55.あれもこれもそれも
もう一度お呼びがかかるかどうかは五分五分。
正攻法ではなかった自覚があるので、真澄はヒンティ騎士長にそう断った。ただ、テオドアーシュがもしも真澄を僅かでも気にしてくれたのなら、現状の打開くらいにはなるかもしれない。そんな真澄の分析に、ヒンティ騎士長は「責任は私が取ります」とまで言って、任せると約束してくれた。
一時間と経たずに叩き出されなかった――むしろ、眠るまで傍にいるのを許されたこと。
そして、わずかとはいえ食事ができたこと。
後者に関しては真澄の腹に九割以上が収まっている事実はあれども、この二点だけでヒンティ騎士長が進退をかける値があるらしい。
これまでに他の楽士はなにをしていたのかと呆れるが、気難しいというから扱いも一筋縄ではいかなかったのだろう。それほどに事態は逼迫していたのだ。
ただ、一つだけヒンティ騎士長に疑問を呈された。
なぜテオドアーシュが起きているうちに、弾かなかったのかと。
真澄は答えた。
しばらくは本人の目の前で演奏するつもりはない、と。
* * * *
子守歌の翌日、真澄は楽士棟での朝練中に重要なことを思い出した。
はたと演奏の手を止め、壁に貼り付けられている暦を見る。今日は十八日。すでに盛夏の月半ばを過ぎている。
「ごめんグレイス、ちょっと」
真澄の手招きに嫌な顔一つせずグレイスが練習を中断し、「どうしましたか」と寄ってくる。
「武楽会の選考会って来月頭とか言ってなかったっけ」
暦を一枚めくり、晩夏の月を差す。
グレイスの細い指が最初の週に添えられた。
「一日が休日ですから、今年は明けた二日ですね」
「そっか、もう二週間切ってるのかあ」
「どうかしました?」
「選考会ってなに弾けばいいの?」
「……え」
グレイスが固まった。
「マスミさま、案内はご覧になっては」
「えーなにそれ、そんなのあるの? 初耳」
「申し込みをした翌日には届いているはずですが……その中に、課題曲の楽譜も入っています」
「うそ、課題曲とかあるの!?」
聞いてない。
案内を見ていないから当たり前っちゃ当たり前だが、そもそも案内の存在を知らなかったのが痛恨のミスだ。
冷静に考えて、こんな直前になって「そういやあれどうなった」と思い出すくらい忘れてた自分も悪いっちゃ悪い。
頭を抱える真澄に、グレイスが慌てて「でも、」と追加説明を寄越す。
「課題曲と自由曲が一曲ずつです。二曲弾くだけですから、マスミさまなら今からでもきっと大丈夫です」
「そうはいってもアルバリークの曲、詳しくないのよねー……」
弾くだけならまあ二週間あればどうにかなるだろう。
ただしそこに付随する作業が面倒くさい。
こちとらタブ譜を五線譜に変換せねばならないのだ。ただでさえ面倒をみなければならん相手が沢山――第四騎士団とか、宮廷楽士とか、テオとか――それこそ、ひしめいているというのに。
彼らのことを考えると、変換作業は睡眠時間を削ってやることになるだろう。つくづく「なんで放っておいた自分」と突っ込みたくなる。
完全に存在を忘れていた夏休みの宿題を突きつけられた気分だ。
「案内、総司令官殿のところに届いていると思います」
「ありがと……取ってくるわ」
気付いた上で後回しにする勇気はさすがになく、真澄は楽士棟を出て第四騎士団の事務所棟へと向かった。
アークの執務室に着くと、扉が開け放たれていた。
ひょ、と顔を出して中を覗く。そこには広い背中が行儀よく二つ並んでいて、見慣れた濃紺の騎士服をまとっている。
「取り込み中失礼しまーす」
ノックと同時、声を掛ける。
振り返ったのはカスミレアズとヒンティ騎士長で、昨夜も遅かったというのに皺一つないその制服が彼らの真面目さを際立たせる。
その一方で、奥の執務机に陣取る部屋の主ときたら。
腕まくりだけに留まらず、襟元を思いっきり寛げている。威厳もくそもあったもんじゃない。
「マスミか。ちょうどいいところに来た」
手間が省けたと言わんばかり、アークが話しだそうとする。
が、真澄はそれを手で制した。
「私の話が先よ。急いでるの」
「あ?」
「楽会選考会の案内が届いてるはずなんだけど、記憶にない?」
訊きながら真澄はアークの書類決裁箱――未決分を漁る。
「中に課題曲の楽譜入ってるらしくて」
「課題曲? そんなもんがあるのか」
「忘れてた自分も大概だけど、この期に及んでその台詞吐くアークも大概よね」
他人事のような感想を呟きつつ真澄の手は止まらない。そんな真澄を見て、アークもそこらへんに積み重なっている山を検め始める。
がさがさ、ごそごそ。
「未決にはないわねー。どこにやったのよ」
「どこだろうな。あんま記憶にねえんだよな、本当に来てるのか?」
「まずそこ疑うあたりがアークよね。グレイスが言ってたから間違いないってば」
本当に片付けられない男である。
ヴェストーファ駐屯地での机の汚さが、ここ第四騎士団本拠地でもいかんなく発揮されている次第だ。逆か。元来散らかす性質だから、どこにいってもああなのだ。
真澄とアークが互いにぶつくさ言いながら捜索していると、背後で騎士長二人がなにやら話をしている。
「……さすがだな」
「もう慣れました」
前者はヒンティ騎士長、後者はカスミレアズだ。
なにがさすがで、なにに慣れたのかは、敢えて聞き流すことにする。真澄は楽譜捜しで忙しいのだ。
「アーク様。武会の案内と一緒に入っているのではありませんか」
微妙な会話を流すためか、気を取り直したようにカスミレアズが言う。
それを受けて、アークが「なるほど」と手を打った。そして、引き出しの中から開けてもいない大きな封筒を引っ張り出し、無造作にその上部を破り捨てる。
封筒をひっくり返すと中から小さな封筒が四、五通出てきた。
真澄が一つを手に取ってみると、宛名が「カスミレアズ=エイセル殿」となっていた。半目になって、真澄はそれをカスミレアズに手渡す。
「あった、これか」
アークの手が一通を掴んでいる。受け取りながら、つい真澄は文句を垂れた。
「なんで見もせずに仕舞いこんでるのよ」
「武会の案内は毎年変わらんからつい」
「『つい』で当日いきなり初見になったらぶっ飛ばすわ」
憤慨しつつも真澄は封筒を破り、中身を引っ張り出す。
グレイスが言っていたとおり楽譜が一葉と、説明の紙が一枚入っていた。斜め読みするに、自由曲はなんでも良いが回復量の多い楽譜が推奨されているようだ。
勝負をするから至極真っ当な条件である。
ところがその説明書きの中に、読み捨てならない内容があった。
「ちょっ、自由曲の楽譜は十八日までに事前提出って……」
手の中の文書と、壁にかけられている暦を見比べる。
つられて三人の騎士も暦に目を向ける。
「ねえ、今日って何日?」
「十八日だな」
「……〆切今日じゃないのよこの馬鹿!」
すぱーん!
楽譜の束は、実に小気味いい音を響かせた。
「って!」
不意打ちにアークが悲鳴を上げるが知ったことではない。平然と答えた罰だ。
即席で憂さ晴らしはしたものの、しかし真澄はがっくりとうなだれる。
「夏休み残ってると思ったらまさかの最終日だったとかほんと勘弁……」
「……夏休み? なんの話だ」
「いい、気にしないで。今から曲選んでタブ譜に変換して提出か……五時までに、か……」
「なんか、……悪かった」
「まったくよ」
そんなことないよ、とは言ってやらない。
言葉では謝罪しているものの、アークはまったく悪びれていないのだ。むしろ「どうせ間に合わせるんだろ?」とか「まあ気付いて良かったな」とか、そういう正直すぎる感情が顔に書いてある。
いきなり忙しくなった。
げんなりしつつ真澄は楽譜を封筒にしまいなおす。
「こんなとこで遊んでる場合じゃなくなったわ。じゃ、私はこれで」
「あ、待て」
「なによ。話し相手するほど暇じゃないのってか今まさにこの瞬間から忙しくなったのよ主にあんたのせいで」
過失度合いは七対三くらいでアークが悪い、と真澄は本気で思っている。三割は忘れていた自分だが。
八つ当たりを受けたアークは一瞬ひきつりながらも話を続ける。
「昼からテオのところに行けるか」
真澄はぐ、と奥歯を噛みしめた。
「話聞いてた? 楽会の選考会に出なくていいってんならいくらでも行けるけど。っていうかなに、お呼びがかかったわけ?」
時間は惜しいが気にはなる。
だからこんな朝っぱらからヒンティ騎士長が、わざわざ第四騎士団の事務所に顔を出しているらしい。そんな宮廷近衛騎士長に向き直ると、彼は遠慮がちに頷いた。
「目覚められてすぐ、殿下はマスミ殿の所在を尋ねられました」
「ほう、そりゃ珍しい。たった一日であのわがまま坊主によく懐かれたもんだ」
アークが目を丸くする。
だが真澄としてはとても懐かれたとは思えない。昨日は大人気なかった自信があるわけで、だから今後については五分五分かと見越していたのだ。
真澄よりよほど付き合いの長いアークが「わがまま」と評すあたり、今回の呼び出しはあまり良い予感はしない。
「ヒンティ騎士長。呼び出し理由、教えてもらえます?」
「マスミ殿に食事を、と殿下はおっしゃっております」
「あんのクソガキ……」
真澄の奥歯はさらに噛みしめられた。
さすが高貴な生まれ、恵んでやる精神が全開である。
なんせ真澄「と」じゃない、真澄「に」だ。
招待しろとわざわざ言葉を選んだというのに、いきなりアークの面子が丸潰れになった。ヒンティ騎士長は大人だから気付かないふりをしてくれているだけだろう。
奇妙な呼び出し理由に、事情を知らないアークが目を瞬く。
「食事? 魔力の回復じゃなくて?」
「あー……説明すると長くなるから省くけど、どうも私が満足に食事できてないって勘違いされたみたい」
「は? 俺の専属だってのは言ってるんだろう?」
「言ったけど、まあ、うん。伝わってないってのがまさに今分かったところよね」
最終的にアークが甲斐性なし認定を受けたっぽい。
正直に言うと、アークが微妙に傷ついた顔になった。
「一体どんな説明したらそうなる?」
「なんかごめん」
「いや、……まあ、子供に全部を分かれっても無理だろうな」
諦めたようにアークが黒髪をがしがしと掻いた。
「ああそれと、マスミ」
言っても詮無いことは放置。
分かりやすく切り替えたアークの呼びかけに、真澄は片眉を上げて応えた。
「今度はなによ」
「悪いが夜勤組の回復を頼む」
軽く言うが夜勤組は夜の九時からが仕事である。
つまり真澄は選考会の仕事を片付け、テオのご機嫌を伺い、さらにその後で第四騎士団の相手をせねばならない、ということだ。
定時間勤務など知ったことかと言わんばかり、清々しいほどに人遣いが荒い。
「別にいいけど、最近多くない?」
「星祭りのせいでな」
「あーそっか」
この盛夏の月は、帝都で毎夜祭りが催されていると聞く。
日中の暑さを避けて、夜風に当たって涼みながら冷たい酒で喉を潤し、夜空と大地の星を楽しむらしい。昨日の騎士たちも飲みに繰り出したのはその会場のはずだ。
そのうち行こうと思いながら、既に月半ばを過ぎている。
どうにかして非番の騎士たちに混ざりたいが、当番の騎士たちの面倒がある限り、望み薄である。
「……正直、喧嘩売るタイミングが最悪だったわよね」
「売りたくて売ったわけじゃねえぞ。呼び出されたんだから選びようがなかっただろ」
この状況がいかにして引き起こされたのかは互いに理解している。
あの日、宮廷騎士団長に噛みついた結果がこれである。任務の割り当てを増やすという、実に分かりやすい意趣返しだ。切った啖呵の手前、アークも真澄も引くに引けない現在と相成っている。
ただ冷静に考えれば、これはどこかの団が請け負わねばならない負担だった。
図らずもそれに気付いてしまったがゆえ、文句は言っても手抜きはできない。
テオのために宮廷騎士団の人員を相当数、割かねばならない状況なのだ。事態が事態で公にできなかったところに、第四騎士団が鼻息荒く飛び込んでいったのである。
宮廷騎士団長にしてみれば渡りに船だったことだろう。絶対に感謝はされないだろうが。
ともかく、選考会はどうあっても出なければならない。だがテオもおろそかにはできない。かといって第四騎士団をほったらかすわけにもいかず、おまけに昼も夜も仕事に穴は開けられない。
あっちもそっちもどいつもこいつも。
そう、重なる時は重なる。設備が一つ壊れたら他も壊れるし、誰かが体調を崩せば周囲も順次倒れていく。社会人あるある、仕事とはそういうものだ。「明日やろうは馬鹿野郎」とはよく言ったもので、後回しにするとツケは自分に回ってくる。
一つずつ片付けていくしかない。
分かってはいてもつい悪態をつきたくなりつつ、真澄は「はい喜んで」と肩を竦めるのだった。




