仮想猿
最初の一文が書きたかっただけです。
彼が猿だと気付いたのは、僕が中学に上がった直後だったから、実に十年もの間僕はあの猿公に騙されていたことになる。
騙されていた、という言い方は彼の名誉を毀損することになるかもしれないが――彼に騙していたつもりはないのかもしれないが――しかし真実が告げられたあの瞬間、今まで信じてきたものが実は存在しない虚構であったと知らされたあの瞬間。僕は……僕の心の真ん中にある一番大切な何かを、すっかり抉り取られてしまったように感じたのだ。
それほどまでに彼は、僕にとってかけがえのない存在だったのだ、なぜなら……
僕は、彼と出会ったあの日からずっと、共に道を、同じ道を歩んできたのだから。
僕が彼と出会ったのは、僕の三歳の誕生日。
寒い冬の寒い日のことで、運命的な出会いを果たした僕らの頭上にはしんしんと雪が降り注いでいた。
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「ねえ、おかあさん」
太一は隣を歩いている母に声をかけた。
しっかり繋がれた母の手は暖かく、彼の小さな手を優しく包み込んでいる。
「なあに?」
そう答えて、母は太一の顔を見つめてきた。その表情はとても穏やかだ。
それを見て、太一は開いている左手で口を押えるが、こらえ切れずに、いっしっし、と笑う
別に母の顔に何か付いていた訳ではない。太一はこの顔を見るといつも嬉しくなるのだ。なぜ嬉しくなるのか。それは年相応に感情が乏しい彼自身分かっていない。しかしとにかく、彼はこの顔を見るといつも無性に安心するのだった。
「ううん。何でもない」
太一はそう言ってにかりと笑う。すると、母も決まりごとの様に「おかしな子ね」と言って微笑むのだった。
そうして二人はまた歩き出す。
小刻みに明滅する街灯に照らし出される夜の道は、降りしきる雪の中にぼんやりと浮かび上がり、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
そんな情景に次第に太一の瞼は重くなっていく。足の進みは緩慢になり、呼吸は深くなっていく。
――立ったまま寝ちゃえそう……。
そう、太一が思った時だった。太一は前方の、数十メートル程先にある街灯の足元に茶色っぽいものが落ちていることに気付いた。
「あっ、太一」
好奇心が眠気を振り払う。それが何か気になった太一は母の手を放すと、それに駆け寄る。息を切らして走る。
数十メートルの距離を駆け足で縮めると、少年の目の前に『彼』はいた
――子どもだ……!
素っ裸で何一つ身に纏っておらず、その小さな体を雪が容赦なく打ち付けている。
慌てて太一はまだ後ろにいる母を呼んだ。
「おかあさん、たいへん! 子供がいるっ! ハダカっ!」
こんな非常時に適切な言葉を紡げる年齢ではないため、切れ切れの単語に近い呼びかけだったが、母は状況を察したらしく青ざめた顔で走り寄って、そのまま息子を片手で押しのけると――
「早く体を温めないとっ――」
息子の体の陰に隠れていた『彼』を母は見た。
彼女の体が一瞬硬直する。
『彼』は寒さに震え、全身には大小の傷がある。見るからに衰弱していて危険な状態だと分かる。
しかし彼女はどうすればいいのか分からない。
胸を撫で下ろすべきなのか、それとも処置を施すべきなのか。
隣にいるのは、不安そうな表情で母の顔と目の前の子どもを交互に見ている息子。
――どうしたら……?
そこにいるのが人間の子供だったなら彼女は迷わず応急処置を施しただろう。しかし『彼』は人間ではなかった。
彼女の目の前にいたのは一匹の猿だったのだ。
つづかない。