いた。
そんな真澄の戸惑いなど露知らず、思い立ったが吉日よろしく、その場でまさかの素性確認となったのである。
できる者が限られるだの古式だの小難しい理屈が並べられていたが、仰々しい儀式めいたものでは一切なかった。
テオの魔力が真澄の身体を包みこむ、ただそれだけだった。
かといって「こんなもんか」という感想は罰当たりらしく、カスミレアズやヒンティ騎士長は魔力そのものが足りなくて発動さえできない代物らしい。アークはその点クリアしているものの、解錠するための細かい魔力調整が苦手ゆえ、やはり使えないのだとか。
夕陽のような金色の魔力が綺麗だ。
痛くもかゆくも、寒くも熱くもない。不思議な気分だ。夕焼けに染まる部屋の中を眺めているうちに、「契約履歴を視る」という作業は終わった。
夜を告げるかのように、すう、と金色が褪せていく。
「どうだ?」
「レイテアの古式召喚で間違いなかった」
だから真澄の国は当然地図上にないし、スパイでもなんでもない。
どこか別の世界から、なんらかの目的をもって呼び出されてしまった人間である。落ちた場所がたまたまアルバリークで、それもたまたまヴェストーファにあったアークの天幕近くだっただけのこと。
淀みなくテオが言い切った。
所見に対して特に意義は唱えられない。普通に納得されている。
思いがけないところであっさりとスパイ容疑は晴れた。
散々繰り返した当人の主張は認めなかったくせに、たかだか五分もしない調査が信用されるのもいかがなものか。
言いたいことは色々あるが、しかしそれ以上に気になる点があり、真澄は手を挙げた。
「はい、質問」
「なんだ」
「つまり私は本当ならアルバリークじゃなくて、レイテアとやらに保護されて然るべきだったんでしょうか」
「まあそうだな」
「……精度わるっ」
うっかり国をまたいでしまったことによるスパイ容疑だったなんて冗談じゃない。
率直すぎる感想が滑り出たが、しかし真面目な顔でアークが反論を寄越す。
「馬鹿言え、世界を越えさせただけで破格だ。落ちた場所がここか隣国かなんぞどうでもいい誤差の範囲でしかない」
「だって普通の物語だと魔法陣みたいなのがあって、そこに呼び出されたりするじゃない」
「そんな高度な召喚技法、とうの昔に継承者が絶えてる」
「ていうか昔はできてたのがすごいわ。前から疑ってたけどやっぱここ異世界だわ」
とうとう認めて真澄は口に出した。
黄泉の国よりもう一段階上、まさかの異世界だったとは。
少しずつ似ている部分は見受けられるが、それでも基盤としている物理法則というか世界構成は根本的に違う。同じ宇宙のどこか違う星というより、完全に違う宇宙に呼び出された感覚とでもいえばいいか。
そうと分かれば気になることはいくらでもある。
「……なんで言葉通じてるんだろ」
「さあな。だが肉体の壁を越えられるなら、言語の壁なんぞ朝飯前だろ」
「全っ然参考にならない大雑把回答どうもありがとう」
「専門外だ、ここでまともに答えられるなら別の職に就いてるだろうよ」
「それもそうね、肉体派筆頭だもんね」
「おい」
いつものごとく真澄とアークが言い合っていると、テオが思案顔で「多分、」と呟いた。
「召喚にあたって、そういう契約条件を付けたんだと思う」
賢そうな青い瞳が真澄とアークを交互に見やる。
「どういうことだ」
「レイテアの目的を達成するために、必要な一切を付与する、とか。言葉が通じなければ呼ぶ意味がないし。難しいけど、……でも古式魔術ならできない話じゃない」
その代わり、召喚場所の精度にブレが出たのかも。
おそらくこの場にいる誰より頭脳派な最年少は、もっともらしいことをぶつぶつと続けた。
途中から独り言の内容が「術式の変換効率」だの「発動時における契約追求と他方犠牲」だの高度すぎる内容に変わったので、もはや誰も相槌を打てなかったのは余談である。
「まあ、ともかく」
完全に自分の世界に入ってしまったテオを見つつ、アークが肩を竦める。
「レイテアの目的が読めないうちは危険だ。マスミの件は口外しないよう頼む」
考えごとに没頭するテオをよそに、ヒンティ騎士長が神妙に頷いた。真面目だ。
そんなこんなで、思いがけない見舞いはあらぬ方向に着地した。
面白そうだから色々と調べてみる。そう言って、テオは心ここにあらずといった態で帰っていった。




