1. アイリッシュコーヒー (1)
その時彰が告げた言葉は、3つの言葉に要約される。
好きな人が出来た。
君とはもう付き合えない。
別れて欲しい。
冷めてしまったモカのカップに砂糖を一つ落とし、スプーンを回す。
水面をじっと見つめる。歪んだ水面に映る自身はシミュレーションの中よりずっと静かな表情に満たされていて、ゆりはそんな自身に驚いた。
眠れぬ夜に何度も繰り返した想像の中では、いつもゆりは彰を責めていた。時には涙で、ときには言葉で。怒りや哀しみに支配された自身はとても見苦しくて、そうなってしまうことをゆりは恐れていた。
けれど、コーヒーの水面を見つめる今のゆりは違う。
ゆりは静かだった。実際気の弱い自分では、彰を目の前にしたら責める言葉なんて出てこない。そのことは分かっていたけれど、そういう意味では無い。
恐れていた嵐は訪れなかった。静かな凪のような胸中。頭の芯がすっと冷え込んで、スローモーションで流れる時間をどこか遠くから見つめているような感覚。
「ごめん、ゆり。ごめん……!」
ゆりは顔を上げる。
彰は下げたままの頭を上げない。
想像していた通りの事実と、想像していた通りの身勝手な謝罪の言葉をたくさん述べられたのに、恐れていた怒りも自己嫌悪も、その両方ともが湧いて来なかった。
事実が本当であることよりも、別れの結論を出すことよりも、見苦しく怒りや哀しみを撒き散らすことをずっと恐れていた。
彰を愛していたから。せめて彼の中では綺麗な思い出のままの自身でいて欲しかったから。
けれど今、取り繕うまでもなく、ゆりは静かな感情で彰の前に立っている。それはゆり自身が強く望んでいたことなのに、得体のしれない激しい違和感が「それでいいのか」と問いかけてくるのだ。
「彰くん」
静かに、柔和に、穏やかに。
名の中に沢山の愛情を篭めた日と同じように、恋人だった人の名を呼んだ。
頭を上げた彰は目に涙をいっぱい溜めて、真っ赤に泣きはらしていた。その目元を見て、ゆりはぼんやりと違和感を感じる。
何かが違うと誰かが囁く。
それでもその違和の正体を探るのが面倒に思えて、
「いいのよ。 ……ごめんね」
一言だけを告げて、ゆりは仕方なくただ微笑んだ。