52.砕けたガラスと新たな問題
「もう少し手首柔らかく。肘は動かさない」
「こうですか」
「うん、そう。良くなった。あの姿見の前で練習なさいな」
「はい」
今年の春に仕官に上がったばかりだという楽士は、真澄の指示を素直に聞いて立ち上がった。
その背を見送ると、また真澄を呼び止める声が上がる。
「すみません、何度やってもこの部分がどうしても響かないのですが……」
「ここ? 弾いてみて」
指し示した四小節が奏でられる。
「……そうね。強弱をつけて歌うの。こんな風に」
同じ箇所を真澄は弾いてみせる。同じ旋律だがまるで違う響きに、相手の目が変わった。
「なるほど、強弱……ですね」
「あなた音程は悪くないから、もっと運弓を意識してみて。平坦さがなくなればもっと綺麗に鳴ると思うわ」
「ありがとうございます、練習します」
真剣な瞳ですぐに楽譜と向き合う、グレイスと同い年の楽士。
他にもこの練習部屋には、およそ十人ほどが集まっている。彼女たちは一様に若いが、グレイスを除く全員がまだ対外的な仕事経験がなかった。
そんな彼女たちに、真澄は午前中つきっきりで指導している。
午後になれば第四騎士団へ戻り、騎士たちの訓練補給。最近稼働率が上がっているらしく、訓練以外の任務に関する回復も一手に担っているため、夜は八時九時になるのが当たり前になってきた。
そこから部屋に戻り、自分のための練習に入る。
寝るのは日付が変わってからで、アークと顔を合わせるのもざらだ。これまでの生活が温すぎたのだが、起きている間中ずっとヴァイオリンを触っているので、コンクール前に戻ったような錯覚に陥る。
ふと懐かしささえ覚える日々だが、新しい日々だ。
この二週間ほどは毎日こんな感じである。
異例の早さでの騎士団会食デビュー、さらに宮廷騎士団長を黙らせた即興の腕。おまけに宮廷次席楽士まで完膚なきまで叩きのめしたという真澄の噂は、あの魔術研究機関での勝負翌日には宮廷全体に知れ渡っていた。
道を歩けば凝視されるか目を逸らされるかの二択だ。
軽く化け物扱いである。
進んで道場破りをしたわけではない。断じて違う。
むしろ挑戦を受けて立っただけの話なのに、無駄に尾ひれがついているらしい。おかげで突っかかられることはなくなったが、なぜか子分ができてしまった。
グレイスのように、楽士の中で派閥に馴染めていなかった者たちだ。
まだグレイスは良い方だった。なんだかんだ言って彼女は楽士として有数の家の出であるし、実力が備わっている。嫌がらせはされても、仕事を干されるほどではなかった。
このたびの子分たちは違う。
状況はもっと悲惨だった。家格が低い者は主力楽士から付き合うに値しないとみなされる。楽士として認められないから、楽譜さえ回してもらえない、それが彼女たちだった。
これでは対外的な仕事などできようはずもない。
だが彼女たちに仕官をやめる、という選択肢はなかった。そうなれば家が潰れる。小さくても貴族の端くれ、一族を代表してこの場に立っている以上は逃げられなかったのだ。
運よく欠員が出れば、代演の可能性がある。
いつくるかも分からない、こないかもしれない奇跡を祈りながら、主力楽士たちの機嫌を損ねないよう小さくなって日々を過ごす。誰も助けてはくれない。皆、自分のことで手いっぱいだ。
そんな彼女たちの前にある日現れた、常識外れの楽士。
それが真澄だった。
誰を前にしても――主力楽士たち、宮廷楽士長、あまつさえ宮廷騎士団長さえ――物怖じしない。
最初はそんな真澄を遠く見るしかできなかったのだという。
関係が変わったのは、真澄がグレイスを助けたからだ。楽士の中でも特殊すぎる事情ゆえ孤立していたグレイスだったが、あのスカーフ事件をきっかけに、思い切って彼女たちに声をかけた。
教えを請おう、楽士として生きよう、と。
あの人は絶対に見捨てない、自分たちが楽士である限り、と。
そこまで言われて、無下に断るなどできるはずもない。
指導者の資格を持っているわけではないが、音感を鍛える手伝いはできるし、運弓運指の正しさも身に付いている。減るもんじゃなし、そういうわけで真澄は彼女たちを受け入れた。
うまくいけば、第四騎士団に引っ張れないかという打算ももちろんあった。
が、素直な彼女たちは真澄の予想以上に伸びを見せている。
それぞれに癖はあるが基礎は出来ているので、このまま鍛え上げれば一角の補給線として活躍できそうな勢いだ。彼女たちを見て、真澄の頬は自然と緩むのだった。
* * * *
真夏の炎天下、日陰に入っていても吹く風はぬるい。
こめかみを伝う汗を感じながら、アークは眼下の第四訓練場を眺めていた。疑うわけではないが、こうして抜き打ちで姿を見せてやると部下たちの士気が上がるのだ。
気が向けば訓練の相手をしてやることもある。
だが今日は駄目だ。
いつも以上に暑すぎて、正直よく倒れないもんだと感心しているところである。
隣を窺えば、騎士服をボタン一つ開けず着こんでいるカスミレアズが立っている。つぶさに訓練の様子を眺めるその姿は、明らかに「目を光らせている」状態だ。
「しかしあいつら随分と元気だな」
「冷やしながらやっているようですよ」
カスミレアズの指が、訓練場のとある一角を差す。
そこには人の背丈を軽く超える、巨大な氷柱が立っていた。それも三本。よくよく見れば、騎士たちは動いては氷柱で涼をとり、また元気に駆けだす、というのを繰り返している。
訓練場に神聖騎士の姿はない。
厳しい指南役たちがわざわざあれを造ってやることはないだろう。ということは真騎士あたりが頑張ったのだろうが、それにしても。
「いくらマスミがいるとはいえ、随分と無駄遣いだな」
最近、朝早く夜遅い自分の専属を思い浮かべる。規格外に優秀とはいえ、無尽蔵に負担を強いていいわけではない。なにより本来はアークの専属なのだ、ここまでくると勘違いも甚だしい。
しばき倒してやるか。
青い闘気をゆらめかせたアークに、カスミレアズが焦りを見せた。
「お待ちください、アーク様」
「ああ?」
「誤解です。実は最近、我が団に協力してくれる楽士が十数名いるのです」
言われたことの意味不明さに、アークは絶句した。
「ご心配には及びません。マスミ殿の実験の一環ですから、経費はほぼかかっておりません」
「……聞いてねえぞ。今度は何を始めたんだあいつ」
「仕官経験の浅い、若い楽士を育てているとか」
「どう転んだらそうなる。全方位敵だらけだっただろう」
あちこちから突っかかられ、ちぎっては投げちぎっては投げしていたはずだ。
それがどうしてこうなった。
アークの困惑はしかし、同じくらい微妙な顔のカスミレアズと良い勝負だった。
「ガウディ殿が噛んでいるようですが、私も詳しくは……ただ、派閥に属していなかった者たちから慕われているようです」
「だからってただ働きする楽士だと? にわかには信じられんが」
楽士の時間単価は高い。
そんなもの周知の事実なのだが、自分の専属――またの名を、治外法権の化身――にしてみれば、考慮の対象外になるらしい。
「色々と事情があって、場数を踏むとかどうとか」
カスミレアズも忙しい男だ、断片的にしか聞いていないのだろう。
まあいい。
後で請求が来たらその時に考えれば済む話だ。
どうあれ現在の第四騎士団は実験という名の下ながら、潤沢な補給線を確保できているらしい。総司令官の自分が面食らっているのに、部下たちときたら順応が早すぎである。
スパイ容疑がかかっている相手なのに。
心の中の呟きは、アークとカスミレアズしか知らない事実だ。
そう仕向けたのは自分ながら、いい加減片付けねばならない問題である。そしてヴェストーファでの叙任式からこっち、毎日が目まぐるしく過ぎたせいで棚上げになっていた問題でもある。
「丁度いい時期だ。カスミレアズ」
「はい」
「補給はその実験部隊に任せて、マスミの素性を調べるぞ」
「召喚……でしたね。エルストラスの使役獣とは違うようですし、やはりレイテアの古式召喚術でしょうか」
「多分な」
「いずれにせよ『契約履歴を視る』必要がありますが」
「ああ」
「私には不可能です。魔力量も足りませんし、古式魔術を扱えるほどの腕などとても」
カスミレアズがさっさと匙を投げた。
まあ妥当な判断ではある。
今の世に広く普及している現生魔術は、その術式が平易な術語でも威力を発揮できるよう、洗練を重ねられたものである。術式を理解し、相応の魔力さえあれば誰でも発動ができるように研究が進められてきた、ともいう。
『魔力量の可視化』でさえ、現生魔術だ。
非常に高度で得手不得手が分かれるものの、術式は明らかになっている。
一方の古式魔術は一筋縄では扱えない。
昔はありとあらゆることを魔術で行っていて、それこそ星の数ほど術式と術語が存在していた。火を熾す、湯を沸かすといった生活様式から空を飛んで移動、肉体の病巣を取り除く、果ては相手を意のままに操るなど、現生では考えられないような魔術があふれていたと書物は語る。
しかし破格の効果は、膨大な魔力と精緻な術式を必要とした。
今でいう『熾火』クラスの魔力を当たり前に要求するそれらの古式魔術は、そもそも操れる人間がごく限られた。まして大きな見返りを得るための術式は長く複雑で、かつそのとおりに寸分の狂いなく魔力を操るというのは才能が必要でもあった。
その多くが時代とともに廃れていったのは、必然ともいえる結果だった。
古式魔術はもはや骨董品と同列なのだ。
「こればっかりは確かにな。俺でも無理だ」
力を注ぎ込めばいいというものでもない。
三対一の法則が適用されるのは、あくまでも対象の術式――つまりその組成、もっと言えば壊し方――が分かっている場合に限られる。いかなアークとはいえ、なんでもかんでもぶっ壊せるわけではないのだ。
それを踏まえて、では誰を頼るかという話になるのだが。
「手っ取り早いのは親父か兄貴のどれかなんだが、……」
「……お嫌なんですね」
「分かるか」
「はい」
カスミレアズが気の毒そうな視線を投げてくる。
候補者という名の、宮廷にいる『熾火』たち。
割りに穏やかな父親と長兄は政務で忙しい。朝起きてから寝るまでぎっちり埋められた過密スケジュールを日々こなす彼らを、この程度で引っ張り出すわけにもいかないだろう。
では他の候補というと、ただでさえ次兄の宮廷騎士団長と仲が悪いのだ。次兄以下も似たようなもので、貸しは作っても借りは絶対に作りたくない相手ばかりである。
「仕方ない。奥の手を使うか」
「ではトラスの姉君に?」
「時間も手間もかかるがやむを得ない。その方が漏れる心配もないだろう」
末子のアークには兄姉が沢山いる。そして、兄たちが駄目ならば姉たちを頼ればいい。
ほとんどの姉たちは降嫁してしまい宮廷には残っていないが、それでも会おうと思えばどうにかなる。アークの呟きに、カスミレアズは無言の肯定を返してきた。
「トラスの母上に近く面会したい。申し入れを頼む」
「かしこまりました」
目途をつけたところで視察を切り上げ、アークとカスミレアズは訓練場を後にした。
* * * *
棚上げになっていた問題をようやく片付けると決めたのが、午前のこと。
そしてそれとはまた違った面倒事がアークの下に持ち込まれたのは、その日の午後一だった。
「カスミレアズ。とりあえず、マスミを呼んでこい」
一通りの説明を聞いた後、開口一番にアークは言った。事態の急を理解した右腕は、短い返事とともに大股で部屋を出ていった。
執務室に残されたのは二人。
部屋の主であるアークと、宮廷近衛騎士長のヒンティである。
「この度は無理な依頼となり恐縮です」
「宮廷騎士団長が直接頭を下げてきたなら、二つ返事で頷いてやっても良かったがな。今、この場で」
今回の依頼は貸し以外のなにものでもない。第四騎士団から宮廷騎士団へ、それも特大の。
状況を理解しているらしいヒンティは、絶対にアークの機嫌を損ねてはならないことも同時に理解しているらしいので、言われるままである。
当たり前だ。
専属楽士をしばらく貸してほしいと言われて、どこの誰が素直に頷くというのだ。
それも武楽会の選考会を近く控えたこの時期に。
自然、アークの目は眇められる。
だがしかし、相談の発端となる相手が相手なだけに、アーク自身も一刀両断で断るわけにもいかない。宮廷騎士団もここにきて藁にも縋る思いなのだろうが、それにしても第四騎士団までひっぱりだそうとは事だ。
推し量るに、かなり苦労しているらしい。
「俺に頼むからには他の首席楽士はもちろん、全員試したんだろうな?」
「無論です。帝都にいる者は次席も含めて、めぼしい楽士は全て出しました」
「ふうん。あの宮廷騎士団長でも、さすがにそれくらいの分別は持ち合わせてるのか」
血縁のことながら力いっぱい当てこすってみる。
それに対してもヒンティは言い訳どころか庇いだて一つしない。手堅い男だ。立場をわきまえている。
「まあいい。テオに関わることならば、放っておくわけにもいかん」
軟化したアークの態度に、ヒンティが無言で頭を下げた。
持ち込まれた相談というのは、王太子である長兄の息子――テオドアーシュのことだ。
血縁で見れば半血ながらアークの甥にあたる。
まだ九つではあるが王太子の第一子であり、アルバリーク帝国の王位継承権第二位だ。王太子の弟とはいえ既に王位継承権を放棄しているアークと比べたら、かなりの重要人物である。
これが最近、困ったことになっているらしい。
魔力の回復ができなくなり、それも原因不明だというのだ。
「それで? いつから回復をうけつけていないんだ」
「かれこれ二月ほどになります」
ヒンティが目を伏せる。
予想外の数字に、暫時アークは絶句した。
「は……? 二月も、だと?」
「……はい」
「この、っ――馬鹿かお前たちは!」
だぁん!
口より早くアークの拳が執務机に叩きつけられた。
「ふざけるのも大概にしろ。何のための宮廷騎士団だ、ああ?」
視界が狭まる。目の周りが熱い。
「その名前は飾りか! 宮廷の一切を守るためにお前たちがいるんだろうが!?」
激昂は止まらない。
甥の不憫さが可哀想で、
宮廷騎士団の使えなさに辟易して、
いざという時に役立たずの首席、次席楽士に失望して、
アークの頭に血が昇る。
「なぜ二ヶ月も放っておいた! ただの魔術士じゃない、王家の『熾火』だぞ!? 国境守備もしない、魔獣討伐も任せっきり、そのうえ本分である王族の面倒さえ満足にみられないというのなら、宮廷騎士団に存在価値などない! そんなんだったらもうやめてしまえ!!」
一息に言い切って、アークの肩が上下する。
「俺の、――第四騎士団の首席楽士を試すような真似をしている暇があったら、他にもっとやるべきことはあっただろうが。大陸全土の楽士を招集するぐらいの事態だ、分かってるのか!?」
「……返す言葉もございません」
直立不動で全てを受け止めていたヒンティの拳は、硬く握り締められていた。
さらなる罵倒が胸にせり上がるが、開きかけた口をアークは辛うじて閉じた。大きく深呼吸をする。今さらヒンティを責めたところで失われた二ヶ月は戻らないのだ。
飲み込んだ言葉の代わり、手元にあった文鎮をひっつかみ、腹立ちまぎれにぶん投げる。
透明ガラスで出来たそれはヒンティの頬をかすめ、執務室の扉に当たって砕けた。ヒンティの頬に一筋の朱が走る。それでも宮廷近衛騎士長は、背筋を伸ばしたまま微動だにしなかった。
重苦しい沈黙が降りる。
ことが重篤すぎて、二人でこれ以上話ができる雰囲気ではない。
アークの荒い呼気だけが響く中、ややあって遠慮がちなノックが響いた。
動悸の激しさにアークが無言でいると、小さな音を立てて扉がゆっくりと開いた。その向こうからのぞいた顔は、
「……アーク? どうしたの、大きな声出して」
なにごとかと目を瞬かせる真澄だった。
その目は足元に散らばるガラス片を見て、驚きに見開かれた。




