48.楽士というもの・5
夕涼みの気配が漂い始める午後五時、真澄とグレイスは宮廷の最奥に位置する中央棟に来ていた。
相も変わらず棟はそびえ立っている。
そして、周囲に広がる庭園は何食わぬ顔でそこにある。
真澄は「騙されんぞ」とばかり目を眇めて庭園を凝視した。奥からの威圧感に油断してうっかり気安く庭園を横切ろうものなら、あの激烈なプレッシャーに晒されるのだ。喜び勇んでさあ行こう、とはならないのである。
隣にいるグレイスも知っているのか、浮かない顔だ。
いくら認証を持っているとはいえ魔力などほぼ無い者同士、自分達だけで前庭を横切る勇気はなく立ち往生していると、どうやら話が通っていたらしくエスコートの騎士が一名出てきた。
渡りに船とはこのことか。
困っていたところに差し伸べられた手に、真澄とグレイスは自然と笑顔で礼を述べた。
ところが、である。白の礼装に黒紫の肩章――宮廷騎士団のそれ――を持つ彼は、頬を緩めるどころか愛想が一つもないときた。真澄とグレイスの身元を確認する時にだけ声を発し、それ以外の道中は一切の無駄口を叩かなかったのだ。
挨拶さえ省略するとは徹底している。
その背についていきながら、真澄は声を落としてグレイスにそっと尋ねた。
「いつもこんな感じなの?」
大雑把な質問だが、大意は伝わっているはずだ。
「いえ……私が直接ご一緒したことはありませんが、でも」
グレイスが眉を寄せて首を捻る。
「他の楽士からは宮廷騎士団はどこよりも誇り高い方ばかりで、堅く職務に邁進されると聞いています。こういう、……不躾といいますか、そういうお話はあまり……」
「誇り高い、ね」
さて、それはどうだろう。
戸惑うグレイスをよそに、真澄は先を歩く隙のない背中を油断なく見つめた。
いくつの角を曲がったか数えるのも馬鹿馬鹿しくなった頃、ようやく会場へとたどり着く。エスコートの騎士は端的に「それでは」と言い残し、早々に去っていった。
広間はそこまで大きくはない。
部屋の中央に豪奢な飾りテーブルが準備されているが、席は五人分しかない。
天井には光球が鈴なりに煌めくシャンデリアがある。周りにガラス玉があしらわれているのか、光が乱反射して華やかだ。壁にはいかにも高価そうな絵が数枚。季節が違うので今は使わないだろうが重厚な暖炉があり、その上の飾り棚には見事な花瓶に大輪の花が生けられている。
楽士の演奏席はバルコニーの手前に設えられていた。
演奏用にはもったいない立派な椅子と、優美な譜面台が既に置かれている。とりあえず楽譜を台に置きながら、真澄はグレイスに話しかけた。
「ケースってこの辺りに置いたら見た目良くないわよね。普通どうするもんなの?」
「あ、次の間がありますからそちらに」
同じように楽譜を出していたグレイスが、とある方向を指差す。真澄たちが案内され通った両開きの扉とは別に、片開きの控えめな扉があった。
「なるほど。音合わせが終わったらとりあえずあの部屋で待機?」
「いいえ、楽士は最初から席に着いています」
「そうなんだ。ついでにもう一つ訊いていい?」
「ええ、どうぞ」
「なんで席が四つあるの?」
楽士長から指名を受けたのは真澄とグレイス、それにレフテラという名のいじめっ子だけである。ここにきて実は楽士長も参加でした、だとしたら面白いがどうだろう。
しかしそんな真澄の期待はあっさりと否定された。
「そこは大ヴィラードが座ります」
「なにそれ」
「低音を担当するヴィラードです。もうすぐ来ると思いますが、誰が来るかは」
と、入室のノックが三回響く。
首を傾げかけたグレイスが視線を投げ、真澄もその動きにつられる。入口には噂をすればなんとやら、背中に大ヴィラード――真澄の目には、思いっきりチェロの親戚にしか見えない――を背負った楽士が、随分と腰の低い態度で案内されてきた。
エスコート役は先ほどと同じ騎士だ。
彼は相も変わらず無愛想に「では」とだけ言ってさっさと姿を消した。案内することが仕事であろうから別に構いやしないが、人好きのする第四騎士団の面々と比べると随分と素っ気ない。あの宮廷騎士団長にしてこの騎士あり、だろうか。
そんな堅い騎士とは対照的に、入ってきたのは柔和な目元の楽士だった。
「こんばんは。グレイス、あなたが指名されたと聞いて飛んできました」
そう言って頬をほころばせた彼は、グレイスと同じ年頃の若き青年だ。明るい金髪に緑の瞳がその雰囲気を殊更に柔らかく見せている。
「僕は嬉しいですけど、それにしても一体どういう風の吹き回しですか? 騎士団関係の仕事とは珍しい」
「ええ、まあ。色々とわけがあって……タイスト、こちらマスミ=トードー様です。碧空の楽士様よ」
「碧空!?」
人懐こかった笑みがそこで驚きに変わる。
遠慮なく頭のてっぺんからつま先までを眺められながら、真澄は片手を差し出した。
「初めまして。様付けは堅苦しいので、どうぞマスミと呼んでください」
「えええ、そんな! だって碧空っていったら『あの』第四騎士団総司令官の専属楽士様でしょう!? すげえー……噂だけは聞いてましたけど、まさかご一緒できるなんて夢みたいだ」
子供さながらの輝く瞳で見つめられた挙句、両手での握手。控えめなグレイスと違い、感情の発露が素直だ。
それにしても、噂。
どうやら真澄は疑うべくもなく「鳴り物入り」で宮廷入りを果たしていたらしい。真澄自身の実力の程は定かではなかったはずで、その点差し引くとつまり第四騎士団総司令官であるアークの立ち位置が否応にも見えてくる。
真澄は曖昧に笑いながら握手を解き、若き青年から少しだけ距離をとった。
タイストという名の彼は気にする風でもなく、旧知であるらしいグレイスに向き直る。そして流れるように彼女の細い手を捉まえた。
「それでグレイス、今夜のあなたは何番ですか? 一番?」
「失礼ですよタイスト。碧空の楽士様が一番に決まっているでしょう」
「でも……じゃあ、」
「二番でもありません。その席はレフテラ様がお座りになられますから、私は三番です」
毅然と言い放ちながら、グレイスがそっとタイストの手を外した。
まだ何かを言いたげにしているタイストを尻目に、グレイスが真澄に左端の椅子を「どうぞ」と指し示す。
「三人揃いましたから、音合わせしましょう。マスミさまはこちらのお席に」
「いいの? 一番とか三番とか言ってたけど、私はどこでも」
「いけません。楽士にも序列がありますから」
首を横に振ったグレイスは、実力に則った席次を守らねば混乱をきたすこと、それは楽士にとっても騎士や魔術士にとっても良くないことであるのだと、控えめながらはっきりと説明してくれた。
その話をしている傍ら、大ヴィラードを抱えたタイストが向かって右端の席につき調弦を始める。
観客側から見てつまり左から高音の第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリンと並んでいき、右に行くにつれて低音の楽器が並ぶ、まさにオーケストラと同じ考え方がアルバリークでも浸透しているらしい。その法則は三重奏や四重奏など規模を小さくしても同じで、たった四人の小さな配置ではあるが、それは真澄にも馴染みのある並びだった。
唯一気になったのはタイストの不満顔である。
グレイスが説明してくれたことを、出仕してそれなりに長そうな彼が知らないはずがない。
片や熱い眼差しを隠そうとせず、片や気付かないふりで保とうとする距離。
二人の間にひとかたならぬ想いが見え隠れするが、さりとて真澄に踏み込める問題かどうかは定かでなく、楽士特有の事情であるのかさえ分からず、真澄は横目で窺うに留めた。
そんな微妙な空気の中、再び部屋の扉がノックと共に開かれた。
レフテラだ。騎士のエスコートに礼もなく、真澄たちに挨拶もない。いっそ清々しいほど高飛車であるが、彼女の顔は演奏の席次を確認した時にわずか歪んだ。
開けられている二番の席が気に入らないのだろう。
どれだけグレイスに対してマウントを取ろうとも、ここに真澄がいる限りレフテラ自身は最高位の誉れは受けられないのだ。気位の高そうな彼女にしてみれば、さぞ悔しかろう。しかし吠えたところで無駄だと悟っているのか、レフテラは何も言わずヴィラードを取り出し、調弦を始めた。
何曲かを通す間、四人はほぼ無言を貫いた。
必要最低限、次はどの曲をやるかなどの事務的なやり取りはあったが、それっきりだ。なんとも複雑怪奇な関係だが、四重奏としての形は最低限保っているのが不思議でもあった。
そして最後の合わせが終わった時のこと。
あと五分で会食が始まる時分、真澄たちは静かに着席して騎士団長たちの到着を待っていた。無論会話など一切ない。そんな息詰まる静寂の空間に、グレイスの「あ」という焦りの声が響いた。
真澄は当然ながら、レフテラもタイストも注目する。
グレイスは真澄をまっすぐに見つめながら、慌てて立ち上がった。
「マスミさま、伝え忘れていたことが」
一歩踏み出したグレイスは、しかしその場で凍りついた。
「座りなさい。この期に及んで準備ができていない楽士など恥ずかしい」
グレイスの右腕をレフテラががっちりと掴んでいる。
手の甲の筋が浮かび、指が食い込み、傍目にも明らかに敵意ある制止だ。痛みに顔を歪めながらも、グレイスは気丈に言葉を繋げた。
「申し訳ございませんレフテラさま、ですが今少しだけお許しを」
焦るグレイスの懇願を遮ったのはレフテラではなく、高らかなノックだった。
全員がはっとして扉を注視する。
レフテラの腕にさらに力が篭もり、それ以上の問答は無言の圧力に抑え込まれた。グレイスが苦渋の顔で再び腰を下ろし、彼女は申し訳なさに泣きそうな目で真澄を見た。
「ありがとう、大丈夫よ」
声も出せないグレイスに、真澄は笑顔を向けた。
きっと勝手を知らない真澄に某かの心構えを教えてくれようとしたのだろう。苦手な目上から睨まれることを分かっていて尚、真澄のために。
どんな難癖をつけられようと、切り抜けてみせる。
優しい友人のために真澄が心に誓った時、両開きの扉が大きく開けられた。
* * * *
最初に部屋に入ってきた人物――深緑の肩章を持つ第一騎士団長は、その壮年の顔にあからさまな驚きを浮かべた。後に続いた真紅の第二騎士団長と鮮やかな山吹の第三騎士団長も、一様に目を瞠る。最後に入室してきた青い碧空の第四騎士団長であるアークだけは、驚くというより力いっぱい顔をしかめる始末だ。
四人は慣れた様子で豪奢な卓にそれぞれかける。
だがその視線は真澄に集中しており、リリーの言った「異例の早さでの会食演奏デビュー」はあながち間違いではないということが見事に証明された格好である。約一名、歯ぎしりが聞こえそうなほど苦虫を噛み潰している人物だけは、それとは違う物騒なことを考えていそうだが。
驚きと好奇、一部殺気が混ざる会場の空気は混沌そのものだ。
そんな中に最後の一人である宮廷騎士団長が到着した。黒紫の肩章は威圧感に溢れていて、他の鮮やかな四人四色とは一線を画している。
彼は卓に向かって歩く途中、ちらりと真澄に視線を寄越してきた。
顔色はまったく変わらない。想定の範囲内というか、むしろ値踏みするような品定めするような挑発的な視線を無遠慮に投げてくる。真澄がこの場所に引きずり出される羽目になった元凶がこの御仁であることは、やはり疑いようのない事実らしい。
そんな宮廷騎士団長がお誕生日席というか司会席についてすぐに、会食は始まった。
月に一回催されているという騎士団長会食は、大仰に盛り上がりもせず、かといって沈黙に凍ることもなく、淡々と進んでいった。
会食というだけあって、給仕が入れ代わり立ち代わり、とりどりの皿を運んでくる。その進行度合いに気を配りながら、真澄たちは邪魔にならないようひたすら曲を奏で続けた。
途切れないよう、ほぼ続けて弾きっぱなしである。
特に第一ヴァイオリンである真澄と、低音担当のタイストの負担は大きかった。コンサートや結婚式での演奏であっても、間に必ず休憩は入る。だがこの会食では休憩は一切認められず、確かに誰しもが気軽に受けられる仕事ではなかった。
実力が伴わない者では腕を壊しかねない。
久しぶりに演奏疲れを感じながら真澄がそんなことを考えていると、最後の皿を食べ終えた宮廷騎士団長が「では」と口火を切った。
低音のタイストがゆっくりと音を小さくしていく。終わりの合図だ。グレイスとレフテラもフェードアウトに続いたのを耳で感じ、同じように真澄も演奏を静かに止めた。
「他に報告は?」
口元を白いナプキンで拭いながら、宮廷騎士団長が問う。
四人の騎士団長は全員が首を横に振り、会食の終わりに同意を示す。余裕をもって彼らを見渡した宮廷騎士団長は、そして言った。
「なければ、最後にお披露目といこう」
予想していた閉会宣言は来なかった。
流れが読めずに真澄が目を瞬いていると、黒紫の騎士団長と目が合った。
「さあ、碧空の楽士。お前が何者であるか、本物の楽士であるのか、ここで証明してもらおう。そのために今日ここに来てもらったのだから」
不遜な言葉と酷薄な笑みだ。
それをアークが射殺さんばかりに睨みつける。残された三人の騎士団長は、不穏な空気に怪訝さを隠さない。
真澄がちらと隣を窺えば、グレイスが今にも崩れ落ちそうな様子で目を瞑っている。悪い予感が当たってしまった、そんな予感を持った彼女自身を責めるような面持ちだ。
レフテラは無表情、タイストは目を丸くしている。
なるほど、どうやら自分は試されているらしい。
それもだまし討ちの形で。
理解した真澄はゆっくりと立ち上がった。
事前に渡された三十二曲は小手調べだったようだ。あるいは平気な顔で全てを弾きこなしたのが癇に障ったのかもしれない。まさに貶められようとしているその瞬間ながら、真澄は背筋を伸ばして前へと歩み出た。
「わたくしが他の何者でもない、わたくしである証明をしてみせよ、と?」
「碧空の称号に相応しいと思うのならばな。無論、辞退しても委細構わない」
急に言われて対応できまい。
そんな悪意が透けて見え、真澄は息を吐くふりをしながら小さく笑う。が、それは宮廷騎士団長にしっかりと見咎められていた。
「何が可笑しい」
語気が強くなる。真澄はそれを正面から受けるため、宮廷騎士団長の真向かいに卓を挟んで立った。
集まる視線に全身を焼かれそうだ。
だが怯むことなく、むしろ全員の目にしっかりと焼き付くように、真澄は再び調弦を始めた。小さくヴァイオリンを鳴らし指板に視線を留めたまま、真澄は呟いた。
「相応しいかどうかを決めるのは、わたくしでも、ましてあなたでもありません」
反論はなかった。
あるいは聞こえていなかっただけなのかもしれないが、どうあれ些事だ。
「これは、第四騎士団総司令官へ捧ぐ曲です」
真澄は弓を弦に置く。碧空というアークの代名詞が飛び出した時から、これを弾こうと決めていた。
* * * *
通称、バッハのシャコンヌ。
ヴァイオリンのみの独奏ながら、時間にして十分以上、257小節の壮大な長さを誇る曲である。
ヨハン=ゼバスティアン=バッハの代名詞のような美しく透明な主題が最初のわずか8小節で提示され、あとはひたすらその主題が姿形を変えて三十回以上も繰り返されていく。
ただの繰り返しと侮るなかれ。
祈りにも似た主題は最初の小節から重音奏法をふんだんに取り入れられ、たった一つのヴァイオリンがこれほど豊かに歌うのかと驚かされる。
聴きようによってはもの悲しさを覚える主題。
それは曲の半ばに差し掛かると劇的な変化を見せる。夜通し吹き荒れた雨が上がった、早朝。伸びていく静かな暁の光を見るように、単音での美しさが際立つ。そして光が輝きを増すかのような重音がまた胸に迫るのだ。
大勢で織り成す華やかさとは程遠い。
けれど孤高に重ね続ける祈りはやがて深淵へ到達する。
連なり響く音に、真澄はアークを見ている。




