15.その誓いに払うべき敬意
その終わりは小さな音楽会のようだった。
真澄が『G線上のアリア』を弾き終えると、アークとカスミレアズが拍手をくれたのだ。ただの指慣らしなのに、驚きを隠さず真面目に褒めてくれたことが面映ゆくて、真澄はドレスの裾を摘まんで礼を返した。
それから簡単に何曲かを弾くことで充分な休憩と指慣らしの時間が取れ、真澄の状態は万全となった。
衣装は老人ホームでの慰問演奏で着ていたドレスが役に立っている。あの男所帯で式典に間に合わせるよう新調するのは無理難題だった。
式典で歩くべきところは、真紅の絨毯が敷かれていると聞いた。
丁度クリスマスだからと光沢のある孔雀色のドレスを選んでいたが、良く映えるだろう。化粧道具も何もない中、これだけは不幸中の幸いだ。
「基本的に全て私がエスコートする」
だから不安に思うことはない、そうカスミレアズが言った。
最初に幕から出て待機場所まで赴くのも、出番となって定位置へ案内するのも、全てタイミングを見計らって万事滞りなく運ぶように整えるのが彼の仕事だという。
「じゃあ私は何も考えずに演奏に集中していいってことね」
「ああ」
カスミレアズの淀みない肯定に、真澄は胸を撫で下ろした。
これで見たこともない式典の複雑な手順を覚えろと言われていたら、間違いなくストライキを起こしていた。ヴァイオリン一筋の不器用人間なので、あいにくそこまでのキャパシティは持ち合わせていない。
準備が整ったのは真澄だけではない。
アークは華やかな騎士服に着替えている。
常装は濃紺だが、今は眩しいほどの白い生地に、あちこち煌びやかな装飾がついている。いわゆる礼装だそうだ。肩章も袖章も金を基調として目立つことこの上ない。
「狙ってくださいって言わんばかりの派手さねー」
「これで戦場に行くやつがいるか。こんなもん式典の時にしか着ない」
うんざり顔で、アークが襟に手を伸ばした。
「まだ礼装だからマシだ。正装だともっと面倒くさい」
「ごめん、違いが分かんない」
「正装だと飾りが増えて重い」
なるほど分かりやすい愚痴だ。
そんな文句が出る正装は、基本的に帝都において皇帝主催となる式典に出席する際に着用されるという。皇帝関係であれば正装、それ以外の式典はそれに次ぐ礼装という決まりが騎士団にはあるらしい。
正装はまさにフル装備。
今は肩章と袖章が通常と異なる程度だが、正装にはこれに肩鎖だの胸帯だの色々なオプションが付く。見た目は華麗なため、女性陣からは黄色い歓声が上がるが、着ている本人にしてみればさっさと開放されたい代物だとか。
そうまでして嫌がられる正装となれば、逆に興味が湧く。「見たい」「断る」「いいじゃない減るもんじゃなし」「俺の体力が減る」「訓練だと思えば?」などと会話を重ねていると、ため息が間に割って入った。
ん?
そう思って出所を辿ると、それはカスミレアズだった。
「重さ熱さは儀仗兵の方が上ですよ」
額に汗を滲ませながら、憮然とした声を出す。
彼もまた既に着替えを済ませており、こちらは最初に出会った時と同じような白銀の鎧に身を包んでいる。こちらも式典用らしく磨き上げられており、傷一つない。
腰に長剣を差し、小脇に兜を抱えている。
両肩からは純白のマントが足首に届く長さで流れている。儀礼用の鎧ということで、さすがにいくつかの部分は軽量化のため省かれているらしいが、それでも全身を覆うその見た目だけで暑苦しいことこの上ない。
まして初夏とはいえ午後一時。
最も暑くなる時間帯で、にもかかわらず背筋を伸ばし折り目正しいカスミレアズは騎士の鑑と言っていい。真澄とアークは彼と比べたら軽装なので、まあその恨み言は妥当だ。
と、アークが不敵に笑った。
「確かに暑かろうが、今年の式典は過去最短で終わるだろうよ。良かったな」
「それは確かにありがたい話ではありますが……」
語尾を濁したカスミレアズが、ちらりと真澄を見た。
何事かと真澄は小首を傾げる。が、カスミレアズはすぐに目を逸らし、首を横に振った。
「諸手を挙げては喜べません。所詮その場しのぎ、我が第四騎士団の抱える問題の根本的な解決にはならないのですから」
諦めたように言い切ってすぐ、カスミレアズが「参ります」と立ち上がった。
アークは何かを続けたそうにしていたが、結局は肩を竦めるだけで何も口には出さなかった。
真澄の目には、カスミレアズが頑なに見えた。
まだ出会って一日だが、この二人の間には明確な上下関係がある。カスミレアズは丁寧な姿勢を崩さないし、アークは尊重するものの接し方は命令がベースになっている。
頑なに見えた理由は、カスミレアズが会話を切り上げたからだ。
それ以上の問答を重ねることを拒んだ風にも取れた。
彼が何を思い悩むのか、真澄はまだ推し量ることさえできなかった。
* * * *
先に会場へ向かったのはカスミレアズ先導の真澄だった。
近衛騎士長のエスコートで司令官専属楽士が入場する、そういう決まりらしい。
真紅の幕で仕切られた通路を無言のまま歩く。徐々に近くなる会場からのざわめきの他は、目の前を歩くカスミレアズの鎧がこすれる微かな金属音しかしない。
数回曲がり角を過ぎた後、目の前に仕切りの幕があり、そこで通路が途切れていた。
同じように白銀の甲冑をまとった兵が控えている。違うのはマントの色が青いことだ。彼は真澄たちに気付くと、恭しく片膝を折った。
カスミレアズが頷く。
それを確認した兵もまた頷き返し、閉じられた幕の向こうへその身を滑り込ませた。
「この先が叙任式の会場だ。鐘が鳴らされたら入る」
簡潔な説明に真澄は頷く。
少し待つと、高く澄んだ鐘の音が一度響いた。間違いない、合図だ。カスミレアズが真澄を振り返る。
「行くぞ」
「ええ」
左手のヴァイオリンを握り直し、真澄は白銀の背を追った。
飛び込んできた光景は、壮観の一言だった。
会場の中央に、白銀の鎧をつけた騎士の一団がいる。マントは身に付けていない。長方形に並ぶ彼らはおよそ三十名ほどだろうか。位置的に、これから叙任を受ける今日の主役たちだろう。
その両脇には青いマントの儀仗兵が整然と並んでいる。彼らは長剣を胸の位置で天に向かって掲げており、それが陽の光を反射してきらきらと眩しい。
儀仗兵は片側二列で、それが会場の後方まで途切れることなく続いている。
真澄達が出たのは会場の最奥、騎士たちより三段ほど高い祭壇だった。
目を転じると、騎士たちと祭壇を取り巻くように多くの人間が詰めかけている。良く見えるようにとの配慮からか、スタジアムのように後ろに下がるにつれて少しずつ目線が上がるよう設営されているらしい。
裾から出て、祭壇の中央に差し掛かった時だった。
歓声ともどよめきともつかない音が会場に響いた。
おそらく歓声はカスミレアズに向けたもの。そしてどよめきは真澄に対するものだろう。だがカスミレアズは反応する素振りも見せず、祭壇の端まで真澄をエスコートし、控えるべき位置を指し示した。
止まってから、真澄は軽くドレスの裾をつまんで礼を取る。その直後、またしても鐘が鳴った。今度は三回、先ほどよりも気持ち高らかに。
そして、鐘の余韻が空に消えた。
次の瞬間、割れんばかりの歓声が轟き、本当に会場が揺れた。
白い礼装に身を包んだアークが裾から歩いてくる。泰然とした歩みはある種の気品さえ感じさせるものだった。その間にも歓声は途切れず、アークが祭壇中央に立った時それは最高潮に達した。
あまりの大音量に思わず真澄は片目を眇める。
横をちらりと窺うが、慣れているのかカスミレアズは動じた様子もなく直立不動だった。
アークが片手を上げる。
歓声がすぐに萎んでいき、やがて数百人はいるであろう会場に静寂が訪れた。
この男、それだけ人心を掌握しているのだろう。そのカリスマ性を垣間見て、真澄の肩は知らず震えた。
儀式は静寂から何の宣言もなく流れるように始まった。
カスミレアズが動き、アークの横に控える。
長方形の祭壇に、ずらりと並ぶ長剣と盾。その真ん中の一本をアークが手に取り、その刀身に口付ける。それを合図に一人の騎士が前に歩み出て、祭壇下でひざまずいた。
その目は真っ直ぐに司令官であるアークを見上げている。迷いのない、まさに信念に殉じようとする燃えるような瞳だ。
見下ろすアークは満足げに僅か口の端を上げ、長剣の切っ先をその騎士の右肩に当てた。そして、その門出を寿ぐ言葉が美しく青い空に放たれる。
まさに騎士になろうとする者に祝別す。
正しき力に従え。勇敢であれ。誠実であれ。寛大であれ。信念を持て。
国を守り、弱きを守り、真理を守るべし。
我より与えし力、邪心を断つ剣、邪念を払う盾、邪悪を挫く魔、彼らが全ての者の守護者となるように。
高らかな宣言は苦もなく真澄の胸に沁みこんできた。
何故か視界が滲んだ。彼らの生きる世界がどんな風なのかはまだ知らない。それでも、この誓いを立てて生きると決めることそれ自体が、賞賛されていいような気がした。
最初の宣誓の後は騎士が次から次へと入れ替わり、長剣と盾を受けていった。
全員への受け渡しが終わると、新しい騎士たちは長剣を引き抜き、儀仗兵と同じようにそれを空へと掲げた。アークが彼らの真正面に立つ。
洗練された動きに見惚れていた真澄は、カスミレアズが戻ってきていることに気付くのが遅れた。
「マスミ」
小さく呼ばれ、初めて自分の周囲に意識を戻す。目の前には真澄の前にひざまずき、左手を差し出すカスミレアズがいた。
エスコートを受ける為に、右手で持っていた弓を左手に持ち変える。
そっと右手を重ねると、冷たいかと思われた甲冑の手は僅かに温かかった。
真澄がエスコートされたのは祭壇の前だった。会場のまさに中心と呼べる場所だ。
アークは既に祭壇を降り、騎士たちと同じ高さにいる。カスミレアズは真澄をエスコートした後、流れるように三段ある階段の中段にひざまずいた。
白いマントが真紅の絨毯にふわりと広がる。
腰に差していた長剣を引き抜き、その抜き身を最上段に捧げる。
その向こう、背を向けたアークの身体が青白い輝きに包まれた。合図だ。真澄は弓を力強く滑らせた。
* * * *
イギリスの作曲家であるエドワード=エルガー。
彼の作である『威風堂々』は六番まであるが、とりわけ有名かつ親しまれているのは一番だ。
イギリス第二の国歌とも言われるこの曲は管弦楽であり、その主部は翻るように続く金管と木管楽器が勇壮かつ華やかさを添える。しかしメインは弦楽器、行進曲の中間部は特にその重厚さ、素晴らしさが全面に出る。その壮麗な旋律には後年、歌詞がつけられるほど愛されている。
テンポの速い華やかな主部と、緩やかに壮大な中間部。
これを繰り返しながら曲は少しずつ細部を変化させつつ進んでいく。
真澄は全身全霊を込めて弓を走らせる。
たった一人の独奏。いかに彼らが原曲を知らないとはいえ、この晴れがましい舞台に貧相であってはいけない。
本来の譜面とは異なるが他楽器のパートも埋めながら、出来得る限り二弦でハーモニーを作り、音に厚みを持たせてやる。優雅さより何より、力強さがここでは欲しい。
一回目の主部の終わりは、丁度一列目の騎士全てにアークが光を分け与えたところと重なった。
残り二列。
ひたすら同じ曲を繰り返せば良いとアークは言ったが、思った以上に進行が早い。『威風堂々』は主部と中間部がほぼ同じ長さで、それぞれ二回繰り返される。この分だと、繰り返すまでもなく一度の演奏で充分に賄えそうだ。
二列目は最初の中間部とぴたり同じに終わった。
最後列に入った時、再び華やかな主部に曲は戻る。最初よりは短い主部と中間部を繰り返して、全ての光が騎士たちに宿った。
未だ青白い光を全身にまとったままアークが祭壇へと戻ってくる。
その顔は何故か驚きに満ちていて、真澄を真っ直ぐに見つめてきていた。だが真澄には反応を返す暇がない。曲の終わり、式典の集大成が間近に迫っている。
最後のコーダは主部をもう一度高らかに歌い上げる。
祈りを込めるとすれば、彼らの誓いが誰かを守れる勇敢な手になってほしい。
どうか始まりの日に抱いた純粋なその決意を、これから続くであろう戦いの日々に流され忘れてしまわないように。
誰かの為に強く在る。
きっと誰にでもできることではない。自分には到底無理なことで、そんな自分はせめて彼らの武運を祈る。どうか届けと連なる音を言葉に換えて。
最後の音が消えるまで、耳を澄ます。空気の震えが止まる。弾ききったことを確信して、真澄は弦から弓を離した。
ゆっくりと目を開けると、目の前には静寂があった。無音の中、肩で息をしながらヴァイオリンを降ろす。もう一度礼を取るべきか考えていると、かしゃん、と軽い金属音が足元で響いた。
視線を落とす。
兜の目庇を上げたカスミレアズと目が合った。彼は少しだけ上体を起こし、真澄のドレスの裾を両手で戴いた。次いでキスが落とされ、その瞬間に大歓声が会場を満たした。
戸惑いを隠せない。
弾くだけで一目置かれるような技巧的な曲を弾いたわけではない。だから達成感が飛び抜けている、というのとは違う。自分の人生を左右する大舞台でもない。プレッシャーなど少しも感じてはいなかった。
手を抜くような真似はしていない。
だがそうであってもこれほどの勢いで賞賛されるべき理由が、真澄には分からなかった。
どこに視線を投げても笑顔と拍手しか映らない。
下を見ると、真っ直ぐに真澄を見上げて拍手しているアークがいた。




