115.約定が照らし出す先
小一時間ほど馬車を走らせ着いたデーア神殿は、帝都の南端にその威容を誇っていた。
帝都の中でも最大、南の恩賜庭園内に建てられており、壮麗な白亜の神殿は無二の存在感でそこに在る。
巨大な階段を上がった先、入口の中心に六枚羽の女神が立っている。片手に大剣、片手に極光を携えるおなじみの姿だ。彼女の膝元へと続く階段の端には左右六体ずつの石像が等間隔で並んでいる。四枚羽の眷属──十二神は、身の丈を越える巨弓を引き絞るもの、宝玉に輝く槍を構えるものと、それぞれ躍動感に満ち溢れる姿でそこにいた。
人通りは多い。
正面階段を登るもの、降りるもの、それぞれが入り乱れている。その中にあって、真澄たちには周囲からちらほらと視線が集まっていた。
理由は訊かなくても分かる。
制服を着たリシャールがいるからだ。常装とはいえ深緑の肩章は目立つ上、神聖騎士であるがゆえに胸章も多い。ましてリシャール自身も背が高く、銀髪銀目と華やかかつ珍しい容貌だ。これで注目を集めない方がどうかしている。
デーアは女神であるせいか、詣でる人間も女性が多い。
遠巻きに耳打ちしたり控えめながら黄色い声が上がる中、明らかに気後れした様子を見せるのはメリノ公とアンシェラだ。衆目にはある程度慣れているだろうが、まったく見も知らない不特定多数からのそれは未経験だからだろう。そんな彼らを隠すように壁になりながら、真澄とリシャールは大階段の端を登った。
かなりの段数を上がり広場に出ると、そこからは恩賜庭園が一望できた。
景色を見ながら上がった息を整える。
池はないが、区画分けされた庭園のそこかしこにとりどりの花が咲いている。季節を割り引いて尚それは目に鮮やかだ。
あるものはアーチの柵で囲われ、またあるものは煉瓦に縁取られている。それらは庭園の端から中心へと向かって徐々に密になっていき、終着には高い煉瓦塀に囲まれた一角があった。
さながら秘密の花園だ。
その中の温室では特別な花が栽培されているらしく、例えば王族所縁の花などがここで育てられているらしい。
「そういえばテオから貰ったばらって、もしかしてここで育てられたやつかな」
幾つも連なる白い温室の屋根を見ながら真澄は呟いた。
割と花に縁があった人生ではあるがそれぞれの名や種類にはとんと詳しくない自負がある。が、夏に見舞いと称してテオが持ってきてくれた花束は今も記憶に鮮やかだ。
「テオドアーシュ殿下からですか?」
「うん。夕陽の色のばら。自分の花だとか言ってた」
「それはまた……すごい贈り物をされてますね」
それまで淀みなく恩賜庭園の説明をしていたリシャールが頬をひきつらせた。
「そう? 確かに花びらの縁が金色ですごく珍しいばらだったけど」
テオの魔力を模した花なのだと後になって聞いた時は、ただひたすら感心したものだ。そして王宮に勤める庭師たちの類稀なる努力は素晴らしい、と。
そんな記憶を真澄が話すと、リシャールからは「……まさかそれだけですか?」と何故か引き気味の感想が来た。
「それだけって、だって魔力に合わせてばらの品種改良するってすごい話じゃない?」
「いえあの、そういうことではなくて」
「あれ違った? じゃあどういうこと?」
「……やっぱり気付いてなかったんですね。アルバリークでは王族の名を冠するものを贈られる──恩賜されるということは、その王族からの庇護を約束されることと同義です」
「ふうん、そうなんだ。……つまり?」
「マスミ様にはテオドアーシュ殿下の後ろ盾がついたということですね」
これがどれだけ価値のあることなのか。
公的には第四騎士団総司令官の専属であり、その通り名である碧空の楽士を名乗ることが許されている。この時点でそもそも楽士としての箔は最高位であると言っても過言ではないのだが、そこにもう一つ、恩賜の名誉が加わった。
王族の楽士ではない楽士が恩賜を受けることはこれまでなかった。
この事実だけで宮廷がひっくり返るレベルの一大ニュースであるが、事はそれだけに留まらない。
相手がただの王族ではない。規格外の熾火でありかつ王位継承権第二位、ゆくゆくは王太子となり国王になることを期待される直系も直系の王族からの恩賜なのである。
その意味するところは二つあり、楽士としての実力、格が当代最高であることの尊敬と称賛と保証を示し、かつその王族が為し得るいかなる援助をも約束されたということだ。
現在の王位継承権第二位。
そして未来の王太子であり国王。
そんな人間にできないことなどないに等しい。望むだけのものが無条件で与えられるだろう、人生遊んで暮らして七代先まで財産を伝えることも可能であるとリシャールが言った。
しかし力説されたものの、真澄にはそのありがたみがすぐには実感できなかったというのが正直なところだった。
「んー、そうだったんだ。今度会った時にお礼言っとこ」
「その軽やかさに俺は今度胆を抜かれましたね」
俺の説明が下手くそすぎんのかな、とリシャールが項垂れる。
真面目なその様子につい噴き出しながら、真澄は「あなたが悪いわけじゃない」と慰めた。
「慣例だとそういう解釈になるんだろうけどね。私はただ、風邪で寝込んだお見舞いに綺麗な花を貰ったっていうことが単純に嬉しかっただけだから」
きっとテオもそんなつもりはなかったはずだ。
あれはあくまでも私の場面。傍にいてそれを見ていたのは極少数──アークとカスミレアズ、そしてヒンティ騎士長──だけだった。大々的な話ではまったくない。
そう真澄が付け加えると、リシャールが一瞬固まった後、肩を竦めた。
「あの聡明なテオドアーシュ殿下ですよ。聞けば聞くほどわざとそのタイミングを計ったとしか思えませんけどね」
「まさかー。……え、本気で?」
「これ口にするのも畏れ多いんですけど。言うなれば今の殿下はまだ単なる王位継承権第二位ですから、……あーもう『単なる』ってなんだよ誰か聞いてないよな!? ……宮廷関係者、いなさそうですね。良かった……えーと続きですけど、この時点であなたという存在を公にすると政敵に利用されたり害されたりする恐れが高いわけです。でも後ろ盾は必ず為したかった。将来の約束というか、これはもう宣誓ですね。だから第四の総司令官と近衛騎士長、そして宮廷近衛騎士長の前で恩賜されたんです」
その意味を分かっている三人は、だから誰にも口外していないのだ。
「武楽会の最優秀賞に匹敵……いや、それ以上かな。それくらい大きな話です」
知られざる碧空伝説を知ってしまった。
そう呟くリシャールは、「誰かに洩らしたら俺の首が飛ぶ」と戦々恐々とした様子を見せた。
「え、じゃあばらの話は黙っておいた方がいいってこと?」
「いえ、マスミ様ご自身が言われる分には構わないと思いますよ。口止めされてませんし。個人的な話で暗殺を企てる程度の計画性のない輩はまず間違いなく返り討ちでしょうし。そもそも普通の神経持ってたら俺みたいにビビるだけなのでまず問題ありません」
一人でも勘弁なのに、あの三人となるとちょっともうどうしたらいいか。
引きつりながら無理矢理作るリシャールの笑顔は何とも言えない哀愁を漂わせていた。ただのしがない神聖騎士ですから、と。騎士として最高峰の階級にあるはずの彼が言うそれに、強さの指標がインフレしすぎて良く分からない事態に陥る。
真澄としても適当な相槌を返せずに、盛大に横道に逸れた雑談はそこで終わった。
温室を眺めるために止めていた足を再び動かす。
人ごみを縫うようにして女神デーアの彫像まで辿り着くと、そこでイヴが待っていた。
彼女の肩には深緑の小鳥が留まっている。それは真澄たちの姿を認めるとイヴから離れて飛んできて、リシャールの掌にすうと吸い込まれていった。
イヴはヴェストーファに戻る前に知り合いの楽士に挨拶回りをしていたらしい。
そこにリシャールから連絡がいって、そういうことならと待ち合わせることになったのだという。道に明るくないイヴの道先案内を務めたのがその小鳥だったというわけだ。
真澄が帯同していることをイヴもまた喜んでくれた。
今夜はぜひ一緒に食事をしたい、などと話しながら、真澄たちは神殿の巨大な門柱を潜った。
神殿の中は長い柱廊が真っ直ぐに続いていた。
巨人が詣でるのかと見紛うほど天井が高く、等間隔に並ぶ石柱もまたかなりの大きさだ。女神デーアの終の棲家だったとも伝えられるこの神殿は、彼女自身が巨躯であったがためにこれほどの広さなのだと言い伝えられているが、真偽のほどは定かでない。
片や建国記では彼女は華奢な身幅で人と相違ない姿形だったとされているからだ。
神殿の最奥、拝殿に向けてゆっくりと歩を進める。
吹き抜けの廊は午後の光に照らされて、灰色の石も白く輝いて見えるほどだ。途中に中庭があり、そこではデーアに仕える修道女たちがあれこれと忙しく立ち働いていた。
洗濯場が見える。
井戸から水を汲み上げる、固形の石鹸を塗りつける、布を足で踏みならし洗う、再び汲まれた水で泡を流す。彼女たちの傍らに置かれている大量の白い布は血の赤など汚れが目立つ。それはデーア神殿が一般市民、特に貧民街の人間に対する治癒院としての性格も持っているからだった。
アンシェラの足が止まる。
若い瞳が向けられる先には貧しい身なりの人間が集まる一画があった。
あれは炊き出しだ。
日中とはいえ冷たい風の中で、幾つも並ぶ大鍋から湯気が立ち昇っている。誰もが替えもないようなぼろをまとい、それでも手にした器の温かさに頬を綻ばせる。相対する修道女は皆優しい笑みを湛え、たおやかな仕草で彼らの辛い人生にこの僅かひと時でさえ寄り添う。
生きるというのは大変なことだ。
棒立ちになったアンシェラの背をメリノ公がそっと押す。アンシェラは後ろ髪を引かれるようにしながらも、再び廊を拝殿に向かって歩き出した。
やがて辿り着いた拝殿には、一際大きな女神デーアの像が祀られていた。
ただし入口で見た彼女とはまったく様相が異なっている。大剣も極光もここにはない。彼女はただ白く滑らかなその手をこちら側へ差し伸べている。伏し目がちに、唇には僅かに微笑が乗っている。
それはアルセ族の地、辺境の首府アルラタウで見た木像と雰囲気が良く似ていた。
デーアは泉の中に立っている。
深く満ちて揺れる水面の傍、アンシェラは迷わず膝を石床につきその手を祈りに組んだ。
光の泉が煌めく。
それは高い天井と石壁のあちらこちらに反射して、さながら宗教画のようでさえあった。光の揺らめきは二度と同じ紋様を見られないのだ。それぞれに違いながらも美しい人の生き様にもどこか似ていた。
アンシェラの祈りは深く長かった。
抱える想いは一入だろう。今日のこの日に急ぐ用はない。真澄たちはそんな彼女を少し離れた場所からそっと見守った。
同時に、佇むリシャールにはどうしても注目が集まった。
気にならないのかと問うてみたが、「全く」と簡潔な答えが返ってくる。曰く、この衆目は「リシャール=ガウディ」を見ているのではなく「第一騎士団の神聖騎士」を見ているだけで、興味本位のそれらはどうとも思わないとのことだった。
優しい面立ちに似合わず割り切っている。
真澄が肩を竦めると、リシャールがちょうどその辺りに指を差してきた。
「あなたが碧空のスカーフを見せたら俺なんかそっちのけになりますよ」
「それはない。楽士の見場なんて騎士に比べたら月とすっぽんだもの」
「すっぽんて何ですか」
「故郷にいた亀。こんな形の。噛みつくし、あんまり可愛くない」
月の形と同じく丸い甲羅を持つがそれ以外は泥にまみれて汚くて、似て非なるもの、あまりに違うものの例えだ。そう真澄が説明すると、リシャールは「面白い御国ですね」と笑った。
「食べると美容にはいいらしいけど」
「え、食べるんですか?」
「うん。てか割となんでも食べる国民性だった。生ものとかも平気で食べてたし」
「生ものって……腹壊しません?」
「新鮮なやつだけよ。肉も魚も卵も何でもござれだったわねー」
「すごい国ですね」
「思えば色々なことに寛容な良い国だったかな。神様なんてやおよろず、八百万もいるって考え方だったし」
「すごい国ですね!?」
度胆を抜かれたらしいリシャールの顔が無防備で、つい真澄は噴き出すのだった。
* * * *
たわいもない雑談を交わしながら、どれくらい時間が経っただろう。
周囲の人間がすっかり入れ替わってしまってから、ようやくアンシェラは腰を上げた。その目元が赤く染まっている。それをひた隠し「お待たせしてすみません」と困った顔で微笑む彼女は、豊かな神殿の光にかき消えてしまいそうなほど儚かった。
どんな想いで跪いた。
胸中に渦巻いたその問いを、しかし真澄は最後まで口に出せなかった。彼女の覚悟は彼女だけのものだ。
「熱心でしたね。俺も見習わなくては」
リシャールが言うと、アンシェラははたと動きを止めてリシャールを見上げた。しばらくの逡巡の後、やがて彼女は「違うのです」と首を横に振った。
「褒められるようなことは何も。気が付けば武運長久ばかり祈っておりました。あんなに……この帝都だけでもあれほど困窮している人々がいるというのに、私ときたらリシャール様のことばかり」
こんな体たらくで立派な修道女になれるのかしら。
ため息まじり、細く形の良い眉が八の字に下がる。とび色の瞳と髪。ありふれた、けれど優しさと慈愛あふれるその色。
少しの間が空く。その後、アンシェラが「参りましょう」と拝殿の出口に向かって歩き出した。
金縛りにあったようにリシャールが棒立ちになる。
立ち去ろうと歩くその背を目で追う。一瞬だけ呆けた顔はすぐさま決意に引き締まる。その瞬間を真澄の目は確かに捉えた。
リシャールの手が動く。
迷いなく伸びる武骨な手。
捕まえたのは躊躇い、白魚の指だ。
力が込められる。握り締める強さ、筋の浮かぶ甲に本気が滲んだ。
「……その祈り。生涯をかけて俺にくれませんか」
リシャールが言い切る。
いつも絶やさない親しみやすい笑みは消えていた。強い銀の瞳がアンシェラを射抜く。
「明日に死ぬかもしれぬこの身ですが。それでも永らえてほしいとあなたが願ってくれるなら、俺は必ず帰って参ります。祈りをくれるあなたの元に」
「リシャール様? なにを……おっしゃっているのですか」
急に始まった話。
戸惑いも露わにアンシェラが視線を彷徨わせる。その先に、両手で口元を覆うイヴがいた。
彼女の目は見開かれている。全てを見逃すまいとするように。
リシャールはアンシェラを掴んだまま放さない。
時が止まる。そんな二人を映すイヴの瞳からはやがて大粒の涙が零れ落ちた。
一粒。
そしてまた一粒。
溢れた雫は頬を伝い指を伝い、流れ落ちてゆく。まばたきもせず見開かれたままに。
斜陽の神殿。その片隅で。
「女神などに身を捧げずに私と添い遂げては頂けませんかと。そう申し上げております」
「添い遂げる……? でも。ですが、……私はもう神殿にお務めするつもりで」
「無論私よりデーアの方が好きだとおっしゃるなら致し方ありません。諦めます」
そうなると出立は一人。寂しいな、とリシャールが呟いた。
アンシェラは固まっている。
急な展開に頭がついていかないのだろう。まだ十七歳の彼女は咄嗟になにを言えるでもなく、ただ高い位置にあるリシャールの顔を凝視していた。
リシャールは黙ってそれを受け止めている。
見つめ合い動かぬ二人。ただならぬ空気に周囲の視線が集まりだした。
やがてリシャールが小さな苦笑を漏らした。
「……困らせてしまいましたね」
固く繋がれていた手がするりと解かれる。
それは名残惜しそうにアンシェラの横髪をそっと撫でた。
「忘れてください。順序も守らずつい自分の勝手な気持ちを押し付けてしまいました」
アンシェラは呆然としたまま、解き放たれた手を胸の前で握りしめている。
彼女の髪に僅かに触れていたリシャールの手がそこで離れた。
「もしも殉職したら騎士の御霊はこの神殿に戻るといいます。死んでからもあなたに会えると思えば、それも悪くないかもしれませんね」
「死、……だめ、だめです!」
今度はアンシェラの腕が伸びた。
騎士服の上着、その裾が掴まれる。ただでさえ白い手がさらに白く見えるほど力を込め、裾が引っ張られた。
鍛えられているリシャールの体勢は崩れない。
しかし僅かばかりその上体が前に傾いだ。その下から決然と見上げる若い瞳が涙に滲む。
「死ぬだなんてそんなこと、どうか言わないで下さい……!」
まるで真珠のようだ。
声を詰まらせ泣くアンシェラ。あふれる涙は頬を伝い顎から滴り、幾つもの雫となって石床へと落ちていく。
そんな彼女の濡れる頬をリシャールが親指でそっと拭った。
「ではあなたが俺の生きる理由になってくれますか」
長身が跪く。
受けてくれるのならばその手を。
請われたアンシェラは戸惑いと躊躇いの最中にありながらも、華奢な手をそっと差し出した。
見上げるリシャールが頬を緩める。
流れるような所作で彼女の手を取った彼は、その甲に口付けを落とした。目線は外れない。下から彼女を射抜いたままの彼は紛うことなく騎士そのもので、華やかな物語から飛び出てきたかのようだった。
騎士の誓い。
ただ一人と定めた淑女に対するそれ。
永遠の瞬間。
時が止まる、そこだけが切り取られた宗教画のように。
アンシェラの頬が真っ赤に染まると同時、周囲からどっと歓声が沸き起こった。
耳をつんざくそれに、真澄は堪らず目を眇める。
参拝の八割ほどを締める女性たちは三々五々に悲鳴を上げたり抱き合ったり、男性陣からは拍手と温かな視線が集まっている。今この瞬間だけはデーアに祈りを捧げる者はどこにもない。
語弊を恐れずに言えば、大変良い見せ物だった。
神聖騎士などそもそも滅多に見られない相手、それが女性の憧れそのものとも言うべき求婚をほぼ理想に違わぬ形で為したのだ。周囲が騒ぎになるのも分かる。
あまりの事態に恐れ慄いたか。
アンシェラが手を引き下がろうとする。が、リシャールはそれを許さなかった。
逆に腕を捕まえ小さな身体を腕の中に閉じ込めてしまう。
それだけならまだしも絶対に離さないとばかりに膝抱きにしてしまったがゆえ、場はそれはもう大変なことになった。
話そうにも互いの声がかき消される。
これはもうしばらく収まらないだろう。
大歓声の中、諦めて真澄が二人から一歩離れると、肩を叩く者があった。ん? と振り返る。そこにいたのは杖をついた小柄で背の曲がった老人だった。
真っ白な眉に目が隠れて見えない。御年は八十は超えているだろうか。
「どうしたの、おじいちゃん」
女性にしては高めの背、身を屈めて目線を相手に合わせる。
すると彼はもごもごと呟いた。
「ん、なに?」
聞き取れずに耳を寄せる。すると、
「振られたんか? あっちのお姉ちゃんは」
節くれだった皺だらけの手がぷるぷる震えながらイヴを指す。一連の流れに感極まったか、彼女はもう両手に顔を埋めて泣いていた。
「可哀想にのう……」
「や、違う違う!」
うむう、と唸ってイヴを拝みだした老人に対し、慌てて真澄は説明した。
彼女は今しがたプロポーズを受けた女性の姉であること。複雑な家の事情があり、妹の婚礼が望めなさそうだったこと。しかし縁があってこうして請うてくれる人にめぐり逢えたこと。
だから彼女は嬉しくて泣いているのだと、そう伝えた。
するとその老人は「それは失礼したのう」と真澄に向かって頭を下げた。そのまま彼の首はゆっくりと動き、歓声の只中にある二人に留まった。
「あれは、……騎士か。近々に出征すると見える」
「……分かるんですか?」
「わしの現役時代と同じだなあ」
穏やかな声。一歩の歩みにコツ、と杖が石床を叩く。
僅かであるはずのその音が、何故かはっきりと真澄の耳に届いた。誘われるように足元へと視線が向く。その右足は足首から先がなく、杖がその代わりとなっていた。
「この神殿で生涯の宣誓を成せば、女神の加護が生還を約束してくれる、とな」
どこまでが本当かはついぞ分からない。
そう信じたい誰かの願望であったか、あるいは生還を果たした者の証言か。しかし騎士になれば必ず耳にするその奇跡は、いつか己が必ず、と抱える希望として語り継がれているのだという。
褪せぬ記憶。
昨日のことのように鮮やかに浮かぶそれ。忘れ得ぬ光景はいつの時も、片時も離れず心にあった。
どれほど凄惨な戦場に身を置こうとも。
約定の光は心を鼓舞し、帰るべき道を常に照らし出したのだと。
「懐かしいのう。ほんに、懐かしい」
呟く老人がまた一歩進む。
ゆらりと揺れる下衣の裾。しかし杖の歩みは己が足の如く確固たるものだった。
「……久しぶりに良いものを見せてもらった。さあ、若獅子の無事なる帰還を祈念するとしよう」
かつて自分がそうであったと同じように、と。
「勘違いをすまなんだ」
小さく頭を下げたその老人は隻脚を静かに動かしながら、沸き立つ人混みの中をただ一人デーアの元へと向かっていった。




