15 譲りたくなんかなかったのに
「あの人が一之瀬君、優しい人だね」
「そうだね。あんたの彼氏だ」
「あたしのじゃなくて貴方のでしょ?」
そうだ、あたしの彼氏だ。でももう違う。
あたしじゃなくて世間的にはあんたの彼氏になる。
15 譲りたくなんかなかったのに
「すっごく楽しかったな!」
「良かったな」
そう言って笑ってくれた春哉を見て幸せになる。ディズニーも閉園の時間になって、電車に乗る為に皆が駅に向かっていく。それはあたし達も例外じゃなく、この満員の電車に乗らなければいけない。少し苦しいけど、でも今までの楽しさを考えたら全然苦じゃない。
ディズニーランドは楽しいところだった。綺麗な園内は夢のようだった。時間を忘れたかのように幸せで、一生ここから出たくないとさえ思った。
もうすぐ夢が覚めて現実が始まる。もう永遠にあの夢のままでいさせてくれたら幸せだったのに。夜も遅かったからマックかどこかでご飯を食べて帰ろうと春哉が言ってくれた。それを聞いて安心した理由は分かってる。
良かった、まだ戻らなくていいんだ。もう少しだけこの幸せに浸っててもいいんだな。そう思えた。
春哉との他愛のない話は楽しかった。
電車から降りて駅の中のマックでご飯を食べて少し話をする。それだけの事なのに幸せで嬉しくて、くだらない内容だったけど春哉が話せば面白くて、あたしが話しても春哉が笑って突っ込んでくれるから、それに対してこっちが笑った。
そのまま1時間程度話をして、春哉が帰ろうと促す。
あーぁ夢の時間が終わっちゃった。
春哉の自転車の後ろに座る。もうここはあたしの特等席だ。
そして自転車をこぐ春哉と少しだけ会話をしながら帰った。もう少しゆっくり走ってもいいのに。早く家に着いちゃうじゃん。自転車で20分程度走ったら見慣れた住宅街に着き、あたしの家の近くまで自転車は走ってきた。
いつもの曲がり道で春哉はあたしを降ろして「ゆっくり寝ろよ」と笑って自転車を再び漕ごうとした。でも言いたい事があったあたしはそれを遮って、春哉の服の袖をつかんだ。振りかえった春哉に言いたい事は沢山あったけど、一番言いたい事だけを口にした。
「春哉、ありがとう」
「俺こそめっちゃ楽しかった」
「あたし絶対に忘れないから。ありがとう」
本当に忘れない。こんな楽しい日を与えてくれてありがとう。
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「幸、お帰りなさい」
「ただいま。今から準備するよ」
「幸、その事なんだけど……無理しなくていいのよ」
家に帰った母さんが心配そうな顔で出迎えてくれた。無理をしなくていいという言葉だけであたしがどのくらい救われてるのかを母さんは知らない。
母さんは今あたしを愛してくれてる。それが分かっただけで幸せだから別にいいの。首を振って大丈夫、と笑い部屋に戻り、荷物を整理した。
明日から病院に入院する。正確には幸を表に出すために。今が一番の時期なんだとか、後藤先生の話で、母さんはそれに迷ったけどあたしが同意した。この肉体を幸に返す時が来たようだ。どうせ1つの肉体に2つの人格があるのはあり得ない。片方は消えなくちゃいけない。
その時が来ただけ。
だから嬉しかった。春哉との時間が、最後になるかもしれないけど、あんな幸せな思い出は幸にはないはずだ。これから作っていくのかもしれないけど、今はあたしの方が幸せだ。
それだけを心の支えにあたしは消えていくから。だから大丈夫。
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「幸ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
後藤先生から紹介を受けた大きい総合病院。そこにあたしは入院することにした。あたしの診察をする時は気心の知れた後藤先生がここまで来て診察してくれる。でも本物の幸が現れてパニックを起こした時用に病院にいつもいてほしいから入院と言う形になった。
先生はにっこりと笑って、カルテをめくる。
横にはこの大学病院の精神科医の女の先生も控えている。女の先生は気をほぐすために、あたしに他愛のない事を話しかけてくれた。
「幸ちゃん、今日は少しもう1人の幸ちゃんとお話ししてほしいんだ」
「はい」
「だからゆっくりでいい。もう1人の幸ちゃんに話しかけてくれないかな?」
そんなので幸が現れるかは分からない。
でも言われたとおりに目を閉じて真っ暗な世界にして幸に話しかける。しつこくしつこく。
そしてその時、頭の中にもう1人の声が聞こえた。
「幸ちゃん、怖いよ。どうしたの?」
もう1人のあたし。倉田幸。こいつはあたしに起こされて明らかに怯えている。
まだ外の世界が怖いんだ。
「もういい加減出てきなよ。何年間ひきこもるんだよ」
「だって……外の世界は怖い。それに幸ちゃんも出てきてほしくないでしょ?」
「周りがあんたを望んでる。あたしの意思は関係ない」
「でも……」
「でもじゃない!なんなんだよあんたは!望まれてる癖に!愛されてる癖に!あたしが必死になってやってきた物をあんたはただ表に出るだけで手に入れる!それの何が不満なんだよ!!」
声を荒げたあたしに幸は酷く怯えた。苛立っているのはあたしなんだ。そんな態度を取られたらますます苛立ってしまう。幸は怖い怖いとぐずぐず泣き続け、泣きやむのをただ待つしかない。
春哉は見捨てないといいな、こんな泣き虫だからウザがられるかも。でもあたしですら受け入れてくれたんだ。この幸の事だって大切にしてくれる。胸に感じた痛みを取り除く方法は見つからないけど、でもこいつはそろそろ起きるべきなんだ。
「なぁ幸、もう終わりにしようよ」
「何を?」
「かくれんぼ。あんたが怖がった父親はもうどこにもいない。あんたは自由なんだよ。母さんだってあんたが現れるのを望んでる。一体何が不満なんだ?」
「だって……ずっと出てないのに、いきなり出るなんて怖いよ」
「あたしをこの世界に勝手に作り上げて表に出して放置したくせに甘えてんじゃねぇよ」
厳しい口調で言えばまた怯える。同じ顔で止めてほしい。はっきり言って気味が悪いよ。でも許してあげる。悲しくて苦しいけど全部譲ってあげる。あんたにあげるよ。友達も母さんも春哉も全部……
涙が頬を伝い、胸がキリキリと締め付けられた。
そんなあたしを見て、幸は驚いている。
「幸ちゃん……」
「もう駄目なんだよ。これ以上あたしに迷惑かけないでよ。いずれにしてもあんたにあたしは全てを譲らなきゃいけないんだ。これ以上大切な物はいらないよ」
幸があたしの涙を見て悲しそうに俯いて、でも何かを決意したかのように顔を上げた。
遅いよ馬鹿。でもそれで決意できたのなら良かったのかもしれない。
立ちあがった幸にあたしは見送りの言葉を送った。
「じゃあね、暫くはここで見届けてあげる。心配がなくなったらあたしは消えるから」
「……やっぱり怖いよ」
そう言って幸はあたしの前から姿を消した。どうやら本当に出て行ったみたいだ。
あーぁ、暫くはここで1人かぁ……1人は慣れてたはずなのに、今はどうしようもない辛いや。誰か来てくれないかな。でももう新しい人格は勘弁だ。そう考えたらやっぱ1人でここにいるしかない。
寂しい、寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい!!!消えるのは嫌だ!幸なんか死んでしまえばいいのに!!
そう考えてしまった自分が情けない。
結局あたしは何もかも失う運命だったのだ。ぐうの音も出ない。最後に楽しい思い出を手に入れたからよしとしよう。
でもこの止まらない胸の痛みとやるせない怒りはどうすればいい!?
これを暫く体感しなきゃいけないなんて死んでしまいそうだ。もう早く消えたい。でも消える方法が分からない。
だって消えたくないんだから。
とりあえず心を鎮めるために目を閉じた。何も聞こえないように、見えないように。眠ってしまおう。
「君が……幸ちゃんかな?」
「…………はい」
何も聞こえない。
必死にあがいていた糸があっさりと切れた。
そして私は消えていく。