5.認めない、認めないと言ったら絶対に認めない
カスミレアズ=エイセルの目は否応なく眇められた。
報告に来た兵士がひい、と息を呑む。この兵士が悪いわけではないので怒りをぶつけるつもりは毛頭ないのだが、顔はそれなりに物騒になってしまったらしい。
よりによってこのクソ忙しい叙任式当日の朝に、こんな面倒事。
舌打ちしたい気持ちを抑えきれず、カスミレアズは深いため息を吐いた。
「足取りはまったく掴めないのか?」
「割ける人数は全て動員しておるのですが……」
尻切れの語尾は、事態が芳しくないことを如実に表している。
これ以上この部下を問い詰めたところで詮無い。早々にカスミレアズは諦めた。
「分かった。捜索部隊を先に動かしてくれたことに感謝する。引き続き宜しく頼む」
「はっ」
「私はアーク様に報告してくる。次の指示が出るまで、捜索の手は緩めるな」
カスミレアズの指示に敬礼をするが早いか、兵士は踵を返して走り出した。
そう、それでいい。
叙任式まで残り二時間を切っている。少しの迷いも許されない時間になってきた。寸暇を惜しんで行動すべきだ。
時間厳守だと昨夜申し伝えたが、主は未だに起きてくる気配もない。
経験則からしてこの時間が特に珍しいわけではなく、むしろもう少し寝ていても平時は問題にならないが、今日は違う。今日というか、今、まさにこの瞬間に問題が勃発した。
これはどうあっても叩き起こさねばならない事態である。
知らず、もう一つ盛大なため息がカスミレアズの口から洩れた。
主の寝起きはあまり――いや、かなり、宜しくない。
* * * *
「アーク様」
天幕の外からくぐもった声が聞こえてきて、真澄は思わず首だけ起こして入口を凝視した。
「アーク様、起きていらっしゃいますか」
どうしよう、代理応答した方が良いんだろうか。お求めの人物は完全に正体不明になって寝こけてますよ、と。
しかし寝台は幕内の最奥に位置していて、入口と正反対にある。声を張り上げる労力を考えれば、取り次ぎに出た方が良さそうだ。そう判断して真澄は身体を起こそうとしたが、意志に反して身体が全く動かなかった。
意識は覚醒しているのに、身体が動かないとはこれ如何に。
かろうじて動く左腕でどうにか掛布をめくると、そこには腰にしっかりと巻き付く太い左腕が見えた。冷静になってもう一度首を上げてみると、腕枕の態でこれまたごつい右腕が回り込んでいる。
ベッドの中は温かい。
特に背中が湯たんぽのようで、よくよく耳を澄ませば規則正しい寝息が聞こえてくる。
おいちょっと待て。
昨晩の激しいあれやこれやが一気に真澄の脳裏に蘇ってきた。そして身悶える。あり得ないあり得ない、今なら恥ずかしさで憤死できるレベルで恥ずかしい。
とりあえず落ち着こう。
まずは距離を取るべきだ。
そう思って真澄はぐいと腹筋に力を入れたが、一瞬離れた背中は次の瞬間思いっきり引き戻された。
「ぐえっ」
色気のない声が出たがこればかりはどうしようもない。
馬鹿力の男に無造作に抱き寄せられたのだ、あちこちが締まってそりゃ変な声も出る。
「は、離せええぇぇえ」
ぐぎぎぎ。
渾身の力を込めて肘を突っ張るが、ごつい身体はびくともしない。それどころか背中からさらに覆い被さるように抱き寄せられた挙句、硬い脚が思いっきり絡まってきた。
拘束度合と密着度合が二段階飛ばしで上がった気がするのは気のせいか。多分気のせいじゃない。
起きてんのかコイツと訝ってみるも、寝息はまったく乱れていない。どうやら背中の相手は未だ深い眠りについているのは間違いないらしい。
であれば、遠慮は無用。
「ぬおおおお」
気合の声はしかし空回りする一方で、ベッドの端はすぐ目の前にあるのにそれが遠い。
そうこうしている内に、天幕の外からまたも声がかかった。
「アーク様、カスミレアズです。緊急事態ですので、失礼させて頂きます」
「ちょっ、ちょっと待ってそれはマズい……!」
どんな緊急事態か知らないが、こっちだって緊急事態だ。
しかし真澄の制止はどうやら聞こえなかったらしく、入口の幕がばさりと音を立てて翻った。
終わった。
こんな醜態を晒すなんて、妙齢の女性として致命的に間違っている。
規則正しく近づいてくる靴音を聞きながら、真澄は心の中で泣いた。尚、心情としては男泣きに近いものがある。
横になったまま為す術なく待っていると、視界に足が二本入ってきた。
身体は拘束されているものの、かろうじて首はまだ自由になる。枕の上でひょいと首だけ仰向けになると、目の前には昨日の金髪碧眼の男がいた。カスミレアズというのはこの男の名前らしい。確か兵士たちはエイセル様と呼んでいたから、つまりフルネームはカスミレアズ=エイセルというようだ。
よもや漢字文化ではあるまいが、カスミとか思いっきり名前が似てる上に女子っぽい。思わずちゃん付けで呼んでやりたい衝動に駆られるが、そうやってつらつらと考えていることは全て現実逃避である。
目が合う。
見下ろしてくる碧眼は力いっぱい「ああやっぱり食われたのか」と残念そうな色だ。その唇が何かを言いかけた時、真澄は先手必勝で叫んだ。
「断じて違うからね!?」
真澄の剣幕に、カスミレアズは顎を引いて多少仰け反った。
「男女の関係とかそんな事実は一切なかった! その疑いの目、断固抗議するわ!」
「しかし、その格好で言われても」
両者一瞬止まり、真澄は自分の身体を検めた。
先ほど見たとおり腕は絡みついたまま。ブラは無い。スリップ一枚。それも肩紐が二の腕にかかって脱げかけている。
極めつけは胸元に無数に散る赤い跡。
この野郎遠慮なくつけやがって、とは今さら後の祭りすぎて言えた義理じゃない。
カスミレアズが言わんとするところの「説得力皆無」という状態は分かったが、真澄としてはここで認めるわけにはいかない。
「寝る時はいつもこの格好なのよ! ついでにこのキスマークは彼氏のよ、断じてこの男のなんかじゃないっつの!」
「彼氏?」
「いなさそうとか言いたいわけ? 余計なお世話よ!」
叫びながらも、カスミレアズの鋭さに感服する。
実態は彼氏なんて年単位でいない。お陰で昨夜はものすごく大変だったというのは余談だ。
「……うるせえなあ」
と、うなじに吐息がかかり、真澄の背中が跳ねた。
カスミレアズの視線が真澄の少し後ろに投げられる。
「アーク様。くれぐれも時間厳守でとお願いしたはずです」
「あー……悪い。昨日少しばかり楽しみすぎた」
「だから事実無根の話をさらっと言うな!」
もがきながらも抗議を上げる。
すると、アークの腕の拘束がきつくなった。
「事実無根? あんなにあ」
「うっさいそれ以上言うな!」
渾身の力で跳ね起き、掌でアークの口をまるっと塞ぐ。
「とにかく何も無かった! これ以上何か言ったら名誉棄損で訴えてやる!」
「……新しいタイプですね」
カスミレアズが驚きを隠さない。くく、とアークの喉が鳴った。
腰に回されていた腕がするりと解かれる。起き上がって掛布を除けたアークは、見事に上半身裸だった。
服の上からでは分からない筋肉が惜しげもなく晒される。それを目の当たりにした真澄は、頬を染めるのではなく心底嫌そうな顔で頭を抱えた。
それだけ立派な体格だったら、そりゃ逃げられないわ。
肩幅など真澄の二倍はありそうだ。これで勝負になると思う方がどうかしている。端から無駄なあがきだったかと思うと、それはそれでいたたまれない。
真澄の視線に気付いたのか、着替えながらアークが言った。
「恥じらいを持って目を逸らすならまだしもお前、真正面から見て全力で嫌そうな顔するあたり、本当に色気ねえなあ」
「私が何を見てどんな顔しようが私の勝手でしょ、ほっとけ!」
「まあいい。とりあえず、大人しく待ってろ」
手早く軍服を着たアークは、昨晩とは違い首元のボタンを上まで留めながら真澄の頭を撫でてきた。
逃げようと頭を引くが、握力も規格外なのかそのままわしわしと撫でられ続けた。これだけ力があり余ってるなら、林檎くらい軽く潰せそうだ。
言葉からするとどうやら留守番をさせられるようだが、脱走するのに千載一遇のこのチャンスを逃す手はない。となれば、物分かり良くさっさと見送って、速攻とんずらかますのが賢い選択だろう。
「いってらっしゃい」
「随分と素直だな」
「別に? 留守番は得意ですが何か?」
満面の笑みで胸を張ると、一瞬アークの動きが止まった。
そして、
「……脱走しようとしても無駄だぞ」
「えっなんで?」
つい本音が出た。
気持ちが前のめり過ぎたのが良くなかったと反省するも、もう遅い。
「お前やっぱり馬鹿だな。この天幕は俺が認証しないと誰も出入りできない仕様だ」
詳細は分からないが、自分の目論見は挫かれたことだけは分かる。
「心狭いと思う。認証くらいしてよ」
「もう一回言うが、お前やっぱり馬鹿だな」
「く、いちいち……!」
重ねて馬鹿にされて額に青筋が浮かぶも、アークとカスミレアズはさっさと幕を出て行ってしまい、それ以上議論を重ねる余地はなかった。