6.鬼が出るか蛇が出るか、さて
幕を出た後すぐに、先導するカスミレアズが足を速めた。平時から軍人らしく早足の男だが、今日はいつにも増して勢いがある。背筋は相変わらず伸ばされて、軍服も皺一つない。だがその背中は僅か緊張しているように見受けられた。
大股で半歩先を歩きながら、カスミレアズが呟く。
「最初にお声掛けしたのですが、返事がなくて驚きました」
声に揶揄する響きは含まれておらず、言葉どおり純粋に驚いているらしい。
一方でその表情はほとんど変わらない為、慣れていない相手だと本気でそう思っているのか言外に説教されているのか悩むであろう場面だ。
アーク自身も何を指摘されたのかは理解している。
元々、寝起きが悪い自覚はある。理由は眠りが浅いからだ。なぜ浅くなるのかというと、立場上刺客を送り込まれることが多く、基本的に気が休まらない幼少時からの生活が元凶である。
眠りの質が良くなければ、寝起きも必然悪くなる。
しかしそれは目が覚めないとはまた別物だ。微かな気配でも覚醒する癖はついていて、前後不覚に陥るような失態は犯したことがない。そんな危機察知能力が身に付いてなければそもそも今ここに立ってはいないだろうが、いずれにせよ起きた後の経過が悪く、しばらく頭が働かないというだけなのである。
「存外に抱き心地が良くてな。つい眠りこけた」
「私としては助かります」
毎朝不機嫌に当たられている張本人は遠慮会釈なく言い放った。それを右から左に聞き流し、アークは欠伸を噛み殺す。
司令官であるアークの天幕をそこで抜け、朝日の眩しい外に出る。良く晴れた最高の式典日和だ。若獅子たちの門出を祝う、最高の一日となるだろう。
入口の衛兵に挨拶を返しつつ、アーク達は厩へと足を運んだ。
二人の姿を認めた厩番がすぐに二頭を引き出してくる。既に馬装具は取り付けられていて、後は背にまたがるだけで出発できるように整えられている。
「朝っぱらからどこに行くつもりだ?」
鐙に足を掛けながらアークはカスミレアズを見た。
面倒くさい、朝飯を食ってないなど文句を言うつもりは毛頭ないが、起き抜けにいきなり馬を駆るなど滅多にあることではない。
戦場ならまだしも。いやむしろ、わざわざ叙任式当日の朝に、なぜ。
「ヴェストーファへ参ります」
部下の口から出たのは、まさにその叙任式が行われる駐屯地近隣の街の名だった。
「詳細はのちほど。確認頂きたいことがあります」
「分かった」
近衛騎士長であるカスミレアズが言うのだ。薄く「何かあったな」と勘付いたが、後で説明されるのであれば今ここで詰め寄る必要はない。
そしてアークは見事な青鹿毛、カスミレアズは艶やかな栗毛の愛馬にそれぞれまたがり、今日の正午から予定されている叙任式の会場へと馬を走らせた。
* * * *
「本当に手をつけなかったのですか」
まさかあの状態で。
ヴェストーファへ向かう途中、馬上からかけられたカスミレアズの声にはまたしても驚きが滲んでいる。思わずアークの口端が吊り上がった。
「俺が見逃がすと思うか?」
「いえ」
「即答とは良い度胸だな」
「燦然と輝くこれまでの実績がありますから」
「ははっ、それもそうだ」
「ではやはり?」
「ああ。だが何を考えてあいつが無かったことにしたいのか、それは分からん」
「将来を誓った相手がいるようですから、その線では?」
「相手? とてもそんな奴がいそうな反応じゃあなかったがな」
「そういうお言葉を聞きますと、間違いなく手をつけられたようですね」
それで、どうするのか。カスミレアズは問うてきた。
スパイ容疑のことだ。
隠蔽された術者を見破ったのなら、その先どうするか――投獄して処刑するのも、敵国レイテアへ強制送還するのもアークの胸三寸となる。
これまでの実績は、数日投獄してから強制送還コースだ。相当数送り込まれるスパイには辟易しているが、かといってむやみやたらと処刑するのも手間がかかって好きではない。
無論、返す前には適度に締め上げておく。
何度も挑戦されると面倒極まりないからだ。そのあたりは近衛騎士長であるカスミレアズの匙加減に任せているが、同じ顔は二回と見ていないことを鑑みるに、それなりに太い釘を刺しているらしい。
カスミレアズの問いには、今回も同様の措置で良いのかを確認する意図が含まれている。
しかしアークは少し考えて、否を唱えた。
「しばらく手元に置いておく」
「……は?」
カスミレアズが手綱を引いて、速度を落とした。半馬身ほど先行しかけたのを、アークもまた手綱を引いて馬の歩様を合わせる。
軽快だった蹄の音が、ゆったりとしたものに変わる。
「そんなに驚くことか?」
「はい。一夜の遊びは結構ですが、スパイを手元に置くなどいくらアーク様とはいえ不用心にも程があります」
「微妙だから仕方ない」
「と言いますと?」
「どうも隠蔽された術者ではないらしい。あらゆる解除キーを試したが、術は解除されなかった。というより、解除されるべき術がかかっていないように見受けられた、と言う方が正しい」
カスミレアズが口を真一文字に引き結んだ。
俄かに信じがたい、表情はそう物語っている。
「素性明かしの法円をかわすことはできても、アーク様の調べをすり抜けられる術者はおりません。しかし、術なしに駐屯地に忍びこむなど不可能です」
「その通りだ。だから微妙だと言っている」
今しがた出てきた駐屯地は、ここアルバリーク帝国の国境警備の為に置かれている要衝である。ほど近くにはそれなりに大きな地方都市ヴェストーファが発展しており、国境の中でも有数の賑わいを見せる地域だ。
今回はそのヴェストーファで年に一度の騎士叙任式が行われるため、叙任権を持つアークが帝都からはるばる足を運んでいる。
駐屯地はその性格上、侵入者探知の術が常時かかっている。
そこに駐屯地司令よりも高位のアークが滞在している今、警戒レベルは最高に引き上げられており、十重二十重に様々な術がかかっている。アークの天幕に近付くほどにそれは厳重になり、探知だけではなく侵入者の拘束を図るもの、意識を奪うものといった強力な術になっている。
よほど高等な術者であっても、これら全てをすり抜けるのは至難の業だ。
実際、侵入を試みた数多の人間は外周の第一防衛線で大半は捕えられ、もう一段階内側の第二防衛線を越えられたものはいない。アークの天幕を含む駐屯地最深部は、そこから更にもう一つの防衛線――第三防衛線の内側にある。
最深部に辿り着けるのは「隠蔽された術者」だけだ。
探知術は、術者の魔力を検知して作動する。魔力を抑える方法もないわけではないが、それでも術者である以上は一定の魔力を帯びてしまうのが宿命である。
この原理を逆手に取ったのが隠蔽された術者だ。
隠蔽された術者は、解除キーを与えられるまでは一般人と同程度になるよう強制的に魔力を封じられる。同時に、記憶も封じられる。そして表面上は商人や娼婦を装い対象に近付き、それとなく解除キーを探すよう仕込まれている。
解除キーは対象の名前のこともあれば、側近との接触であったり、様々だ。
一度術が解除されれば術者は本来の力と記憶を取り戻し、その場で暗殺対象者に襲い掛かるという寸法だ。
敵の裏をかくという意味では非常に重宝される術だが、「隠蔽術」は高位の術者にしか施せない。便利だがそうそう量産できない代物である。
しかも、本業は騎士ながら同じく高位の術位を持つアークはそれを見破る目を持っている。
誰も逃れられない強い目だ。大抵は解除キーを発動させて隠蔽を解くが、やろうと思えば解除キーなしでも力にものを言わせて暴くことはできる。
昨晩は手加減など一切しなかった。
しかし何の術も解除されず、まして肉体的な抵抗は無いに等しかった。片腕で押さえ込めた程だ。
結果だけを見れば完全にシロ。
ただの女である、という結論にしか辿り着かないのだが、不可解なのがどうやって第一から第三までの防衛線を越えたのか、ということだ。
普通に歩いていれば、正面入口で衛兵につまみ出される。
入口以外の駐屯地外周を越えようとすれば、探知術を回避する為の術を使わない限り、即座に引っかかる。仮にどうにかして第一、第二防衛線までをかいくぐったとして、しかし第三防衛線はそこまで温くない。
一歩足を踏み入れた瞬間、身体を拘束する術が起動する。
それは敵味方関係ない。司令部に出入りする認証を持つか否かだけが基準となる。認証されていなければ、味方であっても容赦なく術が起動する仕組みだ。
回避しようと侵入者が術を使うと、それを合図に侵入者の意識を奪う術と強制的に魔力を枯渇させる術が襲い掛かる。最初の拘束術は回避されることを見越したおとりだ。本命は続く二つの術にある。同時に三つの強力な術を捌くのは、よほど高位の術者でも難しい。
仮に捌いたところで、第三防衛線の術が起動した時点で司令部は侵入者の存在を知る。そうなれば総員第一種戦闘配備となり、猫の仔一匹逃げられない厳戒態勢が敷かれる。
これらの全てを、ただの女、まして正直すぎるあれが御しきれるとは到底思えない。
そんな芸当ができるならアークの拘束を逃れるくらい難なくできて然るべきだ。だがどう考えてもつじつまが合わない。
そう、まるで突然そこに降って湧いたような。
馬鹿なと思うが、その馬鹿げた仮定を完全に否定できるだけの材料が今はない。
叙任式はまさに目の前に迫っている上、近く武楽会が控えている。アルバリーク帝国にとって重要な予定が重なる時期だけに、慎重に見極めたいところだ。
「おまけに俺のことが誰なのか、本気で分かっていないらしい」
「昨年の武会優勝者を知らない? ご冗談を」
それは昨夜アークも抱いた感想だ。まさかと思いながら二度も名乗ったのは人生初めてのことだった。
しかし目の前の本人は長いと文句を言うだけで、それ以外に何の反応もしなかった。スパイらしさの欠片もなかったのは言わずもがな、立身出世を目的に楽士として雇ってほしいと手を挙げるわけでなし、寵姫として傍に置いてほしいと願うわけでもなし。
アークの持つ肩書きを前提に考えると、かなり珍しい反応だ。
「よほどの辺境から出てきたのかもな」
「大陸全土に伝令が走るのに、それさえも届かない秘境出身、ですか?」
アークの言わんとするところを正確に汲み取りながら、カスミレアズは怪訝な顔を隠さない。
「面白そうだろう?」
「どうでしょうか」
「いいから付き合え。少し調べたいことがある」
最後まで眉間に皺を寄せたままだったが、カスミレアズが前へと向き直り手綱を扱いた。納得はしていないが反対するつもりもない、そういう返事だ。
物分かりの良い腹心の部下に満足し、アークもまた愛馬の速度を上げた。