1. アイリッシュコーヒー (2)
カフェの伝票はせめてもの謝罪とばかりに彰が持って行った。
付き合った3年が紅茶一杯500円で終わる。そう思えば呆れた溜息を零れたけれど、それは怒りにも哀しみにもつながらない。
空のグラスだけを残して彰が去ってしまっても、ゆりの心はまだ静かだった。
まだ中身の半分残っているコーヒーカップの隣に、赤い小箱が置いてあるのが目に留まる。
3回目も懲りずに手作りしてしまったバレンタインチョコ。
今年も急いで雑誌を買い込む姿を、万月堂書店のおじさんに笑われたのがもう1週間前だ。
「ゆりちゃんは女の子だなぁ」。「ゆりちゃんのチョコを貰った男は嬉しいなぁ」。去年掛けられた同じ言葉はゆりの頬を紅潮させた。けれど今年――別れの予感が確信へと変わってから言われた言葉は、ひどく苦く心のなかに響いて、ただ笑うことしかできなかった。
これをどうしようか、と考える。
他の人のものになっている男の心を繋ぎ止めたくて、未練がましく作ったチョコ。甘党の彼のために作ったミルクチョコは、自分で食べるには少し甘すぎる。
処分しなければならないものはまだたくさんある。デジカメの中のふたりの写真。それを移したデジタルフォトフレームは去年のホワイトデーに貰ったお返しだ。去年といえば誕生日に貰った時計があるし、その前の誕生日にはペンケースを貰った。時計はまだしもペンケースはお気に入りで大事に使っているから、新しいものを探すのには一苦労かかりそうだ。
ぜんぶぜんぶ、処分しなきゃ。
もったいない気はするけれど、愛の証としてもらったものを持ち続けるのも図々しいような未練がましいような気分になる。過去の――武勇伝として語るほど多くはないけれど、どの恋愛でも同じようにそうしてきたように。
いままでだってそうやって、思いの痕跡を心の中から消したのだ。
そうと決めれば、ゆりは早速鞄へと手を伸ばす。
背の高い店員が席の隣を通ってロールカーテンを上げていく。店に入った時には西日が強かったけれどもうとうに日は暮れて、大きな窓の外には闇が広がっていた。
鞄の中から手帳と、例の使い勝手がいいペンケースを取り出した。
店の中には西日と同じ色をした橙のライトがやわらかく灯る。書き物には少し暗いけれど、苦労するほどではない。手帳を手元に広げて、ゆりは白紙のページに書き付けた。
「捨てるものリスト」。行を変えて少々の空白の後、「1.ペンケース」。
「お水のお代わりはいかがですか?」
深みのある声に意識は引き戻され、ゆりは顔を上げた。
声を掛けてきたのは時折ホールを歩いていた背の高い店員らしい。顔もろくにみないまま、「大丈夫です」と一言断った。
「失礼致しました」と、また深みのある声とともに一礼して店員は去っていく。
一息吐き出してふたたび手帳に視線を落とした。
リストは「3.デジタルフォトフレーム」から進んでいない。
最初こそ意気込んで書き付けた。けれどモノからあふれだす思い出がその先へ向かうことを阻んだ。どんな顔をして、どんな風に彼がそれを選び、購入し、自分へと渡したのか。それを自分がどんな顔をして受け取り、喜んだのか。その時どんなご飯を食べて、どんな会話をしただろう。そんな些細なことまで記憶を辿り感傷を辿り、気づけばいまだ。
なにげなく腕時計を見る。
ピンクゴールドの華奢な時計も彰にプレゼントされたもので、一瞬心に苦いものが走るけれど、それよりも。
「……嘘、もう十時?」
なにかの間違いではなかろうか。
最初に店に入ったのが16時頃。話していたのが1時間程度、彰が出ていってからせいぜい2時間やそこらだと思っていたのに、いつの間にか入店から6時間も経過していたなんて。
テーブルの上に視線を遣る。気づかぬうちに空になっていたコーヒーカップはこれもまた気づかぬうちに下げられている。先程断った水だけが半分ほど残って、生ぬるくなってそこにあった。
テーブルの上の様子からでは時間は分からず、無意識的に視線は時計を探して彷徨う。入店した時には若者や主婦で賑わっていたカフェには、今は大人の男女がまばらに座っている。夕方流れていた軽快なボサノヴァはしっとりとしたジャズピアノの演奏に変わっていた。
「お待たせ致しました」
不意に視界の逆側から声を掛けられて肩を震わせた。
振り向いて、見上げる。
深みのある落ち着いた声と、少し身をかがめているのに見上げるほどの背の高さ。きっと先程から何度か世話を焼いてくれていた店員だろう。垂れ目の目尻に皺を寄せて、穏やかな笑みとともにゆりの様子を伺っていた。
「ご注文でございますか?」
「え――… ええ、お願いします」
言葉で続きを促され、咄嗟に頷いていた。
メニューをお持ちします、と告げて、一礼とともに店員はゆりに背を向けた。カウンターに重ねておいてあるメニューからひとつを取り、ふたたびテーブル席へと戻ってくる。
差し出されたメニューを何気なく開き、目を通し、ゆりは弾かれたように顔を上げた。
「これ…… お酒の?」
ゆりは酒には疎い。けれど1ページ目に並ぶ英字の名前たちが、ウイスキーの名前であることぐらいはさすがに知っていた。
驚くゆりに反して店員は微笑みを浮かべたまま、ええ、と頷く。
「当店、夜はバーとして営業させて頂いております」
「えっ」
驚きながらも納得する心があった。道理で、店内の様子が夕方とは違うはずだ。
店員にひとつ頭を下げてメニューにふたたび視線を落とす。注文を選ぶためというよりは、みっともなく動揺している姿を見られたくなかったから。
けれどそこに並ぶ見たこともないような酒の名前たちに、アルコールを口にする前から目眩が起きそうな心地を覚えた。使っているベース、リキュール、どんな作り方なのか。説明は日本語で丁寧に書いてあるのに、それが頭に入ってこない。
「ノンアルコールドリンクのご用意もございますが」
ふたたび深みのある声が降りてきた。
見上げれば、声と同じように深みのある眼差しでこちらを見下ろす店員の男性がいた。目尻の皺を見るに、ゆりよりは少し上の世代なのだろう。微笑みを湛えた穏やかな眼差しが、このバーに慣れない女性客を笑うでもなく見守っている。
素直に委ねてもいいのだと言われたような気がした。
「いいえ、お酒が苦手なわけではないの…… ただ、あまり飲まないから」
――よく分からなくて。
ゆりが苦笑いとともに続けた声に、店員は思案気に動きを止めた。
伏せ気味の視線で考える横顔を、ゆりはじっと見上げていた。あまりに大雑把すぎる言葉で困らせてしまっただろうか?
すると不意に店員が顔を上げて微笑みかけてきたので、咄嗟に視線を反らしてしまう。
メニューに視線を落としたゆりに、店員は変わらぬ穏やかな深みのある声で問いかけた。
「…それでしたら、コーヒーと紅茶、どちらがお好みですか?」
コーヒーと、紅茶?
今はお酒の話をしているのではなかったか。
驚いて目を瞬かせるゆりに、店員は言葉を加える素振りは無い。ただ黙って、様子を観察するような見守るような静かな眼差しでゆりを見ている。
戸惑いがちに店員を見上げ、口を開いた。
「コーヒーかな。 ……紅茶はすこし、甘すぎるから」
「甘すぎる?」
店員の微笑みに一瞬疑問の色が差して、ゆりはひとつ失言をしたとこに気がついた。
いいえ、と、否定にならない否定を呟いて視線を反らした。顔の向きは手元のメニューに並ぶ文字列へ。文字の上を視線がなぞる――到底意味など脳内に入ってきそうにはないけれど。
やがて、俯くゆりに向けられる思慮深げな視線が外される。
「かしこまりました、お持ち致しますので少々お待ち下さいませ」
降ってくる声は紳士的であり穏やかで、その中に胸中を詮索するような色は無かった。
一度こくりと頷けば店員はゆりに背を向けてテーブルを離れていく。店の中央、カウンタースペースに入っていく大きな背を確認した所で、ゆりはひとつ安堵の息を吐き出した。
そうして再び気づく。お酒の話ではなかったか、 と。
まだ手にしたままのメニューをめくる。
店員の言った通り確かに、ソフトドリンクはドリンクメニューの最後にさりげなく書かれていた。けれどそこに並ぶのはジュースや水ばかりで、Coffeeの文字もTeaの文字も無い。ということは、バーメニューには無いコーヒーをわざわざ淹れてくれるということだろうか。6時間コーヒー1杯で居座った客に対して。
それじゃあ、あまりに申し訳なさすぎる。
メニューを閉じ、カウンタースペースに視線を向けた。
背の高い店員はコーヒーサイフォンの前に佇んでいた。身長に対してカウンターが低すぎるのだろう、ギャルソン服を着た身を丸めて、視線をまっすぐに器具の中へと向けている。
泰然とした微笑みを消した、真剣な表情。
その光景に記憶の奥底がわずかに反応を示して、ゆりはゆっくりと目を瞬かせた。
「……あの人、どこかで?」
呟いたのと店員が顔を上げたのが同時。
視線が合い、微笑まれて、頭を下げた瞬間に一瞬感じた違和感は掻き消えた。