148.証された心
その瞬間に何が起こったのか、誰も理解が追いつかなかった。
巨大な雷か。
天変地異のような轟音は、それまでの戦闘音とは一線を画していた。
走り出しかけていたアークとガルダンが手綱を引き絞る。急な指示に馬が驚き、二頭とも後ろ足で立ち上がった。
ヴァイオリンを抱えている真澄はそれを取り落とさないようにするだけで精一杯だ。身体はガルダンが支えてくれている。それでも馬が体勢を戻す際に、心臓が止まる思いだった。
馬首が返される。
幕の上空に押し寄せていたジズがいない。
「何事だ……!?」
警戒も露わにアークが呟く。
その向こう、強風にあおられたグレイスが地に両手足をついている。彼女が見上げる先に、その人物は立っていた。
また風が吹く。
艶やかな栗色の髪がたなびいた。
その手にはばら色の光が満ちている。たおやかな動きで腕が前方へと動く。宙を撫でるようだ。手から離れた火球は神速で飛び、カスミレアズの直上で閃いた。
全方位に光が膨らむ。
眩しさに目を開けていられない。反射的に目を閉じた直後、先と同じ鋭い音が轟いた。
鼓膜が破れそうだ。
身を縮めたまま音が収まるまで耐える。やがて潮が引くように音が静まった。そこで真澄が恐る恐る目を開けると、基点周辺に群がっていたジズが跡形もなく消えていた。
最前線にいたカスミレアズが棒立ちになっている。
アルセ族の若者も同じだ。怪我を負い倒れていた第一の騎士たちも、突然のことに動きを止めている。
気付けば真澄の視界には色がついていて、──世界が琥珀に彩られていた。
静寂が訪れる。
それまでの喧騒が嘘のようだ。動きを止めた世界の中、グレイスに手を差し伸べるのは栗毛の彼女だった。
「……アナスタシア?」
真澄の呟きは風に溶ける。
が、グレイスを助け起こす彼女の姿は消えなかった。
その隣にもう一人が立っている。その人物は魔術士の長衣をまとい、その裾を風に翻しながらゆっくりと真澄たちに向かって歩いてきた。
それほど背は高くない。
目を瞠るような立派な体躯ではないが、人を食ったようなその不遜な表情は。
「酷い顔だね、総司令官」
「……フェルデか」
アークがその名を呼んだ。
ハーバート=フェルデ、アルバリークの大魔術士だ。
本来の所属は宮廷魔術士団でありながら、今は第四騎士団預かりとしてレイテアに派遣されていた。
武楽会中に、アークに対する命令違反のため軍法会議にかけられた男である。その処罰としてのレイテア派遣であり、科されたのは第四騎士団の指揮下で動く、魔術士の機動部隊を編成することだった。
数ヶ月ぶりだが、アークとフェルデの間に余計な会話は一切ない。しかしアークの方は特段の気負いなく「遅かったな」と投げかけた。
「部隊編成できずに諦めたのかと思っていたぞ」
「冗談。レイテアの魔術士がヘボすぎたんだよ」
むしろ練度としては未だに要求水準に達していない。
そう言って、フェルデは不服そうに頬を歪めた。
「ばらの王女はまだしも、それ以外は並も並だ。これで魔術士だってんだから笑わせる」
「ほう。にもかかわらず今来たのは何故だ?」
「士団長の命令が出た」
これ以上はもう待てない。
フェルデを預かっていたレイテア魔術士団長のレイビアスがそう断じ、この機動部隊を転移で送り込んだのだという。
道は既にあった。
かつてグリスト渡河の際に、レイビアスがアークに渡した指定転移の法円だ。フェルデを筆頭に十人、全てレイビアスの魔力でここに送られた。
苛立っている様子でフェルデが経緯を早口でまくしたてる。
が、ひと通り語った後で、彼は一瞬だけ黙り込んだ。ちらりと倒れた幕を窺う。そこには同じく黒衣の魔術士たちがいて、それぞれが動いていた。
第一騎士団を助け起こすもの、アルセ族に治癒をかけるもの、そしてカスミレアズに状況を説明しているもの。
アナスタシアはグレイスに微笑みかけ、グレイスは途切れ途切れに頷いている。彼女たちはグリスト渡河で既に知った仲だ。
配下の働きを及第点と見たのか、フェルデが尊大に息を吐いた。
「──あんたに死なれちゃ困るんだよ」
フェルデは神経質そうに長衣を払う。荒野に吹く風で、砂埃がまとわりつくのだ。黒衣に白い砂汚れは目立つ。
それから彼は馬上のアークを見上げた。
「約束、忘れちゃいないだろうな?」
「それは働き次第だ。皇都が落ちれば帰る場所がなくなるぞ」
「相変わらず嫌味な言い方するね。死にかけのくせに」
盛大に舌打ちをして、フェルデが皇都を見遣った。
この基点に迫る群れがいる。
それに対し、彼は手に琥珀色の光を湛えたかと思うと、それを腕の一振りで無造作に投げつけた。早い。ヒュ、と残像を残して火球が飛ぶ。やがてそれは群れの真正面で弾けた。
光が爆ぜる。
接近していた群れは数十羽ほどもいたが、その全てが空から忽然と姿を消した。
「とりあえずここには二人置いていく。いいか、絶対に約束は守ってもらうからな」
再度念押しし、フェルデはさっさと踵を返す。
言い方が捨て台詞さながらだ。よほどアークと会話をしたくないらしい。
が、そのまま去るかと思われた彼は、数歩進んでからぴたりと止まった。黒衣をひるがえし振り返る。眉間には皺が寄っていた。本当に不満気というか、実に嫌そうだ。
「あんたとそいつの馬を寄越せ」
フェルデの指がアークとガルダンに向けられる。
が、受けたアークはまた別の場所を指差した。
「九頭いればいいんだろう。あっちにまとまってるぞ」
敢えて確認せずとも解る。フェルデと共に皇都に入る魔術士八人用の足が要るのだ。
元は真澄たちのために用意されていた馬だが、次の基点移動ではなく起動終了後に皇都へ戻る用だ。彼らに使ってもらって委細構わない。伝令を飛ばして新しい馬を準備してもらえば事足りる。
あちらとこちらで個別に準備するより、まとまって動いた方が良いだろう。
そうアークが言うと、フェルデの眉間の皺が深くなった。
「どうせそれが一番足が速いんだろ、脱出しようとしてたくらいなんだから。こっちは急いでるんだよ、いくら練度不足ったって二手に分かれられないほどじゃない」
睨みつける勢いで言った後、フェルデは噛みつくように再び後ろを振り返った。
「リネット! 離れるなと言っただろう、治癒ごときに一体いつまでかけるつもりだ!」
「はっ、はいっ、すみません!」
魔術士の中で一人、明らかに身体を跳ね上げて直立不動になった人物がいた。
彼女は第一騎士団の騎士に治癒をかけていた。
真澄とアークは思わず馬上で顔を見合わせた。呼ばれた魔術士が明らかに若いのもさることながら、フェルデの大声に驚いた方が大きい。
が、とりあえずアークが馬から降りた。
その動きを見て、ガルダンが首を傾げる。早口すぎてあまり聞き取れなかったらしい。真澄が説明すると、ガルダンはぱっと顔を輝かせ、アークの後に続いた。そして真澄もガルダンの手を借り下馬する。
その横で尚もフェルデが声を張り上げた。
「リネット、そんなところに突っ立ったままでどうするつもりだ!? 先に皇都に入るぞ、来い!」
「ええっ、わっ、私がですか!? 指揮官と!?」
「お前、……耳も頭もついてないのか! お前が一番雑魚だから俺が面倒見ると何度も説明したろうが!!」
「ひえっすみません!」
「謝る間に走れ!」
「ひえー、はいっ!」
リネット、という名らしいその魔術士は、ぺこぺこと第一の騎士に頭を下げた。忙しない動きだ。
一方の騎士はその勢いに若干のけぞりつつも、両手を振って「とんでもない」とどうにか彼女を止めようとしている。そしてこちらを指して何事かを語りかけていた。
あれは多分、「いいから早く行かないとまた叱られるぞ」と諭している。
リネットはもう一度深く頭を下げ、それから走り出した。
と思ったら、一歩目でコケた。
「──リネット!!!」
溜めたっぷりに、フェルデの怒号が飛ぶ。
第一の騎士が慌てて彼女を助け起こし、汚れたローブを手で払い、その背を押す。体格差が著しく、さながら父と幼子のようだ。助けられたリネットは屈託ない笑顔で騎士に頭を下げるが、騎士の方が慌てている。
そんなのいいから早く走れ。
身振り手振りで騎士から促され、それからようやくリネットはまともに走り出した。
「遅い!」
傍に来るなりフェルデが責める。
リネットは小さな身体をさらに縮こまらせながら、何度も頭を下げた。
「すみませんすみません!」
「さっさと乗れ、まずは俺たちが皇都の群れを一掃するぞ!」
「ええ!? 先輩たちは」
「俺は! 何度も! 言ったよな!?」
フェルデの額にくっきりと青筋が浮かんでいる。
あまりの剣幕のせいか、一方のリネットはフェルデを見上げながら数秒固まった後、は、と思い出した顔になった。
「ええと、……そうでした」
「思い出したか!?」
「はいっすみません!」
「分かったらさっさと乗れ!」
説教を続けながらフェルデがアークの手から手綱をひったくった。
必然、リネットは真澄とガルダンが乗っていた方の馬になる。やり取りを見て何かを察したらしいガルダンは、何も言わずリネットが鞍に乗るのを補助していた。
助けられたリネットが、またとびきりの可愛い笑顔で「ありがとうございます!」と頭を下げる。
ガルダンもまた嬉しそうに手を振って応えたのだが、フェルデの怒号が二人の間に割って入った。再びリネットの背が跳ね伸びる。
「行くぞ!」
フェルデはもはやアークの方を見もしない。
そのまま馬の腹を蹴ったフェルデを、慌てふためきながらリネットが追っていった。
援軍は、来た。
まさに嵐の如く。
* * *
「お待たせしてしまいまして本当に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げたのはアナスタシアだった。
ここは立て直された幕の中だ。
外にはアルセ族の若手が一人、見張りとして立っている。それ以外の人間はこのアークと真澄の幕に集まり、事の次第をアナスタシアから聞いているところだった。
フェルデとリネットが皇都へ向かった後、しばらくは基点にも断続的にジズの襲来があった。が、それは残った二人の魔術士──アナスタシアとカレヴァ──が全て駆逐してくれ、一切の被害も出なかった。
本来アナスタシアとカレヴァは特務部隊所属であり、士団長レイビアスの指揮下にいる。
が、紆余曲折ありこの機動部隊に編入されたという。
お陰で幕を設営し直し、全員の魔力補給をし、アークの安静を確保できた。脱出しようとしていた時分からすると、かなりの落ち着きを取り戻したといっていいだろう。
流れる時間は、この法円起動が始まってから最も静かなものとなっている。
他の七人の魔術士たちは皇都の南西へと赴いた。
皇都上空へのジズ侵入を阻止するため、簡易ではあるが防衛線を敷くという。カスミレアズは無理だと諦めていたが、魔術士であればできるらしい。事実、彼らが発って数時間後には皇都上空のジズが減り始めた。
新たな流入がなければ、フェルデとリネットの二人で片付くとの目算らしい。
リネットは確かに若輩ながら、範囲攻撃に長けているという。
フェルデからは未だに雑魚と評されるものの、この数ヶ月で従から正魔術士に上がるほど、目覚ましい成長を遂げた。
気性がのんびりしていることと粗忽な動きで魔術士としての元の評価はあまり高くなかったが、他でもないフェルデが彼女を掬い上げたらしい。誰かからの推薦を受けたのではなく、自身でその力を見て、彼女の中に眠る才に気付いた。
そんなアナスタシアの話を聞いて、アークが眉を上げた。
「変わったな。以前のフェルデなら『役立たずは要らん』と一言で切って捨てそうなもんだが」
「わたくしはアルバリークでの指揮官を存じておりませんので……指導の厳しさは折り紙付きですが」
困ったようにアナスタシアが微笑む。
その横で、カレヴァが「第四騎士団のためでなければ、私は絶対にお断りでしたよ」と憤慨した様子を見せる。
「初対面で『その程度で大魔術士を名乗るのか』などと真正面から喧嘩を売ってくるような奴ですよ? ……確かにまあ色々と、術の多彩さやら出力調整などは多々教わる所がありましたが」
「そうか。ものの見方は変わっても、根本的な人間性は変わってないらしいな」
くっく、とアークが苦笑する。
久しぶりにその表情は穏やかだった。先ほどまで血を吐きながら防御壁構築のために足掻いていたが、援軍のお陰で休息をとる時間ができたのだ。安心感からか、高熱は変わらないもののアークの口調は柔らかい。
皇都からの伝令にも同様の旨が書かれていた。
ここにきてようやく訪れた束の間の休息に、第四騎士団は心身ともに安らいでいる。
一方でアナスタシアが考え込むように僅か小首を傾げた。
「……言葉がきついのは事実ですが、わたくしにはお優しい方に見えます」
「正気か? 今は第四騎士団預かりだが本来は宮廷魔術士団の人間だ。無理に擁護しなくてもいいぞ?」
「あ、いえ、そういうつもりではございません。お気に障ったのなら申し訳ありません、ご放念ください」
アナスタシアが慌てる。
アーク自身は特に気にした素振りはないが、信じられないものを見る目になったのはカスミレアズとグレイスだ。
彼らとフェルデの間にはひとかたならぬ因縁がある。グレイスは生涯消えぬ傷をつけられたし、カスミレアズも試合とはいえほぼ決闘も同然で戦った。
しかしアナスタシアはそれを知らない。
ゆえに正直な感想が出たと見え、アークがその真意を促す。するとアナスタシアは若干ためらいながらもその胸の内を明かした。
「実はこの機動部隊に純然たる大魔術士は三人しかおりません」
ここにいるアナスタシアとカレヴァ、そして指揮官であるフェルデだ。
「他の者は大魔術士相当まで養成される予定でしたが、やはり一朝一夕には……お約束の期限より大幅に到着が遅れたのはこのためです」
「わざわざ大魔術士を育てるだと? レイビアスの差配か?」
「いいえ。指揮官がご自身で人選されました」
選ばれた八人は従魔術士と正魔術士が半々だった、そうアナスタシアは告げた。
彼らのいずれも元の実力は並かそれ以下で、将来を嘱望されているとは言い難かった。挙げられた名前の一覧を見て、レイビアスが急遽アナスタシアとカレヴァを組み入れたくらいである。
そして選ばれた側も、全員その理由に心当たりがなかった。
「俺に対するあてつけ……にしては、悪手だな」
アークもまた首を捻る。
死なば諸共、の精神ならば分からなくもないが、そもそもフェルデの最終目標は本来の所属である宮廷魔術士団へと戻ることなのである。一時的な左遷の意趣返しをするにしても、最前線で頼りにならない戦力を敢えて使うのはフェルデ自身の安全を脅かす。
この程度の打算が働かない男では決してない。
ましてアナスタシアの言葉が真実ならば、フェルデは自ら進んで面倒を買って出た感が強い。それはアルバリークでのフェルデを知っている人間にとって、腑に落ちない行動のように思われた。
戸惑いの空気が広がる。
それを感じてか、アナスタシアが様子を窺いつつ遠慮がちに続けた。
「レイテアの魔術士候補は今や身分の貴賤は問われません」
「結構なことだ。才能はどこに埋もれているか分からんからな」
あのフェルデも平民の出だ。
そうアークが言うも、アナスタシアの顔は曇っていた。
「万人に門戸が開かれていると言えば聞こえは良いですが、実際は長すぎたアルバリークとの戦争で、もはや選べるほどの人間がおりません。魔術士というものに大志を抱いて叙任を受けるというより、身売りや口減らし、食うや食わずで軍に身を寄せるものが大半です。同時に教え育てる側も少ない。優秀な魔術士を育てる土壌はほぼ潰えたも同然です」
「まあ、……そうだろうな」
「リネットも親に捨てられて叙任を受けたのです。あの子は魔術のことを何も知りませんでした。戦争さえなければ、生まれ育った村で穏やかに暮らして、魔術を目にする機会さえなかったでしょう」
それがゆえ、リネットは常に控えめで受け身だった。
向上心がないのとは違う。
彼女は魔術というものが何かを知らず、その力で為せることも知らず、言われるまま従魔術士として過ごしてきた。そこに彼女自身の「こうしたい」という意志はなかった。
落第しないことだけが目標だったと言ってもいい。
何もかもそれは、当面の生活を手に入れるために。日々の糧を得る、ただそのためだけの手段として魔術士という職業が考えられていたからだった。それがゆえ、彼女の中に眠っていた魔術士としての才能は誰にも、本人にさえも自覚されなかった。
そしてそれはリネットに限った話ではない。
多くの者に希望はなかった。やがてアルバリーク戦線に出て殉職する、レイテアの魔術士であればその可能性が高い。研鑽は死への道を早める、そんな気運が蔓延し、育成そのものが鈍っていた。
そこにきて終戦を迎えたのだ。
これ以上戦わなくてよい。何かあってもまずは宗主国であるアルバリークが守ってくれる。そんな現実がますます怠慢を増長させた。
「そんな折でした。フェルデ様が特命にていらしたのは」
レイテア魔術士団にとっては、士団長であるレイビアスが直接受けた特命だ。それも、近く脅威となる対ジズ戦線に関連しており、決して他人事ではない。
機動部隊を編制する、つまり人選されるということで広く周知され、魔術士たちの間にはさすがに緊張が走った。
「時間がありませんでしたので、めぼしい人材をあらかじめ士団長が用意して目通りさせたのですが、『話にならん』と一蹴されました」
「そのあたりは実にフェルデらしいな」
「あれだけの実力をお持ちですから、それに劣るわたくし共は返す言葉がございません。先に申しましたとおり、怠惰な姿勢をも見抜かれ説諭されました」
「説諭? フェルデが?」
「はい。『一度でも魔術士として在ることを決めたのなら、強くなれ』と」
弱いままでは駒として使われるばかりだ。強くなれ。強さを求めてひとかどの存在になれば、それが自身の身を守る。前線にいようが派閥争いに巻き込まれようが、力さえあれば必ず道は開ける。
意志を持て。
自身の進退を他人に決めさせるな。弱さにつけ込まれて良いように扱われるな。
弱さは恥だ。
だがその瞬間は致し方ない。誰にも笑われぬよう研鑽しろ。
弱いままでいることは罪だ。
これはもはや救いようがない。安寧を求めるならば即刻辞めろ。
お前たちを魔術士として信じ、頼る者を失望させるな。
強くなれ。
魔術士として在ることを決めたのならば。
「一言一句、忘れられません。あれは決してただの謗りではありませんでした」
穏当に済ます道はいくらでもあった。
にもかかわらず敢えて口に出された言葉は冷や水のようでいて、その実心臓を拳で叩くようなそれだった、そう言ってアナスタシアは僅か目を伏せた。
「辞めた者もおります。ただ残った者たちには『六年間まで面倒は見る』と約束されて。不思議なことをおっしゃるなと思いまして、お伺いしたのですが」
「不思議なこと?」
「どうして六年なのだろう、と。機動部隊の編制にはそれほど時間をかけられません。かといって切りが良いわけでもありませんし」
「確かにな。それで、答えはあったか」
「いえ。どれほど弱い人間でも六年あれば強くなるから、とだけ」
「──そうか」
一連の話を聞いた後、アークが僅かに頬を緩めた。
そのままちらりとグレイスを窺うが、彼女に対しては何も言わず、アナスタシアへと視線を戻した。
「あれが強さに拘泥するのは変わらんな。だが多少は成長したようだ」
他者を認める、それができるようになった。
アークの言葉を聞いたアナスタシアには思うところがあったのか、数度瞬きをして、その意味を深慮しているようだった。
「それにしても、この呪いは厄介ですね」
フェルデにまつわる話に一区切りつけ、アナスタシアが顔を曇らせた。視線はアークの肌に浮かぶ黒い紋様に据えられている。
皇都陥落の危機は一旦乗り越えた。
当面は四聖獣に代わってフェルデたちが皇都でジズを迎え撃つことで、防御壁になり得るだろう。しかし彼らは極少の機動部隊のため、交代要員がいない。長引くと夜間戦闘で不利になることが明らかだ。
危機は永久に去ったわけではない。
早急に次の手を打つ、あるいは防御壁を完成させねばならないが、そこに立ちはだかるのがアークにかけられた呪いである。レイビアスが時間切れだと判断したのもこれが理由だった。
緩みかけた空気が再び引き締まる。
アークが腕に広がる紋様を指でなぞった。
「解呪できるか?」
「……今この一瞬見た限りでは隙がまったくありません。魔術としてとても完成されている、そういう風に見受けられます」
「レイテアの至宝をしてそう言わせるか」
「その誉れは光栄ですが身に余ります。わたくしは魔術士としてまだまだ若輩でございますゆえ。呪いは……もうしばらく取り組ませてくださいませ。糸口がどこかに必ずあるはずです」
「──お前もまた成長したな」
ふと嬉しそうにアークが呟く。
受けたアナスタシアは一瞬だけ茫然とし、それから助けを求めるように真澄を見てきた。変わらぬ可憐な姿、しかし確かに強くなっているその芯。それを思い、真澄もまた無言のまま微笑んだ。
ひと通りの話を終えた後、アークは眠りについた。
束の間の休息だ。
その傍らに真澄は寄り添い、アナスタシアがずっと紋様を紙に書き取っていた。解呪の前に、解読が必要らしい。夜にかけて基点にも断続的にジズが襲来したが、その全てをカレヴァ一人で駆逐していた。
大魔術士の力は目を瞠るものがあった。
これ以上を要求するなど、フェルデの方が無茶を吹っかけているとさえ思えるほどに。
カスミレアズは基点の防衛に集中することができ、消耗が抑えられた。同じくガルダンたちアルセ族も充分な休息をとる時間ができた。
騎士と魔術士の連携。
真澄が初めて見た本来の姿は、完成されていた。
日が落ちてからも基点と皇都の間で目まぐるしく伝令が飛び交った。
そして日付が変わる頃、皇都上空からジズが一掃されたとの連絡が入る。極少ながらもまさに鬼神のごとき活躍であった、文書はそう結ばれていた。




