36.全ての道は帝都に通ず
ここは中央大陸北方アルバリーク帝国、ヴェストーファ領。
時刻は夜の十時を回り、叙任式滞在の最後の夜が更けていく。
仕事の話は早々に片付いた。
隠しきれない歓喜を浮かべつつ、部下たちがぞろぞろと大広間を出ていってから、およそ二時間は経っている。最後の自由時間とばかり、アークとカスミレアズは酒を飲んでいた。
どうせ帝都に戻れば、任務が腐るほど積み上がっている。今くらい羽伸ばしを許されてもいいだろう。
「複雑な契約だったのではありませんか」
杯を持ったまま、カスミレアズがふと尋ねてきた。アークは目線で何が、と反応を返す。
「マスミ殿のことです」
「それがどうした」
「少し試してみましたが、私でさえ十二分な回復量を得られました。本来アーク様が享受すべき専属の利点を、私たちに与えるような契約にしたのではと思いまして」
「契約はしていない」
「は?」
「あれと専属契約は交わしていない、と言った」
カスミレアズが絶句した。それを見て、アークは肩を竦める。
「お前が言ったんだろう、その可能性を」
スパイが残した、真澄に対する所有権の主張。
戯言と捨て置けないようなタイミングだった。魔力も騎士も知らずこの世界の基本が全くおぼつかない彼女、噛み合わない話の数々、高位の魔術士を擁するレイテアからのスパイ、その主張。
真澄がどこか別世界から「呼び出された」と仮定すると、色々な辻褄が合う。
「帝都に戻ってから本格的に調べるが、スパイの可能性はほぼ否定されたも同然だ。であれば、マスミが本気で専属契約の意味を理解していない可能性は多分にある」
「確かに……知っていれば、騎士団全員の面倒を見るなど間違っても口に出せないでしょうね」
しかし、とカスミレアズが顔を曇らせる。
「このままの形ですと、不利益は彼女よりアーク様に大きいはずです」
「勝手に言わせておけばいい。構わんさ、端から敬遠されている騎士団だ。一つ二つ揶揄が増えたところで痛くも痒くもない」
「それは、……」
「俺の専属楽士がいなくなって、もう十二年になる」
カスミレアズが目を伏せた。
続ければこの部下が痛いと知っている。だが構わずアークは口を開いた。
「最強と褒めそやしながらあらゆる任務を押し付け、だが誰も俺たちの声には耳を傾けなかった。今さら指図されたところで、聴き入れる義理なんぞない」
「勝手にやらせてもらう、と?」
「……力を貸すと言ってくれた相手だからといって、俺たちの常識全てを背負わせていいわけじゃない。違うか」
最初は押し切ってもいいかと思っていた。
知らない方が悪いのだ、と。スパイ容疑を盾に取って、アルバリークの流儀――本当の意味での専属契約を交わす――を押し付けるのは、造作もなかった。
踏みとどまれたのは、自分たちが尊重されたからだ。
第四騎士団の再興から十五年。
ずっと周囲からの視線は厳しかった。最初は「本当に復興できるのか」という疑念が渦巻いた。軌道に乗り始めると「楽士を使い潰す」という悪評が立った。不足を補おうと練度を上げれば、「それだけ強ければ助けなどいらないだろう」と嫌味を言われた挙句、楽士の来手――つまり補給線を断たれた。
これ以上どうしろと言うのだ。
アークは怒鳴りつけてやりたかった。
自分たちのプライドが何より大切で、いざという時どう戦うかなど二の次にしている輩たち。そんなことで国を守れるか、何度そう訴えても、騎士団で最も若輩であるアークの声は聞き入れられなかった。
全方位が敵だらけだ。
そんな境遇にあって、おそらく異世界人である彼女だけが、自分達の生き方に頷いてくれた。
だから自分たちも、彼女を尊重すべきなのだ。
「総司令官と専属楽士が必ず契らねばならんという法はない。単なる慣習だ。それに専属の制約を課さずとも、マスミの腕があれば充分に回復できる」
魔力の回復量については、規格外の神聖騎士であるカスミレアズ自身が体感していることだ。
たまたまマスミの腕が素晴らしかったというのが大前提だが、慣習という名の体面さえ気にしなければ、実利で困ることなど一つもない。
「……拝承しました。私の胸だけに留めます」
「そうしてくれ」
「騎士団からの余計な詮索は、私でもそれなりに排除できるでしょう。しかし、……楽士の世界は正直、未知数です」
守り切れるかどうか。
カスミレアズが難しい顔で考え込んだ。
「簡単に潰されるようなタマじゃないだろうがな。こればかりは俺も読み切れん。宮廷楽士たちがどう出てくるか」
貴族の、それも閉鎖されたごく一部の血族だけに許された職業。享受できる利益は莫大で、その分け前はほぼ予定調和で確約されている。
その中にいきなり異分子が混ざって、良い展開になるとは到底思えない。
ある意味で、新生第四騎士団の正念場となるだろう。
「まずは武楽会にマスミを推してみようと思う」
「いきなり殴り込みですか」
「出場者はまだ選定されていない。正々堂々と選考に名乗りをあげて、規定に則って勝負するだけだ。何も問題はないぞ」
「……ひと悶着で済めば良いですが」
「文句があるなら『楽会で優勝してから言え』と説教するまでだ」
「武会優勝者に言われては、楽士たちも身の置き場がないでしょうね」
小さくカスミレアズが笑った。
そして二人で深夜まで杯を交わした。
帝都に戻れば、忙しくなる。片田舎の穏やかな夜は、ゆっくりと更けていった。
* * * *
同時刻、中央大陸西方レイテア王国の王宮、とある一室にて。
夜のしじまに、ろうそくの炎が優しく揺れている。
石造りの廊下は等間隔に照らされていて、暗闇の中にあっても足元は確かだ。夜更けに音が響かないよう慎重に歩きながら、ライノ=テラストは目的の部屋に辿り着いた。
今日の夜半には戻ると先触れは出している。
おそらく部屋の主は起きているだろうと考え、一瞬止めた拳をライノは扉につけた。少し待つ。ややあって、カタンと鍵の開く音、次いで扉がゆっくりとひとりでに開いた。
許可が出た証だ。
ライノは素早く隙間に身を滑りこませ、後ろ手に扉を閉めた。
「ただいま戻りました」
膝をつき、手を胸に当て、礼を取る。
窓際で夜の読書をしていたらしい主は、ゆっくりと顔を上げた。
「おかえりなさい、ライノ。無事で良かったわ」
「必ず戻ると誓ったではありませんか」
「そうだけど。あなたはすぐ無茶をするから心配してたの」
「身の程はわきまえておりますよ。第四近衛騎士長との勝負は私から引きました」
「近衛騎士長ですって?」
美しい柳眉が持ち上がる。
「……やっぱり無理をさせたのね。私がアークレスターヴ殿下のことをもっと知りたいなどと言ったから」
寂しそうに伏せられる瞳に、ライノはかける言葉を持っていなかった。
幼い憧れだと切って捨てるには、主――アナスタシア=レイテア王女――の費やしてきた時間は膨大すぎた。
主は恋をしている。
他でもない敵国アルバリークの、それも重要な地位を占める相手に。誰より彼女を近くで見てきたライノは、所詮叶わぬ恋だと何度諭したか。実に分不相応な諫言だ。だが主は頑なに想い続け、長じるまで、長じてからも、楽士としての研鑽を怠らなかった。いつかあの騎士に嫁いで、寄り添いその身を支えるのだと夢見て。
きっと傷付く。
成就しない恋だ。
分かりきっていた。しかし分かっていて尚放っておけるほど、ライノは鈍感な一家臣になりきれなかった。
「私はあなたの騎士です。あなたの喜びが私のそれとなりますし、あなたの幸せが私の本望です」
真綿にくるんだ嘘が出た。
本当は、今でもあの男がいなくなればいいと思っている。だからこそ主の目の届かない彼の地で、今度こそ本気で仕留めようと思っていた。
結果は予想外の要素に狂わされて失敗に終わったが。
「ありがとう、ライノ」
ばら色に頬を染める主は美しい。同じ色であるはずの自分の魔力が、褪せて見える。
「元気が出たわ。武楽会に向けて、また明日から頑張らないと」
「武楽会といえば……そう、見つけましたよ」
「なにを?」
「あなたが武楽会のために呼び寄せた楽士です」
アナスタシアが手で口元を覆う。
ただでさえ大きくつぶらな瞳が、こぼれんばかりに見開かれた。
「うそ……一体どこで? あんなに探して見つからなかったから、やはりわたくしは失敗したのだとばかり……」
「私は必ずどこかに来ていると信じていましたが。あなたほど高位の魔術士が整えた古代魔術です、人一人召喚するなど容易いでしょう」
「……逆だったら良かったのに」
不服そうに下を向く。
幼い頃から才能の片鱗を覗かせていたアナスタシアの魔術は、今やレイテアで五指に入ると名高い。だが彼女はそれを喜ばなかった。
主は楽士になりたがった。
己の演奏では、魔術士として自身の魔力の回復はできないにもかかわらず。
だがそんな彼女の純粋さを嘲笑うように、天は平凡な才能しか与えなかった。それでも主は日々を楽士としての研鑽に費やした。幼い頃に武楽会で出会った彼の国の男を忘れられない、そう言って。
片や非凡な輝きを放つ魔導士としての素質、さしたる努力もせず成せる高位の魔術、その対比が鮮やかすぎた。
見ていられなかった。
しかし見ていられなくとも、アナスタシアの騎士であるライノは誰より間近で、報われない主の努力を目の当たりにしてきた。
あの化け物じみた「熾火」が相手だ。
傍に寄りそうには、努力では賄いきれない才能が要求されるだろう。それこそ神の祝福を賜るような。
主は普通の域を出ない楽士だ。
長年の努力はさしたる大きな実りにはなっていない。今ならば良く分かる。泣こうと喚こうと越えられない壁だ。あの堕ちてきた楽士の音は、否応なくライノに残酷なその現実を突きつけた。
だから今日はいつも以上に止める。
主がどれほど想いを募らせようとも、あの「熾火」に使い潰される未来しか見えない。
「やはり気持ちにお変わりはありませんか」
「当然です。召喚する時に後戻りはしないと決めました」
「私が不在の間、ご縁談が三件届いたと伺いましたが」
傍系王族が一件、高位の貴族が二件。
いずれも王女であるアナスタシアが降嫁する相手として不足はない。それどころか、彼らは継承順位の低い末の王女に対し、破格ともいえる条件を提示してきている。
それはひとえにアナスタシアが才能にあふれた魔術士という側面を持つからだ。
迎える側の打算もあろうが、必ず大切にされるだろう。降嫁し王位継承権を放棄しても、下にも置かない扱いをされることは想像に難くない。
「全て断りました」
毅然と言い放ったアナスタシアに、ライノは小さくため息を吐いた。
「わたくしは絶対に武楽会での優勝を諦めません。だから教えてちょうだい、どこに召喚した楽士がいたのか」
「今からでも遅くはないと思いますよ」
「なにが?」
「断りの撤回です。特にトゥーアの宮様はあなたをご幼少の頃からご存じですし、」
「ライノ、やめて」
「宮様ならば一言『神経質になっていた』と謝れば、笑って受け入れて下さるでしょう」
「やめなさい!」
薄い手のひらが、テーブルの上に置かれていた本を叩いた。
「なんてことを言うの。断った話をもう一度など、非礼にも程があるわ」
分からないわけではないだろうに、という戸惑いの視線がライノに飛んでくる。
ライノは真正面からそれを受けた。
「百も承知で申し上げています。礼を失すると分かっていて尚、そちらの方がまだ幸せになれる、そう申し上げているのです」
「何が幸せか、それはわたくしが決めることよ」
気丈に振る舞いながらも、アナスタシアの声が震えた。
誰より近い側近の言葉とはいえ、たかが一言にこんなに容易く心を抉られる。これでは主の思い描く未来はいばらの道だ。苦難の連続だろう。
その御身にどうか幸あれ、と。
唯一であり絶対に譲れないライノの願いは、今日も主には届かない。
そして今日も折れたのは、四つ年上のライノだった。
「ほんの一週間程度では治りませんね、あなたの強情さは」
「ライノ! じゃあ、」
「教えて差し上げますよ。ただ、あまり喜ばしい状況ではありません」
「……どういうこと?」
「楽士が堕ちたのはアルバリークです。それも、第四騎士団総司令官のお手元に」
アナスタシアが絶句した。
「あなたが召喚した楽士です、確かに素晴らしい腕を持っていました。偶然とはいえ手に入れた逸材を、あの総司令官が見逃すと思いますか」
「ということは、総司令官の楽士に……?」
「ええ。それも専属にしたようです」
嘘ではない。
叙任式で見事に大役を果たしていたのを、ライノは己の目でしかと見た。それに、一戦交えた近衛騎士長もそう宣言していた。
どう考えても順当な結果だ。
そしてこうなってしまうと、主が第四騎士団総司令官の楽士になれる可能性はほぼ潰えたといっていい。
アナスタシアが唇を噛みしめる。思い詰めた表情ながら、その優しい緑の双眸に滲む決意は揺らいでいなかった。
「わたくしは諦めません。武楽会で必ず優勝して、絶対に……」
「御意。手足となりましょう」
「返してもらうわ……必ず」
握り締められた華奢な拳を、ライノは遠く見つめるしかできなかった。
王女の騎士。
だが、彼女が嫁げばその役目は終わりになる。王位継承権を放棄して降嫁するのだから、王女の騎士は要らなくなるのだ。
最初から期限付きの恋だった。
王女は騎士の本心を知らない。きっと、一生知らずに終わるだろう。
* * * *
叙任式から騎馬試合まで七日間に及んだ儀礼は終わり、第四騎士団の出立の日がきた。
ここはメリノ家の広い前庭で、騎士たちが旅支度を進めている。その様子を、真澄は邪魔にならないよう端によけて見守っていた。
騎士たちが持つ荷は少ない。
帝都までは長距離になるとはいうが、鎧ではなく軽い騎士服をまとっている。馬が疲れないようにするためと、戦えない真澄を守るために街道沿いを進むので、大型の魔獣はあまり心配がいらないらしい。
そういうわけで、かさばる筆頭の荷物――鎧や大盾など――は、馬車でまとめて後方から送ることになっている。
第四騎士団だけならば、平坦ではあるが迂回路になる街道なんぞ使わないとか。
言葉どおり「帝都へ真っ直ぐ」帰るらしい。
その道に山があろうと谷があろうと、これも鍛錬の一つとかいうでたらめな理由で、叙任式ついでのこれまた恒例行事になっているのだという。総司令官であるアークの気分で帰路は決定されるものであって、どんな悪路が選定されるのかと初参加組は戦々恐々。真っ直ぐにも色々あるのだ。そしてやはりこれも季節の風物詩ということで、一人前になった正騎士やそれより高位の真騎士などは、にやにやしながら後輩を見守るのが慣例となっている。
ちなみに、どんな危険地帯を通らされるか分かったものではないので、騎士たちは当然にフル装備かつ全ての身の回り品を携行するのが通常だ。
たまたまとはいえ、真澄が専属契約を結んだから、この幸運が転がり込んだ。
びびっていた初参加組は、昨晩言い渡された決定に分かりやすくガッツポーズをしていた。
そういうわけで、騎士たちの顔は実に晴れやかである。
付き合わされる古参騎士も、積み重ねた鍛錬が違うから余裕があるだけであって、好き好んで前人未到の地を走破したいわけではないようで、穏やかな面持ちでいる。
そんな彼らを眺めていると、真澄の横から「あの、」と遠慮がちな声がかかった。
振り向くと若く可憐な乙女が立っている。丁寧な物腰とその声は、見紛うことなくメリノ家のご令嬢だ。
名は、確かアンシェラといったか。
「もうお発ちになられてしまうのですね。寂しいです」
「ええ、私も……あっという間で驚いてます。もう一日や二日、ゆっくりしても良さそうなのに。あ、もちろんお世話になりっぱなしじゃなくて、宿は駐屯地に戻って然るべきだと思いますけど」
七日間、大変お世話になりました、と真澄はぺこりと頭を下げた。
アンシェラ嬢が慌てて首と手を横に振る。
「賑やかでとても楽しかったです。皆さまには、本当にいつまででも滞在して頂きたいと……家族も少ないですから、ついそう思ってしまいました」
そうだった。
彼女の母御は既に亡くなられているし、兄弟姉妹もいない一人っ子だ。父と娘二人きり、使用人がいるとはいえ静かな暮らしになるだろう。
早く良い相手を見つけて父を安心させたくとも、昨日の話から察するに展望はあまり明るくなさそうだ。
二十歳にも届いていなさそうな彼女、「寂しい」と暗にうつむくその人の願いを叶えてやれず、真澄は眉尻を下げた。令嬢の境遇は「きっと大丈夫」などと軽々しく言えるものではない。
「またお会いできるでしょうか。それともやはり今回限りとなりましょうか」
不安気なアンシェラに、真澄は微笑んだ。
「クビにさえならなければ、来年も必ず来ますよ」
「本当ですか?」
「ええ、必ず」
「絶対?」
「お約束します」
右手の小指を差し出しかけて、真澄は止まった。
ここアルバリークでの約束の証、まさか指切りげんまんとは思えない。さりげなく手を降ろしつつ、真澄は頬をかいた。
「どうしたら信じてくれます? 私の故郷では、こう……指を絡めて『指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます』と互いに誓いあって、最後は『指切った』の声と一緒に指を離しますが」
「はっ……針、千本ですか? 楽士様のお国では、大変な誓約を交わされるのですね……」
見事に額面どおり受け取られてしまった。
育ちの良いお嬢様というのは人を疑うということを知らないらしい。そんなアンシェラ嬢は、目をぱちくりさせながらも懸命に会話を繋げようとする。
「ここアルバリークでわたくし共は、手形を交わすのが慣例です。それで、あの」
アンシェラ嬢が、胸に抱えていた一巻きの筒をぎゅ、と抱きしめた。
自然、真澄の目はそこに向かう。
深く渋みのある焦げ茶色だ。中ほどに、巻物を留めるためであろう紐がくくりつけられている。令嬢は意を決したように、それを真澄に差し出してきた。
急なことに戸惑う。
受け取って良いものなのか、どうなのか。考えて真澄が手を彷徨わせていると、アンシェラ嬢が言った。
「これを受け取って頂けないでしょうか。母の形見です」
若くたおやかな指先が、紐を解く。
ぱらり。
柔らかな音と共に広げられたのは羊皮紙で、そこには独特な記号が羅列されていた。傍からみれば暗号にも読めるそれらはしかし、丹念にたどれば一定の法則に基づいていることが分かる。
なにより真澄は、この暗号に近しい雰囲気のものを知っていた。
「……楽譜、ですか?」
「はい」
「メリノ家は楽士の血筋ではありませんよね。なぜ、と訊いても?」
「母がメリノに嫁ぐ前に、とある楽士さまから贈られたものだそうです」
それって。
音楽家が人に曲を贈る理由は限られている。恋か、尊敬か。真澄は意外な物語に目を瞠った。
「同じ街の出身で、幼馴染だったとか。本人同士で将来を誓っていたようですが、楽士として高名な方だったようで、大魔術士さまの専属になられたと聞いています。その時に贈られた、題名のない曲です。母は反故になった約束を責めるでもなく、かねてよりお話のあったメリノ家に嫁ぎました」
「そうでしたか……」
「ご存じのとおりヴィラードなど一介の貴族では手に入れられませんし、かといって帝都の楽士さまはお忙しいですからお願いすることもできずじまいでした。埃をかぶったままの譜がかわいそうだったのですが、それも今日までです」
どうか弾いてやってくれはしまいか。
真剣な表情で頼み込むアンシェラ嬢を前に、真澄はその羊皮紙を受け取って譜面に目を走らせた。
楽譜として今日もっとも有名な五線譜――横に五本の線が引かれ、ト音記号などの音部記号があり、音符と休符を配置していく譜――とは、明らかに様相が異なっている。
羊皮紙のそれは五線譜ではなく、いわゆる「タブラチュア譜」に近い。
タブラチュアというのは、文字や数字で奏法を記した楽譜である。
横に線が引かれるのは五線譜と同じだが、そこに書き込まれるのは音符ではなく弦を押さえる指のポジションだ。どの指でどの弦を押さえるのかを指定するもので、特に弦の多いギターで発展している譜面でもある。
利点は、初心者でも最も効率の良い演奏ができることに尽きる。
弦楽器全般にいえるのは、異なる弦でも、異なるポジションを押さえることで、同じ高さの音を出すことができる、という事実である。
それはたとえばヴァイオリンでいうなら、A線で、ファーストポジションで、二の指――中指を使うと、ドの音が出る。同じ高さの音を隣のD線で出そうとすると、サードポジションで、四の指――小指を使う。
どちらが簡単だろうか。
指の力で考えて、明らかに小指より中指が強いと分かるだろう。それがつまり音楽における経済性、弾きやすさにかかってくる。
その経済性を最適化し、試行錯誤する手間を省いたのがタブラチュア譜なのである。
ただ、致命的な欠点がある。
このタブラチュア譜は特定の楽器に特化した譜面なので、どの線上における指番号がどの音かは暗黙の了解であり、それが音高としてドなのかラなのかは読み取れないのだ。
おそらくは、彼らのいうヴィラード用の譜面なのだろう。
最も普及している楽器であるらしいし、単一の弦楽器に対してこの譜面が発達したのは理解できる。見る限り譜面そのものはそう難しそうでもない。だが音部記号もなく、五線どころか八線におよぶこの譜面は、ヴィラードとやらの演奏を聴いたことがない今の真澄には解読不能だった。
さて、どうしたものか。
譜面が読めないから演奏ができない。そう真正面から白状してしまっては、総司令官の沽券にかかわるだろう。異国では記譜法が違うから初見はちょっと、と断るのも気の毒だ。
そこまで考えて、はたと真澄は名案を思いついた。
「分かりました。この楽譜、確かにお預かりします」
「ありがとうございます、ご無理申し上げます」
「ただ、今すぐに演奏はしません」
「……やはり不躾でしたでしょうか」
「いいえ、そうではなく。この曲を弾きに来年も必ずここへ来ます。約束を果たすために、今は弾きません。戻ってくる理由がなくなりますから」
言いながら、真澄は背負っていたヴァイオリンケースを芝生の上に置いた。
手にしていた羊皮紙を同じようにそっと芝生に横たえる。ケースを開けて、弓とヴァイオリンを取り出して調弦を始めると、音に気付いた騎士たちや見送りに出ていたメリノ家の面々から視線が集まった。
それらには構わず、真澄はアンシェラ=メリノだけを真っ直ぐに見つめる。
「アルバリークでは約束に手形を交わすと言いましたね。私からは曲を一つ差し上げます。楽譜を大切に残して下さった、あなたのお母様に敬意を表して」
今はこれで我慢してほしい。
そう断りをいれて、高く細い音を、長く紡ぐ。
選んだのは讃美歌だ。
フランスの作曲家グノーの『アヴェ・マリア』である。
本来であれば優しいピアノの伴奏から始まる、二重奏の、聖母を思わせるたおやかな曲だ。
讃美歌特有の透明な美しさは、この曲がグノーの手だけによるものではなく、もう一人の立役者がいることでさらに際立っている。
それが他でもないドイツの作曲家、ヨハン=ゼバスティアン=バッハだ。
元はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第一巻の第一曲「前奏曲」を伴奏にして、グノーが主旋律を付けた。現代でいうところのいわゆるコラボレーションというものになる。
才能が才能を呼び覚ます、典型的な例といっていい。
そうでなければ、この曲が一八五九年に発表されて以来、百五十年以上も愛され続ける理由が見当たらない。
穏やかな旋律は祝福に満ちている。
子を身ごもったマリアへの祝辞と言い換えてもいい。
母がいなければ子は生まれていないように、アンシェラの母と名も知らない楽士の過去のつながりがなければ、今こうして真澄とアンシェラが約束を交わすことなどなかった。それはきっと、奇跡に等しいのだ。
だから感謝を示す。
彼女の母に、あなたがいてくれて本当に良かった、と。
* * * *
帝都へ向かう馬車の中、真澄は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
揺れる車内は六人ほどが掛けられる広さだが、座っているのは真澄一人だ。騎士たちは皆、自分の愛馬にまたがって街道をひた走っている。
初夏の日差しが眩しい。
ヴェストーファを出てからしばらくは草原が広がっていたが、今は遠くに大森林と、さらにその奥に白い山が見えた。夏にもかかわらず冠雪の山頂は人を寄せ付けない美しさで、さながら霊峰である。
時折、騎士たちが馬車に歩様をあわせて真澄の様子をうかがってくれる。
その度に窓から手を振り、体調に問題ないことを知らせる。真澄が笑顔をみせるたび、騎士たちはほっと安心した素振りで隊列へとまた戻るのだ。
かなり慣れてきたなあと思いながら、真澄の頬は緩む。
出立してすぐの頃、真澄は馬車に乗っていながら数時間おきの休憩を余儀なくされた。慣れない早駆けに酔い、体調を崩しがちだったからだ。
初日は気合で耐えた。
丸一日を玄人の速度で揺られに揺られ、日が傾く頃に街道沿いの宿場に到着した。馬車の扉が開けられ、カスミレアズのエスコートで降りたまでは良かったのだが、限界はすぐそこに来ていた。
地面に足をつけた瞬間に真澄は膝から崩れ落ち、その場で盛大にリバースと相成ったのである。
残念な光景だったと思う。
慌てふためく騎士たちには実に申し訳ないことをした、とも。
その日の夜、全員から「このままでは帝都に着く前に確実に倒れる」と真顔で心配された。そしてあまりの軟弱さに恐れおののいた彼らは、翌日から非常に紳士的な速度で進んでくれた、という顛末だ。
さっさと帰って慣れたベッドで休みたいだろうに、嫌な顔一つせず長旅に付き合ってくれる彼らはやはり本物の紳士だった。
そんな風に気遣われながらゆっくりと進む旅路は、ようやく半分を超えた。
真澄は隣に置いているケースをそっと撫でる。
ひたすら自分のために弾いてきたヴァイオリンが、誰かのためになる日が来るなど考えてもみなかった。第四騎士団としての問題は山積みであって、前途多難ではあろうけれども、未知のこの世界では思い描いていたものとは少しだけ違う人生になりそうな予感がする。
そして真澄は、まだ見ぬ帝都に想いを馳せた。
これで第一章は終わりです。
長らくお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
第二章は少し時間を頂いてから投稿予定です。二月中には開始します。




