106.お家騒動勃発
真澄とアークが宮廷騎士団長イアンセルバートに一杯食わせてからの十日間ほど、鬼の近衛騎士長が不在であるにも関わらず、第四騎士団にはこれまでにないくらい平穏な時間が流れていた。
無論エルストラス遠征の準備は進められている。
が、同時に楽士棟と宿舎棟の新規建設という史上初の計画が持ち上がり、それを知った騎士たちがばら色の未来を夢見て大変真面目に訓練に勤しんだからである。
「いつもこうなら定期的に手当を出してやってもいいんだがな」
どうせ今だけだ、などと身も蓋もないことを言うのはアークだ。
しかしそんな日々は武楽会本隊の帰任と共に終わりを告げた。
というより、凱旋となるはずのそれは帝都中を騒がせた。なぜなら歴代最強の呼び声高い第四近衛騎士長カスミレアズがぼろ雑巾となって帰ったからだ。
今年で最後となる武楽会、選ばれたその一行を見納めとばかり大通りに帝都民が詰めかけていたのがまずかった。そしてカスミレアズが職務に忠実で真面目であることがまずさに拍車をかけた。
衆人が押し合いへし合いの中、満身創痍の近衛騎士長が騎馬で通る。
怪我を負ったのなら無理せず馬車内で寝ていれば良かったものを、姿が見えないことで不安にさせてはいけないというクソ真面目な配慮ゆえだ。
結果として彼の在不在以上に帝都が騒然となり、エルストラス遠征の報が帝都中に駆け巡ってしまった。
カスミレアズがなぜそんなことになったかというと、ジズと交戦したかららしい。諸悪の根源、エルストラス遠征のまさにその理由だ。
これにはアークも驚きを隠さなかった。
「よく生きて戻ったな」
と、怪我人の枕元で投げっぱなしの評である。
言い方はあんまりだが気持ちは分かる。元々、武楽会終了の時点でカスミレアズは首に大怪我を負っていた。帝都に戻って最初の仕事は静養だと他でもないアークが命じていたくらいだ。
「斥候なのか群れからはぐれたのか不明ですが、一頭だったのが幸いでした」
後方支援方の衛生科で治療を受けながら、カスミレアズが報告を続ける。
右隣のベッドにはヒンティ騎士長が横になり、左側にはセルジュも寝かされている。皆意識はあるが他の騎士たちも軒並み同じような状態で治療を受けており、死者は出なかったが被害は甚大だ。
「私とセルジュ様の防御壁でどうにか凌ぎましたが、攻勢に転じる余裕はありませんでした。相手が退いたから良かったものの」
険しい顔でカスミレアズが視線を落とす。
濁された語尾の先はあまり想像したくなかった。
「……あれはまさしく狂鳥ですね」
右腕を三角巾で吊られたまま、新しく頭に包帯を巻かれたヒンティ騎士長が言った。
「痛みを感じないのか気にしないのか。私の火力では効かなかっただけかもしれませんが、それは考えたくありませんね」
「どういうことだ。第四が盾になったのは分かるが、なぜ宮廷騎士団が戦った? 大魔術士は何をしてた」
アークが顔を顰めて問う。騎士と魔術士が揃っているなら攻守の別は明らかだ。しかし改めて周囲を確認するも、その中にハーバート=フェルデの姿はなかった。
少しの間が空く。
そこでカスミレアズとヒンティ騎士長が意味ありげに目配せし合った。後を引き取ったのはカスミレアズだ。
「迎撃を断られました」
「あ?」
ビキ、と音がしそうな勢いでアークの額に青筋が浮かぶ。
「ですが最初だけです。護衛の損耗が激しく楽士に被害が及びそうになった時点で盾の協力は得ました」
「ふん。あの野郎、まだガウディ妹を諦めてないのか」
「それは分かりかねますが」
複雑な表情でカスミレアズが息を吐いた。
大きな怪我人がないとはいえ、楽士たちも別室で救護の確認を受けているらしい。久しぶりの再会を喜びたいところだったがそれは叶わず、日を改めることとなった。
* * * *
本隊帰任の翌日、真澄は人が揉めている所に行き合った。
たまたま楽士棟に楽譜を取りに来ていたのだ。楽士長から武楽会最優秀賞の祝いにと言われ、断る理由はなかった。
一抱えほどもある楽譜の束はそれなりに重い。
アルバリークで描かれたばかりの最新譜というから、勇壮な曲が多いんだろうかなどと期待しながら歩いていると、とある部屋から誰かの金切り声が聞こえてきたのだ。
楽士同士、折り合いが悪かったり家の仲が悪かったりする者も多いが、さすがに昼の日中から正々堂々と楽士棟で罵り合うことはあまりない。やるなら目立たない場所に呼び出して、が常套手段である。陰湿だがある意味でのお作法でもある。
そういうわけで、その叫び声が聞こえたことに真澄は足を止めて逡巡した。
グレイスとの出会いが甦る。
他人の争いに率先して首を突っ込む趣味はないが、因縁をつけられて困っている誰かがいるなら素通りは気が引ける。
考えた末に扉に耳をつけて状況を窺おうとした時、「いい加減に、……いやっ離して!」と聞き捨てならない台詞と共に、机が倒れる音が響いた。
「ちょっ暴力反対!」
バーン、と扉を開け放つ。
片手に楽譜を抱えたままで今一締まらない格好だったが致し方ない。
そんな真澄という闖入者に部屋の空気が固まった。
中にいたのは四人。
三人が一人を取り囲んでいる。否、取り囲んでいたらしい。なぜ過去形か。それは囲まれているはずの一人が三人の内の一人の手首を捻りあげ、蹴倒したらしい机の上に引き倒していたからである。
つまり反撃に出た瞬間だったらしい。
その一人と目が合って、真澄はさらに驚いた。
「シェリル!?」
まさかいるとは思わなかった知り合いというか友人は、舌打ちしそうな勢いで頬を歪め顔を反らした。
その頬は赤く腫れている。
どうやら先に手を出されたのはシェリルの方らしく、正当防衛のようだ。明らかに見られたくなかった感がありありだが、見てしまった以上は放っておけない。
取り囲んでいる三人には見覚えがない。
が、楽士の制服を着ているのでどうやら同業者らしい。
「なんの用? こっちは取り込み中なのよ」
と、気の強そうな一人が凄んでくる。
取り込み中なのは百も承知なので、とりあえず真澄は「暴力は反対」ともう一度言って部屋の中へと入った。
せっかく貰った楽譜は脇の机に乗せておく。扉を開けておこうかとも考えたが、万一の場合はスカーフの認証警報があるし大丈夫と考えて閉めようとし、そういえば警報が飛ぶ相手は今治療中だったことを思い出し、やっぱり開けておいた。
振り返ると視線が痛い。
事の経緯も分からないのでどう話したものかと思案しつつ輪に寄ると、三人組は若干及び腰になった。
「なんで碧空が、……なんでこんな所にいるのよ」
「なんでって楽士長に呼ばれたからですけど」
「やめてよ来ないで!」
「え、そんな嫌がらなくても」
まだ話もなにもしていないのに蛇蝎のごとき言われようだ。あまりの剣幕に真澄が戸惑っていると、三人組から追撃が来た。
「こっち見ないでよ石にされる覚えはないわよ! サルメラの話をしているんだから、碧空は関係ない!」
衝撃の罵倒である。
石。
どうやら自分は人を見るだけで石にしてしまうらしい。噂の最終形態と呼んで差し支えなさそうな評に心が折れそうになる。そしてその瞬間だけは、奥にいたシェリルから憐れみの視線が飛んで来た。
彼女たちの争いに割って入るどころではない。
どう訂正したものか、それとも訂正せずにそういうものだと思わせとくが吉か、考えているうちに倒れていた一人が立ち上がった。
「とにかく、今夜八時に本家よ。時間に遅れることは許さない。来なかったらどうなるか分かったわね」
シェリルに対し居丈高に言うだけ言って、三人組はそそくさと部屋から出ていってしまった。
それまでの騒々しさから一転、部屋が静まり返る。
真澄が扉からシェリルに向き直ると、彼女は床に打ち捨てられた赤紫のヴィラードケースを拾い上げるところだった。
「頬っぺた大丈夫?」
相当な力で張られたらしく、その赤さははっきりしている。
シェリルは唇を噛み締めながら「平気よこれくらい」と強く言い切った。
「多分あっちの方が酷いわ。机の角めがけて引き倒してやったもの」
「ちょっと待って、あの悲鳴ってシェリルじゃなかったの?」
「どの悲鳴のことよ?」
「『いやっ離して』ってやつ」
「それはあっち。ひっぱたいてきたからやり返しただけなのに、大げさに騒いでみっともない」
どうして人を殴る奴は、自分が殴られると思わないのか。
憤慨した様子で文句を呟くシェリルに、そういえば彼女は過去にも本家でやり合ったんだった、と真澄は微妙に遠い目になった。
ともあれ、勘違いとはいえこれは鉢合わせて良かった。
頬以外に怪我がないことを確認して、真澄はシェリルに手招きした。
「今日仕事は休みでしょ? 手当てしに行こう」
「嫌」
「またそういう……!」
「衛生科には絶対に行かない。あっちとまた顔合わせるのはご免だし、ただでさえ今は騎士団の治療で忙しいし、なによりあの方にだけは知られたくない」
これ以上ないほどの頑なさでシェリルは一気にまくしたてた。
あの方というのは他でもないヒンティ騎士長のことだ。こうなると彼女は梃子でも動かない。
首に縄掛けて無理矢理連れていくわけにもいかず、真澄は手近にあった机の一つに腰を下ろす。まずは話を聞いてからだ。
「衛生科は分かった、行かない。でもなにがあったの?」
「あなたには関係ない」
「そんなこと言うならサルメラ本家の前で待ち伏せするわよ。今夜八時なんでしょ?」
「待ち伏せ!? 馬鹿なこと言わないで、絶対やめてよ!?」
「だって心配だもの。心配すぎて、カスミちゃんのお見舞いの時にうっかり口が滑るかもね。あ、今からお見舞い行こうかな」
「ちょっと!」
腰を浮かしかけた真澄に覆い被さる勢いでシェリルが引き留めてくる。
そんな彼女にされるがまま、再び真澄は腰を下ろした。
「どうしてあなたってそうなの!」
「はあ、お節介ですみません」
「分かっててそうなの!? あなたって人は本当に、本当にもう……!」
語気荒く憤慨するシェリル。しかし真澄が「ヒンティ騎士長にご注進」という伝家の宝刀を抜いているがため、それ以上の言葉は続かなかった。
悔しそうに肩で息をする。
何度も大きく吸って吐いて、それは真澄に対する怒りにしては随分と長かった。
最後に細く長い息を一つ吐く。幾分冷静さを取り戻してはいるが、どこか疲れ切ったような顔でシェリルが話し出した。
「……何があったか? サルメラの楽士としてもう一度迎えてやると言われたから断ったのよ」
「サルメラの楽士って……あっちがシェリルのこと勝手に破門っていうか追い出したくせに? 確か四年くらい前の話でしょ、なんで今更」
「そんなの私が訊きたいわ、って言いたいけど。武楽会の成績を聞いて宣伝になると思ったんでしょうよ」
言い捨てたシェリルは、「本当に何を今更」と呟いた。
確かに国としての勝敗はつかなかったが、団体戦での彼女は完全に相手を下していたし、個人戦でも最後の五人に残っていた。アルバリーク内で見れば第四騎士団首席の真澄がいて、次に第一騎士団首席のアルマ=アーステラ、そして三番手にシェリルという結果だった。シェリル自身も既に宮廷騎士団次席という肩書きは持っていて、これに加えての武楽会結果となれば「首席と遜色ない」と言っても過言ではない。
サルメラ家は楽士として中流だが、それ故上昇志向が強い。
彼女の一族にあって騎士の専属は蔑まれる対象らしいが、それでも「こういう楽士を輩出した」という箔にはなるのだろう。実に勝手な言い分だ。
「昨日からずっとこの話ばっかり。つきまとわれすぎてあの方のお見舞いにも行けやしない」
禍根のある親族を始め、顔も知らない一族の人間まで入れ代わり立ち代わり来るのだという。
そもそも長期の不在で昨日ようやく戻ったばかり、それも途中に神話級の魔獣に襲われた人間に対して配慮も遠慮もなさすぎる。
「ずっと断ってるんでしょ? なら今夜の呼び出しは無視したら? 誰か来るのが鬱陶しいなら第四騎士団で匿ってもいいし」
「ありがたいけど」
「行くの?」
「ええ」
「戻りたい理由はなくなったって言ってたわよね。ばあやがもういないからって。サルメラって名乗るのさえ嫌だって。そんな状況でわざわざ敵の本拠地まで出向いて、ただでさえ不愉快な話、それも断り続けてる話をするの? らしくないわよ」
「……あなた、他人のどうでもいい話を良く覚えてるのね」
「友だちの過去をどうでもいいとは思わないけど」
相手がどう捉えているかは図りかねるが、少なくとも真澄にとってシェリルは最早ただの知り合いではない。
困っているなら力になりたいと思う相手だ。勝手に困っていればいいなどとは思わない。
シェリルは一瞬戸惑いを見せつつ、平素は強気な琥珀の瞳を伏せた。
「ヴィラードを盗られたの」
昨日の帰任直後、衛生科に入ったりと忙しくしている隙を狙われたらしい。
同じ宮廷楽士が「預かるから」と申し出てきたら、楽士同士の事情を知らない衛生科としては引き渡してしまうのも致し方ない。だから彼らを責められないのだとシェリルは言った。
「今夜本家に行かなければ壊されてしまう。だから」
「そっか、……そういうことだったんだ」
シェリルの気持ちが痛いほど分かり、真澄は頷くしかできなかった。
愛器は分身にも等しい。
それが不当に持ち去られたなど気が気でないだろう。そしてその事実はとある可能性を否応にも想定させる。
「ねえ。それ、行くだけで返してくれるとは到底思えないけど」
「それは……」
「サルメラの楽士として働くって同意しない限り返してくれないんじゃない? 下手したらヒンティ騎士長との専属も解消させられるって可能性は?」
人の大切な楽器を、嘘を吐いて簡単に持っていくような輩だ。約束など簡単に反故にするだろうし、そもそも交渉になるかさえ分からない。
「……そうね。専属は解消した方がいいかもしれない。あの方に迷惑がかかってしまっては」
「ちょっと待ってなんでそうなるの!?」
知られるくらいなら専属解消を選ぶなど、本末転倒も甚だしい。
おかしいでしょうと突っ込むも、シェリルは変わらず「だって知られたくない」と違う方向に鉄の意思だ。
彼女はなぜヒンティ騎士長から専属を請われたのか分からないとこぼしていた。次席が必要だから請われたのであって、彼女自身を請われたわけではない、とも。頑ななこの姿勢は、求められた「次席楽士」としてこう在らねばならない、という自縛にも見えた。
それにしてもまずは間違った方向に突っ走ろうとするシェリルを止めなければならない。そこで真澄は変化球で攻めることにした。
「とりあえず、本家に行くなら私たち二人だけってのはまずいと思うわけ。いざという時に力ずくでヴィラード取り返さなきゃならないし」
「ちょっと待ちなさいよ、あなたも行くの!?」
「うん、行く」
「どうして!?」
「そりゃ心配だからに決まってるでしょうが」
そんなことも分からんのか、と正々堂々真正面から言ってやると、慣れていないらしいシェリルは顔を真っ赤にして絶句した。
狙いどおりの反応にこれ幸いと真澄は畳み掛ける。
「荒事対応の本職に伝手があるから、まずはそこに相談してみましょうか」
「本職?」
「そう。腕は確かだから信用してくれていいわよ」
「色々なところに知り合いいるのね……」
半信半疑、むしろ呆れ半分の様子で呟くシェリルに、真澄は「まあね」と腕を叩いて請け負った。




