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4.盛大に噛み合わない一夜


「威勢がいいな。色仕掛けは通用しないと聞いて、方針転換か?」

「方針転換もへったくれも、って、ちょっと!」

 抗議の声を上げて身を捩るも、腕の拘束はきつい。

 不意に高くなった目線に天幕内の全容が映る。次の間とは違い、かなり広い。書類や本、インク壺などが雑多に積み上げられた執務机の他に、来訪者用なのか別のテーブルと椅子まで揃っている。さすがに建屋ではないからソファは置いていないようだが、それでも六人かけられる大きさは破格だし、それなりに複雑な文様もしっかりと彫られている。


 あの世にも家具職人がいるのだろうか。

 むしろ捨てられた家具が昇天してこの姿か。


 システムがまったく分からない。だが見える質感は本物だ。何より、さっきまで座っていた絨毯はふかふかだった。

 担がれながらもつい物珍しさできょろきょろと周囲を見回してしまう。

 側面の幕には薄手のコートがかけられている。冬でもないのにコートということは、雨避け用だろう。肩にやたらと派手な飾りがあしらわれているが、真澄にしてみれば「格好いい」というより「実用性に乏しそう」というのが正直な感想だった。

 と、くく、と噛み殺した笑いが聞こえた。

「間抜け面だな。珍しいものなど何一つないだろうに」

「さっきから頭悪そうとか間抜けとか失礼にも程があんでしょ!」

「人の陣地に勝手に忍び込んで良く言う」

 予告なく真澄の身体がぽい、と放られた。

 くるりと視界が回ったが衝撃はこない。むしろ逆で、ぼす、と音を立てた後、真澄の身体は柔らかい寝具に沈み込んだ。


 ……ちょっと待て。

 は? 寝具? 今寝具って言った?

 

 こういう場面にしては我ながら冷静すぎる状況分析だった。慌てて左右に視線を走らせると、ダブルよりもう少し広そうな寝台の上に、真澄の身体は放り投げられていた。

 ギシ、と寝台が軋む。

 アークの片膝が乗り上げている。口元を不敵に吊り上げながら、右手を一歩真澄側に寄せる。好戦的な黒曜石の瞳が、夜の灯りにギラリと光った。

 そして素直な感想が真澄の胸にせり上がる。


 とって食われそう。


 今になってようやく理解した。これか。金髪碧眼のエイセルとやらが残念そうに見てきた理由は。

 食い散らかすとか言っていたが、本当に腹に齧りつかれそうだ。あるいは首かもしれないが、いずれにせよ今以上に痛い未来がちらつき、緊張に息が詰まる。

 明らかに猛獣然とした様子の相手に、思わず真澄は後ずさる。が、両手両足が縛られていて身体は思うように動かない。おまけに痛い。

 そうこうする内に、アークの身体が覆い被さってきた。

 逃げ場のない真澄の背中はベッドに押し付けられ、見上げると、眼光鋭い男が勝ち誇ったように笑っていた。

「その程度の拘束も解けないのか。確かに肉体はまったく鍛えられていなさそうだな」

 言い終わると同時、真澄の手足が自由になった。

 真澄がどれだけ力を込めてもびくともしなかった縄を、この男は片手で引き千切ったらしい。その圧倒的な力を目の当たりにして、身体が竦んだ。

「バレるのを恐れて複雑な解除キーを設定されたのか? だがこうなった時点で発動しない隠蔽術はお粗末に過ぎる」

「だから、解除キーとか隠……なんとかの術とか、私には心当たりがなくて、」

「ないだろうな。隠蔽術とはそういうもんだ。だが、……」

 アークの右手が真澄の左手を絡め取り、寝台に押さえつける。

「……お前、やはり阿呆の捨て駒か? 解除に必要な魔力さえないぞ?」

 体勢は艶めいているが、台詞が酷い。

 言っているアークは眉間に皺を寄せている。先ほどの人を追い詰める時に見せた楽しそうな様子は消え、完全に怪訝な顔になっている。

「カスミレアズとの接触でもない。俺の名前でも、肉体の接触でもない。まさかとは思うが本当にただの女か? それにしては防衛線が無反応ってのもよく分からんな」

 言うが早いか、胸を揉まれた。

 ものすごく自然に、かつ慣れた手つきで、しかも結構無造作に。

「ちょっ、おい、揉むな!」

 ごすっ。

 思わず自由だった右手で、野獣の頭頂部にチョップをかます。言葉遣いがおっさんのようになったのは緊急事態ゆえ致し方ない。

「もう少し慎みのある言い方はできないのか」

「勝手に人の乳揉んどいて慎みとかへそが茶を沸かすわ!」

「面白いやつだな、お前」

 くく、とまた楽し気に喉が鳴った。

 逆光に近い暗さでも、相手の口の端が上がっているのが分かる。猛禽のように目力のある端正な顔立ちだ。寝台に身体を沈めたまま呆けたように真澄が眺めていると、大きな体躯が圧し掛かってきた。

 首筋に熱い吐息がかかる。

 背筋が泡立つのも束の間、もっと熱くぬめる舌が真澄の首筋を舐めあげた。

「んっ、やだ、あっ!」

「嫌? 本気で抵抗するやつは、殴ってでも逃げようとするぞ?」

「殴、る?」

 差し出された選択肢に、先ほどから絡めとられたままの左手を見る。指が絡まっている。相手の掌はそれでも尚大きくて、真澄の手首までしっかりと握りこんでいる。

 逃げるにはこの手を振り解かなければならない。

 だがこの男がそれを簡単に許してくれるとは到底思えない。下手に暴れれば指の一本や二本、簡単に折られてしまいそうだ。

 その想像に、真澄の心臓が嫌な音を立てた。


 二度と弾けなくなるかもしれない。


 ヴァイオリンを弾く為に不可欠の左手。腱鞘炎でさえ致命的なのに、筋を違えたり骨折となればその影響はいかばかりか。

 真澄の脳裏にあの日の眩しい舞台が蘇る。

 小さな頃から演奏技術には定評があった。神童、百年に一度の逸材、天才とさえ謳われもした。国内のコンクールを総なめし、音楽で有名な高校と大学に籍を置いた。ヴァイオリンをやっている同世代で藤堂 真澄の名前を知らない者はいなかった。

 華やかだった国際コンクール。

 その晴れ舞台で感情の欠落した演奏だと酷評され、真澄は音楽の世界からすっぱりと身を引いた。若手の登竜門としても名高いその舞台で受けた評価は一生ついてまわる。失格の烙印を押された真澄の道は、そこで閉ざされたも同然だった。


 だが演奏家として生きることは諦めても、演奏することそのものは諦めていない。


 そんな逡巡が動きに出た。

 執務机に置かれたヴァイオリンケースに真澄は視線を投げる。組み敷くアークはそれを見逃さなかった。

「やはり武器を隠し持っているか」

 言うが早いか、寝台を軋ませてアークが身体を起こす。そのまま大股で執務机に歩み寄り、武骨な手がヴァイオリンケースを撫でた。

 真澄はどうにか身体は起こしたものの、寝台に座り込んだままで立ち上がることができなかった。縄の拘束は解けているが身体のあちこちが軋んで痛む上、足首を捻っている。まして目まぐるしく変わる展開に理解が追いつかず、どんな反応を返せばよいのかさえ分からないのだ。

 アークの手がケースの表面を検める。

 やがてチャックに辿り着き、一瞬怪訝な顔をしてみせるも、すぐにそれは開かれた。

 長方形の箱が真ん中で二つに大きく開く。片側にはヴァイオリン、もう片側には弓が三本入っている。それ以外は肩当てと松脂まつやに、替えの弦だけだ。アークが疑うような武器など当然入っていない。

「ヴィラード……? それにしては少し小さいようだが。お前、楽士を装ったスパイか?」

 アークが横目で問うてくる。相も変わらずスパイ容疑をかけられているが、しかしその割には余裕の表情だ。

「だから違うって、……ちょっと!」

 否定途中で真澄は声を張り上げた。見過ごせない光景が目の前で広がったからだ。

 止める為に寝台から飛び降りる。その瞬間、左足首に激痛が走って思わずたたらを踏んだ。それでもなりふり構わずアークの傍により、その太い腕に取りすがった。

 その手の中にはヴァイオリンがある。この男の力ならば、やろうと思えば弦を引き千切ることも、駒を倒すことも、引いては本体そのものを叩き割ることさえ可能だろう。


 これは形見だ。

 小さな頃から師事した恩師が亡くなった時、遺言でこのヴァイオリンを譲り受けた。丁度、大人用のフルサイズになる中学生の頃で、その時からずっとこのヴァイオリンだけを弾いてきた。

 毎日毎日、寝食を忘れるほどに弾いた。最初は大好きだった恩師を感じたくて。悲しみが少しずつ薄れた頃からは、ただ弾きたくて。風邪を引いて寝込んだ時でさえ、弾きたくて弾きたくてベッドの中で弾いた。

 他のどんな銘器でも出せない、自分の人生そのものと言っていい音色で歌えるのはこのヴァイオリンだけなのだ。


「やめて、お願いだから手荒に扱わない、で」

 体重をかけた左足が悲鳴を上げる。鋭く走る電流のような痛みに、額に汗が滲む。楽器に手荒なことをされる前に腕に縋ったもののしかし、真澄はアークに倒れこむ形で地面に膝をついた。

 息が浅く、速くなる。

 そんな真澄を見下ろしながら、アークは片手でヴァイオリンを裏表と眺め、「解せない」とでも言いたげに肩を竦めた。

「これがそんなに大事か?」

 アークの指が弦を爪弾く。アー線が震え、基準の音が夜のしじまに響いた。

 空気が静寂を取り戻してからアークが言った。

「弾けよ。まがりなりにも楽士を装っているのなら弾けるだろう」

「嫌」

 間髪入れずに即答すると、アークが目を瞬いた。

「武器じゃなくて楽器だって分かったならそれでいいじゃない」

「なるほどそういう理屈か。ではお前にかかっているスパイ容疑はどう説明するんだ?」

「だから違うんだってば。スパイなんて知らない。私はただの一般人」

「楽士は一般人とは違うだろう」

「楽器持ってるからってプロとは限らないでしょ? 何言ってんの?」


 どうも会話が噛み合わない。

 世代差が五百年以上開いているせいなのか。現代では――もう死んでしまったが――ヴァイオリンに限らず、あらゆる楽器が普通に手に入れられる。それも楽器そのもののレベルを選ばなければ、さして金額もかからない。フルートであれトランペットであれ、庶民が楽器を持って歩いていたとしても何らおかしな光景ではないのだ。

 しかし、彼の生きていた中世あたりは違ったのか。

 ふと湧いた疑問に、真澄は冷静さを取り戻した。よくよく考えてみれば産業革命も起こっていない古い時代のこと、機械による楽器の大量生産などできるはずもない。となればおそらく受注生産であっただろうヴァイオリンの祖先たちは、この男の主張する楽士――いわゆるプロの演奏家にあたる職業と推察するが、彼らの手に渡って然るべきものだったのだろう。

 そう結論付ければ、この噛み合わなさも納得だ。

 であれば、これ以上プロかどうかという議論は不毛なので、真澄は軌道修正すべく口を開いた。


「そもそも、何をどうしたらスパイじゃないって信じてくれるのよ?」

「お前もしかして知性もまとめて隠蔽されたのか?」

「なんかすっごい馬鹿にされた気がするのはなんで!?」

「いや、斬新なスパイだと感心してるぞ」

 思わず握りこぶしを作ってしまったのは不可抗力だ。

 この男、失礼にも程がある。

 つい声を張り上げてしまう。真澄が肩でぜえはあと息をしていると、アークがヴァイオリンをずい、と突き出してきた。

「いいから弾けよ」

「……どうしてそんなに弾かせたいの?」

 思わず怪訝な声音になった。合わせて眉間には皺も寄る。

 ヴァイオリンが弾けたところで、かかっているスパイ容疑が完全に晴れるとは到底思えないのだ。本職がスパイであったとしても、練習すればヴァイオリンを弾くことそれ自体はさほど難しくはない。のこぎり音だとさすがに怪しまれるだろうが、大人から始めたとしても音感の良い人間ならそれなりに弾けるようになる。

 ケースもヴァイオリン本体も、喋りながらアーク自身が散々検め済みだ。

 ヴァイオリンは人を傷つけることができるような構造ではない。たかが乾いた木だ。ケースの方はまあ、殴ろうと思えば鈍器代わりにはなるかもしれないが、その程度でしかない。

 これらの前提を元に弾き出される答えは、


 弾いたところで現状が変わるとは到底思えない。

 つまり、弾くだけ無駄。


 それが真澄の抱く疑問なのだが、アークからは怪訝な顔返しをされた。

「立身出世のまたとない機会だぞ?」

「スパイ容疑が晴れてないってのに出世もへったくれもないと思うのは私だけでしょうか。つかそもそもプロじゃないって何回言えば分かるのよ? 人の話聞いてんの?」

 まさか互いに疑問形で会話をする日が来るとは夢にも思っていなかった。

 ほんっとうに噛み合わない。

 さっきからありとあらゆる部分で会話が噛み合わない。なんでだ。

「お前、俺の名前覚えてるか?」

 噛み合わなさが倍率ドン。

 真澄の額に青筋が浮かんだ。

「ほんっとに人の話聞かないヤツね。アークなんとかでしょ。長いってことくらいしか覚えてないわよ、名刺もなしに」

 ドロップアウトしたが一度は大企業に所属していた人間だ。名刺の大切さは嫌というほど身に沁みついている。訪問先や挨拶をしている場面で名刺が無いなど言語道断、ごまかす時の常套句は「大変申し訳ございません、ただいま名刺を切らしておりまして」だ。

 その台詞は自分が使ったこともあれば、相手から言われたこともある。

 その度に何度そんなわけあるかと心の中で突っ込んだことか。だがサラリーマンというのは面白いもので、会社が違うのに同じ台詞を吐くというのは互いの状況に詳しいというわけで、「あるある」と微妙な親近感を持ったりもするから不思議だ。

 話が逸れた。

 痛いながらも懐かしい記憶を思い起こすのをやめて、真澄は目の前の男へと意識を向ける。アークは微妙な当てこすりにもまったく動じていない様子で、フルネームを再び名乗った。

「アークレスターヴ=アルバアルセ=カノーヴァだ」

「……あーうん、なんかそんな感じだったわよね」

 これは何が何でも覚えろと暗に言われているのだろうか。誰か、紙とペンを。

「俺が『楽士』と『立身出世』と言っても通じないのか」

「うん、意味不明。なんかすいません」

 ここまで来ると言葉が本当に通じているのか怪しくもなってくる。言ってることは分かるけど、意志疎通ができないってちょっとどういう状況か理解できない。

 ふむ、とアークが考え込んで、それまで手にしていたヴァイオリンをケースに戻した。

「弾かないのに大事ってのも解せんな」

 言葉とは裏腹に、丁寧な手つきだ。

「まあこのヴィラードは確かに武器ではなさそうだ。それは認めてやる」

「はあ、それはどうも」

「あとはお前自身が危険ではないことを証明してみせろ」

 だからどうやって、と重ねて問う暇は与えられなかった。


 ごつい手に捕まり顎が持ち上げられる。気が付けば逞しい右腕がいつの間にか腰に回されており、動けなくなっていた。

 見下ろされる距離が近い。

 漆黒の瞳に、また熱が戻ってきていた。


 次の瞬間、真澄の身体は軽々と抱き上げられていた。本格的に身の危険を感じて抵抗を試みるが、分厚い胸板はびくともしない。身をよじってもがいている内に、またしても寝台へと逆戻りしていた。

「大人しく弾いときゃ良かったのに。弱いくせに強情だよな」

「なんで初対面のしかも超絶失礼な男に品定めされなきゃなんないのよ!」

「この体勢でまだ強気発言が出るあたりがまた」

 余裕の表情を崩さずにアークは笑うが、真澄はそれどころではない。

 既に膝が割られて、太ももの付け根に固い腰骨が据えられている。ついでとばかり両手はアークの片手で一まとめにされていて、力を込めてもびくともしない。

 冗談では終わらなさそうな、色めいた空気が幕内に満ちる。

 そこから先は言葉らしい言葉を互いに発する暇がなかった。


 唇を唇で塞がれても、服を乱雑に脱がされても、真澄は頑として首を縦に振らなかった。それを攻め落とさんばかりに、アークの手は容赦なく身体中を這った。



 弾けば良いなんて簡単に言ってくれる。


 きっとこの男には分からない。

 誰かを楽しませる為に弾くことと、自分の品定めをされる為に弾くことは、同じ演奏に見えても実際はまるで別物だ。前者はいい、でも後者は怖い。だがそれを口にしてしまえば負けを認めると同じになる。

 既に自分は一度負けた。

 もうあんな思いは沢山だ。

 だから絶対に「助けて」とは言わないし、「弾く」とも言わない。



 真澄は唇を噛みしめる。そして長い攻防の夜が始まった。




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