終焉‐Another story‐
今、私の視界には、煤けたような空と、血にまみれた道や建物がある。
「何……これ」
無意識に発した言葉がこぼれ落ちた。
「お父さん……どういうことなの?」
「わからん。何が何だか…」
父は脂汗をかいていた。目をしきりにぱちぱちさせては、何度もまぶたを擦っている。
ふと、足元に目をやった。
「……ひっ」
死体があった。
全身から血を流して、血だまりの中に倒れ伏した、見るも無残な―――人間の死体。
体のそこかしこに、刃物で切られたような傷跡がある。まるで、何度も何度も斬りつけられたような……。
「う…っ、」
思わず吐き気を催し、反射的に目を背け、手で口を覆って吐くのをこらえる。
「お父さん、逃げなきゃ……殺されちゃう…!」
「大丈夫か?ほら、おぶってやるから」
大柄な父におんぶしてもらい、私たちはどこかに避難するために逃げることにした。
―――さかのぼる事数分前。
私たちは、朝食を食べながら居間で談笑していた。
今時の役人はどうの、後先考えずに罪を犯す人がどうの…という、父の話を半分聞き流しながら、いつも通りの平和な朝を過ごしていた。
…はず、だったのだ。
突然、玄関のドアが強くノックされ、父が返事した瞬間、顔なじみのおじさんが血相を変えて家に入り込んできた。
「おい! 聞いたか?」
「何をだよ、落ち着けって」
「落ち着いてられるか! どっかのイカれた奴が剣持って、この辺の奴らを殺して回ってるらしいんだ!」
にわかには信じがたい話だった。
父も、冗談だと思って笑い飛ばしていたのだが、
「馬鹿野郎、冗談な訳があるかよ!? お前らも早く逃げろ、モタモタしてたら殺されちまうぞ!」
という言葉でその笑いをかき消された。
おじさんはそれだけ言って、ドアを閉め家を出て行った。
あの陽気でひょうきんなおじさんが、怪物のような形相でまくし立てていたことに、私はただならぬ雰囲気を感じていたのだ。
父も同じであったようだが、すぐに行動には移せなかったようで、しばらく押し黙ったままでいた。
―――バタンッ!
沈黙に支配された家の中を、ドアが開く音が駆け抜けた。
心臓が浮いたような衝撃を感じて、玄関のドアに目を移すが、何も異常はない。
どうやら隣の家が、音の発生源らしかった。
「きゃあーっ!」
隣の奥さんの悲鳴が聞こえた。遅れてすぐに、赤ちゃんの泣き声が耳をつんざく。
「やめてぇ!この子は殺さないでぇーっ!」
おじさんの言う「イカれた奴」が、隣家に入り込んで殺戮行動を行っていることは容易に想像できた。旦那さんの声が聞こえないことを考えると、おそらくもう死んでしまったのだろうか?
「お……お父さ…」
「シッ、静かに…! とりあえず屋根裏に上がろう」
びくびくしている私を、機転を利かせた父は屋根裏に押し込み、自分もそこに避難すると、横たわって静かに耳をすませた。
私もそれにならい、同じように耳をすませる。
赤ちゃんの泣き声がだんだん弱弱しくなっていった。奥さんも、きっと殺されたのだろう。
そして、泣き声は完全に聞こえなくなる。私は慄然としてなお、耳をそばだて続けていた。
―――バタンッ!
声を出しそうになったが、必死に押し殺した。
「あー、うるさい赤ん坊だった。親もうるさけりゃガキもうるさいときたもんだ」
若い男の声がした。こいつが、きっと、「イカれた奴」だ。
どうしてあんなことをしたんだろう?どうしてこんなことをし続けているんだろう?
怒りと恐怖と疑問が、頭の中をぐるぐる回っている。
「おい、隠れるなよ、愚民。さっきまでメシ食ってた奴が、突然消えるなんてことがあるかよ」
バキッ!
ガシャン、パリン。
テーブルが叩き割られたような音と、皿が割れたような音が聞こえる。
もう震えが止まらなかった。あの男がいつ、ここを見つけるか。
見つけないで―――手を組み、何かに祈りを捧げている間、男はいろいろなところを探し回っているようだった。
しかしやがて男も飽きたのだろうか、舌打ちを最後に、物音一つしなくなった。
父が、天井に開いた小さな穴から様子を見て、私に合図し、屋根裏から出て行く。
もう男はいなくなったようだ。ほっと安心して、私も下に降りた。
***
―――そして、しばらく家の中にいたあと、とりあえず外に出てみたのだった。
どうしてこんなことが起きているのか、私には分からなかった。あの狂った男がどうしてこんなことをしでかすのか、全く理解できなかった。
目に映るのは死体ばかり。生きた人など見当たらない。
『生き残れるの…?』
あの男が私たちを見逃す理由など存在しないだろう。見つけ次第、殺しにかかってくる。
『死ぬなんて嫌!』
ぎゅっと父の肩をつかみ、目を固く閉じた。
「あ……!」
突然、父が足を止めた。
「なに、どうしたの…?」
父の背中から降りて、前を確認する。―――すぐに、父が止まった理由を知った。
「…おじさん……!?」
血まみれになったおじさんが、倒れていた。
そしてその前に、剣を持った若い男が、笑みを浮かべて立っていた。
「……隠れて…!」
父に物陰に追いやられ、男に見つからないように身を隠す。
歯がカチカチと震えて、止まらない。全身が心臓になったみたいに、鼓動がいやに大きく聞こえる。
「どうか……どうか助けてください……」
そっと覗く。おじさんは男の足にすがり付き、地面に頭を擦りつけていた。
「おお助けてやるとも。苦しいもんなあ」
男は満面の笑顔で、屈みこもうとした。それを確認したおじさんの表情が輝いた瞬間、
「あの世に行かせて楽にしてやる!」
男は素早く鞘から剣を抜き、おじさん目がけて孤を描くようになぎ払った。
ぎゃっ、と短く悲鳴を上げて、おじさんはまた倒れる。頭から噴き出した血を浴びて、男はまた笑う。
『ああ、真っ赤っかだなあ―――。』
尋常じゃないほど血の赤に染まった男を眺めながら、私はそんなことを思ってしまった。こんな悠長なこと、考えてる場合じゃないのに。
「けっ、汚い凡人共はさっさと死ね!」
吐き捨てるように男は口にし、剣の血を落として鞘にしまった。
『―――汚い? 何もしてないおじさんが、汚い?
ふざけるな。汚いのはお前じゃないか。罪もない人を殺し回って、町を破壊してるお前が、一番汚いじゃないか!』
怒れる私が叫ぶ。頭の中で。
『イヤだ、死にたくない、死にたくない、死にたくない。
あんな風に殺されるなんて、やだよう―――…』
恐れる私が泣く。頭の中で。
『どうして、あいつはあんなことをしてるんだろう。
なんでわざわざ人を殺して、なんであんなに笑ってるんだろう?』
考える私が呟く。頭の中で。
「………」
もう、何も口に出せなかった。
惚けていると、父が私を背負い、男とは反対方向に走り始めた。
「…大丈夫だ、もう少しだぞ。父さんに任せろ、きっと助かるから―――」
「逃げんなよ、愚かな凡人め」
数十メートルと走らないところで、また父が止まった。いや、止められた。
「お前……」
「お子さん連れて逃げてるんですかー?ご精が出ますね。いやあホントにいいお父さんだ。でも死ね」
男は悪魔のように笑って、剣を一閃させた。
「うわっ……と、と」
しかし、すんでのところで父は避けた。私を背中から下ろし、かばうように立ちはだかる。
「やるな、お前。いい剣さばきだ。どこで習った?」
「答える必要なんてあるのかよ、愚民。次は殺すぞ」
さっきの笑顔はもう存在しなかった。静かに怒りを露にした男は、父に剣先を向けて―――一気に突進する。
「逃げろ!早く、早くしろ!」
振り向きもせず、父は叫んだ。ああ、本当に、私より先に死ぬつもりなんだ。
私は走り出した。泣きながら。
大丈夫、お父さんは死なない。誰か他の人を呼んでくるか、武器を持ってくるかして、すぐに戻ってこなきゃ。お父さんはそれまで生きてる。きっと。絶対に。
「…ちッ、くそ、逃げんなッ!」
男の怒号が飛んでくる。
意に介さず、私はただ風のように走った。
血と死体にまみれた道を、追われる獣のように走った。
しかし、私の足はまたしても止まった。
一瞬、変な音が聞こえたかと思うと、背中にとてつもない痛みが走った。
「あッ……ぐ、う」
体が前のめりに倒れ、したたかに膝をすりむく。
「いたっ…!」
私の体のすぐ近くに、鞘が転がっていた。
そうか、あれが私の背中を―――と、理解する間もなく、あの鋭い声が背中に刺さる。
「逃げんなって言ってるだろうが。聞き分けのないガキだ」
鞘を拾い上げ、男は犬のフンを見るような目で私を見下ろす。
「…お父さん……お父さんは…!?」
「ここにいるぞ、ホラ」
男は無造作に何かを手放した。
ドサッと音を立てて地面に落ちたのは、血にまみれた父の体だった。
「お父さ……ウソ、お父さん? ……ねえ、お父さん―――お父さぁん!」」
大声で呼びかけても、父は声一つ出さなかった。見るも無残なことになった顔が、全てを物語っていた。
「いやあぁあぁああぁ! お父さぁああぁあん!」
「あークソ、うるせえなあ。何でガキはこう騒ぐんだ」
男は冷徹な声で無慈悲に切り捨てる。人間味をかけらも感じさせないその態度に、頭の中の怒れる私が顔を出した。
「……ねえ、どうして…こんなことするのよ」
「どうでもいいだろ? 恐怖と憎悪で乱れた最低な街が見たかった、それだけだ」
「人殺し! あなたっ……こんなものが見たかっただけで、みんなを殺したのっ!?」
「そうだ。何度も言わせるな。死ね」
「…!」
血のりの付いた剣を振りかぶり、男はゆっくりと近づいてくる。
後ずさると、また近づく。
「………ホントに…殺すの」
「ああ」
「容赦とか…見逃すとか、ないの」
「ない」
「…最低」
「そうか。最低ってなんだ?今の俺みたいに、人を殺して回ることが最低なのか」
「そうよ………何もしない人まで、殺して回って……同じ人間だと思えない」
「言うじゃねえか、ガキの癖に。教えてやるよ、人間ってのはな、いずれ俺みたいになるのさ。綺麗なもんじゃねえんだよ、人間は」
ひゅっ、と剣が下ろされ、私の首筋に突きつけられる。
「じゃあな、メスガキ。跪いて希え。『助けて下さい、神様』ってな」
私は目を閉じる。
―――助けて下さい、神様。
どうか夢でいて。非日常なんていらないから、どうかこの狂った世界をかき消してよ、神様………。
首が鋭く痛んで、弾ける。そっと目を開けると、血しぶきが道に広がっていくのが見えた。
無表情の男が、倒れていく私をじっと見ている。
悲しみと愉しみが同時に宿ったような目で。
「あなたは……なんなの…?」
痛みをこらえ、喉を振り絞って声を出す。
男は一瞬視線をそらし、考えるような顔をした後、すぐに表情を悪魔に変えて言い放った。
「ただの大量殺人者さ」
血がなくなっていく。死ぬのも時間の問題だろう。
「地獄に落ちろ」と、踵を返す大量殺人者に、脳内で親指を下に向ける。
視界がブラックアウトしていく中、遠ざかる男の背中が見えたのを最後に、私の目はもう見えなくなった。