111.二人の約束
時間はすっかり遅くなっていた。夜風は一段と冷たさを増し、身を切るように冷たい。
色々と語りたいことはあるがこう寒いと口も自然と重くなる。無事にヴィラードも取り返し、もう遠慮は無用。そういうわけで玄関を出てすぐに真澄たちは馬に乗り、さっさとサルメラ本家を後にした。
目指すは暖炉の入った温かい自分たちの部屋。宿舎棟である。
ところが正門まで戻った時そこに思いがけない迎えが来ていて、真澄たちの足は止まった。
「ご無事でしたか」
佇んでいた二人の内、ほっとしたように頬を緩めたのは宮廷騎士団の第三席だった。その隣には同じく宮廷騎士団のロベルト=クライフが立っている。彼の顔は傍目に分かるほど強張っていた。
「ハウゼン?」
驚きを隠さないのはヒンティ騎士長だ。
ハウゼンと呼ばれた第三席は、穏やかな笑みを浮かべながらも僅かその眉を寄せた。
「あれだけの怪我で無茶が過ぎますよ、騎士長。お気持ちは痛いほど分かりますが」
立ち話が始まるかと思われたがしかし、第三席はそこで話を一旦切り上げた。彼の生家がほど近くにあるのだという。そして真澄たちは、この寒さの中を馬で宮廷まで戻るのは身体に障るからと一晩の滞在を乞われたのだった。
ハウゼン三席の生家は美しい邸宅だった。
豪奢であるとか華美に、というのではない。目を瞠るほどの大きさではないが、古い石造りの邸は汚れ一つなく手入れが行き届いている。周囲には緑豊かな植栽が控えめながらも配置されていて、中ほどに小さな東屋とブランコがあった。古くはハウゼン三席自身が、そして今は甥姪が遊んでいるのだという。息抜きに歩けば心穏やかになれそうな庭だった。
アークとヒンティ騎士長の愛馬は泊まり込みの庭師が預かってくれた。
聞けば既にハウゼン三席の父は亡く、母御が一人で暮らしているらしい。それを心配し、旧知の庭師がいつも傍にいてくれるのだという。
「とはいえ私の姉と妹二人が近くにおりますから、母もそう寂しくはないようです」
気の利かない四十がらみの息子などより、五歳になったばかりの姪の方がよほど良い話し相手になっている。
苦笑しながらハウゼン三席が玄関の扉を開けた。
温かな明かりが一行を迎え入れる。案内されるままに広い玄関に入ると、奥から軽い足音が聞こえてきた。
「ラーシュ! 遅いわ、みんなお待ちかねよっ」
ハウゼン三席の手を取り、ぷうと頬を膨らませる女の子。
肩までの髪が動きに合わせてさらさら揺れる。綺麗な栗色だ。その子は真澄たちを見て「あっ楽士さま!」と声を上げ、その場でくるりと回ってからお辞儀した。
動きが実に軽やかで、仔馬のようにはつらつとした子だ。
「ようこそハウゼン邸へお越しくださいました!」
きらきら輝く瞳はハウゼン三席に良く似た若葉色である。間違いなく血が繋がっているのだな、と微笑ましくなった。
「こちらへどうぞっ」
大きく手を振って、彼女はぱたぱたと奥へ走り去っていった。
その背を見送りながらハウゼン三席が「不躾で申し訳ありません」と苦笑する。
「姉の子です。先ほど言った母の話し相手ですね。あれにかかると私などもう形無しです」
「なるほど。ハウゼンの如才なさはこの家の女性陣に鍛えられてのことだったか」
ヒンティ騎士長が笑い、思わず真澄も声を上げて同意した。その物腰の柔らかさ、配慮の行き届いている様など納得できるところが多い。その後、軽く話をしながら通されたのは綺麗に整えられた客間だった。
中に入るとそこにはずらりと女性が並んでいた。
真ん中に白髪の女性。小柄であるがすらりと伸びた背、かくしゃくたる人だ。両隣には良く似た妙齢の女性が三人。うち一人の横に、先ほど挨拶に来てくれた姪御がくっついている。彼女たち五人はいずれも容貌がそれぞれに整っており、実に圧巻の光景だった。
「ようこそハウゼン家へおいでくださいました」
音が聞こえてきそうなほどに優美な礼だ。
当主である母御の礼に倣い、並ぶ姉妹も同じように美しい所作で迎えてくれる。物語のような貴族然としたその様子は素晴らしいの一言だった。
「この年になり第一線からは久しく離れておりましたが……第四騎士団総司令官殿はもとより、碧空の楽士様にもお目見えできて大変嬉しく思います。一晩限りとはいえ接遇の機会を頂けましたこと、お礼申し上げます。ヒンティ騎士長におかれましてもご無事で何よりでした」
「ご心配をおかけしました。急に押しかけてしまい恐縮です」
「いいえ。久しぶりにお会いできるとあって、この数時間が一日千秋のようでしたよ」
ゆっくりと告げられる言葉は穏やかだ。母御は皺の刻まれた目尻を細め、本当に懐かしそうにヒンティ騎士長を見遣っている。
それから彼女は「あなた様も」と視線を移した。
「サルメラ次席ですね。ずっと、……四年前からずっとお目にかかりたいと願っておりました」
「え、……?」
戸惑いにシェリルが呟きを漏らす。
すると母御は「まずは湯を」と指示を出し、詳しいことは落ち着いてからと一礼したのだった。
* * * *
ハウゼン家には立派な客間が幾つかあり、真澄とアークが紅薔薇の間、ヒンティ騎士長とシェリルが白百合の間に通された。部屋の名前は庭で育てている花からつけられているそうで、中にはそのシンボルともいえる花が活けられていた。
扉を開けてすぐ、生花の豊かな香りに迎えられる。
暖炉の火で温められた空気と共に、寒さに強張った身体がそっと弛む心地だ。その洗練された心遣いに、本当に歓迎されていることが感じられた。
客間は居室と寝室、それに浴室が分けられていて、真澄とアークは交代で湯をもらった。ちなみにアークからは「一緒に入るか」と持ち掛けられたが、「そんな場合か」と一蹴した。
休む前に温かい飲み物を振る舞いたいと言われているのだ。
一緒に風呂になど入ればまず間違いなくその場に行けなくなる。渋々諦めたアークから勧められて、真澄は先に風呂に入ることとした。そういうところは紳士なのだ。
ちなみに湯にも花が浮かべられていた。
贅沢なそれに感激しながらも、あのアークまでこの香りになるのは似合わなさすぎて、真澄は一人湯船で笑った。薔薇の香りの総司令官ただし紛うことなき筋骨逞しい男。一体どこに需要があるのだろう。しかし汗臭いよりよほど良いか。
つらつら考えつつ芯まで温まってから上がる。
化粧台に座り肌の手入れや髪を梳いていると、あっという間にアークが風呂から上がってきた。
「ねえ、早すぎない?」
行水か。烏もかくやというくらいの早さである。
上半身裸のまま厚いタオルでがしがしと髪を拭くアークは「男なんぞ皆こんなもんだ」と適当なことを言っている。その後、なぜかアークの方が先に身支度を整えるという良く分からない事態に陥って、慌てながらも真澄は上着を引っ掛けハウゼン当主の待つ部屋へと赴いた。
ノックをしてから扉を開けると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
はちみつのような、温められたミルクのような。いずれにせよ深い夜に安心する香りだ。
灯りの絞られた部屋の中、奥の壁中心には立派な暖炉がある。静かに燃える火から輝く赤い光が射し伸びる。それを中心として緩やかに配置された低めのソファが幾つかあり、ヒンティ騎士長とシェリルがそれぞれかけていた。
二人の手には既に杯が渡されている。
大きさを見るにヒンティ騎士長には酒が、シェリルにはホットミルクか何からしい。向かい合わせに座る二人、ヒンティ騎士長は開いた膝に肘をつき寛いだ姿勢だ。湯の後、下ろされた前髪が見慣れず新鮮だ。シェリルは背もたれに深く身体を預けて僅か眠そうな雰囲気を纏っている。けれど二人の間にはどこか優しい空気が流れていた。
彼らを見ながら真澄とアークも腰を落ち着ける。それと同時に部屋の扉が開き、ハウゼン三席と母御、そしてロベルト=クライフが入ってきた。
「ああ、丁度良かったですね」
ハウゼン三席が微笑む。その横で、無表情のままロベルトが今しがた持ってきたばかりの酒瓶の蓋を開けて杯に注ぐ。それをアークに手渡した後、彼は部屋の隅──最も暖炉から遠いソファに下がった。
「碧空の楽士様にはこちらを」
真澄に杯をくれたのは母御だ。
白髪が暖炉の光を受けて煌めく。口元の皺は年相応に深く、しかし柔らかく上げられている口角に真澄は母の面影を垣間見た。
もしも母が存命で、歳を重ねていたとしたら。
想像するも、真澄自身が違う人生を歩んだかどうかは分からなかった。
振舞いを終えた母御が真澄の隣、一つのソファにかける。
「──騎士家というものは」
ぽつりと母御が呟いた。
「実のところ、家の存続が難しいものです。時代が変わってきている。楽士の伴侶を求めたとしても今やほとんどが叶いません。ハウゼン家としては家督継承をやめることに致しました。唯一の男子であるラーシュがこのとおり未だに独り身を謳歌しておりますし」
無理を続けてもそれはいつか見合わなくなる。
ならばもうあるがままを受け入れようと思う、と母御が続けた。
「それはまた……随分と思い切られましたね」
真澄は驚きを隠せなかった。
家督相続に色々な思惑や面倒が絡むのはそれなりに漏れ聞いていたが、それは例えばグレイスのような楽家であったりアンシェラとイヴの実家である旧貴族の話だった。騎士の家でも同じように苦しいとは知る由もなかった。
真澄の視線を受けた母御がそっと笑った。
「最初はどうにかしようとしていたのですよ。それこそ片っ端から楽家に申し込んでは断られて。ですが四年前に体面を繕うことはやめました。今は、いつかどなたかとご縁があれば、と思うに留めておりますね。サルメラ次席のお陰で私たちは自由になれたように思います」
これは先ほどの話の続きだ。シェリルの眉根が寄せられる。受けた母御は少しだけ物思いに無言となる。そして「あの日、」と呟いた。
「あの日、あなたがサルメラ家に背を向けた日。ハウゼンの名誉は守られました」
そうであるから、ずっと会える日を夢見ていた。けれどそれはハウゼンから乞える話ではなかった為に、叶わないものとして諦めてもいた。
母御が言った時、ヒンティ騎士長が杯を開けた。
「ご当主。そこから先は私に預けてくださいますか」
「……勿論です」
謎めいた会話だ。
真澄とアークがついていけていないのは勿論ながら、この場で最も怪訝さを隠さないのはシェリルだった。そんな彼女を見て、ふとヒンティ騎士長が頬を緩める。
「丁度良かった。ここで話しておこう」
なぜその場に居なかったはずの自分が四年前のサルメラ家騒動を知っているのか。
ヒンティ騎士長は「専属契約というものは難しいものだ」と、これまで誰に漏らすこともなかったというその胸の内を明かした。
* * * *
一人目の楽士は家同士が決めた専属契約だった。
ヒンティがちょうど今の職位──近衛騎士長を拝命した年のことだ。二十二歳の若き騎士長と、それより五つ年上の大家出身楽士。
目立つ組み合わせだったがヒンティ自身が望んだわけではない。
相手の家が宮廷騎士団、そして宮廷騎士団長へ恩を売るがための専属契約だった。相手の楽士は本来であれば宮廷魔術士団の専属を望んでいた。
二人の仲は冷えていた。
大前提としてヒンティ自身は特に請いたい相手がいたわけではなかった為に、気持ちとしてはゼロからのスタートだった。しかし相手の楽士はそうではなく、最初から大きなマイナスを抱えての専属生活だった。彼女に対しては何を言っても無駄だった。ヒンティが魔術士ではない以上、彼女の望みは何一つ叶えてやれなかったからだ。
可哀想で仕方がなかった。
どうにかしてやりたくとも、ヒンティがヒンティである限り彼女は救われないと分かっていた。それでも家同士の決めた専属契約だ。公的には近衛騎士長と由緒正しい大家の楽士。上手くいかなければ騎士団の運営にも少なからず影響を及ぼすこともまた、分かりきっていた。
薄氷を踏むような、とでも表せば良いだろうか。
僅かでも落ち度があれば専属破棄をされる状態だった為、ヒンティはどれほど冷えた仲であっても彼女に対して常に丁寧に接してきた。
その楽士は常日頃から文句を言っていた。
「なぜわたくしが騎士団ごときの専属にならねばならないのか。新興のサルメラ家が魔術士団に取り入ったせいで、由緒あるリンツ家の自分が弾かれた。なぜだ。なぜ。なぜ自分はこんなところにいる」
毎日耳にしていた怨嗟だ。今でもそらで言えるほど、その抑揚さえも耳に残っている。
サルメラ家とは生涯縁はなかろう、と思っていた。
新しいながら力をつけてきている一族のようだし、こうして話題に出るほど魔術士団を志向している。関わり合いになるなど露ほども期待はしていなかった。
そうして、あの冬が来た。
流行り病が帝都で猛威を振るったあの年、専属は呆気なく病没した。最期の最期まで「なぜわたくしが」と恨み節が止まらなかった。息を引き取り際、その手を握ることさえ拒否された。共にいた十年の歳月は互いの溝を深めるばかりで、結局彼女は彼女の望んだものを何一つ手に入れられないまま、失意の底に早世したのだ。
そんな彼女がただひたすらに哀れだった。
十年という歳月をかけて尚何もできなかった自分という人間にも心の底から失望した。
そして流行り病のせいで楽士が軒並み魔術士団に割り振られ続け、とうとう任務に支障が出始める。
宮廷騎士団として再三再四、楽士の派遣を楽士長へ要請した。年が明ける前になんとか一人だけでも、と。するとサルメラを名乗る楽士が連れてこられたのだ。
なぜ、と疑問だった。
しかしそれから半年をかけて理解した。数少ない会話だったが、それらを拾い集めてみるとそのシェリル=サルメラという人は楽士としての矜持を持っていた。
そして夏を迎えたある日、ヒンティは彼女に問うた。
「なぜずっと宮廷騎士団に来てくれるのか。サルメラ家からうるさく言われるのでは」
と。
答えは簡潔な、たった一言の「いいえ」だった。
「お気になさらず。私はサルメラから追い出されましたので」
硬い声、硬い表情で答えたシェリル。それ以上は深く追求できなかった。彼女がふいと顔を背けて補給に戻ってしまったからだ。
その手で奏でられる音は四角四面で遊びも余裕も一切なかった。けれど同時に力強い鼓動が聞こえるようだった。生きた音そのものと言っていい。技術に劣ると自ら認める彼女は、いつも新しい譜面と向き合い努力を重ねる人だった。
頑ななその背中にかつての専属の姿がちらついた。
正反対の姿だ。難譜を軽く弾きこなせた彼女は、何を弾いても抑揚なくひたすら平坦だった。いつも見えなかった感情。恨み言の時だけは哀しいほど鮮やかになったそれ。
楽士の生き方とは何なのか。
人によってこれほどまでに違うものかと、目の当たりにした事実に心がざわついた。
その日の夜のことだ。
ヒンティは夜勤で一緒だったハウゼンに訊いてみた。いてもたってもいられなかったからだ。シェリル=サルメラに関して何か、何でもいい、知っていることはないか、と。すると思いがけない答えがあった。
「彼女がサルメラ家を出たのは二年前の話です。原因は私でした」
他に人のいない真夜中の事務所。
夜半に風は止まっていた。開け放した窓からは小さな虫の声が時折聞こえるばかりで、どこまでも静かだった。白い光球が部屋を照らす。その中でハウゼンは随分長い間逡巡していた。
そして明かされたのは、夜楽会という公式の場でサルメラ家の中に諍いを起こしてしまったという事実だった。
「私の付き人としてロベルトを連れていました。ちょうど準騎士から正騎士に上がることが決まっていたので、経験の為に。ただ私の不注意で途中逸れましてね。その時にサルメラ本家の楽士から冷遇されて、それを庇ってくれたのが彼女です」
最終的に楽士としての在り方を巡り、彼女と本家は真っ向ぶつかった。
その場で彼女は殉職の覚悟を相手に叩きつけ、公衆の面前で一族から放逐された。
「公的な夜楽会、それも新興の力をつけてきている家の、です。騎士長ならお分かりでしょうが、本来であればそこで冷遇された事実は拭い去れない烙印となります。付き人がそういう扱いを受けたということは、ハウゼンそのものが格下に見られたと同義ですから。しかし彼女はそんなロベルトに礼儀正しく接してくれました。ハウゼンが被りかけた不名誉をその手で払ってくれたのです。加えて言えば、彼女と本家の衝突があまりにも激しかったので、その原因である私とロベルトのことはすっかり無かったことになりました」
後を追いたかったがどうしてもできなかった。
夜とはいえ誰に見咎められるか分からない往来で、関わってしまえば今度こそ本当に彼女の迷惑となる。いつか必ずこの恩を返すことをハウゼンとロベルトは誓い、その日からいかなる家からの招待であっても夜楽会への出席は一切やめた。
「苦しいのは、」
ハウゼンが視線を落とす。
その手元には読みかけの書類があった。
「彼女はおそらく、私とロベルトをそれと認識していないということです。顔を合わせても何の反応もありませんでしたから」
無理からぬことですが、とハウゼンが息を吐く。
そもそもハウゼンはその場を離れていて直接は会話をしておらず、諍いの場面を遠く目にしただけだ。ロベルトもロベルトで、名乗ることもせず僅かばかり話をした程度で、名も知らぬ相手の顔を数年後にも分かる人間などそうはいない。
覚えているのは恩を受けたこちらばかり。
かといって、今さら蒸し返して詫びの入れようもない、とハウゼンは呟いた。
「詫びたところで彼女が一族から放逐された事実は覆らないでしょうし、忘れているものを思い出させて楽しい気分になるはずがないのですから」
できたことは、彼女を無二の楽士として接遇することだけだった。
「ロベルトにも可哀想なことをしました。私が不甲斐なかったばかりに、楽士から距離を取る癖をつけさせてしまいました」
「距離を?」
「ええ。愛想なしになったでしょう?」
それはあの日、他でもないロベルトのせいでシェリルが酷い仕打ちを受けたのを目の当たりにしたからなのだとハウゼンは言った。
ロベルトは、神聖騎士の付き人とはいえ初めて招かれた華やかな会にあまりに浮かれていた己を恥じた。楽士にはどんな事情があるか分からないと学習した彼は、それから今日に至るまで極力楽士とは打ち解けないよう努めてきたのだ。
「そういう、……ことだったか」
驚きにヒンティが言えたのはそれだけだった。
ふと話が途切れる。
沈黙に滲むのは篤い気持ちだったが、それはどこにもやり場のない気持ちでもあった。
「……言えないな」
「……言えないでしょう?」
ヒンティの呟きにハウゼンが返す。他人のままでいるならば、絶対に口に出せない話だった。
「専属になるならいつか明かしてもいいかもしれませんがね。私は駄目です、一生貝になると決めました。こんな年嵩じゃ彼女が可哀想だ。騎士長どうです?」
痛みを伴った無言の時が払拭される。ハウゼンが一瞬見せた深い悔恨は、その時にはもういつもの人好きする表情の内側に仕舞いこまれていた。
軽い口調。
しかし持ち掛けられたのはあまりに突拍子もない提案だった。一瞬その可能性を考えて、しかしヒンティは即座に自重した。
「馬鹿言うな。俺だってかなり年が離れているだろう」
「十歳でしょう? 充分許容範囲ですよ」
「年のことを言うならロベルトが一番良い」
「あれは駄目です。一生専属は要らないと宣言していました。若いのにもう枯れてしまいましたよ」
指導騎士の顔で言いたい放題である。
本当はその事実にも思うところを色々と抱えているであろうに、茶目っ気あふれる顔で流すのがこのハウゼンなのだ。なんだかんだ言ってはいるが、宮廷騎士団の中で最も女性支持を集めているのはこの男なのである。楽士という縛りさえなければいくらでも相手はいる男だ。
いてもたってもいられなかったのだが、どうにも訊く相手を間違えた気がしてならない。今さら言っても詮無いことだが。
話は終わりだ。
軽く息を吐きながらヒンティは書類受けに重ねられている綴じ表紙の書類を手に取り、羽ペンを握った。日勤組の勤務報告書である。楽士不足で碌な訓練ができていないのは変わらないが、今日はサルメラ楽士の協力により『監視』の訓練ができたと書かれていた。
その書面を見てヒンティの頬が緩む。
とても有意義でしたと書かれるその報告書には、部下の喜ぶ気持ち──いつもはぞんざいに下手くそな字を、今日ばかりは丁寧に書こうと必死の努力の跡が見える──が、素直にあふれていた。
「騎士長」
と、ハウゼンが呼ばわる。
報告書にペンを走らせながら生返事をすると、構わずハウゼンが投げてきた。
「私はね、──あなたも幸せになっていいと思いますよ」
あなたの騎士長として生きた十年を誰より近くで見てきた。公私共に、堅すぎるほど堅かった。
続いた言葉に思わず手を止め顔を上げる。するとハウゼンは仕事に戻っており、その視線はヒンティと同じように綴じ表紙に落とされていた。
* * * *
静かな夜更けに話が結ばれる。シェリルが信じられないものを見る目で、ロベルトとハウゼン三席、そしてヒンティ騎士長を見ていた。
そこで真澄は彼らの言動の全てをようやく理解した。
長い間打ち明けられなかった気持ち。ともすれば、墓場までと覚悟さえして。
微塵も見せることはなかったその葛藤。彼らの強い決意に心が震えた。
「全てを承知で尚抑えきれなかった。だから喪が明けてすぐに申し込んだ。ただし色々と思うところがありすぎて、理由を一つも言えなかったのは俺の落ち度だ。不安にさせてすまなかった」
これで許してくれるか。
ヒンティ騎士長はそう言ってシェリルの手を取り、その甲にキスを落とした。
「いつか言うつもりではあったが、まさかこんな大勢の前で白状させられるとは思わなかったぞ」
拗ねた口調でありながら、ヒンティ騎士長には余裕の笑みが浮かんでいる。一方のシェリルは真っ赤に茹で上がって両手で両耳を塞いでいた。
確かにこれは恥ずかしい。
良いダシにされた真澄とアークは力一杯中てられて、顔を見合わせた。
全員の杯が進む。
二杯目を空けてから真澄はシェリルに「おめでとう」と言った。
「これで晴れてヒンティ次席ね」
「そ、そうね。でも」
「なに?」
「その……呼び方は、変えなくてもいい、から」
途切れ途切れにシェリルが呟く。それを聞いて、真澄は嬉しくなった。
そしてそういえば、と頼み事を思い出す。
「ねえシェリル。お願いがあるんだけど」
「……なに?」
私にできることなら。
そう呟いた後で、シェリルは「できること、あるかしら」と不安げに琥珀の瞳を揺らした。真澄は低いテーブルに杯を置いて「むしろシェリルじゃなきゃできないことよ」と付け加える。
「めでたく名前も変わったことだし、職場変更しない?」
「職場変更?」
「そう。宮廷楽士団から碧空楽士団に。もちろん基本的にはヒンティ騎士長の専属だけど、日勤の間の数時間は講師をやってほしくて」
と、そこまで真澄が言った時、シェリルが雷に打たれたような顔になった。
「そういえばそれ……! 最後になんだかすごいこと言ってるなとは思ってたけど、どういうことなの!?」
この勢いはもういつものシェリルだ。
ハウゼン三席やロベルト、ヒンティ騎士長からもそれぞれに驚きの視線が飛んで来る。アークだけが素知らぬ顔で成り行きを見守る中、真澄はまあまあ、とシェリルを宥めた。
「一般人から楽士志望者を募ってね、楽士として育てようと思って。だから碧空楽士団」
「は……? 碧空の、楽……は!?」
「ただ私だけだと手が足りないから講師探してて、シェリルならすごく頼りになるなーって。それでお願いしようとしてたんだけど、シェリルに言う前にあっちでつい口が滑っちゃったわごめん。だってあんまり腹立ったから」
「そ、……ういうところよ、あなたって人は本当に、本当にもう!」
「順番が逆になっちゃったけど、受けてくれる?」
ごめん、と素直に謝ってみる。するとぐ、と詰まりながらもシェリルは目を逸らすことはなかった。その後ろで、眩しそうに目を細めて彼女を見つめるヒンティ騎士長がいた。
「……あなたからのお願いを断る理由なんてないわ。他でもないマスミ、あなたのおかげで私はここまで来れたのだから」
ありがとう、と。
小さく呟くシェリルの瞳はもう揺れてはいなかった。




