145.ヴィルトゥオーソの証明
「あなたのために何を懸けるとも言えない私なのに、どうして守ったりしたの」
本当の意味で専属でさえないのに。
なぜそれほど強く在れる。
弱かった真澄にとってそれはもはや羨望を越えた憧憬、手の届かない遥か高みだ。真澄の音など比べるべくもない。アークの強さこそ無二の価値がある。
途切れ途切れに話した自分の過去。
ひた隠しにしていたそれを語り終えた後、真澄は口を噤んだ。アークは目を覚まさない。相槌など望むべくもないだろう。
打ち明けたことはきっと届いていない。あの時と同じ、自分は間に合わなかった。
生きる世界を変えて尚、弱いままだった自分。
ただ心が痺れている。言葉を見つけられず、真澄は再び目を閉じた。
美しい旋律だけを追っていく。
傍に。
ただ傍にとそれだけを歌う。
すると不意に右手首が熱くなった。驚いて弓を止める。その拍子に、形見のブレスレットがさらりと流れ動いた。
命の石。
深い青が、真夜中の小さな明かりを吸い込み輝く。
「……泣いているのか」
次いでかけられた声は掠れていた。
真澄は目を疑った。そこには半身を起こし、真澄の手首を捕えるアークがいた。
滲んでいた汗はひいている。
意識が戻ったのは喜ばしい。だがどこかおかしい。手首から伝わってくる熱さが燃えるようだ。何かがおかしい。真澄の心臓は早鐘を打っていた。
良かった、と。
そのたった一言が喉に絡まって出てこない。
そんな真澄に気付いているのかいないのか、アークは真澄を捕える手に力を込めてきた。
「なあマスミ。お前は見返りが欲しくてヴィラードを弾くのか」
違うだろう。
問うていながら、アークはすぐにそう続けた。真澄は首を縦にも横にも動かせなかった。
「好きだからだろう。愛しているから。同じことだ。俺がそうしたい、その形で愛したいから守った。ただそれだけのことで、後悔も何もない」
黒曜石の瞳は僅かも逸れずに真澄を射抜く。
いつもと変わらない、装われる平静。これを真澄は知っている。もう間もなく、この後に訪れるのは、
──永の別れだ。
真澄の頬を涙が伝った。
視界がぼやける。何度瞬きを繰り返しても、すぐにアークの顔が見えなくなる。言葉が出ない。
熱い手が真澄を引き寄せた。
「……碧空楽士団が楽しみだ」
アークが笑った。
「好きにやればいい。文句を言う奴がいても気にするな。お前を助ける人間の方がきっと多い。なあ、マスミ──お前はもう、自分を許していいと思うぞ。自由に生きていい、少なくとも俺は……お前を愛している俺は、そう思う」
真澄の目尻にアークの唇がそっと寄せられる。
それは手と同じく熱く、乾ききっていた。
「マスミ」
耳元でもう一度名を呼ばれた。
「──幸せになれ」
長らく引き留めて悪かった。自分の勝手な都合で、真澄にとって本意ではないことを強いてきた。理由が語られなかったのをいいことに。
アークはそう言って、二人の関係をここで終わりにしようと告げてきた。
「大丈夫だ。言っただろう、俺の代わりはいくらでもいる」
ゆっくりと熱が離れていく。
全てが滲む景色の中で、アークが疲れたように寝台へと身体を沈める。気付けば胸元から首筋にまで、黒い紋様が広がっていた。
真澄が弾いていないからだ。
間近に迫る刻限を目の当たりにしたその時、真澄の中で何かが弾けた。
「……代わりなんて」
ようやく絞り出した声は無様に震えていた。
けれど真澄は構わなかった。
「だからって死んでいいなんて、……一言も、いってないでしょ……?」
そこに全てを乗せた。
自分では喧嘩腰で叫んだつもりだったが、実際はみっともない涙声にしかならなかった。いい大人が情けないにも程がある。だがもう形振り構ってはいられなかった。
ここで口に出せなければ、本当に最後だ。
真澄は手のひらで乱雑に涙を拭った。
真正面からアークを見つめ返す。心情としては睨みつけるに近い。その優しさ。どうして出逢いのあの時ではなく、別れの差し迫るこの時に寄越してくるのだ。そういうところが狡い。
自分勝手な振りをして人の心の隙間を埋めておいて、
沢山のものを残すだけ残して、
いざ自分はとなると何も要らないだなんて。
「勝手なことばっかり言うなこの馬鹿野郎……!」
例えば『ありがとう』や『愛している』のような綺麗な言葉は一つも出てはこなかった。けれどこれが本心なのだから、ここに来て偽りようもない。
今際の際。
にもかかわらず真澄が投げつけた暴言を、アークは毒気を抜かれた顔で受けた。
「参ったな……ここでそう、くるか」
顔が白い。一言、二言を口にするのさえ大儀そうだ。にもかかわらず、アークは一度沈めた身体をふらつきながらも再び起こした。
その右手が真澄の涙をすくった。
親指で、人差し指で。何度ぬぐってもあふれてくる。熱い吐息の後、アークは真澄をその胸に閉じ込めた。
常より早い鼓動と、熱い体温が伝わってくる。
「なあ。それは俺のためと思っていいのか」
「あなた以外に、誰が」
喉が締まる。最後まで言えない。
熱い首筋に頬を寄せる。まだ生きている、その鼓動が伝わってくる。
真澄の涙がアークの露わになった肩を滑り落ちていく。次から次へと肌を伝い落ち、その下の包帯に吸い込まれていく。
「……独りにしないで……!」
どんなに仕方のないことだと言い聞かせても。別れはいつもそこにあって、見送り続けるのは生きていく限り真理なのだと、理解していても。
それでも止まらないこの涙を、一体どうしたらいいのだ。
ずっと抑えてきたこの気持ち。
好いてしまえばきっとこの人も離れていく。失くしたくなくて踏みとどまってきたのに、ここで永久の別れになるのなら、最も恐れていた未来が来てしまうのなら、これ以上隠し通す意味がない。
あなたまで、私を置いていかないで。
これまで誰にも言えなかった本心。
囁くより微かな声に、応えは力強い腕だった。
「──分かった」
するりと腕が解かれる。
そのままアークが掛布を退けた。簡素な寝台を軋ませながら降りる。縁に腰を下ろしていた真澄は突然の動きを目で追うしかできない。
戸惑っていると、アークが真澄の右手首に──正確にはブレスレットに──指をかけた。
「これ寄越せ」
言うが早いか、二連の細い銀鎖はふつりと切られた。
青い石が揺れる。
それを握りしめながら、傷だらけのアークがその場にひざまずいた。
裸の上半身。太い首、頑丈な肩。筋骨たくましいが、包帯が巻かれて痛々しい。簡素な下衣、その下は裸足が続く。長剣もマントも、肩章もない。
だが紛れもなく騎士の振舞いだ。
僅かな動きにも肩で息をするアークだったが、一つ深呼吸をした後、手にした命の石をその手で強く握りしめた。そして、
「……っらぁっ!」
気合の発声と共に、石の砕ける音がした。
アークの手が発光する。
青、けれどいつものアークよりは僅かに明るいその色が、音もなくアークの身体を包み込んだ。
揺らめく波間のような色。
美しい。言葉を失くすほど。真澄が見入っていると、息を整えたアークがゆっくりと唇を動かした。
「我、アークレスターヴ=アルバアルセ=カノーヴァ、ここに宣誓す」
その右手が左胸に添えられる。
下から向けられるまなざしは、真っ直ぐに真澄だけを捉えていた。
正しき力に従い、勇敢に、誠実に、寛大に、信念を持つ騎士として。
我はマスミ=トードーを妻とし、片時もこれを離さず、これを守り、これの祝別のみを受け、我が生涯をこれに捧ぐ。
女神より賜りし力、この誓願に応え遥かな恩恵を我にもたらすように。
誓いの祝詞は淀みなく朗々と、深夜の幕に広がった。
どこか懐かしい韻だ。どこで聞いたのだろう、真澄が記憶を手繰り寄せると、始まりの場所ヴェストーファが目蓋に迫ってきた。
あの日、アークが騎士たちに祝別を渡した日。
傍で聞いていた真澄の視界は滲んだ。
今思えばあれは兆しだった。一人で生きることを決めてから、一度も泣かずに生きてきた自分。そんな自分が、再び心を動かされた瞬間。
あの時から、止まっていた時は動き始めていたのかと思い至る。
真澄自身が気付かない、気付きたくない振りをしながらも、着実に。
「受けてくれるのなら、許しを」
胸に添えられていたアークの右手が促すように差し出される。
だが真澄はすぐにその手を取れなかった。一つだけ、どうしても引っかかる言葉があった。
「……私だけの祝別?」
「文句あるのか」
「だってそれ、私がいなくなったら、回復が」
「いなくなるのか? 置いていくなとお前が言ったくせに?」
熱で朦朧とするのか、アークの肩が大きく上下する。
「いずれ死ぬなら俺の何を懸けようと俺の勝手だ」
アークが決然と言い切った。
選ばれた言葉は直截にも程がある。が、アークの状態をこの上なく端的に表していて、そこで真澄も覚悟を決めた。
何が起こるのか、アークが何をしようとしているのか、真澄には分からない。
けれどどうしてもその手を失いたくなくて、必死に手を伸ばしたのは真澄なのだ。応えてくれるのなら、もう他に何も要らない。どんな生き方になろうと受け入れる。
真澄が左手でその指先に触れると、大きな手のひらがそれを掴まえた。ゆっくりと引かれていく。やがて手の甲に、口付けが落とされた。
ごく丁寧に。
伏せられた目は、その唇が離れると同時、上目遣いに真澄を射抜いた。
アークの身体を包んでいた光が膨れ上がり、繋いだ手を伝って真澄の身体に流れ込む。全ての光が移った時、アークが口の端を上げた。
「これでもう、……俺のものだ」
高い熱のせいだろうか。
黒曜石のその目が潤んでいる。真澄は何も言えなかった。言えば自分の涙が零れそうだった。
「約束する。お前を置いてなどいかない。絶対に、この生涯をかけて」
ゆっくりとアークが立ち上がる。
両腕が真澄を包み込み、
──それからアークの全体重が真澄に圧し掛かってきた。
「ちょっ……とっ……!」
急な重さに真澄の体勢が崩れる。
支えることは不可能だった。かろうじて地面ではなく寝台に倒れ込む。押し潰されてもがく真澄に、アークが目を閉じたまま「……すまん」と呟いた。
「押し倒す余裕は、……さすがに、ねえな」
「な、……にを、馬鹿なこと言ってんのよ!」
今の今までこの場に満ちていた感動が、ここにきて見事に雲散霧消した。
肩と腰に巻きついていた太い腕を引き剥がす。
真澄が上半身を起こして見下ろすと、掛布に頬を埋めたまま見上げてくるアークがいた。全身は力なく投げ出されている。その中にあって、口の端だけが僅かに持ち上げられた。
「……だって懐かしい、じゃねえか」
途切れながらアークは尚も続ける。
「幕で、二人きりの夜、だ。出逢ったあの日と、同じ」
「だからってあんたね……!」
瀕死の状態で言うことがそれか。
真澄が説教しかけると、アークの手が伸びてきた。そのまま真澄の後頭部を捕えて引き寄せる。開きかけた口は、そのまま唇で塞がれた。
ややあって、ゆっくりと解放される。
「……だからだ。やり直したいだろうが」
「やり直すってなにを」
「お前は本当に……情緒がねえな。俺たちの、出逢いをだ」
「なんでわざわざ」
「いい加減分かれ」
求めるように指先が絡められた。
「マスミはスパイなんかじゃない。──俺のものなんだぞ」
言った後で、アークはため息とも深呼吸ともつかない息を吐いた。
真澄は自分の口元が綻ぶのを感じた。
こういうところは本当に篤い男だ。後悔しているとまでは思わないが、それでもずっと気にしていたのだろう。
「……スパイ容疑はとっくに晴れてるでしょ」
「それも、……そうだな」
真澄の言いたいことは伝わっただろうか。
真澄はアークではないので分からないが、アークはそこでゆっくりと瞳を閉じた。今度こそ本当に、全身を寝台に沈めていく。
「マスミ」
名を呼ばれる。
探すようにアークの手が宙を彷徨ったので、真澄はそれを捕まえた。
「……マスミ」
「大丈夫。ここにいる」
「ああ。それはいいんだが……悪い、そろそろ本気で……くたばりそうだ」
「は? ちょっと、ねえアーク!?」
「弾い、て、くれ。説明は、それから、だ……」
「そういうことは早く言いなさいよ!」
繋いでいた手を振りほどき、真澄は慌てて立ち上がった。
弓を張り肩当をつける間に横目でアークを窺う。気付けば呼吸がかなり苦しそうになっている。黒い紋様は首筋を埋め尽くし、顎にまで迫っていた。
真澄は弓を走らせる。
迫りくる死を止める、その重大さに緊張する。だが人生で一番、自由に伸びやかに弾けた瞬間でもあった。
腕が軽い。
まるで羽が生えたかのように。
不謹慎かもしれないが、真澄の頬は自然と緩んでいた。幼い頃に戻ったようだ。ヴァイオリンを弾くことがただ楽しくて、聴いてくれる誰かがいることがただ嬉しくて。
そんな真澄に気付いたのか。
苦し気に目を眇めながら、アークも笑った。
二人でいる。
真澄はもう、何も怖くなかった。




