105.懐かしのあれこれ
今日も今日とてアークの執務室ドアは大きく開け放たれていた。
暦上は仲秋の末だが、今年は赤の周期による異常気象で冬の訪れが早い。アルバリークも例外ではなく、朝晩はめっきり冷え込み霜が降りている。廊下を歩きながら窓の外を見れば、日陰にその名残が残っていた。
各部屋の暖炉に火が入ることが多くなってきたらしく、今朝もそうだ。そんな中ドアを開け放つなど風邪を引きそうだが大丈夫なのだろうか。
ともあれノックの手間が省けて良い。
真澄がひょこりと顔を出して窺うと、物凄い勢いで書類にサインをしていくアークがいた。執務机にかじりつく勢いだ。しかし未決の山はあと二つ残っていて、まだまだ先は長そうである。
「おはよう。精が出るわねー」
「おう来たか」
「朝ご飯は?」
「食った」
アークの左手が応接を指す。
そこにはおよそ三人前はありそうな空の食器が積まれていた。これでは風邪菌の方が裸足で逃げ出しそうだ。
「さすが」
「相手が相手だからな」
と、アークが羽ペンを投げ出し大きく伸びをした。パキ、と首だか背中の骨が鳴る。最後にかけていた眼鏡を外し、彼は目を擦った。
それだ、と真澄は今しがた得た情報を伝えにかかる。
「なんかね、宮廷騎士団長の用件って第二訓練場建設のことなんですって」
「は?」
「武楽会の件は私たちを確実に呼び出す口実みたいよ。実際はエルストラス遠征費用を捻出するために予算消化状況を確認して、使ってないなら押さえられちゃうんだって」
「……第四騎士団だけか?」
「ううん、どこも一緒。正式な通知は明日出るらしいけど」
「疑うには随分正確な情報だな。一体どうした」
「あー……それがねえ」
そこで真澄は事の経緯を説明した。
武楽会の結果を受けて宮廷内が割れたこと、それは所属関係なく碧空の楽士個人を支持するかしないかであること、表立っては出さないがどうやら味方はあちらこちらにいそうなこと。
半目になったのは致し方ない。
そもそもこれだけ話が広がった理由は、盛りに盛られた武勇伝のせいなのである。
「ったく、目で射殺すとかどこの魔物よ。私は妙齢のちゃんとした人間の女性だっつーの!」
「とうとう人外認定か」
ぶは、とアークが盛大に噴き出した。
「笑い事じゃないっつーの。……まあそういうわけで、宮廷騎士団からの情報だから間違いないと思うわ」
「なるほど、状況は分かった」
「で、本題だけど訓練場の建設って」
「まだだな。詳細設計途中だ」
「やっぱり」
予想どおりの回答に、真澄は顎に手をやった。
「それじゃ着工済みか先払いか、なんでもいいけどとにかく予算は使いきったってことで言い張るしかないわね」
「そうなるだろうが、それで引き下がるとは思えねえな」
「えー、さすがにここまで出向いて残金確認したりするほど暇じゃないんじゃ? 腐っても宮廷騎士団長でしょ?」
「いっそ腐っちまえばいいのにな。ともかく、そもそも着工してないことは確認済みだろう。建設伺いで予定地は知られているわけだからな。その上で着工していないのになぜ金がなくなったか、押し通すにしてもそれらしい理由が要る」
つつかれると痛いのは第二訓練場そのものの建設は線表的に始まっていて然るべきであって、それがまだ詳細設計中という遅れを指摘されると芳しくない、とアークが唸った。
なぜ遅れたのか。
それは一言で表すとアークやカスミレアズが「色々と忙しかったから」なのだが、これをそのまま言っても理由にはならない。
「イアンの魂胆が分かったのはでかしたと言いたいところだが、これはこれで面倒になったな……さてどうするか」
ちらりとアークが時計に目をやった。
指定の時間は一時間後と迫っている。宮廷騎士団の入っている中央棟は離れているため、移動を考えるともう出なければならない頃合いだ。
アークが立ち上がり、壁にかけてあるコートを取りに行く。
「行きながら考えるか。舌噛むなよ」
「えっ、そんな早駆けしなきゃいけないほどの時間?」
「常歩だとぎりぎりだ」
つまりゆっくりぽくぽく歩いている暇はないということだ。
アークの愛馬、青鹿毛の賢そうな顔が浮かんでくる。
「馬ねえ。そういえば練習しなきゃなー……いつしよう」
武楽会でアルマの後ろに乗せてもらった時に、これは自分もやらねばと強く思ったのだ。
執務室を出て廊下を歩きながら呟いた真澄に、アークが「やる気があるならいつでもいいぞ」と投げてきた。
「指南役に頼んでおく。毎日誰かしら空いてるから、茶飲みに来た時にでも捕まえればいい」
「いいの? それ助かる、ありがと」
長い廊下は冬の兆しに冷え込んでいる。
窓から入る光は暖かいので、つい日当たりの良い方を選んで歩いてしまうのは人間の性か。
「後は自分の時間をどうやりくりするかね。うーん、どうしよう」
「訓練の回復時間を当てとけ。減った分は基礎訓練に振る」
「あーいやそうじゃなくて……っていうかそのことで相談があるんだけど」
と、そこで外に出る。
正規の出入口ではなく勝手口扱いのところだが、ここを使うと厩舎に近くすぐ馬に乗れるという利点がある。
五段の階段をさっさと下ると、少し先の車止めならぬ馬車止めにアークの青鹿毛がこちらを向いて待っていた。
「相談?」
会話の片手間、愛馬の横で手綱を握っている騎士にアークが片手を挙げて労う。
「うん。ちょっとね、楽士を養成しようと思って。そのためのお金と時間と場所が欲しいんですがどうにかなりませんかっていう相談」
「……は?」
久しぶりに見たアークの怪訝そうな顔。
初めて会ったヴェストーファで見た顔だ。互いに噛み合わなかった日々を懐かしく感じながら、真澄は馬上で詳しく話すことにした。
* * * *
「長期的な私の身の振り方はとりあえず横に置いておくとしてね。いい加減この『第四騎士団には常に楽士が足りない』っていうブラックな現状をどうにかしようと思ったわけ。他所から勧誘も考えたけど、グレイスとかシェリルの話を聞くと無理そうだし。しがらみ多すぎ。で、既存の楽士を当てにできないなら一から育てるのがいいかなって結論」
「そういうことか。にしても一からって……相変わらず斬新な発想だよな」
「アルバリークじゃそうかもしれないけど。私にとってヴァイオリンの技術なんて門外不出でもなんでもないもの」
「気前の良いことだ。しかし育てたところでどうせ魔術士団に横取りされるんじゃねえか」
「なってない」
「なんだと?」
「横取り容認もそうだけど、そうやって端から諦めるのがよくない!」
「おお、……なんかすまん」
「ここしばらくずっと考えてたわ、だからいつまで経ってもブラックなのよ。泣き言ならまだしも諦めるとかどういう了見よ」
「んなこと言ったってお前、」
「だから最初に戻るわけ。自前で楽士を育てれば万事解決でしょうが」
「簡単に言うがお前、」
「大丈夫。極論、人さえいれば何とかなる!」
「お前、……」
「その人材がいないから困ってるって言いたいんでしょ。まあ最後まで聞きなさいよ。さっきも言ったけど既存の楽士には頼らない。やり方は簡単、軍属の後方支援方みたいに一般人に採用募集かけるの。これで人がいない問題は解決。どうよ?」
「いやお前、さすがにそれは早計だろ」
「なんでよ」
「楽士なんて敷居の高いものになりたいやつがどれだけいるか」
「そんなの聞いてみなきゃ分かんないでしょ」
「聞くってもお前、誰に」
「帝国在住の皆さま。基本、来るもの拒まず精神のつもりだから」
「は?」
「貧乏人でも極悪人でも、契約を守れる頭と努力できる精神があれば取っ掛かりとしてはオーケー。帝都だけでも貧民街とかあって生活水準はかなりばらつきあるし、奨学金制度ありにしたら食いつく層は一定数いる。この辺の感覚は私自身が割と食い詰めてたから間違いないと思う」
「奨学金? なんだそれ」
「平たく言うと楽士教育を受けてる期間は生活の面倒を見てやるって制度。もちろん授業料も免除ね」
「どう考えてもただ食いが増えるぞ」
「一定の期間で要求水準に満たない人間はそこで落第に決まってんでしょ。落第ならかかった費用は当然返してもらうし、二度は採用しない。二重申し込み防止には後方支援方にツテあるから大丈夫。ただ食いっていうけど、そもそも全ての面倒みる代わりに第四騎士団付きの楽士になるっていう契約にするつもり。比べたら魔術士の方が待遇いいかもしれないけど、騎士でも御の字って人間は沢山いるわよ。特に地方出身者。私はヴェストーファで見た……っていうか、聞いた。まあ一期生は大人だけの少ない人数で様子見して、それがうまくいけば二期生以降は年齢制限取っ払って人数増やそうと思ってる。若い子入れたら将来の講師候補になるし」
「中々……いや、かなり具体的に考えたな」
「どうせやるなら持続可能な事業モデルをってやつでね。奨学金の出所は要検討だけど」
「まあそこは実質ほぼ食費だけだろう。第四騎士団の予算から出していい」
「話早くて助かるー。でね、楽士がそこにいるって分かれば、騎士たちも注目するでしょう」
「そりゃ目の色変わるだろうな」
「ついでに良い騎士と組めばそれだけ待遇が上がるなら、楽士候補生も本気で取り組むでしょうね」
「悪くない話だ」
「で、従来型の専属契約だと公私共にパートナーになっちゃうんでしょ?」
「あー……まあな」
「だからそれは無しで。なりたきゃパートナーになってもいいけど、仕事は第四騎士団全員対象って形でやりましょう。多分そういう大枠での専属制約もかけることできるんでしょ?」
「あー……まあできるだろ。多分。俺ができなくてもテオあたりに頼めば術式くらい簡単に創れるはずだ」
「ん、良い感じ。これで後は、」
「場所か」
「そうです。一人二人の話じゃないから相談したかったわけ」
「自前で楽士養成だからな。なんせ前代未聞の取り組みだ、楽士棟はまず使わせてもらえねえな」
「持ちかけた時点で喧嘩売ってるも同然だしね」
「どれくらいの広さが必要だ?」
「補給線的には一騎士に一楽士が理想なんでしょ?」
「となると帝都所属だけで二百人以上か。地方入れたら……おい、盛大な数になるぞ」
「ふふっ、言うと思った。それこそ棟一つあってもいいかもね。でもさすがに無理だろうから、ひとまず三十人くらい入れる部屋があれば」
「……いや、それだ」
「え?」
「第二訓練場に併設で楽士棟を造ってやる。ついでに宿舎棟も」
「え、いやそこまでしろとは言ってな」
「むしろいい口実だ。第四騎士団専用の楽士棟と宿舎棟を建設する為に詳細設計が変更になって、着工できていないのはそれが理由だ。ついでにそういう特殊な事情で業者に手付けを払ったから金ももうない」
「さすがに伺出の内容と離れすぎじゃない!?」
「いいかよく聞け。武楽会で、最優秀賞を取った首席楽士が、後進指導のため、わざわざ申し出たんだ。計画を急きょ変更する価値は十二分にあるし、武楽会の結果を叩きつければ文句も言われねえぞこれは一石二鳥だ!」
「ちょっ、やめっ、なんで走らせるの!」
「俺は今最高に気分がいい!」
「そんなっ理由でっいだっ!!」
「喋ると舌噛むぞ!」
「……もう噛んだわ!」
* * * *
水を得た魚のごとくアークが愛馬を走らせたお陰で、予定よりも少し早目に中央棟へと着いた。
庭園は冬の花が控えめに咲いている。
そこかしこにある繁みや生垣は緑がぐっと濃くなり、来たる寒さに備えているようだ。その中を単騎でさっさと進む。今日も監視のサーペントはどこかにいるのだろうが、アークと一緒にいれば怖くない。
入口の石階段は相変わらずくすんだ青灰色でそこにある。
それを昇る前にアークが馬寄せに愛馬を繋いだ。
人気がない中、二人で階段を昇って金縁の巨大な扉を開ける。中の玄関ホールは冷えていて、中央に座す大きな彫像もまるで凍っているかのようだった。
「今日は出迎えないみたいね」
真澄の頭には最初にイアンセルバートから呼び出された時のことが思い浮かぶ。
当の本人とやり合う前に、宮廷魔術士団からもちょっかいをかけられたのがここだ。
「喧嘩売らなかったからだろ」
「あ、やっぱりその自覚あったのね。『ご挨拶ですね』とか言われてたくせに、すっとぼけてたわよね」
「あの時は最高に苛ついてたからな。今ならもう少しまともに相手してやる」
「またそういうこと言って」
適当に話をしながら、えんじ色の絨毯の上を歩く。
今日は会議室ではなく宮廷騎士団長の執務室へ呼ばれているため、階段は使わずに中央棟の最奥へと向かう。
途中で何人かの黒紫の騎士とすれ違う。
彼らは一様にアークに対して道を譲り、その後に続く真澄に含みのある視線を投げてきた。
やがて他の部屋より一回り大きな扉に行き着く。その前で背筋を伸ばして待っていたのは、食堂で会った第三席だった。
「おはようございます。中へどうぞ」
「あれ、夜勤明けでは」
つい真澄が呟くと、第三席はぱちりと左目を瞑ってみせた。
朝もそうだったが小さな仕草がいちいちお茶目なおじさまだ。
「自主残業ですね」
そんな第三席は、言いながら人差し指を口元に立てる。
「……お顔を拝見するに、すぐ終わりそうでなによりです」
アークに対して丁寧に頭を下げ、そして彼は扉へと向き直りノックを三回。部屋の主へと姿を晒すことなく、アークと真澄を中へ通した。
「久方ぶりだ」
「永久に顔を会わせなくてもこちらは一向に構いませんが」
「だから壮行会に出なかったというわけか。責任感の欠如が甚だしいことだ」
執務室に入るなり攻防は始まった。
前置きも雑談もなにもなく、ざっくりとイアンセルバートが斬り込んでくる。言葉のとおりしばらくぶりだが、鋭いすみれ色の瞳は健在だった。
真澄がちらと横を見ると、早速アークの額に青筋が浮かんでいる。
「その件についての首席意見でしたね。時間の無駄でしかない壮行会なんぞいらんというのが結論です。総括は割愛。武楽会は来年以降開催されないので不要かと。ではこれで」
言いたいことだけ一気に言って、さっさとアークが踵を返す。が、扉に触れようとしたその手がバチッという音と共に弾かれた。
扉全体に走ったのはすみれ色の雷だ。
ゆらりと青い闘気が滲む。ゆっくりと振り返ったアークの顔は般若と化していた。
「……の野郎」
「話はまだ済んでない」
座れ、とイアンセルバートの手が応接のソファを指し示した。
「私が許可しなければこの部屋からは退出できない。覚えておくことだ」
「んなもんやってみなきゃ分からねえだろクソが」
「つまらないことで無駄撃ちするな。いつ緊急出動があってもおかしくない情勢だぞ。兄上から――王太子殿下直々に話は聞いているのだろう。それとももう忘れたのか? 鳥頭だからそれもやむなしか? ならば致し方ないが」
「うるせえな融通ゼロの石頭に言われたかねえよ」
形式上の敬語はあっという間に取り払われた。
このやり取りの合間にも部屋は小刻みに揺れ、窓枠もガタガタと震えている。近辺で働く人間にしてみると地震に思われてもおかしくない。
隠れられそうな物陰を探してみるも、この執務室にはそんなもの一つもない。
真澄が早々に諦めてこっそり息を吐くと、その横でアークが動いた。盛大に舌打ちをしながら戻ってくる。王太子の名前を出されたのが効いたらしい。
どっかり音を立てて応接のソファにアークが座り込む。
それを見て真澄も隣に腰を下ろした時、控えめなノックと共に扉が開いた。失礼致します、と完全に震えた声で恐る恐る覗きこんできたのは、若く可憐な女官だった。
「お、お茶をお持ちしました……」
可哀想に、完全に腰が引けている。
そんな彼女に対しイアンセルバートは「ありがとう、置いていってくれ」とやたら紳士な口振りで指示し、女官も僅かに頬を染めたものだから、第四騎士団陣営としては大変面白くない。
見せつけられたかのようで実に業腹だ。
さりとて彼女は何も悪くないので、真澄とアークは二人でちらりと顔を見合わせるに留めた。
「毒など入れていない」
と、最後に置かれた目の前の茶に、最初に口を付けながらイアンセルバートが言う。
そこは来客が先に手を伸ばしてからだろと突っ込みたくなるが、来客と思われていないらしいので言うだけ無駄である。真澄もお呼ばれしたとは思っていないし、どちらかというと茶が出たこと自体が青天の霹靂だ。
「どうだかな」
こちらは毒づきながら茶に手を伸ばすアークである。出されたものは遠慮なく頂く姿勢らしい。それに倣って真澄もカップに口を付けると、イアンセルバートが「エルストラス遠征の準備は」と口火を切った。
「どれくらいで完了しそうだ」
「……二ヶ月寄越せとは言いませんが、初冬の月頭には。これ以上はどう足掻いても早くなりません」
仕事の話になり、ぶっきらぼうながらアークが敬語に戻る。
尋ねたことへの返答にどう思ったのか、イアンセルバートが僅か考え込む。それを見てアークがもう一度口を開いた。
「地方分団の帰任と再編に加えて辺境部族の到着を待っています。入念な輜重の準備もある。第四騎士団単独の遠征だからこそ、ここは絶対に譲れません」
「分かった。費用は足りているか」
「……は?」
「遠征準備費だ」
「そりゃ足りないというか幾らあっても困りませんが」
「そうか。ならば第四騎士団の第二訓練場建設を」
「差し止めは不可能です。既に業者へ手付として半分以上支払い済みです」
「着工もしていないのに、か」
きた。
第三席から警鐘を鳴らされていた話題だ。アークは激昂することなく淡々と返した。
「事情により設計変更が生じましたので、無理を利かせる代わりに」
「事情だと?」
「ええ」
「説明を要求する」
「我が団専属となる楽士団を創設したいとの申し出が楽会首席よりありました故、その意向を受ける形で第二訓練場を建設することに致しました」
用意していた回答はすらすらと淀みない。
一方で、イアンセルバートの動きが止まった。眉間に僅かだが力が込められる。戸惑っているらしいそれは初めて見る表情だった。
「専属、……楽士団?」
困惑の瞳が真澄を捉えた。
問い質されているらしいが、この場での発言権はアークにある。ゆえに真澄はうんともすんとも言わず、ちらりと隣を見るに留めた。
無言の圧力に屈しないことは知れている。
時間の無駄と見たか、イアンセルバートは早々にアークへと視線を戻した。
「どういうことだ」
「帝国典範にはなんら違反しておりません。楽士団を創設してはならないという法はどこにもない。そして承認された予算を年度内のいつどのように執行しようとそれは我が団の裁量下です」
「そうではなくて、……宮廷楽士を引き抜くのか」
「他人のシマは荒らしませんのでご心配なく」
「ではどうやって」
「両手を持つ人間などどこにでもいる。そういうことです」
そこでアークが茶をぐいと飲み干した。
驚きで相手が二の句を告げられないのをいいことに、そのままさっさと立ち上がる。
「話は以上です。遠征準備費を追加で頂けるならそれはありがたく頂戴します。行くぞマスミ」
呼びかけに応じ、真澄は一口しか飲んでいないカップを置いた。続けて立ち上がった時、すみれ色の視線が突き刺さっていることに気付く。目が合うとイアンセルバートは「まさか」と低く唸った。
「楽士ではない者を、楽士として成すつもりか」
声にはただただ驚愕が乗っている。
少しだけ考えて、そこで初めて真澄は口を開いた。
「あなたにとっての楽士とはなんですか」
その一族に生まれた者を指すのか、あるいは出会ったその時に演奏ができて当たり前の完成された者なのか。
そんな真澄の問いに、イアンセルバートは怪訝さを露にした。
「何を言っている?」
「騎士も魔術士もそう在りたい者が叙任を受ける。ならば楽士も同じでいいでしょう。なりたい者が師を仰ぎ、師は彼らにその技術を教え伝える。そこに人として貴賤の別などない。私の故郷では当たり前だったことです」
誰しもが望めばそこに道はあった。
信じてはもらえないでしょうが、と最後に付け加えたが、宮廷騎士団長からは反応がなかった。
彼はただ真澄を見ている。
真澄もまた見つめ返すと、背中で静かに扉の開く音が響いた。
「マスミ」
アークに呼ばれ、真澄はそこで視線を外した。
「失礼します」
退出の礼を簡潔に述べる。やはり返事はなかったが、引き留められることはないと判断し、そのまま真澄はアークを追って執務室を後にした。
廊下は静まり返っていた。
突き当たりの部屋ゆえに人の往来もなく、いつ帰ったのか第三席の姿もない。
薄く柔らかな晩秋の陽だけが窓から差し込んでいる。
えんじ色の絨毯を踏みしめながら真澄とアークは中央棟内を歩いた。
「ねえ、見た? あの顔」
してやったり感に思わず小さな笑いがこぼれてしまう。
そんな真澄につられてか、アークからも同じ気配が洩れ出た。
「三十年近く兄弟やってて初めて見たぞ」
不敵に笑ったその顔が悪代官そのもので、今度はそれに笑う。すると「人の顔見て笑うんじゃねえ」と小突かれた。
なによそれ、と。
返しながらもまた噴き出してしまい、真澄の腹筋はしばらく言うことをきかなかった。だって、人の顔見て笑った本人がそれをされて怒るなんて、これをブーメランと呼ばずしてなんと言うのだろう。
そんな真澄に、舌打ちしながらアークの大きな手のひらが迫ってくる。
「おいコラいい加減に」
「その手は食うか!」
ビシ!
と、手箸でアークの手のひらを掴んで止める。この流れは黙っていたらアイアンクローを食らうだけだ。
「ふふん、どうよこの華麗な動」
「甘い」
ガッ。
真澄が勝ち誇ろうとした瞬間、アークの左手がこめかみに襲ってきた。
「俺にも両手があるからな。やればヴィラードもできるかもな」
「ちょっ痛い痛い手加減!」
「まずは『笑いすぎてすいません』だろ」
「あーもうあんたになんか頼まれたってヴァイオリン教えてやんない!」
「そりゃ残念だ」
と、近くの扉から誰かが顔を出し視線を向けてくる。どうやら騒ぎすぎたらしい。咎める色のそれに真澄が頭を下げつつ、そそくさと二人でその場から退散した。
外は晴れていた。
小春日和だ。そんな中大人しく待っていた愛馬に再び跨がり、晴れやかな気分で真澄とアークは帰路についた。




