6 できれば受け入れてください
「幸ちゃん、明日はお母さんを連れておいで」
いつも通ってる精神科の後藤先生からの電話に思わず一瞬息をのんだ。
母さんに話してもいいんだろうか。それだけが頭の中を占めていた。
6 できれば受け入れてください
仕事から帰ってきた母さんに話しかけるタイミングが見つからない。ただでさえあまり会話がないのに病院に一緒に来いだなんて、そんなの簡単に言いだせるわけがない。
母さんが気になって箸があまり進まないあたしに、母さんは視線を送ってきた。
「どうしたの幸?どこか具合でも悪いの?」
「いや、そう言う訳じゃ……」
「でも箸が全然進んでないじゃない」
言え、今しかない。
心の中でそう思ってるのに、中々口から言葉が出てくる事はない。何もしゃべらないあたしを不審に思ったのか、母さんが首をかしげた。待って、まだ終わらないで。言わなきゃいけない事があるの。だから怒らないで聞いて。お願いだから……
思わず箸をぎゅっと握りしめて、あたしは母さんに真っすぐ視線を送った。
「今日、後藤先生から電話あった」
「後藤先生から?どうかしたの?」
「明日……診察に母さんを連れてきてほしいって……」
「え?」
案の定、母さんは目を丸くしてる。
そりゃそうだ。いきなりついて来いって言われて了承できるわけがない。どうしよう、怒られたりしたら。
そんな考えばかりがグルグル頭の中を駆け巡り、上手く対応ができない。暫く黙ってしまった母さんが怖くて、あたしは視線を外して顔を俯かせた。
「……明日は診察いつからかしら」
「17時」
「わかった。じゃあ16時30には家に帰るようにするから一緒に行きましょう」
「行って……くれるの?」
予想外だった。母さんはてっきり行ってくれないかと思ったから。
あぁでも行ってくれるか。良く考えたら母さんが病院に付き合ってくれるのは、一刻も早くもう1人の幸の目を覚まさせたいから。手伝える範囲を手伝うのはきっと当たり前なんだ。早く母さんはあたしにこの世界からいなくなって欲しいって思ってるにきまってる。
そう考えたら、一気に気持ちが覚めて、あたしは礼だけを述べてご飯も食べずに席を後にした。
正直、明日が怖い。
先生が下手な事言って母さんの機嫌が悪くなったらどうしよう。そんな事ばっか考えてた。
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「あのさ、今日良かったら練習見ててくんないかな」
次の日の放課後、さっさと帰ろうと思ってたあたしを石原が引きとめた。
石原からの告白を受けてもう1週間以上が経過する。なのに未だに返事をしないあたしを石原が咎める事はない。あれ以来、石原と……特に藤田さんと話す様になった。藤田さんはいい人だった。サバサバしてる性格みたいだから、余計な詮索もしてこないし、いつも明るくて楽しそうだったから。
そして石原も……友達としてはすごくいい奴だって思う。でもまだ恋愛には意識はいかない。
こんなんだから早く振ればいいのに、振るのも怖い。最低な奴だあたしは……
「ごめん、今日は予定があって」
「あ……ちょっとでいいんだけどさ」
あたしも本当なら行ってあげたいけど、病院の時間まであまり余裕がない。
だからサッカーの練習を見てる暇がない。でもそんな事を言えるわけがなく、あたしはただごめんとだけ言って、鞄を持って教室を出た。
後ろを振り向いて、石原の顔を見るのがすごく怖かった。
家に帰って驚いたのは既に母さんがいた事。てっきりギリギリまで帰ってこないと思ってたのに。
母さんはあたしに気付いて、読んでいた本を閉じた。
「早かったわね。車で行ったらまだ余裕があるから少しのんびりしなさい」
「あ、うん。母さんこそ早かったね」
「仕事がちょうどキリのいい所まで行ったからね」
母さんが笑って冷凍庫を開けて何かを出してくる。
「ハーゲンダッツだ」
「あんた好きでしょ?ドラッグストアで2割引きだったから買ってきたの。食べなさい」
あたしが好きなの知ってたんだ……しかもストロベリー。
母さんに好きって言った事あったっけ?でもそんな事どうでもよかった。ただ母さんがあたしの事をちゃんと見ててくれた事が嬉しくて泣きそうになったのを何とか堪えた。
なんだか少しだけアイスがしょっぱく感じた。
20分くらいのんびりして母さんと病院に向かった。後藤先生は優しくていい先生だから病院は相変わらず患者さんが必ず数人はいる。予約してたから大して待つ事はなく、医療事務の人に名前を呼ばれて母さんと診察室に入る。
診察室にはカルテを眺めている先生がいて、あたしたちに気付いて席に座るように促した。
「私、後藤と申します。幸ちゃんのお母さんでよろしいですか?」
「はい、幸の母です」
「実は今日は幸ちゃんとお母さんの日常的な事をお聞きしたいのですがよろしいですか?」
「はい」
なんだか……あたしが先生にちくったような感じだ。空気が重い。
先生はカルテを開いて、あたしの今までの記録を呼んでいる。
「この間、幸ちゃんの検査をしたんですけど、最近は少し安定してるみたいなんです。お母さんはいつも幸ちゃんとどんな会話をなさっていますか?」
「会話、ですか……」
気まずそうにしている母さんに申し訳なさが出てくる。迷惑掛けたって病院を出た後に嫌われそうだ。なんで先生はいきなりこんな事を聞いてくるんだろう。あんまりじゃない。
涙をこらえてるあたしに気付いてるのか知らないが、先生が話をし出した。
「幸ちゃんの好きなテレビはしゃべくり007で、意外とお笑い番組が好きなんだよね」
にっこり笑った先生にあたしは小さく頷いた。
それを母さんがじっと見ていた。
「ご飯は和食が好きで、特に肉じゃがが好きなんだよね。後はファッション雑誌を読むのが好きで学校帰りのウィンドウショッピングも好きだったよね」
先生はあたしの事をどんどん話していく。なんだか何でも知ってるような感じだ。
でもあたしはいつも診察の時に先生と色んな話をする。あれだけ話してたらあたしの事も大分知られてそうだ。
まだまだ先生のあたしの情報暴露は続く。
「最近は映画を見るのが好きって言ってたね。学校も友達が出来たって言ってたし、それが安定してる元なのかもね」
「幸……」
不意に母さんが呟いて顔を上げたら泣きそうな母さんの顔が視界に映った。
「私……何も知らないわ。貴方が何が好きなのか、何が楽しいって思ってるのか……」
「かあ、さん……」
「何も知らない、知らない……」
そのまま泣きだした母さんに何でかあたしまで涙が流れた。
だって母さんはどうだっていいって思ってるんじゃない。母さんがいつだって見てるのはあたしじゃなくてもう1人の幸で、あたしじゃない。なのに何で泣くの?期待させないでよ、もしかしたら愛されてるなんて錯覚を持っちゃうかもしれないじゃない。
泣いている母さんに先生は優しくほほ笑んだ。
「悲しがる必要はありませんよ。他人の私に幸ちゃんはここまで話してくれたんです。母親である貴方はすぐに私よりも幸ちゃんについて知る事が出来る」
「先生……」
「幸ちゃんは明るくて少し口は悪いけど優しい子ですよ」
何だかちょっとけなされた?そう思ったけど、先生の言葉は優しくて柔らかくて心が温かくなった。先生の奥さんは幸せ者だ。こんな優しい旦那さんがいて。母さんは涙を流しながら、何度も何度も頷いた。先生が言いたかった事が少しだけ分かった。
お互いをもっと知りあって。そう言いたかったんだろう。
診察が終わって母さんと一緒に帰る。
母さんは車を運転しながらポツリと呟いた。
「幸、あなたフランス料理って好き?3000円で食べられるお店をこの間見つけたの?」
「母さん?」
「行ったらすごく美味しくてね、母さんが今一番好きな店なの。一緒に行かない?」
母さんはあたしに近づこうとしててくれる。ならその返事は1つだ。
「行く」
「良かったわ。銀座にあるから車を止めたら少し買い物しましょう。今プランタン銀座でセールしてるじゃない」
「……うん」
少しずつ近づきたい。
ねぇ母さん、今はあたしを見てくれるよね。幸じゃなくてあたしだよね?
そう勝手に思えるだけで幸せだった。それだけであたしはきっと生きていける。そう思った。
少しだけでいいの。
あたしの事を幸って認めて笑いかけてほしい。