104.新たな動き
「おはようございます、マスミさま」
優しい声の彼女がにこりと笑って真澄にそう告げてきた。
栗色の髪の毛を一つに結い、今日も制服をきちりと着こなしている。そして彼女は次にこう言うのだ、「起きてください、朝食の準備をして参りますから」と。
「マスミさま」
「んー……ん?」
「おはようございます。お加減いかがですか」
「……リリー?」
「はい」
嬉しそうに返事をしながら、小柄な彼女は窓に寄ってカーテンを開け放った。
途端に朝の光が部屋に満ちる。
冬が間近となり日の出が遅くなってきたが、それでも光は変わらず差し込む。朝陽の中をゆっくりと歩きながら部屋を整えていくリリーの姿は見慣れたものだったが、どこか懐かしい。
そんな感慨深さを抱いて、真澄の意識はそこでようやく覚醒した。
「あーそっか……帝都に帰ってきたんだった……」
「ええ。お疲れとは思いますが、ご指定の時間になりましたので」
眉を下げながら申し訳なさそうに言うリリーを見て、真澄は唸りながらもう一度掛布の中に顔を埋めた。
寝慣れた柔らかなベッド。
溶けそうに温かい布団。
この幸せの中にずっと身を置いていたいと切望するが、リリーに対して「間違いなく起こしてくれ」と頼んだのは他でもない真澄自身だ。
昨日の午後、真澄とアークはアルバリーク帝都へと帰着した。
武楽会からの凱旋ということで本来は帝都を上げて華々しい出迎えを受けるはずだったが、本隊とは別行動をしたが為に、二人で極力目立たぬよう宮廷の門を潜った。ひっそりこそこそと人目を避け、逃避行さながらに。まあ留守番をしていた第四騎士団の面々からは熱烈な歓迎を受けたがそこはそれ。
何はともあれ、レイテア内紛など穏やかではない情報もあり真澄とアークの帰着は即日で宮廷内部に知れ渡った。
すると当然ながら宮廷騎士団長の耳にも入る。
先に文書で召集をかけられてはいたが、さらに念押しとばかり使いが来て翌朝必ず出頭するよう要請された。そういうわけで久しぶりの寝床にも関わらず、ぬくぬく寝坊している時間はないのである。
「アークは?」
「執務室に出ていらっしゃいます。マスミさまの朝食が済み次第、ご案内するようにとのことでした」
「うわ、昨日の今日でもう働いてるの。さすがとしか言いようがないわ」
「マスミさまも同じですよ……」
これから宮廷騎士団長のところですよね、とリリーが微妙に頬を引きつらせる。
「制服とスカーフにはアイロンをかけておきました」
「ありがとう。急なお願いだったのにごめんね」
ベッドから足を降ろしながら、リリーにお礼を言う。
あの宮廷騎士団長のことだ。どんな些末なことで何を言われるか分かったものじゃない。だから気を付けられる部分は一部の隙なく準備しようと努めてのことだった。
「それでは私は先に食堂へ参りますので」
「うん、宜しくね」
リリーを見送り、少しだけ寝乱れた髪を手櫛で梳かしながら、真澄は隣の衣裳部屋へと足を運ぶ。
そこで新品に見違えるほど綺麗に整えられた制服に着替え、碧空のスカーフを襟元に巻き、まずは朝食を食堂で摂るために部屋を後にした。
そして辿り着いた食堂は懐かしい喧騒に溢れていた。
ここに来た頃と変わらず、騎士と魔術士と軍属がそれぞれに思い思いの量と種類の食事を摂っている。その中で騎士には及ばないがそれなりの量をトレイに乗せて席を探す真澄には、相も変わらず全方位から視線が刺さっていた。
「マスミさま、こちらです」
席取りのために先に行っていたリリーが窓際から手を振ってくる。安定の四人席に一人だ。
彼女が真澄付きの女官であることは知れている。親しく付き合えば無害だと分かってもらえるので相席を頼まれることもあるが、そうではない者にとって真澄は未だに「あの第四騎士団に与する得体の知れない、何を考えているか分からない珍獣」扱いなのだ。
おまけに武楽会での勝敗も広く知れ渡った。
国としては勝負なしという形になったが、個人戦での戦績は大変な尾ひれを――尾ひれどころか背びれ胸びれくらいまで――ついて、あちらこちらで話題になったらしい。
リリーによれば、真澄の一瞥でレイテアの楽士が失神しただの、どこの怪物かと突っ込みたくなるようなそれはもう酷い言われようなのだ。甚だ心外である。が、それを訴える明確な相手がいないというか噂など誰がどう言っているか掴みようもないので、真澄としてはこの集まってくる視線は黙殺するより他にない。
着任当初より強くなった注目にリリーは縮こまっている。
それを他所に真澄は果実水を喉に流し込んだ。ああ、おいしい。懐かしい爽やかな酸味が朝の目覚めを助けてくれる。
「失礼致します。相席をお願いできますか」
と、真澄の背中から声がかけられた。
この状況でなんとも奇特な話だ。第四騎士団の誰かかと当たりをつけて振り返った真澄だったが、予想は見事に外れた。
「あー、あなた」
黒紫の肩章に無愛想な顔。
これまでに二度――騎士団長会食の演奏のために入った中央棟と、武楽会前にシェリルを訪ねた時――に、いずれも内部へエスコートしてくれた彼だ。名前は知らない。だが宮廷騎士団所属であることは知っている。
そんな彼の後ろには、年嵩ながら穏やかな顔をした騎士が立っていた。
二人とも食事のトレイを持っている。周囲をちらと見回してみるとちょうど人の多い時間になったらしく、空席を見つけるのは面倒な込み具合だ。彼がどこまで真澄のことを知っているか、というよりついて回る噂に頓着しているかは不明だが、声をかける程度はやぶさかではないようだ。
「ロベルト=クライフと申します」
平坦な調子の自己紹介だ。
宮廷騎士団だからといって別に名乗らねば席をやらんなどと嫌味を投げるつもりは毛頭なかったのだが、記憶を手繰ってつい言葉の途切れた真澄を見て気を遣ってくれたらしい。
少しの間を置いてしまったものの、気を取り直して真澄は手で空いている席を勧めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ロベルトと名乗った彼は半身で振り返り、後ろの年嵩の騎士へと合図を送る。受けた騎士はほっとしたように頬を緩め、真澄たちに会釈をしながら椅子を引いた。
その瞬間、周囲で低く「おお……」というどよめきが沸き起こる。
宮廷騎士団と第四騎士団の軋轢は周知の事実であるから、一触即発に思われたらしい。真澄としてはその軋轢はより厳密に言うと団長同士が不仲であるというだけであって、喧嘩は売られない限り買わないし、よほどの不利益を被らない限り売るつもりも毛頭ない。
しかしそんな真澄の内心など周囲は知る由もなく、無駄に注目は集まるばかりだ。
ところが見られることに慣れている宮廷騎士団の二人はそれら好奇の視線全てを華麗に黙殺しながら、トレイをテーブルの上に乗せた。
この朝の遅い時間に食事ということは夜勤明けのようだが、彼らは二人とも特盛と言って差し支えない分量を盛っている。所属が変わっても騎士は騎士、さすがだ。そんなことを考えながら、真澄は自身の食事を続けようとスプーンを手に取った。
が、
「この度はおめでとうございます」
食事に手を付ける前にロベルトが真澄に礼を寄越す。相変わらず無愛想だが丁寧な姿勢に、真澄のスープをすくう手が止まった。
はて、宮廷騎士団から祝辞を受ける出来事などあっただろうか。
三秒考えて出た結論は「ない」だ。よって真澄としては首を傾げての返答となった。
「なんの話? ごめんなさい、昨日帰ってきたばっかりで帝都のことはちょっと浦島太郎っていうか知らなくて」
「あなたという方は……」
無表情だったロベルトが目を眇めた。明らかに残念そうな顔だ。三回目の顔合わせで初めて向けられた感情がそんなこととなり甚だ心外であるが、最新情報に疎いのは事実なので反駁しようがない。
と、年嵩の騎士が堪えきれない様子で小さく噴き出した。
まさかの初対面相手にまで笑われるという状況に、助けを求めて真澄はリリーを見る。と、彼女もまたなんとも形容し難い微妙な顔で真澄を見ていた。
え、なんで。
そんな真澄の疑問は声に出す前に、年嵩騎士によって遮られた。
「いや申し訳ない。噂どおりの御方で、つい」
「噂って」
瞬間、これから会わねばならない相手の顔、特に鋭いすみれ色の視線が脳裏に浮かぶ。
嫌な予感に真澄の顔は自然曇った。
「ああいえ、悪い話ではありません。騎士長がね、色々とあなたの面白いお話を聞かせてくれるもので」
害意はないと言わんばかり、年嵩騎士が優し気に微笑んだ。
穏やかな表情には偏見や決めつけといった悪感情は滲んでいない。騎士にしてはやや長めの髪を撫で付け、それと同じ色の口ひげを綺麗に揃えている。重ねた年の落ち着きもあって、宮廷騎士団の見本のような人だ。
それはそうと、宮廷騎士団の騎士長といえば他でもないあの人のことである。
「……ヒンティ騎士長が、ですか?」
「はい。それで勝手に親しく感じさせて頂いた次第で」
「そうでしたか。……面白いという部分が微妙に気になりますけれど。こちらこそヒンティ騎士長やサルメラ次席にはよくしてもらっています。武楽会中もお世話になりっぱなしでした」
変な因縁をつけられるわけではなさそうで一安心、真澄も自然と頬が綻んだ。
そのまま武楽会の様子など雑談に入ろうとしたものの、それはロベルトの一言で遮られた。
「その件ですよ」
早くも無表情に戻ったロベルトが未だ食事に手を付けぬまま言う。
「武楽会での最優秀賞、真におめでとうございます。碧空の楽士伝説がまた一つ増えて、もはや飛ぶ鳥を落とす勢いだと専らの噂です」
「ちょっ……どこから突っ込んだらいいのそれ」
絶句しかけた真澄の頬は否応なく引きつった。
本当にめでたいと思ってくれているのか疑問な無表情であるとか、碌でもない匂いしかしない碧空の楽士伝説とか、向ける先などいないはずの勢いもそう、そして噂が一体どこまで広がっているのかも含めて、もう何もかも。
真澄の心中が伝わったのか、ロベルトはさらに続けた。
「見事に宮廷内が割れました。碧空派と反碧空派に」
「そんな派閥創った覚えはまったくないんだけど……」
「旧来あった騎士団や魔術士団の枠を超えて、それも楽士個人に対する支持不支持が分かれているのはこれまでにない状況です。ともすれば碧空派は宮廷内で今後大きな影響力を持つかもしれない。大変に興味深いと言っていいでしょう」
「はあ、そうですか……」
「化け物扱いで突飛な噂ばかりですが、だからこそ直接話してみたいと思わせる何かがあなたにはあります」
それは碧空派も反碧空派も同じ。
そう言ってロベルトが周囲に視線を走らせる。真澄も倣うと、ほとんどのテーブルから未だに衆目を集めていた。
息を吐いて真澄はスプーンを置く。代わりに手に取った果実水を飲んで休憩する。
「それでロベルト、あなたはどっちなの? 敵情視察もいいけど、このとおり何の変哲もないただの楽士よ」
ロベルトの上長である宮廷騎士団長からは確実に支持されていない。断言できる。今朝もそうだが、むしろ呼び出しを食らう相手だ。
ところがロベルトはきちりと一度だけ首を横に振った。
「先ほども申し上げましたが、碧空の支持不支持にもはや所属は関係ありません」
「……ん?」
「それゆえ相席をお願いしました。本日の召集、本命の用件は貴団の第二訓練場建設についてです。正式な通達は明日発簡されますが、エルストラス遠征が急遽決まったことを受け費用捻出のために関係各所で予算が押さえられます。配算済みであっても、です。嘘でも良いので着工していると言わねば予算が没収されますのでお気を付けください。情報の出所はご容赦を。知れたら第三席の首が飛びます」
淡々と述べたロベルトの横、年嵩騎士がこっそり首を竦める素振りを見せた。
どうやらこの人がその第三席らしい。
つまりヒンティ騎士長が不在の今、実質的に宮廷騎士団に関する一切――もちろんその中には総司令官の相手を含む――を切り盛りしている人物である。
だから彼は名乗らなかったのだ。
名前も知らない相手と交友関係や付き合いがあるとは普通考えない。宮廷騎士団長は間違いなく不意打ちを目論んで今回の呼び出しをかけているだろう。躱されるとは想定していないはずだ。なんせ事前に文書で囮の話題を仕込むという周到ぶりである。事実、真澄もアークもそのことで頭が一杯で、どう言い繕うかばかりを考えていた。
まったく気構えがない話を急に振られると人はどうなるか。
十中八九、正直な反応を出してしまう。
相手の真意を読むにしても会話最中の数秒でそれをやるのはさすがに難しい。返す返すも予想外の話についてだ。ありのままを述べるか謀るか、どちらが正解か判断した上で即座に淀みなく返答するのは無理だろう。
渡りに舟とはこのことか。
碌でもない噂ばかり広がっているのだろうと諦めていたが、思わぬところからの援軍でありがたい限りである。
「ありがとうございます。今度お礼に伺います」
隠れた味方がいるのは心強い。
真澄はあまり親し気に見えないよう顔は努めて事務的に、しかし声は篤く、宮廷騎士団の二人へ謝辞を述べた。
受けた第三席とロベルトは何も応えない。
それでいい。
周囲からの注目は集まったままだ。真澄たちが何を話しているかまでは雑踏に紛れて聞こえないだろうが、一挙手一投足は丸見えだ。親しいと思われては困る。
それからはこれまでどおり、真澄はリリーとだけ会話をしながら朝食を済ませた。
騎士二人は男性らしく、たまに言葉を交わす程度で黙々と食事を進めている。やがて真澄たちがトレイ周りを片付け始めた時、ロベルトが第三席に向かう態でぽつりと言った。
「もし礼を頂けるのでしたら、サルメラ次席へお願い致します。……どうか今後も変わらぬご友好を」
杯の水滴跡をナプキンで拭っていた真澄の手が止まった。
なぜ。
目立たないようそっと視線を上げると、第三席も知らぬ顔でパンを咀嚼しながら小さく頷いた。
どうやら二人で合意している願いらしい。サルメラ次席とはシェリルのことで、ヒンティ騎士長の楽士だ。今はまだ遠く、レイテアからの帰路途中にある。人付き合いの苦手な彼女は真澄のように訓練場に入り浸って騎士たちと絡むようなことはしていなかった。武楽会前の期間だけ、特別に楽士棟ではなく宮廷騎士団の訓練場に入っていたくらいだ。
自分自身の楽士を大切にするならまだしも、彼らはなぜ彼女を気に掛けるのだろう。
問いたいが周囲の視線が気になる。
諦めて手短に「ええ、もちろん」とだけ返し、真澄は立ち上がった。宮廷騎士団長からの呼び出し刻限が迫っていて、いい加減アークと合流しなければならない時間だ。もとより頼まれずともシェリルとの付き合いを止めるつもりもない。
座っていた椅子をテーブルに戻す。
その音に溶け込ませるようにして、最後にロベルトが呟いた。
「……決して償えるものではないと、解ってはいるのですが」
できることなどほとんどない。しかし僅かでもできることがあるなら、それを。
無表情のままに、しかし声はどこまでも寂しそうだった。
それだけが真澄に分かった全てだ。
どういう意味だろう。真澄は考え込みながらトレイを手に持ち、テーブルを後にした。
気にはなる。だがまずは宮廷騎士団長の用件を片付けねば。
真澄はざわめく食堂を横切り、リリーに別れを告げ、アークの執務室へと足を向けた。




