9 少しは恋人らしく
「そっか、あいつと付き合うことになったのか」
「うん……」
報告したあたしに対する石原の態度はやっぱり優しくて温かいものだった。
その優しさに甘え続けてた自分に罪悪感が再びのしかかった。
9 少しは恋人らしく
「おはよ」
「あ、おはよう」
次の日、登校してる途中に藤田さんに声をかけられて一緒に登校することになった。藤田さんと軽い会話をしながら登校していると前方に一之瀬の姿を発見した。声をかけるのには少し遠い距離だったので、あたしはそのまま藤田さんに視線を戻そうとした時、石原が一之瀬に手を上げて挨拶をしているのが見えた。
一之瀬は驚きながらもすぐに嬉しそうな表情に変っている。
本当にどこまでいい奴なんだよ石原は。
一之瀬と付き合いだしたと言っても全く実感がわかない。でも気持ちは跳ねてドキドキしてるのは感じる。それは不快なわけじゃなくて心地いいものだった。
そのまま教室について藤田さんと別れて自分の席に着く。今日一之瀬を誘って一緒に帰ろうかな?付き合ってるんだから何も可笑しい事はないんだし。そう思ってるけど、改めて言うのも何だか気恥しい。
結局メールを送ったのは2限が終わった後だった。
“全然いいよ!HR終わったら迎え行く!”
すぐに帰ってきた返事に少し笑ってしまった。
でも断られなくて良かった。これからはこうやって誘っていいんだ、そう思える事が嬉しかった。
なのに……
「なんかニヤニヤしててキモい」
「……相変わらず容赦ないね倉田さん」
あたしの好きになった一之瀬はこんなキモい顔をしてただろうか?
頬をだらしなくさせて口は情けなく開きっぱなしだ。ニコニコ笑い続けてる一之瀬にキモさを通り越して逆に恐怖が湧いてきた。あたしの言葉を聞いてもニヤニヤしてる一之瀬を置いて先に歩けば慌てて追いかけてくる。
そのまま隣に並んでも情けない顔はそのまま。
「……なんでさっきからそんな顔なの?」
「え、これは地顔なんですけど」
「そんなキモくなかった」
「……俺1日にこんなにキモいキモい言われたの初めてだよ」
ごめんね、でもキモいものはキモいんだから仕方ないじゃない。
格好いいとか嘘をつける顔じゃないのは確かだわ。あたしの一言に今度は表情を青くさせている。分かりやすい一之瀬の態度に笑いそうになった。そのまま何気ない会話をして帰るのが楽しい。これが恋人なのかな?話してる内容は全く変わらない、でもこんなにも気分が高揚してる。
そのまま歩いていっていると交差点に出た。いつもならここを左に曲がるけど今日はまっすぐ。
一之瀬と同じ方向に歩いたあたしに一之瀬は首をかしげている。
「あれ?倉田さん曲がんねぇの?家あっちじゃない?」
「今日は病院に行く日なの。何しても変わんないのに」
一之瀬はそれ以上何も聞いてこない。適当に相槌をしてすぐに話題を変えた。
本当にどこまで気がきくんだろうか。
そう言う所がありがたくて嬉しいんだよな。言ってやる気もないんだけどね。そのまま他愛ない話をしていると、目の前をセーラー服と学ランの夏服を着ている高校生が歩いてきた。項垂れている男子を女子が励ましている感じだった。
「あーもう駄目だ。もう俺死ぬ。勉強に退治に両立できるわけが無い~」
「拓也諦めないでよー。1とか取ったら夏休み補修だよ」
「澪はいいよ頭いいんだから。もう俺本格的に喋ってる間にも眠気が……」
「寝るなら家でね。こんなとこで寝たら拓也見捨てて帰るから」
「……夏なのに心が寒い。澪も冷たい……」
会話事態に大して興味はなかったから余り聞いてはいなかったけど、一之瀬がなぜか2人を凝視している。あの2人はそんなに面白い会話でもしてたのだろうか。見た目は普通の高校生だけど。
一之瀬があの2人に何を考えているのか大して興味もなく、そのまま前を向いて歩いていると、不意に一之瀬がポツリと呟いた。
「幸か」
「は?」
今あたしの名前を呼んだ?
間抜けな返事が出て、あたしの声を聞いて一之瀬がいきなり慌てだした。
でもそれを見て何となくわかった。一之瀬がなんであの2人を凝視してたのかを。なるほどねぇ、ハッキリ言えばいいじゃない。
「一之瀬の名前って何だっけ?」
「え」
「知らないんだよね。一之瀬の下の名前」
「そ、そんな……告る際にちゃんと名乗っただろぉ」
「そん時は一之瀬の事どうでも良かったからさ、どうでもいい事なんて覚えるわけ無いじゃん」
一之瀬に暗い影が見え始めて慌てて口を閉じたけどもう遅い。完全にいじけてしまってる。流石にこれは酷過ぎたかな。でも知らないのは知らなかったの。しょうがないの、いいじゃない。これからはずっとその名前で呼び続けるんだから。
「春哉、一之瀬春哉」
一之瀬春哉。それが一之瀬の名前。
春哉とか中々格好いい名前じゃない。一之瀬にはもったいないよ。でもまぁ名前を呼ぶんなら格好いい名前の方がいいから許してあげる。でも中々名前を呼ぶ機会もなく、何気ない会話をしている内に病院に向かう曲がり角に到着した。
この先を曲がれば病院だ。一之瀬ともここでお別れ。
「倉田さんあっちだろ。じゃあまた明日な」
一之瀬はそう言って自転車を向かう方向に向ける。いつもならそのままあたしもばいばいって言って別れるんだけど今日は違う。まだ言ってないんだよね、あんたも言ってほしいんでしょ?
「そうだね、じゃあね春哉。また明日」
そう言った瞬間、春哉の目が点になる。
その間抜けすぎる顔に吹き出して笑ってしまった。
「呼んで欲しかったんじゃないの?急に人の名前呼んできてさ」
「え、いや、そのぉー……」
「正直に言いなよ」
「……その通りです」
意外とあっさり認めたな。まぁ人間素直なのが一番。
小さく縮こまってしまった春哉が何だか可愛くて笑っていたら、春哉がガバッと顔を上げた。何か言いたそうにしてるけど、何を言いたいかは大体分かる。
「倉田さ……」
「幸」
「え?」
「あたしの名前。知ってるじゃん」
嬉しそうにした後、急に緊張した面持ちになる。
そんなに緊張するものなのかな?名前なんて家族に呼ばれるじゃない。
一之瀬は気まずそうに、でも嬉しそうに笑ってあたしの名前を呼んだ。
「さ、幸。また明日」
「はい、また明日春哉」
春哉は顔を赤くして帰ろうとしたけど、そんな顔じゃ帰れないでしょ?
少し青ざめさせてあげようか。
「あ、そうそう。あんま他人を凝視しないほうがいいよ。変態みたいだから」
「へ?」
「随分羨ましそうにしてたけど」
「あのー倉田さん」
「幸っつってんじゃん。あたしは何も知らないよ。春哉が桜ヶ丘の生徒をすんごい羨ましそうな目で見てたなんてね」
春哉の顔が真っ青になって行くのを視界に入れながら病院に向かった。
しばらくして振りかえるとそこには春哉の姿はなかった。
一之瀬、違う。春哉。春哉、春哉、春哉……
「春哉……」
改めて呼ぶと恥ずかしくて、でも心が温かくなった。
今日の事も先生に報告しよう。嬉しい事があったんだよって。
他人の名前を呼ぶのに緊張するのは貴方だけ。
わかる?それだけ特別なんだって事が。