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2.できれば生き返る方向で動きたいけど、なんか無理そう?


「いっ……!」

 衝撃に真澄の息が詰まった。

 胃が口から出るかと思った。それくらい背中への衝撃が大きかった。可愛らしい悲鳴を出せる余裕もなく、身体が痺れてとりあえず動けない。意識ははっきりしているから頭は打たずに済んだらしいが、尋常じゃない痛みを堪えるのに忙しくて目を開けられない。

 平衡感覚は正常だ。

 信じ難いが、階段の中腹に引っかかることなくホームに着地できたらしい。背中からだけど、という残念な注釈が付くがそこはそれ。とりあえず真澄は一安心し、痛みが治まるまでその場に寝転がっていた。誰か救急車を呼んでくれるのならそれはそれで構わない。というか、起き上がるのに誰か手を貸してもらえると有難い。

 しばらくそのままで倒れていたが、一向に誰も通る気配がない。

 そうこうする内にようやく痛みが引いてきて、真澄はゆっくりと目を開けた。ホームの反対側で動画とか撮られてたらどうしよう、タイトルは「鈍臭い女」とか。そんな心配をしつつ周囲の様子を窺ったが、そこに駅のホームはなかった。

「……」

 目の前には満天の星空がある。何度瞬きしても変わらない。おかしい。本来であれば駅のホームの天井と蛍光灯と電光掲示板あたりが見えるはずだ。

 とりあえずまだ仰向けになったまま首だけを横に倒すと、鼻先を草の葉がくすぐった。

 そよ、と夜風が吹いている。その度に稲のように頭を垂れたすすきのような草が、真澄の鼻やら頬やらを撫でてくる。頭を元の位置に戻す。両手に意識を向けると、落ちる瞬間と変わらずヴァイオリンケースをしっかりと抱きかかえていた。よって、ひとまずは安心である。

 よいこらせ、と上半身を起こすと、そこは何もない野原だった。

 決して見晴らしが良いわけではない。真澄の周りには背丈の高い草薮が生えていて、丁度秘密基地のような場所だ。


 頭は打ってないと思ったが訂正する。

 これ、多分頭打った。


「ちょっ……ここ、どこ? まさか三途の川途中とか?」

 こんなにリアルな感覚で風が頬を撫でていくのに、実は意識不明の重体からあの世に行きかけている、とかだったら笑えない。

 そもそもいわゆる臨死体験だとすれば、周囲にはお花畑くらい広がっていても良さそうだ。それが目の前の景色ときたらどうだ。星空は綺麗だが大地には鬱蒼と茂る黒い草薮、殺伐としすぎて天国よりは地獄に向かう途中と言って差し支えなさそうである。

 残念なことにこれから会えるのは閻魔大王だけです、とかだったら本気で笑えない。

 心なしか風が渇いたような気がした。

 ふと横を見ると、肩にかけていた鞄が転がっていた。広めの口から楽譜の束が半分ほど飛び出している。そういえば自分には「スマホ」という文明の利器があったはずだ。

「と、とりあえず現在位置」

 抱えていたヴァイオリンケースをそっと地面に置き、もそもそと四つん這いで鞄の傍に寄る。とりあえず中身の半分以上を占めている楽譜を引っ張り出して、真澄は改めて鞄の中を確かめた。


 家の鍵。ない。

 財布。ない。

 定期。ない。

 スマホ。ない。 


 鞄そのものをひっくり返して揺すってみるも、小銭一つ出てこない。それなりに揃っている内ポケットなど思いつく限り全てを改めたが、本当に何も入っていない。

 いや待て、早まるな。

 深呼吸しつつ、真澄の視線は最初に除けた楽譜の束に向かう。

 間に挟まっている奇跡を祈りながら一つ一つめくってみたが、しかし希望は木端微塵に粉砕された。スマホどころか薄っぺらい定期さえも出てきやしない。

「ちょっと冗談でしょ……」

 愕然として呟くも目の前の状況は何一つ変わらない。

 まさか駅のホームから落ちる時に、楽譜以外全てうっかり鞄から落っことしたのか。いやいやまさかそんな、あり得ないあり得ない。だったら楽譜も一緒に何枚かは無くなってていいはずで、でも現実は楽譜だけはこれ見よがしに全数揃っている。いつも鞄の底に入れておく家の鍵さえ綺麗さっぱり消えているのだから、そんな偶然はちょっと考えづらい。


 とすると、やっぱり。


 俄かに浮上してくるのは、やはり三途の川へ向かう途中なのだという疑惑だ。

 それなら自分の手荷物に過不足があっても頷ける。おそらく真澄自身の肉体は駅のホームに転がりっぱなしか、もしかすると運が良ければ救急車で運ばれている最中かもしれない。当然、本物の鞄とその中身も傍にあるだろう。

 死後の、というか死ぬ直前のこの世界がどういうことわりで動いているのか知らないが、まあ多分、持ち物全てを持っては来れない仕様になっているのだろう。そう考えれば納得だ。

 というか、臨死体験中ならスマホも役に立たないと思われる。

 どうせ圏外になってるか電源が入らないはずだ。むしろ現在位置が「お花畑市賽の河原三丁目」とか表示されてもそれはそれで微妙すぎる。

「……生き返る方向ってどっちだろ」

 鞄漁りのお陰で随分と落ち着きを取り戻し、真澄は立ち上がった。

 人生落第組ではあるが、だからといって死にたかったわけではない。となれば取るべき行動は一択で、三途の川に辿り着かないように、息を吹き返す方向に歩きたい。

 真澄は着ていたコートを脱いだ。

 どうやらあの世との狭間には季節が無いのか、コートを着ていると暑い。楽譜をざっと鞄に戻し、肩に掛ける。左手にコート、右手にヴァイオリンケースを持って、いざ黄泉の国脱出。






 するつもりが、旅はいきなり出端を挫かれた。


 がさがさと目の前の藪が音を立てる。流石に真澄の足が止まった。出会い頭の不審者と戦えるような武道の心得は持ち合わせていないし、かといって華奢なこのヒールでは速攻で逃げる、という芸当もできない。


 熊とか勘弁。

 鬼とかほんと無理。


 頼むからせめて狸か子泣き爺くらいであってくれ、と冷や汗を滲ませる真澄の目の前に現れたのは、人間だった。少なくとも見た目で判断する限りは、という注釈付きだが。

 その男は長身で、松明のような光る物体を横に従えていた。それは完全な球というよりは、球を中心にしながらもふわりふわりと燃えるように形が定まらない。手で持たずに宙に浮いているところからして、人魂とかそういう類に見えてくる。

 目の当たりにした光景に、真澄は賢者になるというか、悟りを開いた。


 ああ、ここはもう黄泉の国だったか。

 三途の川の手前とか希望的観測すぎたか。


 頭に描いていた予想を残念な方向に大きく下方修正しつつ、真澄はその場に立ち尽くした。

 既に死んでいるなら、一目散に逃げる必要はあるまい。むしろここで出会った黄泉の国の住人に、ここがどの辺りなのかとかこの世界での作法などを訊いておくのも良さそうだ。

 死んだらしいことはそれなりにショックである。

 短い人生だった。短い割に、さして楽しい人生でもなかった。ままならないことの方が多かった。そのせいか、ショックを受けつつも戻りたいだとか悲しいとか、そういう気持ちはあまり湧いてこない。

 なんだかなあ。

 何もできなかったなあ、そんな風にどこか他人事のようでもある。


 地面に下がっていた視線を持ち上げて、男を見る。

 すると闇夜に慣れていた真澄の目が眩んだ。何度か瞬きを繰り返していると次第に明るさに慣れてきて、男の姿格好がはっきりと見えた。

 右手に長剣を持ち、左手には縄を握っている。

 身体を覆うのは鎧だろうか。顔立ちも彫りが深く金髪碧眼、どう贔屓目に見ても西洋っぽい雰囲気だが、まさかあの世にも国とか国境とかあるのだろうか。そして男の険しい顔から察するに、どうやら真澄は場所を間違えた感がありありと滲み出ている。

 というか、真正面からものすごく怪しまれている。

 言葉はなくとも雰囲気で分かる。なんせ世界一空気を読める民族出身、この程度朝飯前だ。うむ、突き刺さるような視線が痛い。「どちら様ですか」と尋ねたいのは山々だが、どう見てもこの場において不審者は真澄の方らしい。

 真澄としては怪しい者ではない自覚はあるのだが、それにしても一体何から説明したものか。

 迷っていると、男がずいと一歩踏み出してきた。

「女。こんな所で何をしている?」

 外見とは裏腹に、言葉は日本語だった。

 実は日本語ではなくてあの世共通言語だったりするのかもしれないが、第一関門である言語の壁はなさそうだ。

「それは自分が聞きたいんですけど、あの」

 続けようとした言葉は出てこなかった。真澄の目の前に、長剣の切っ先が突きつけられたからだ。

 思わず黙り込み、真澄は斜め上を見上げる。

 相も変わらず険しい顔をしている男は、若い。おそらく真澄と同じか、少し上くらいの年齢だろう。三十には届いていなさそうだ。

 尚、体格は物凄く良い。長身な上に肩幅が広く、明らかに鍛え上げられていると分かる筋肉が全身にしっかりとついている。怒らせては駄目な相手だと本能が告げてくる。

 が。


 駄目っていったってアンタ、あの世で死んだら次はどこに行くのよ。


 くだらないことが気になって真澄は黙り込んだのだが、男は恐怖から声が出せないと判断したらしい。突きつけた長剣はそのままながら、男の声が若干柔らかくなった。

「レイテアのスパイか」

 が、言われたことは物騒極まりなかった。

 レイテアが何を指すのか、あの世初心者の真澄には皆目見当もつかない。人の名前か何かの組織か。分からないのでそこは素直に黙り込むしかない。

 しかし後半の「スパイ」という部分は確実に否定できる。

「スパイなんかじゃないわ」

「ほう。ではここがどこだか言ってみろ」

「え? あの世じゃないの?」

「……」

 男の眉間にものすごい皺が刻まれる。

「ふざけているのか」

 低くなった声に合わせて、長剣がガチャリと不穏な音を立てる。

 どうやらご不興を買ってしまったらしいが、真澄にしてみればかなり真剣に抱いた疑問だ。そうでなければ景色といい気温差といい持ち物の過不足といい、説明がつかないことが多すぎる。

「手に持っているその箱はなんだ」

「これ? ヴァイオリンだけど……知らないんですね、はいすいません」

 激烈な視線に責め立てられて、とうとう真澄は視線を逸らした。なんせ眼光が鋭すぎて、真っ直ぐ対峙するには神経がすり減る相手だ。平易な言葉さえも躊躇われ、つい丁寧語で謝ってしまった。

 男の視線は油断なくヴァイオリンケースに注がれている。

 確認しなくても分かる。これは明らかに得体の知れないものを警戒している目だ。


 今時ヴァイオリンを知らないなんて、余程昔にあの世――というか、現時点ではこの世だが――に来た人間なのだろうか。


 改めて男の全身を見れば、そのいでたちに思い当たる部分があった。

 いわゆる中世の騎士のような、そんな格好をしている。隣に浮かんでいる灯り兼人魂は、まあここがあの世だからそういう仕様なのだと納得しておけばそれでいい。男は多分、騎士なのだ。それも、ヴァイオリンが世に生まれ出るよりも前に死んでしまった。

 ヴァイオリンが世に出てきたと考えられているのが十六世紀初め。つまり、一五○○年代のことだ。

 現代でもその名を轟かせている銘器ストラディバリウスは、そこから更に百五十年ほど後の時代にようやく作られることとなる。時を同じくして花開いたバロック音楽を支えた立役者でもある。

 そこから逆算して考えれば、この騎士は死んでから軽く五百年以上は経っている。随分と年季の入ったあの世構成員だ。であれば、これだけの迫力もまあ身に付くのだろう。

 いずれにせよ、コロンブスより昔の相手だ。

 そんな昔の人間に説明したところで、果たして理解してくれるかどうか。真澄が首を捻っていると、不意に長剣が遠のき、代わりに男の手が伸びてきた。

「スパイではないのなら、検めさせてもらう」

「……っ!」

 言葉で制止するより早く、反射的に身を引いていた。

 が、明らかに対応を間違えた。しまった、と後悔してももう遅い。真澄の動きを見た男の雰囲気が変わる。眼光が鋭くなり、ぴり、と空気が張り詰めた。

 緊張から思わず真澄はヴァイオリンケースを胸に抱きしめる。


 これは自分の分身、むしろ自分より大切なものだ。

 そうでなければ駅の階段から落ちる時に身体を張って守ったりしない。


 繊細な楽器だ。その存在さえ知らない人間が、どんな手荒に扱うか知れたものではない。

 どうか不用意に触ってくれるな。

 そんな警戒を込めて身体を固くしていると、男が目を眇めた。

「……やはりスパイか」

「ちが、」

 否定は最後まで聞き入れてはもらえなかった。

「弁明は後で聞こう」

 言うが早いか、男は次の瞬間に真澄の腕からヴァイオリンケースをもぎ取り、手にしていた縄で真澄の腕を後ろ手に縛りあげた。

 叫ぼうとするがしかし、流れるように片手で口を塞がれる。抵抗らしい抵抗もできないまま猿ぐつわをかまされ、ついでのように足首も縛られ、最後は男の肩にワイン樽よろしく担がれた。

「んんー!」

 身を捩っても男は動じない。

 それどころか手首の縄が食い込むばかりで、その痛みに真澄は顔を顰めた。


 死んでからも痛いなんて聞いていない。


 想定が不測かつ悪い方にばかりずれていく。

 あの世の更にあの世はあるかもしれない。男の纏う怒気に萎縮しながら、真澄の背筋は冷えていった。




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