137.その面影に・後
奮い立たせた気持ちはどこまでも強くあった。
が、皇都への道のりは困難の連続だった。
ジズとの戦闘で馬を失い、機動力が地に落ちた。さらに治癒はかけたが負った怪我の痛みは残ったままだった。
日が経ってもその痛みは軽快しなかった。
その内にリシャールの太腿を痺れが襲うようになった。無残に切り裂かれた傷痕は表面上塞がっていたが、その奥が脈打つように疼く。最初は歩く時だけに感じていた違和感が、やがて何もせず休んでいる時でさえも感じるようになった。
赤黒く変色したそこ。
ジズの持つ毒か、あるいは野営の間に別の何かに侵されたか。それは褪せるどころか日増しに深く濃くなっていく。
徐々に動かなくなっていく足に、リシャールの焦燥は募るばかりだった。
足枷をはめられたも同然の状態で、行軍は遅々として進まない。
その上で遮るものの少ない荒野だ。上空にジズの姿があれば何もできず、幾らも進めない。場合によっては後退を余儀なくされ終わる日が何日も続いた。
夜も油断できなかった。
夜の鳥とも異名を持つジズは、日が落ちてからこそ活性が上がった。僅かな音でも立てればすぐに寄ってくる。それはある意味で魔鳥が目を頼りにしていないということの証左にもなったが、行動を制限される弊害の方が大きかった。
結果、最短経路を行く選択肢は消された。
往路を戻ろうにも荒野の只中を突き進むことになる。一か八かの賭けにもならない危険さだ。やむなく身を隠せる植生のある峡谷沿いを進むしかなく、かなりの迂回を強いられた。
リシャールたちは一度戦ったジズに執拗に狙われた。
近辺が縄張りであったのか、明らかに痕跡を辿り捜している素振りで飛び回る。それと分かったのは、リシャールが戦闘の際に肩口に突き刺した長剣が目印となったからだ。
しかし防御壁がその存在を探知してくれたことで、何度も命拾いした。
ある時など植生の切れ間でジズの襲来があった。目を頼りにする魔獣ならば終わりだ。しかし大地に腹ばいになり息を潜めていると、上空を飛び回っていたジズはやがて去った。
相手が高高度にいる限り、発する音が無ければ認識されない。
命がけではあったがその裏付けが取れた瞬間でもあった。
そうしていたづらに日を重ね、携行食料も底をつく。
糧を得るために野獣を狩るが潤沢ではない。やがて慢性的な飢えがリシャールとアランを苦しめた。
それでもどうにか峡谷地帯を離脱し、近くの村へとたどり着く。この時点でおよそ一ヶ月が経過していた。
ようやく一息つける。
そう思ったのも束の間、村は死んでいた。
人っ子一人いない。家畜も姿が消えている。なぜ。疑問を浮かべながら家々を訪ねるも、どこからも返事がない。やがて鍵の開いている家に行き当たり、リシャールとアランは慎重に中を検めた。
入ってすぐ、家人の靴が散乱していた。
飾られていた花瓶も床に落ち、割れた破片と枯れた花が四散している。誰かが裸足で踏み込んだかの如く、あちらこちらが泥で汚れていた。
そのまま進むと居室があった。
やはり人はいない。が、大きな血痕が残っていた。
食事テーブルに一つ、ソファに一つ。泥汚れは部屋中に広がり、無残に破られた服の切れ端が申し訳程度に落ちていた。
明らかに人の仕業ではない。
確信を得てすぐ、外へ出て二手に分かれ、周囲を調べた。
リシャールは隣の家に入った。やはり鍵はかけられておらず、中は荒れていた。居室の中には暦があり、家人の癖か何かを数えていたのか、過ぎた日が斜め線で消し込まれている。それはリシャールたちの到着する三日前で途切れていた。
眉根を寄せ考えながら再び外へと出る。
リシャールがその家の裏手を調べていると、背中からアランが呼びかけてきた。
「ガウディ神聖騎士」
すぐに立ち上がり振り返る。そこには険しい顔でとある方向を指差すアランがいた。
歩き出した彼を追う。
通りを渡り三軒ほど先の家に、それはあった。
大量の足跡だ。
春の種まきに向け土を耕していたのだろう。ちょうど柔らかくなったそこを踏み荒らす、大きな足跡がはっきり見えた。
「ウォルヴズです」
アランが足跡の大きさを手で測りながら呟いた。
「……大群だな」
「ええ。それも大きな個体が多い。赤の周期だからでしょうな」
「ただでさえ攻撃性が増している時期に、人の味を覚えたか。厄介だな」
「この村の規模ですと防ぎようもなかったのでしょう」
田舎にある極々小さな集落だ。
有力な召喚士がいるとは思えず、急に増えた魔獣に対抗する術などなかったはずだ。そうであるが故、最初に襲われた時に難を逃れた村人は、ここを捨てて近隣へと逃げた。
鍵のかかっている家と、そうではない家。
両者の違い、答えはそれだ。
皆まで言わずとも理解しているアランは、沈痛な面持ちを隠さなかった。
「残念ですが急ぎここを離れましょう」
馬や食料の調達どころか、一晩の休息もここでは取れない。
知らなかったとはいえウォルヴズの縄張りの只中に入り込んでしまったのだ。いつ群れと出くわすか分からず、魔力も枯渇している今は危険極まりない。
リシャールは賛同しつつ荷の中から地図を取り出した。
これからどこを目指すのが良いか、紙に点在する集落を見ながら考える。
「ここから馬で一息に皇都へ戻りたかったところだが。徒歩だと辛いな」
「東進せずもう少し北上しますか。少し距離がありますが、ここならばリガ郡の中心です」
考え込むリシャールに、アランが地図上のとある点を指差した。
郡都だ。
その規模から濠や外壁などがめぐらされているはずで、召喚士も配置されている。ウォルヴズ程度ならば防いでいると見えるが、
「……どうだろう。ジズとの接触がなければいいが」
「そうですね……」
確証がない。
リシャールもアランも眉を寄せて考え込んだ。
補給は喉から手が出るほど欲しい。望み通り得られるならば郡都を目指す価値は値千金である。一方で、万が一ここと同じように街が死んでいたとしたら、辿り着くまでに費やす時間と体力が無駄になる。
今この時点で二人とも限界に近いのだ。
リシャールの右足はもうまともに動かない。引きずるようにしてやっと歩ける有様だ。アランの消耗も激しい。骨折という大怪我から万全な回復はできぬまま、不自由なリシャールの代わりに食料調達から出くわす野獣への対処など全ての負担を一人で背負ってきた。
決心しかねていると、後ろで微かな音が響いた。
背筋が総毛立つ。
リシャールとアランが抜刀しつつ振り返ると、畑の端に一頭のウォルヴズが立っていた。
大きい。
認識した瞬間とウォルヴズが地を蹴ったのは同時だった。
アランが前へ出る。ウォルヴズは大きく跳躍して向かってきたが、それを長剣で一息に切り伏せた。
絶命の悲鳴が上がる。
倒れたウォルヴズの身体からは大量の血が流れ、踏み荒らされていた畑の土に染み込んでいった。長剣を鞘に収めたアランは息こそ上がっていなかったが、その表情は曇っていた。
「斥候ですね」
群れの本隊が近いのかどうか。
どうあれ迷っている時間はなかった。
「郡都は捨てる。地続きだ、最悪辿り着く前に群れに追いつかれる」
「しかし東進はジズが脅威です」
「分かってる、直進はしない。この支流沿いに動いて群れを引き離す。川沿いだから遮蔽物もあるはずだ。そのまま皇都を目指そう」
「分かりました」
地図上を走らせたリシャールの指。アランが動きを目で追って、頷いた。
顔を上げ、視線を巡らせる。
ウォルヴズが入ってきた場所から反対側、柵の切れ目を見つけ、リシャールとアランは村を脱出した。
大峡谷からの支流を頼りにリシャールとアランはひたすら逃げた。
疲れきった肉体に鞭打ち、極寒の水に何度も入り、渡河を繰り返しながら時間を稼ぐ。時には対岸にウォルヴズの姿を見ながら息を潜め身を隠し、多少の後戻りをして攪乱した。
最初は南下していた支流は、やがて東へと向きを変える。
一日一日が長かった。
果てしない遠回りの末、支流と別れる時が来た。ようやく街道へと戻る。皇都へあと半日というところだったが、とうとう追いつかれた。川という遮るものが無くなり、匂いを一直線に辿られたのだ。命綱であった特殊防御壁はジズの耳を切り抜けたが、ウォルヴズの鼻は誤魔化せなかった。
街道とはいえ、赤の周期で激減した物流と人の往来。
周囲を見ても誰もいない。
追手の第一波はどうにか退けたが、リシャールは再び足に深手を負った。長剣を失って間合いが短くなったせいだ。
もう走れない。
傷口を縛り上げどうにか歩くが失血のせいで目が眩んだ。
堪らず座り込み、街道の果てを見遣る。まだ群れの本隊は見えない。あとどれくらいの時間が残されているだろうか。空は晴れていて、日はまだ高い。
「アラン。皇都へ走ってくれ」
上がる息の中リシャールが言ったことに、しかしアランは決然と首を横に振った。
「駄目です。その命令だけは聞けません」
「俺一人と中央大陸、どちらが大切だ」
どちらかが生きて戻れば、ジズに関する有益な情報が司令部へと伝わる。
それは取りも直さず今後の作戦展開、第一騎士団のみならず第四騎士団が皇都守護に当たる際に活用されるであろうし、知っているといないとでは段違いの損耗率となるだろう。レイテア、そしてアルバリーク本国での拠点防衛にも大きく寄与する話だ。
迷うことなどない。
リシャールが諭すとアランが天を仰いだ。
「優先すべきは中央大陸です。そんなことは重々承知しております」
「では頼む」
「いいえ」
「アラン!」
「違いますよ、ガウディ神聖騎士。二人でいた方がまだ良い、そういう判断です」
アランがす、と腕を上げる。
指された先を見ると、街道上を走ってくる黒い群れが見えた。
「……もう追いつかれたか」
遠くウォルヴズを見ながらリシャールは呟く。
声は疲れに掠れていた。
「ついでに申しますと、客はもう一組いるようです」
冷静なアランは空の向こうを見ている。
黒い点は目を瞠る速さで大きくなる。ジズだった。
「踏んだり蹴ったりだな」
「肉の削げ落ちた我らより、活きの良いウォルヴズに狙いを変えてくれれば万歳ですがね」
「……待て。実際そうなんじゃないか?」
これだけ距離が開いている状態で、リシャールたちがジズに認識されているとは考えづらい。
耳は良いが目が悪い魔獣だ。
大群の立てる足音と咆哮は開けた荒野によく響くだろう。迫りくるジズは、おそらくウォルヴズの群れを狙っている。
「どさくさに紛れて離脱……できるかな?」
「いやどうでしょうね……ついでにイグルスあたり通りかかって乱闘になれば、あるいはその隙もありそうですが」
「名案だなそれ。この際もう何でもいいから何か来てくれ」
リシャールは笑った。
ここまでくると最早破れかぶれだ。これ以上悪い状況などない。アランの言うとおり、本当にイグルスでも何でも通りがかってくれたら魔獣同士で戦って、些末な人間のことなど忘れてくれるだろうに。
祈りにも似たそんな願いは、しかし思わぬものを呼び寄せた。
ウォルヴズの上げる土煙を注視していたリシャールの頬を、柔らかく掠めたものがあった。呼ばれた気がしてリシャールはふと隣を向く。
アランの横顔が見える。
その手前、こちらを見つめるつぶらな瞳と目が合った。
「え」
深緑の小鳥はパタパタ羽ばたきながら小首を傾げている。第一騎士団の誰がやるより愛くるしいその姿は、
「……ゼディア騎士長?」
茫然としたリシャールの呟きにアランが反応する。
そして小鳥の存在を認めたアランの目が驚愕に見開かれた。
「ガウディ神聖騎士、それっ……!」
「騎、士長の、鳥だよな!?」
「ですっ、そうですそうです!」
「嘘だろおい信じらんねえ!」
叫びながらリシャールは小鳥をがっしと捕まえた。
溶けるように光が四散する。奇跡だ。今この瞬間に、ゼディア騎士長の元へ自分たちの生存連絡が入った。
それは同時に救難信号ともなる。
あの人は約束を違えなかった。
光の消えたその場所を凝視しながらリシャールの胸が熱くなった。そして確かに覚えている記憶が蘇る。
極力死ぬな、と騎士長は言った。生きてさえいれば回収はどうにかしてやるからと。
さらりと渡された言葉を大きくは受け止めていなかった。どちらかといえば対ジズの実験ばかりに気を取られていて、騎士長がどうするつもりかなどまったく考えていなかった。
そこで初めて思い至る。
特殊防御壁、リシャールがただ死ぬと起動しないという条件は、不完全の結果ではなく敢えて付されたものなのだ。
おそらくこれが発動した時点で、騎士長は探索を開始してくれていた。うまく捕捉できなかったのは、単なる遭難とは違ってリシャールが広範囲を移動し続けたからだろう。逃げるためにやむを得なかったとはいえ、手応えのない遠隔探索をひと月以上も続けるなど並みの人間には到底できないことだ。
武楽会前の一日が脳裏を過ぎる。
第四騎士団の総司令官と首席楽士が遭難し、夜通し探索をかけたあの日。たった一日であったが、リシャールの疲労はかなり大きかった。
翻って騎士長の消耗はどれほどか。
リシャールたちだけではなく他にも気を配らねばならない配下は沢山いる。その中にあって「死亡連絡がない」ことだけを拠り所に、ひたすら信じ、手を尽くし続けることの大変さは。
その強さが眩しい。
同時に己もかく在ろうと心が奮い立たされる。
「アラン!」
「はい!」
「持ち堪えれば援軍が来る! 騎士長は、あの人は、……やっぱり変人だった!」
「そうですね!」
「切り抜けるぞ!」
「ええ!」
そしてリシャールとアランは最後の力を振り絞ってウォルヴズに相対した。
絶対に倒れない。
気迫の猛攻にウォルヴズたちは距離を取り、円を描いて周囲をうろつき回る。そこに空から闖入者が飛び込んできた。たまたまだったのか、肩口に長剣が突き刺さっているあのジズだった。
しかしその一羽はリシャールとアランにはまるで目もくれず、ウォルヴズを捕食するのに忙しい。
特殊防御壁は生きている。
やはりジズは聴覚で相手の存在を認識しているのだと分かる、貴重な瞬間だった。
しかし幸運は長くは続かない。
魔獣同士争う傍ら、リシャールたちを襲うウォルヴズもいる。
その騒動に気付いたか、ジズがこちらを見据えてきた。黄色く濁った目が一点を凝視する。何かを考えた風の後、不愉快な鳴き声が響いた。
ジズは一度舞い上がる。
それからリシャールたちの目の前へと降り、周囲を取り囲んでいたウォルヴズを明らかに威嚇した。
まるでこの人間はこちらの獲物だと釘を刺すかのごとく。
一方のウォルヴズは仕留めかけていた狩りの邪魔をされたことに怒りを露わにする。ジズに対して厭戦気味だった群れが、一気に標的を変えた。ジズはジズで多勢に無勢、リシャールたちを捕える隙がなくとうとうウォルヴズを相手にし始めた。
大乱戦が始まる。
千切っては投げられるウォルヴズ。しかし沸騰した湯のごとく次から次へと後続が来る。数に押され、ジズは翼といい尾といい全身の羽をむしられていく。
咆哮が飛び交い血肉も散る。
どれほど時が経ったか、大量のウォルヴズに集られたジズが絶命した頃、皇都から駆けてくる第一騎士団の探索部隊の姿が見えた。




