117.きっとあの日から・前
夜の七時を過ぎてようやく仕事に一区切りがつき、アークはそこで椅子から立ち上がった。
歩きながら背伸びをすると肩の骨が鳴る。
ほぼ一日中座り仕事で身体が固まっていた。首を回しながら執務室内を横切り壁際に寄る。かけてある外套を無造作に掴み、アークはその足で執務室を後にした。
向かうは後方支援方の衛生科である。
それが仕事とはいえ、その長からああも直談判されては無下にもできない。
というよりアークとしては若干の責任を感じている部分がある。衛生科長からは第四騎士団の活きの良さ「だけ」に言及されたが──まあアーク自身は第四騎士団長なので当たり前っちゃ当たり前なのだが──実を明かせば昨日のヒンティ脱走に関してもアークが教唆しているのだ。
衛生科長はさぞ驚いたことだろう。
なんせ「堅い」で有名な宮廷騎士団、その近衛騎士長だ。それが数時間どころか一晩戻らないなどまずあり得ないことで、俄かに信じ難かったはずだ。
肝を潰したであろうその翌日に、今度は隣の第四近衛騎士長がいないときた。
衛生科長の心労はそれなりだったと見える。
普通に考えると勝手に抜け出す馬鹿が百二十パーセント悪いのだが、それでも何かあれば監督不行き届きで責任問題になる。そしてそれ以上に彼が心配していたのは脱走者たちの容態だった。
実際、ジズと交戦したという事実に衛生科は神経を尖らせている。
厄介な呪いをかけられてはいないか、遅効性の毒を受けてはいないか。
永遠であったはずの女神デーアに命の期限を切った伝説の魔獣だ。どんな巧妙な、あるいは穢れた忌まわしい攻撃を仕掛けてくるか分かったものではない。まして奴らの使う魔術には古式と現生の区別もない。肉体に負った傷は浅く見えていても、なんらかの魔術に侵食されて急変する恐れはつきまとっている。
だからこそ帰任部隊全員が衛生科入りという措置を取られたのだ。
大仰であるが致し方ない。
肉体の受傷度合に加えて、順に「魔術による契約履歴を視て」、問題ないと確認されてから解放という手順を踏まざるを得なかったのだ。一般人や文官を初めとする後方支援方、楽士などは役割的に守られる側であるから簡易の確認で済まされているが、騎士たち、中でも最前線で交戦したカスミレアズを初めとする上位騎士は隠された攻撃を受けているかもしれず、確認に時間がかかっている。
そんな中で抜け出すなどまさに言語道断なのである。
とはいえカスミレアズとヒンティに関してはそもそもが重傷すぎて、隠蔽術云々を論じる以前の問題だったのだが。
この時間になっても戻っていないようであれば、さすがに説教か。
そんなことを考えながらアークは愛馬を駆り、日の落ちた宮廷内の道を往った。
闇に浮かぶ等間隔の光球。
その中を寒さに襟をかき寄せ家路を急ぐ者はまばらで、通り過ぎる幾つもの棟からは軒並み煌々と光が漏れている。誰もが皆、時を惜しんでいる光景だった。
大規模作戦の発動は近い。
アークの吐いた息は白く細い筋となり、夜空へと消えていった。
* * * *
「アーク様?」
「戻ってたか」
温かな衛生科の最奥に辿り着き、アークはカスミレアズの姿を確認しながら隅にある椅子を手繰り寄せた。
心配は杞憂に終わった。
カスミレアズはしっかりと入院着をまとい大人しくベッドに横たわっていた。部屋全体の灯りは消え、枕元の小さな光源だけに絞られている。その手には本が握られていたが、アークの来訪を認めて脇に置かれた。
隣を見るとベッドの周囲にカーテンが引かれ、灯りが完全に落ちている。
治癒をかけたとはいえさすがに無理が祟ったか、まだ面会時間内であるにもかかわらずヒンティは既に休んでいるとのことだった。
「……もうお耳に入りましたか」
声を落としてカスミレアズが問うてくる。
それに対し、アークはさらりと答えた。
「近衛騎士長二人が立て続けとなればな。とりあえず身体に大事はなさそうか」
「お手数をおかけしまして申し訳ありません」
「構わん。見舞いついでだ」
外套を脱ぎながら、それで、と促す。
「俺に足労かけさせるのを承知で抜け出したということは、それなりの報告を聞けるもんだと思ってるが」
どうなんだ。
迂遠な世間話などせず、さっさと結論を求めてみる。するとカスミレアズが襟を正した。
「本人とガウディ家それぞれに正式に申し込み、受諾されました」
「そうか。……良かったな」
予想していた答えを耳にして、それでもアークの頬は自然と弛んだ。
ガウディは慶事続きで良いことだ。
先だって真澄から聞いた兄ガウディとメリノ家令嬢との婚姻もあり忙しくなるだろうが、前向きなそれだ。
それにヒンティのところも上手くまとまり、着々と情勢が固まってきている。
自分だけが変わらねえな、と。
どこか他人事のように考えつつ、羨む気持ちや焦りなどは特に浮かんではこない。生き方を決めた彼らをただ喜ばしいと思うだけだ。相互の理解があって初めて本物となるその誓いは、何物にも代えがたく尊い。
そう。
成婚は互いに同じものを見ていなければ意味がないのだ。
双務のそれといってもいい。片務のままに無理を通してもいつか破綻する。それは経験談であり教訓でもある。
但し。
アーク自身はより厳密にいえば専属はいても成婚までにはいずれも至らなかったというのが正解であって、その意味で破綻し続けたのは専属契約そのもののみであるのだが、どうあれ成婚していたとしても結果は早晩変わらなかっただろうと思いもする。
ともあれ、それが故にアークは待っている。
真澄が出すであろう最後の決断を。
だから俄に動き出している周囲の流れには乗れないことは百も承知だ。いつになるやら見当もつかないが、待つことそのものは苦ではない。どうせこれまでも散々待たされた身だ。
覚悟はしている。
待っても変わらない──つまり真澄がアークと共には生きない可能性は十二分にある。彼女には彼女の考えがあるだろう。望んで来たわけではないこの世界に、泣きはしないがあまり多くを期待していない姿勢がその想定を色濃くする。
考えても今はどうしようもないことばかりだ。
物思いに伏せていた目を上げて、アークはカスミレアズに視線を戻した。
「ところで異動願いは出すか?」
それはアークがつけた条件だった。
専属を申し入れるならば、必ず今冬の任務に於ける殉職の可能性を説明すること。もしも相手に受け入れられなければ、アークとしては誰がなんと言おうとカスミレアズを宮廷騎士団へ異動させる腹積もりだ。
今日の見舞いはこれを訊くことが目的のほぼ全てと言っていい。
言葉尻には騙されない。どんな些末な表情の変化も見逃すつもりはない。そう決意しながら注視するアークに対し、カスミレアズは予想外の反応を返してきた。
笑った。
平素から隙なく引き締まった顔ばかりのあの堅物が、眉間に皺を寄せてばかりの真面目な男が、まるでそこらの少年のように屈託なく。
思わずアークは目を瞠る。
十年以上も共に過ごしながら初めて見たその表情に、アークはしばし言葉を失くした。
「有難いことに出さなくても良さそうでして」
まだ笑みを残したままカスミレアズが言う。
その指は脇に置かれた本の表紙をそっと撫で付けていた。
「場合によってはアーク様に嘘を吐こうかと考えていたのですが、要らぬ覚悟でした」
「お前な……」
真正直な打ち明けに毒気を抜かれ、アークはため息を吐く。
「後学の為に教えといてやる。嘘を吐かねばならんような関係は遅かれ早かれ破綻するぞ。どれだけ取り繕ったとしてもな」
「心得ております。あなたの背にそれは学びました」
「分かってるならいい」
「そういうわけですので、エルストラス遠征は第四騎士団所属のままでお願い致します」
「……迷いはなさそうだな」
「はい」
「分かった、これ以上は言わんでおく」
「そうして下さい。我らはもう決めましたので勘案して頂くだけ無駄になります」
「言い切るか。頼もしくて良いことだ」
この男に背中を預けられるのならそれはアークにとって願ってもないことだ。
不安要素ばかりの遠征に、僅かばかり光明が差した瞬間だった。
「それにしても」
ふと天井を見上げながらアークは腕を組む。
「ガウディ妹がそういう姿勢を見せるとは正直驚いた。もう少しはっきりしないというか、婉曲な言い方をされるもんだと思ってたが」
アークが彼女に対して抱いていたイメージとは随分かけ離れている。
元来人との衝突を好まない性格のようだった。
生い立ちもあるのだろうが、表立って、はっきりと、己の意見を口にすることを極力避けていた節がある。それが故に気の強い相手からは格下というか、弱者に見られてつけ込まれることも多々あった。
真澄と付き合うようになってからは多少なりとも影響を受けたのか、割りに主張する場面も増えたように思うが。
そんなアークの感想に、カスミレアズは少しの間溜めてから「むしろ」と返してきた。
「尻を叩かれました」
「お前がガウディ妹から?」
「ええ」
「全くもって想像つかねえな。面白そうだ、聞かせろ」
「興味おありですか」
と、僅かばかり意外そうな声音が返ってくる。
確かにアークが日頃その手の話に耳を傾けることはない。誰が誰に惚れた腫れたは目まぐるしく移り変わる話題であって、逐一追っていくのが面倒くさい。
が、腹心の部下となれば生涯に一度のこと、聞いておいて損はないと思っている。
それを言うとカスミレアズは苦笑を隠さなかった。
「確かに二度は御免ですね」
「成婚までとなるとな……面倒事が段違いだ。だからあれは偉い」
親指で背中を差したアークを見て、カスミレアズが首を横に振る。
「自分が請うのは初めてなので、実質一回目だそうです」
「なんだそりゃ」
「帰任の道中で色々と教えて頂きまして」
「なるほど。随分楽しくやってたみたいだな」
「本来仕えるべき総司令官に置いてきぼりを食らいましたので、空いた時間を有効活用致しました」
「ふん。その上での首尾が『尻を叩かれた』なのか? 世の中分かんねえもんだな」
「私が一番分かりませんでしたよ。まさか返事が『心置きなく死んでこい、骨は拾ってやる』だなんて」
夢にも思っていなかった。
淡々としたカスミレアズの話にアークはつい目をしばたいた。聞き間違いでなければ今、かなり過激な単語が聞こえた気がする。
一瞬考え込んだがしかし、アークは流さなかった。
「死んでこい、と言ったか今」
「はい」
迷うことなくカスミレアズが頷いた。
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「それはまた……痺れるな」
「はい。まあ言葉尻はもう少し丁寧でしたが」
「そうか。どうあれ良い女だ、離すなよ」
殉職。
冗談や絵空事では口にできないそれを言えるのは、本人に覚悟あってのことだろう。
あるいはその覚悟を抱かせたのが他でもないカスミレアズ自身だったのかもしれないが、どちらであったとしてもこの二人が同じ方向を見たのは確かだ。
「無論です」
即答したカスミレアズは大層男ぶりが良く、これまで以上に頼もしい姿だった。
それを見てアークからは止められない苦笑が零れ出た。
「……ますます死ねなくなったな、お前は」
「死ねと言われると意地でも死なないのが騎士でしょう?」
我々は常にそうあったではありませんか、と。
補給線が足りない中でも必死に騎士として、盾としての役目を全うせんが為に生きてきた。死んでこいと言われたらそれは、誓願に殉じる覚悟を、日々の研鑽の成果を、己が持てる全ての力を見せろと同義なのだ。
死んだら負けです、と。
一体何に対して、誰に向かっての勝負をしているのか分からない台詞を吐くカスミレアズだったが、強い言葉とは裏腹に随分と晴れやかな顔をしていた。
聞きたいことは全て聞いた。
丁度面会時間も終わりに近づき、アークは「養生しろ」と短く言い残し衛生科を去った。
* * * *
しんと静まり返った病棟の夜。
ふと喉の渇きを覚え、カスミレアズは夢から覚めた。それまで見ていた明るい景色から一変、目の前には闇が広がっている。手燭をつけて時を読むと、もう少しで払暁の頃だった。
音を立てぬよう細心の注意を払いながら上半身を起こす。
それでも年期の入ったベッドは恨めしそうにぎしりと軋み、部屋の中に音が響いた。
自分の体格の良さを疎ましく思ったのはこれが初めてだ。それなりに鍛えてそれなりの重量体積となったこの身体、支えるには新しいベッドが妥当だ。もう少し細身であればとほぞを噛むもどうしようもない話で、カスミレアズは小さく息を吐いた。
気配を窺う。
が、隣のヒンティ騎士長が目覚めた様子はない。
僅か安堵しながらサイドテーブルに置かれている水を飲み、カスミレアズはそっと病室を抜け出した。
廊下は絞られた明かりが小さく点々と灯っていた。
窓の外はまだ暗い。
そのまま外へ歩こうとしたがそこで思い直し、カスミレアズは廊下の先にある衛生科職員の事務所へと向かった。
「どうされました!?」
煌々と灯った光球の下、カスミレアズの来訪に気付いた夜勤職員がすっ飛んでくる。
具合が悪いのかと心配してくる若い彼女に対し、首を横に振ってカスミレアズは答えた。
「目が覚めてしまったので、外の空気を吸いに行きたいんですが……駄目ですか」
「外、ですか」
職員の顔が如実に曇った。
「中庭ですよね? 先ほど私も出たのですが、今朝はかなり冷え込んでましたから……」
間違いなく騎士長の身体に障る。
困り果てた顔ながら職員ははっきりと言い、首を横に振った。
やはり駄目だったか。
昨日の今日で許可が出ることの方が驚きだ。予想していた展開にそれ以上食い下がる気もなく、カスミレアズは「分かりました」と素直に引いた。その様子を見た職員が少しだけ考えてから、「談話室で良ければ室内なので大丈夫です」と譲歩をくれた。
「いいのですか」
「所在が分かっていますし、少しだけなら。でも無理はなさらないで下さいね。絶対ですよ」
明らかに昨日の脱走事件を背景とした念押しが来る。
真剣に見上げてくる職員に思わず苦笑を返しながら「もう抜け出しません」と約束し、カスミレアズは談話室へと向かった。
談話室の窓は大きく取られている。
見ると、細い三日月が薄くなり始めた藍色の空に白く輝いていた。窓際に置かれている長椅子に腰を下ろす。歩くたびに感じていた痛みがそこで和らぎ、カスミレアズは息を吐いた。
誰もいない静かな場所。人の気配がないと、思考が鋭く研ぎ澄まされる。そして頭の中でこれからを考える。
退院が五日後。
第一騎士団の出立がその二日後だ。
ジズ探索の成果がどれくらいで出るか次第だが、第四騎士団としての出征もすぐだ。来月頭には確実に出る。それまでに全ての準備を整えねばならない。
部隊としてやるべきことは明確だ。
既に話がついている辺境部族は近い内に帝都に入るだろう。一方で地方部隊の帰任に時間がかかる。一人一人と面談した上で遠征部隊に再編したいところだが、この状況では望み過ぎだ。書面上に記された能力だけでまずは割り振らねばならない。
輜重は三席が手配を始めている。
残る大仕事はグリスト渡河地点を含めた行軍ルートを決めること、その途中に補給を集めること、エルストラス皇都の守備計画を完成させることだ。
寝ている暇はない。
悠々自適なのはまさに今だけだ。そしてその今にしかできないことが、もう一つ。
「……どうしたもんかな」
誰にも聞き咎められない独り言、自然言葉も雑になる。
成婚の儀。
他でもない自分自身の、だ。任務とは違い人生で初めてのことで、滞りなく進めるための手順を考えている。
エイセルの家はどうとでもなるだろう。両親への報告はまだだが、そもそも騎士家として楽士を迎えることに異存があろうはずもない。まして大家の、それも本来であれば次期当主だった相手だ。これで文句を言われるのならカスミレアズが出奔する。
後はガウディ家への礼の尽くし方だ。
昨日。
午後に訪れた大きなあの家に母御はたった一人で住まわれていた。無論使用人はいたが、近しい家族は誰もなかった。
本来の当主である夫は既に没し、息子は第一騎士団に、娘は宮廷楽士としてそれぞれ仕官している。他にも子供はいたが、リシャールとグレイスの他には誰も長じることができなかったと言って、母御は目を伏せた。
彼女はカスミレアズの申し出を驚きながらも喜んでくれた。
それは予想外の反応だった。兄であるリシャールが事前に段取りを整えてくれていることを差し引いても、だ。
何が彼女をそうさせたのかは分からない。
しかし殉職の可能性を知って尚、大切な娘を預けてくれたのだ。
心得ていました、と。
たった一言で諾を返したその口で、「あの子が楽士としてあることを決めたその日から」と母御は呟いた。
覚悟を決めると強いのは血の為せる業か。
そんなことを考えて、ふとカスミレアズの口から笑みが零れる。自分がこんな緩んだ表情をする日が来るとは考えてもみなかった未来だった。
それをさせる張本人の顔を思い浮かべ、また苦笑が漏れる。
職務に尖っていた神経が弛むのが分かる。ふと窓を見遣れば空の端が薄白く輝き、暁の刻を迎えていた。
その美しさに惹かれ、僅かの時だけと窓を開ける。
風はない。だがゆらりと入り込んできた空気は冷えていて、吸うと肺が沁みた。
どうしてこれほど想いを寄せた。
もはや生涯独り身でも構わないと覚悟さえしていた自分。今一度振り返ってみてそして思った。
おそらくは最初からだったのだ。
そうしてカスミレアズの脳裏に浮かんできたのは出逢ったまさにあの日のことだった。




